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3章.妹君と少年伯は通じ合う

75.弟君は迷う②

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 口が裂けたように大きく、太々しい態度の彼女──姉に嫌がらせしていた奴の顔を忘れるものか。

(するとあれはハイベルクの……? でも今更姉さんを辺境から動かして何になる……?)

 戸惑いながらも思考を巡らせるが、とても父親の命令とは思えない。

「あんた何してんだ」

 背後から急に聞こえた低い声にアンゼルムは戦慄が走った。

 しかし、声に敵意はない。

 ゆっくりと振り返ると、クセの強そうな茶色の巻毛に三白眼の男が茂みに隠れてしゃがんでいる。

 鼻から下をスカーフのような布で覆っているせいか、目つきが悪いのがさらに強調されていた。

(確か……ザシャとかいう使用人……全然気配がなかった……)

「あれあんた確か……どっかで見たんだけど思い出せねぇや。それより、あんた見習い騎士だろ?」

 ザシャの指摘に、「見習い騎士のくせに一人なのか」「見習い騎士なのに助けに入らないのか」と続くような気がしてアンゼルムはぎくりとした。

 しかし続く言葉は予想に反して全く別のものだった。

「俺が時間を稼ぐ。あんたは早く屋敷に帰ってユリウス様に知らせろ」

「……は?」

 あまりに予想と違いすぎて呆気にとられる。

(何を言っているんだこの人)

「……いや、あなたが屋敷に戻って知らせてください。その方が確実だ」

「確実じゃねぇよ。俺はただの使用人……元使用人だ。見習い騎士のあんたとは言葉の重みが違う。それに俺とユリウス様が揉み合ってんの、あんたらどうせ見てただろ? 俺じゃ信用なんかされねぇよ」

 言われてアンゼルムは返答に詰まった。

 あの場に残っていたのはアンゼルム一人であったが、ザシャが戻らなかったことで様々な憶測を呼び、「ユリウスがザシャを追い出した」ことになっていた。

 ならば逆恨みでユリウスを嵌めるのではと思われても仕方がない。

 幌馬車の方を垣間見る。

 どうやらダクマーの一声で、リーゼロッテが乱暴されることはなくなったらしい。

 が、どの道荷馬車に乗り込まれてしまえば終わりだ。さすがに走る馬には追いつけない。

「……大丈夫、なのか? あなたは使用人、だろう?」

 ただの使用人が時間稼ぎなどできるはずがない、とアンゼルムは半信半疑だ。

 ザシャは幌馬車の様子を伺うように目を細めると、口元を引き締めた。

「あんたの家がどうか知らねぇけど、ここは辺境だぞ。使用人が主人の世話だけしてりゃいい土地じゃねぇんだよ。分かったら早くユリウス様んとこに行け。俺らが仲良く話してる間にあいつ誘拐されんぞ」

 あっさりと言い放った彼に、アンゼルムは押し黙った。

 確かに、先ほど背中を取られた時気配が全く感じられなかった。

 自分より確実に手練れだろう。

 彼ならばもしかしたら、と思わせる妙な説得力を感じる。

 しかし──。

 目の前で姉がかどわかされるのを、自分は助けに行くことすらできないのか。

 アンゼルムは両の拳を握りしめた。

「……分かりました。姉上を……頼みます」

 アンゼルムが頭を下げると、ザシャは「そうか、あいつの……」と小さく目を見開いた。

「……ああ。まかせろ。……あとひとつ、伝言を頼む。『谷落とし』だ」

「『谷落とし』?」

 聞いたことのない単語に、アンゼルムは首を傾げた。

 ザシャの瞳は真っ直ぐに彼を見つめている。

 その瞳はどこか必死さとあわ立つような獰猛さが隠れているような気がして、アンゼルムは気圧された。

「ああ、それだけ言えばユリウス様なら分かる……じゃあな」

「……ご無事で……!」

 ひらり、とひとつ手を振ると、彼は跳んだ。

 それを合図にアンゼルムは来た道を戻るべく走り出す。

 なるべく早く、戻って来れるように。彼らを助けられるように。

 振り返らずに走る彼の背後で、獣の咆哮を聞いた気がした。
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