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3章.妹君と少年伯は通じ合う

77.料理人はその身を変えた②

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 何かが激しく破ける音と、肌をびりびりと刺激するような獣の咆哮が間近で聞こえる。

 心なしかその息遣いも聞こえるようで、リーゼロッテは微かに震えた。

 瞳を覆っていたザシャの手がにわかに外れ、リーゼロッテはうっすらと目を開けた。

「……!」

 目の前の人物に息を呑んだ。

 人物、いやヒトと言っていいのかわからない。

 二本の足で立っているのはヒトと同じだが、その容姿は全く違っていた。

 ふさふさの毛並みに天をつくように立てられた耳。

 瞬きひとつなく見開かれた獰猛な双眸に見据えられて、リーゼロッテは身がすくんだ。

 ザシャは一体どこに行ったのか、視界を遮られたその一瞬に、目の前の獣に食べられてしまったのだろうか。

 彼女より何倍も大きな全身が茶色の毛に覆われ、裂けたように耳まで届く口には何本もの鋭い牙が覗いている。

 その牙に負けず劣らず鋭利な爪が彼女の身体を引き裂こうと上げられ、思わず彼女は目を瞑った。

 しかし引き裂かれる痛みはなく、恐る恐る目を開けると足元にはばらり、と彼女を縛っていた縄が散っていた。

 目を丸くした彼女から、獣は口を結び視線を逸らした。

 猛々しい見た目に反して少し拗ねたようなその仕草に、リーゼロッテは口元を押さえた。

(……もしかして……)

「……ザシャさん……?」

 微かに首を振った獣は彼女を威嚇するように唸り声を上げた。

「ザシャさんです、よね……?」

 問いかければ問いかけるほど獣は苛立たしく唸り声を低くする。

 息は荒く、どこか辛そうな様子の獣に、リーゼロッテは手を伸ばしかけた。

「いたぞ!」

 獣の耳がぴくり、と追手の声に反応した。

 伸ばしかけた彼女の手を、獣は取ろうとした。

 その拍子に、その鋭い爪が彼女の腕を軽く裂いた。

「……っ」

 リーゼロッテは悲鳴を上げそうになった口を必死に閉じる。

 血の流れる腕を押さえ、苦痛に顔を歪めた。

 獣の眉間にしわが寄り、自らの手をじっと見つめた。

 その手は酷く震え、爪にはリーゼロッテの血液が震える度に滴となって落ちていた。

 先ほどよりさらに血走った目の獣は激しく喉を鳴らすと、追手の方を振り返る。

「何だこのバケモン!?」

「狼?!」

「いや、こいつは人狼だ! 野郎、じゃねぇか!」

「『谷落とし』を使え!」

 狼狽る追手たちを前に、彼女の方を一瞥すると、獣は唸り声を上げて追手に飛びかかった。

 獣の圧倒的な力の前に、なす術もなく彼らは倒れていく。

 その光景を茫然と見つめながら、リーゼロッテは触れようとした腕を見つめた。

 大きく動揺したそれは、先程の一撃で爪を引っかけたような傷が二筋できていた。

 血が溢れ、その痛みが痺れに変わったのか指先がうまく動かない。

 ただ冷たいものが、次第に腕から全身へ巡るような感覚に彼女は戸惑った。

(私の勘違い……だったのかも……)

