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最初の一週間

思わぬ偶然

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「え、手乗せTV塔?」
デジカメを構えて、怪訝な顔でこちらを見るヴィクター。
私は右手の平を横に出して、テレビ塔を背に声を張り上げた。
「だから、しゃがんでみて。私の手の平に、TV塔が乗っている、みたいな図でお願いしたいんだけど」
「何それ。日本で流行ってる撮り方?」
苦笑しながら、少し後ろへ下がり片膝を付くと、彼がデジカメをこちらへ向けファインダーを覗き込んだ。また立ち上がり、数歩後ろに下がって再度、デジカメを構えると、左手の親指を立ててOKサインを出す。
「乗ってる、乗ってる。じゃ、撮るから」
「あっ、ちょっと待って」
風で髪が顔の周りにまとわりついたので、それを払いのけると、私はもう一度カメラのほうを見た。なるべく自然に微笑みを浮かべた顔を作ってみたけれど、逆光だったので眩しくて、目なんか半分くらいしか開けられなかったかもしれない。
数秒立って、ヴィクターがカメラを見ながら立ち上がる。
「……ま、こんな感じ?」
「見せて」
私はカメラを受け取って、データを確認した。
私の眩しそうな表情はともかくとして、ちゃんと手乗せTV塔になっている。
「ありがとう!1人で観光してたら、こういうの、撮れないから嬉しい」
そう言うと、ヴィクターがくるりと周りを見渡し、大きな噴水のほうを指差した。
「あっちも、撮影スポットらしいから、行ってみる?」
「ほんとだ」
見れば、巨大なブロンズ彫刻に囲まれた噴水の側で、大勢の観光客が写真を撮っている。近くに寄り、ヴィクターが説明書きを読む。
「ネプチューンの噴水っていうらしい」
そう呟いて、彼は自分の携帯を取り出して何やら調べ始めた。
「こんなの、名前なんか気にしたことなかったな。結構有名な噴水なのかもしれない」
「随分立派な銅像が、噴水の中央と、周りに何体も設置されてるしね」
銅像の所々がブロンズ独特の緑色の光沢を帯びて、古めかしいその姿を雄々しく見せる。
携帯で何か調べていたヴィクターが、顔を上げて噴水を見上げた。
「プロシアに流れるエルベ川、ライン川、ヴィスワ川、オーデル川を象徴にした、四体の女性像が、ネプチューンを囲んでいるらしい。1891年にベルリン市から王宮に送られたというこの噴水は、市庁舎前に移設される前は、ベルリン王宮前広場にあったそうだ。皇帝の寝室から見える場所にあった当時、皇后が不快感を持ち、向きを180度変えさせたとかいう話もある。ちなみに、亡霊騒ぎもあった曰く付きの噴水って書いてある」
「ふうん」
「亡霊の噂がきっかけで、王宮前広場から市庁舎前に移した、って」
「確かに、銅像の周りとか、夜中になにか出そうな雰囲気はあるよね。私は、夜にショーウインドーのマネキンを見る度に、今に動き出すんじゃないかって不気味に感じて、好きじゃないな」
噴水を円形に囲む淵に、腰掛けるように設置されたグラマラスな女性の像が、記念撮影の一番人気スポットらしい。夕暮れ時の今は、亡霊の姿は見えないだろうなと思いながら、写真撮影の順番を待ってる人の列の最後尾に並んだ。
「怖くないの?亡霊」
ヴィクターが、薄ら笑いを浮かべて私を見た。
多分、私が亡霊とか苦手だろうと思ってあんな顔をしているんだろう。
「ドイツの亡霊は、あまり怖くないかな。日本のほうが、怖い」
「なんで」
理解出来ないというように眉間に皺を寄せたヴィクター。
「だって、ドイツ語で何か怖い事を言われたって、理解出来ないし、それにこっちの亡霊って、足があるんでしょ?日本のは、足がないらしいし、やっぱり言葉が分るからその分、怖いかな」
「日本の亡霊、足がないんだ。変なの」
ヴィクターは笑い出した。
確かに、足がある亡霊とない亡霊、国によってそんなところに違いがあるなんて滑稽だ。
前に並んでいた老夫婦が、それぞれ交代で写真を撮ろうと銅像に近寄ると、私の後ろに立っていたヴィクターが声をあげた。
「俺が撮ります」
老夫婦が笑顔で頷いて、ヴィクターにカメラを渡している。
二人が、ゆっくりと階段を上って、おばぁさんはその女性像の膝に腰掛け、おじいさんが隣に立つ。ヴィクターが少し、背を屈めて笑顔の二人を撮影する。老夫婦にカメラを渡すと、二人が嬉しそうにデータを確認して、ヴィクターにお礼を言っていた。
「リオ、そこに立てば?膝に座っとく?」
預けていた私のカメラをポケットから出したヴィクター。
階段を上って女性像の前に近寄ると、それがかなり巨大なものだったのでびっくりした。体の均整が取れているので、遠目にはそこまで大きいとは気がつかなかった。
やっぱり、お膝に座るのがお決まりらしいなと思い、先ほどのおばぁさんの真似をしてそこに腰掛けて前を向いた。
カメラを構えたヴィクターのほうを見たら、先ほどの老夫婦がヴィクターに話しかけている。おじぃさんが、ヴィクターが持っている私のカメラに手を伸ばしながら、こちらのほうを指差した。
もしかすると、お返しに撮影してあげる、と言っているのかもしれない。
見ていると、ヴィクターがこちらを見て、声をあげた。
「一緒に撮れば、って言われてるんだけど。どうする?」
「うん、いいんじゃない?」
私が即答すると、彼は片手を挙げ、それからカメラをおじいさんに渡し、1段抜かしで階段を上って来た。そして、真後ろの銅像と、その背後で噴水の水を浴びているネプチューン像を見上げた。
「俺、観光客と思われたの、初めて」
そう言って笑いながら私の隣に立ち、カメラを構えているおじいさんのほうを振り返る。
撮るよ、とおじいさんが片手をあげて合図したので、前を見て笑顔でファインダーを見つめる。
やがて、おじいさんがカメラを持っていた手を下ろしたので、階段を下りて次の撮影待ちの人と交代。
「ありがとうございます」
私もお礼を言って、思わず会釈した。
頭を下げた瞬間、この動作がドイツでは不要のものだったと気がつくが、自動的に動いてしまったのでどうしようもない。こんなちょっとした動作で、私が日本人だと気づく人もいるだろう。
返してもらったカメラのデータをチェックする。
「あれっ」
私は画像を見て声をあげた。
頭の上に何か乗ってる?
画像を拡大してチェックすると、私の頭の上から、ピースサインがにょっきり出ている。
「なに、これ!せっかくの写真が」
むっとしてヴィクターを睨むと、同じように写真を覗き込んで、涼しい顔で笑う。
「よく写ってるじゃん?」
「どういう意味」
「噂の、亡霊の指ってことにしとけば」
「亡霊の、指?」
呆れながら、もう一度写真を見た。
これを、心霊写真と呼べるはずがない!
せっかく、自然な笑顔で写っているのに、雰囲気がおちゃらけた感じになってしまった。
「細かいことは気にしない!次、行こう」
今更撮り直しするわけにもいかないので、しぶしぶ歩き出す。
「あっちの、駅の反対側のアレクサンダー広場に行って、その後、なんか食べる?」
駅方向を指差してヴィクターが言う。
そう言えば、お腹は空いている。
出て来る前に、遅いランチ代わりにクロワッサンを食べただけだった。
「そうしよう!観光、付き合ってもらってるし、カメラマンもやってもらってるから、ご飯は奢るよ」
「あ、そう?レオ、気を使うタイプなんだ。気にしなくていいのに」
可笑しそうに笑い出したヴィクターを見ながら、突然、ロサンゼルスの留学時代、学生仲間であちこち出歩いた思い出が蘇った。あれからもう何年も経つけれど、いろんな国から来ている友人達と街を出歩いた楽しい日々が懐かしくフラッシュバックする。
大勢の利用客で大混雑しているアレクサンダープラッツ駅の構内を突っ切ると、TV塔の反対側へ出た。そこは、デパートに囲まれた広々としたスペースで、物売りのスタンドや、大道芸を披露している道化師、反対側ではバイオリンを演奏している二人組のアーティストが見え、彼らの周りを埋めるように多くの人々で賑わっている。リュックサックを背負ったり、カメラ片手の人が多いので、やはり、半分以上は観光客なのだろう。東京の、渋谷ほどではないけれど、似た様な活気がある場所だ。