 少なくとも彼女の知るザシャはヒトだ。

 あんなに恐ろしい獣ではない。

 文句を言いつつもいつも優しいのだ。

 仕方ないと言いながら、呆れたように、ぶっきらぼうに笑ってくれる。

 ──だからあんな、怖い獣ではない。

 リーゼロッテは獣の野生的な恐ろしさから背を向けるように、目を瞑った。

 追手が漏らした呻き声が、徐々に暗澹とした気持ちに塗り潰していく。

 再び獣の咆哮が聞こえ、リーゼロッテは目を開けた。

 獣の腕から細く、しかし妖しくぬらりと光る矢が深々と刺さっている。

 矢に貫かれた痛みから発せられたその咆哮は、ひりひりするような悲痛な叫びに聞こえた。

 腕から流血しているのもお構いなしに力任せに追手をなぎ倒していくが、明らかに動きが緩慢になってきている。

 獣の方が分が悪い。

 しかし逃げようとせず戦いながら、時折リーゼロッテに視線を向けているのを感じた。

 ──やはりあの獣はザシャだ。

 彼女にはユリウスのような『直感』はないが、それでも分かる。

 獰猛そうな瞳の奥に、彼本来の不器用な優しさと悲しみが宿っていた。

『……これから何があっても、何を見ても驚くな。縄が解けたら走れ。振り返るな』

 それはこのことを言っていたのだろうか。

 ならば自分は逃げるべきだ。

 こんなところで蹲っている場合ではない。

 ぼろぼろになってまでザシャが作ってくれたチャンスを無駄にするべきではない。

 彼もそのつもりであの姿になったのではないだろうか。

 そう、頭では分かっている。

(分かってる……けどそれじゃザシャさんは……)

 唇を噛み締め天を仰いだ。

 曇天のせいか、鬱蒼とした森はさらに薄暗く感じる。

 もう一つ悲鳴のような咆哮が聞こえ、地響きを立て獣が沈んだ。

 瞬間、彼女の冷え切った身体に熱い血潮が一気に巡った。

 リーゼロッテはいてもたってもいられず獣──ザシャの前に躍り出る。

「やめてください」

 リーゼロッテの凛とした声が響く。

 立ち上がろうと膝を付いたザシャを庇うように両手を広げると、ザシャの力の前に戦闘態勢をとっていた追手達は幾分か気の抜けたような表情を見せた。

 対するザシャは、恐ろしく低く喉を鳴らし続けている。

 今にも彼らに襲いかかりそうな気配に、彼女の頬に一筋の汗が流れた。

「……嬢ちゃん、その人狼の飼い主かなにかか?」

 リーダー格の男だろうか。追手の一人がニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら彼女に問いかけた。

 嫌な笑い声が追手達に広がる。

「武器を下ろしてください」

「ああ、下ろすぜ? そいつを大人しくさせてくれるならな」

 剣を足元に置いた彼は視線を外さず両手を上げた。

 他の追手も各々の武器を置いた。

「それで? アンタがわざわざ出てきたってことは捕まりにきてくれたんだろ? まさかそいつと一緒に見逃してくれってわけじゃあるめぇ」

 ザシャに視線を移して顎をしゃくる。

 値踏みするような気分の悪い視線が集まる。

「……私が捕まれば、彼は見逃してもらえますか?」

 恐怖を押し殺した声で問うが、それすら見抜いているかのように、小馬鹿にした笑いが男から漏れた。

「そいつは困る。こっちもこれだけ被害が出てる。人狼は貴重でなぁ。どっかの研究機関相手なら高く売れる」

「そんな……」

「それに……そいつもちょうど動けねぇみたいだしな」

 意味ありげな視線に、リーゼロッテは首だけザシャの方を向いた。

 膝をつき威嚇の唸り声を上げていたはずの彼が、その巨体を丸めるように肩で激しく息をし、視線が心なしかとろんとしている。

 リーゼロッテからぽたり、と血が落ちる度に反応するように身体を震わせていた。

「ザシャさん……?!」

「あーこりゃそいつ連れて逃げるのも無理だよなぁ。さ、どうする? 俺たちも手荒なマネはしたかねぇ。アンタが庇うくらい大事なやつならこっちも傷の手当てくらいはしてやるよ。大人しくしててもらえると助かるんだけどよ」

 男の嘲笑いが耳に響く。

 リーゼロッテはザシャと男を交互に見ると、

「……分かりました……」

 と力なく頷いた。
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