そう思って辺りを見渡しながら歩いていると、突然、右腕を掴まれて強く後ろへひっぱられた。
転びそうになって、肩から滑り落ちかけたバッグの紐を持ち直しながらバランスを取ろうとしたら、直後に目の前を、黄色のトラムが走る。
「どこ見て歩いてんの」
振り返れば、呆れ顔のヴィクターが私の腕を掴んでいた。
「線路、見えてなかった……」
足下に線路が敷かれているのに気がつかず、車が来ないことだけを見て道路を渡り始めたが、反対方向からトラムがやってきていたらしい。
「東京じゃ、トラムなんて走ってないから」
言い訳を言うと、左右の安全を確認しながら彼が私の背中を押した。
「ぼんやりしていると、スリにもやられる」
「スリがいるんだ。この近辺が危ないの?」
「街中どこでも獲物を狙ってる。特に、君みたいな注意力に欠けた観光客なんか、いいカモだろうな」
私は後ろに回していた斜め開けのバッグを、前に持って来て、きちんとホックが締まっているか確認した。
確かに、平和ボケしているので、防犯意識が弱いのは認めざるを得ない。
ロサンゼルスで一度、スリにあって財布を無くしたことがあったが、あの後は流石に常に注意を怠らなくなっていた。でも、また日本へ戻って来て、その安全さに慣れてしまうと、ぼんやりとして歩いていることが多くなってしまっている。
アレクサンダー広場の様子をしばらく観察して、何枚か写真を撮る。シャボン玉液を販売している黒人の男性が、長いスティック二本に紐で輪をつくったものから、ものすごく大きく伸びるシャボン玉を空へ飛ばしていた。小さい子供達がその実演に見とれて、お試し用のスティックを借りようと列をなしている。ゆうに2m、3mは伸びる虹色に輝くシャボン玉のトンネルが風に大きく揺れて、紐から離れると、ぐにゃりと波打ちながら飛んで行く。子供達が大きな歓声をあげてシャボン玉を追いかけるのを、大人達が笑顔で見ていた。
広場にはハトがつきもの、というのは万国共通らしく、ここにもたくさんのハトが居て、人間のおこぼれを探して右往左往している。
ふと、視界に一組のカップルの姿が目に入った。
完全に二人の世界に入っているのか、抱き合ってお互いの顔を見つめ合っている。
私はあの、バレンタインデーの夜のことを思い出した。
イタリアンレストランで、デザートプレートを目の前に渡されたトパーズのペンダント。しばらくそれを手に取り見つめた後、彼にそれを返して別れを告げた。天変地異でも起きたかのように驚いていた彼。顔色を変えた彼のショックを受けた表情は忘れられない。
普段、どんな時も取り乱すとか理性を失うことのなさそうだった彼が、明らかに動揺し、その理由を何度も聞いて来た。
私は、ただ、自分の気持ちが分らなくなったからであり、彼に非はない、と説明したけれど、到底そんな理由で納得してくれるはずもなく、しばらくの押し問答の後、埒があかないからと外に出ることにした。
レジで私がせめてもの償いと思って払おうとしたら、それだけは許さないと強く拒否をされたのも、私の罪悪感をさらに強くした。
表に出て少し静かな通りまで黙って歩いた後、彼はいきなり私を抱きしめて、どうしても別れたくない、なにか不満があれば改善する努力をするから、考え直してほしい、と繰り返し言い続けた。友人のセッティングした合コンで知り合った彼は、輸入家具を販売する会社のバイヤーで、2ヶ月毎に外国へ買付けに出張する人だったから、このバレンタインデーの後はまた、2週間近く会えなくなると知っていた。
今、別れたら半月、会う事はない。
そのまま、完全に別れてしまうだろう。
逆に、別れを先延ばししたら、また答えを出すのが2週間先。
また会ってこの押し問答を繰り返すことになる。
私はもう結果がわかっていることを先送りすることは出来なかった。
彼のことは、確かに好きだったから、尚更、中途半端な気持ちでずるずると付き合って、彼の時間を無駄にしたくないという理由もある。
ひたすら、自分の一方的な我が侭を謝罪しながらも、この意思が固い事を告げると、彼は怒りにまかせて強引にキスをした。鋼鉄のような腕にきつく抱きしめられて身動きも出来ず、窒息しそうになってもがくと彼が腕の力を緩めた。その隙に、無我夢中で彼を振りほどき、駅のほうへ走り出した……仲良く手を繋いで通りを歩くカップルの間をすり抜けるように走りながら、頬を伝う涙の意味を自問して。
あの時の涙は、一体どういう意味だったのか、自分でもよくわからない。
「リオ?」
声をかけられてはっと我に返る。目の前に広告がたくさん貼付けられた柱があり、慌てて立ち止まる。また、自分がぼーっとしていたことに気がつく。
「上の空になって、何考えてるの」
呆れたようにそう言われて、私は苦笑いした。
「お腹が空いて、頭がぼうっとしてるみたい。そろそろ食べに行こう」
「そうだな。俺も腹が減った。何が食べたい?」
くるりとあたりを見渡しながら聞かれて、私はしばし考え込む。
「基本、パンばっかり食べてるから、他の物を食べたいんだけど」
「やっぱり、アジア料理?」
「うーん……せっかくベルリンに来て、アジアだと変かなぁ」
正直なところ、アジア料理を食べたいというのが本心だけど、何もベルリンに来てまで、という気がしなくもない。
「タイ料理は?ベルリンではベトナム料理が多いけど、この近くには結構いいタイ料理もある」
「そうだね……そうだよね、アジア料理、食べてもいいよね。タイ料理、私も好きなの」
「この近辺では味はピカイチだから」
自信たっぷりにそう言われて、私の心も決まった。
今晩くらい、アジア料理でお腹を満たすのもいいだろう。
せっかくだから、ピリ辛でシャキッとしよう!
「じゃ、そこでお願い!」
私は急に元気になって、笑顔で頷いた。



シンプルなグラスの中に生けられているのは、ピンク色の大輪の洋蘭に、笹の葉みたいに先が尖った青々とした葉。華やかな色合いが目を引く。グラスの下に沈んでいるホワイトとピンクの小さいカラーストーンも可愛らしい。隣の丸いガラス玉のようなキャンドルホルダーの小さい炎がちらちらと風に揺れて、テーブルの上は完全にアジアっぽい雰囲気だ。
正方形の白磁のふたつの深皿には、海老とアジア野菜の炒め物、チキングリーンカレー。
丸いアルミのポットにほかほかの白米がたっぷり入っていた。
たったの数日、基本パン食の生活をしていただけなのに、アジア料理はこれほど美味しいものなのだと感動するくらい美味しくて、無駄口も効かずに食事に専念する。
料理に使われている赤パプリカやインゲン、タケノコやコリアンダーもどれも新鮮な野菜だとわかるくらい、色合いが瑞々しくて歯ごたえがあった。辛さも丁度いい加減で、冷たいオレンジジュースとの相性もばっちり。
私はやっぱりアジア料理なしじゃ生きて行けないと再認識する。
「すごく美味しかったよ。お客さん、ひっきりなしに来るのも納得」
私はジンジャエールを飲んでいるヴィクターにそう言って、入り口のほうを振り返った。テーブル席が満席なので、数組のお客が並んで待っている状態だ。
週末でもないのに、これだけ込むということは、やはり人気店なのは間違いないだろう。ヴィクターの話だと、野菜もお肉も全て材料は有機のものを使っているとのことで、健康にも良い。近所に住んでいたら、毎週でも通ってしまうかもしれない。
パン食ばかりでどこか不完全燃焼だったのか、私はものすごく満たされた気分でご機嫌だった。
携帯を取り出して何かチェックしていたヴィクターが、顔を上げて私を見ると、クスッ笑う。
「生き返ったみたいな顔してる」
「え、そう?」
思わず両手を頬にあててみると、辛いものを食べたせいか少し火照っているようだ。
美味しいものを食べて、気分が高揚しているのもあるだろう。
「ちょっと待ってて」
携帯をポケットに入れて立ち上がったので、お手洗いにでも行くのだろうと思い、私はバッグからデジカメを取り出して今日の写真をもう一度見始めた。
合計で40枚近くも撮っている。
1人で街を歩いている時は、風景写真ばかりで自分の姿は写らないけれど、誰かと一緒だと自分も写るので、本当に観光に来たことが間違いない事実だと写真を見れば分る。
なんだかんだ言って、やっぱり一度くらいこうやって誰かに同行してもらったのはよかったなと思いながら写真を見ていると、ジーンズのポケットに両手を突っ込んだヴィクターがテーブルの隣に立っていた。
「あ、出る?」
デジカメをバッグに片付けて、代わりに財布を出したら、丁度ウエイトレスが木製の小さなお盆に紙とキャンディを乗せて持って来た。
いくらだろうと思ってその紙を見たら、それはお勘定でなくて支払済のレシートだった。
「あれっ?」
びっくりしてヴィクターを見上げたら、イタズラが成功したかのように目を細めて笑っている。
「私、ここは奢るつもりだったから……ちょっと待って、今……」
慌てて財布を開いて、レシートの金額を確認しつつ現金を取り出そうとした。
「出しても受け取らないから。待ってる客もいるからもう出よう」
「でも」
困ったなと思って見上げると、ヴィクターはレシートとキャンディを取ってポケットに入れ、私を急かすように言う。
「まぁ、いいだろ?さ、行こう」
「う、うん、じゃぁ、ごちそうさま……ありがとう」
先回りされて支払われたことに困惑したものの、時すでに遅し。
素直にお礼の言葉を述べて、席を立った。
空席待ちの客が並ぶ狭い出入り口を通り抜けて外へ出ると、少しだけ気温が下がって秋の夜らしいひんやりとした空気になっていた。
外に出ると、ヴィクターが立ち止まって私を振り返った。
「今日はさ、東西ドイツ統一記念日って祝日」
「え、そうなの?」
今日が祝日だなんて気がつかなかった。午前中から出かけたギャラリーもオープンギャラリーだったし、言われてみればどこでも人が多かった気がしないでもない。
アレクサンダー広場を囲んでいたデパートが閉まっていたのは、閉店時間ではなく祝日だったからなのかと納得する。
「俺の仕事みたいに年中無休ってところもあるけどね。あー、やっぱり辞めたい」
歩き出した彼に私も続く。駅の方向へ向かうのかと思えば、違う方向のようだ。
「どこに行ってるの?駅じゃないの?」
「あっちのバス停」
「え、バスで帰るの?」
「ブランデンブルグ門周辺に寄って行こう。周辺で記念日のイベントやってるし」
「そうなんだ」
もしかするとさっき携帯で何か調べていたのは、そのイベントのことだったのかもしれない。
夕食を奢るつもりが逆に奢られて、更に別のイベントまで連れて行ってもらうなんて、申し訳ないなと思いつつ、それを言ったところで何か利点があるとも思えず、素直にお礼を言うことにした。
「ありがとう。やっぱり、ローカルの人しかわからないことも多いね」
すると、ヴィクターは少し笑って頷いた。
すぐにバス停に付くと、数分でTXLというバスがやってくる。
「10分ぐらいだし、そこで立ってよう」
「うん」
車内は割と混雑しているので、前方の車いすとベビーカーのスペースが空いていたのでそこの手すりを掴んで立つ。暗くなった外に目を向けると、街灯で照らされた街並がいかにもヨーロッパという感じだった。多分、東京のようにコンビニや自動販売機もないし、電光掲示板なども殆どなくて、暖色系のランプが付いたカフェやレストラン、後は通りに規則的に立つ街灯の灯りしかないからだろう。夜の大都会を見慣れているせいか、少し物寂しい景色に見えるけれど、ここがいかにも古い歴史を感じさせるヨーロッパらしさなのかもしれない。
何やら音楽みたいなものが聞こえてきたので、前方を見ると、工事中の道路の向こうにライトアップされたブランデンブルグ門が見えた。
「リオ、降りて」
バスが停車して乗降扉が開くと、かなりの乗客が降りた。
ブランデンブルグ門のほうは騒がしい音楽と人込みで盛り上がっている様子だ。
「電車の駅もすぐそこだから、適当に見たらそのまま帰れる」
「うん、便利だね。まだ、ブランデンブルグ門は見てなかったから、ちょうどよかったよ」
私はカメラを取り出し、人込みの流れに乗って歩き出した。
門に近づくに連れて、コンサート会場のような地響きのする音楽と大勢の人の声でかなりの騒々しい。ビール瓶を片手に肩を組んで何やら合唱している酔っぱらいもいるし、完全にお祭り騒ぎだ。歩行者天国になっているらしく、多くの出店が並び、ブランデンブルグ門の前の特設ステージでは大音量でコンサートの真っただ中。
「えっ、観覧車?!遊園地まである!」
どうやら移動式の遊園地らしく、目立つ観覧車以外にも、子供の好きそうなメリーゴーランドなどの乗り物や射的など、移動式の割には充実しているようだ。
日本ではこういう移動式遊園地なんて見たことはないので、面白くて写真を撮るが、大勢の人が目の前を通るので、どう撮ってもなかなか全体の写真が撮れない。やけくそになって、両手を頭上に伸ばしてファインダーを見ずにシャッターボタンを押そうとしたら、笑いながらヴィクターがカメラを取った。
「それは無理だろ、絶対にブレる」
そう言って、少し背伸びをして観覧車の方面へカメラを向けた。
彼は顔がどちらかというとベビーフェイスだから、座っている時は特に忘れてしまうけれど、私よりは随分、身長が高い。私も160cmなので低いほうではないとは思うけど、ヴィクターは多分、180cmは超えているに違いない。
カメラを返してもらって写真を確認すると、人込みの影に邪魔されずに奇麗に観覧車やメリーゴーランドが撮れていた。
「あっちのほうには政治家もいるらしい」
少し離れた人だかりのほうは、テレビ局の照明っぽいものも見えるけれど、なにせこの人込みなので近づけないし、誰が来ているのかなんて全く見えない。せっかくだから誰なのか確認しようと思って人込みを掻き分けて前に進もうとしていると、腕を掴まれて後ろに引っ張られる。
ヴィクターが少し怒った様な、真剣な顔で私を見ていた。
「無理!もみくちゃにされて迷子になるだけだから、やめておいたほうがいい」
「そうかなぁ」
「それとも、政治家に直接何か言いたいことでもあるわけ?」
「……それは、別に、ない」
言われてみれば、単に有名人ということでミーハー根性が出ただけのことだと気がついて、その人だかりに背を向けると、ヴィクターがほっとしたような顔になった。
「リオ、なにか甘いのでも食べてみる?」
「うん、出店で買ってみたい。あっち、なんか美味しそうな匂いがする」
さっきから、カステラみたいな甘いにおいがするなと思っていたので、そちらのほうへ行くと、行列の先にワッフル屋が見えた。悩む時間が勿体ないのですぐに列の後ろに並ぶ。大きなワッフルだったので1枚を買って、真ん中で割って分ける。チョコレートやクリームのトッピングも選べたが、シンプルにパウダーシュガーだけのものにして正解だった。あたりを見れば、口の周りや洋服にチョコレートが付いた人もいたし、この人込みで食べていたら絶対に誰かにぶつかって服を汚してしまうだろう。
お祭り騒ぎの凄まじい熱気の中を歩きながらワッフルを食べて、門を間近に見た後そこでUターン。しばらくするとやっと人込みから抜け出して駅の前へ戻って来た。なんだかんだと1時間以上は歩いていたようで、時計を見るともう8時半になっていた。
まだ少し時差ぼけもあるのか、やや眠気も出て来たので帰るには丁度いい時間だ。
地下の駅のほうへ階段を下りて、プラットホームに行くと、思ったより空いている。すぐに電車が来たので乗り込むと、こちらはそこそこ込んでいた。
欠伸を堪えながら電車に揺られること15分、一度乗り換えをして更に5分で、ようやくアパートの近くまで帰って来た。
夜道を歩きながら隣を見れば、ヴィクターも欠伸をしながら眠そうな顔で歩いていた。
不規則な仕事の疲れを押して、私の観光に付き合ってくれたんだろう。
なんだかごめんね、と言おうとして、思い直す。
謝られてもどうしようもないだろう。
アパートの柵を通り、中庭を歩いてアパートの棟に着いた時は9時半だったけど、欠伸が止まらないくらい疲れていた。
こちらの人は自然にレディファーストが出来るのか、棟の扉もヴィクターが開けてくれて私を先に入れてくれる。階段をゆっくり上って、ヴィクターの階までくると、私はその先の階段を数歩上って振り返った。
「ヴィクター?」
ポケットから鍵を取り出そうとしていたヴィクターがびっくりしたように目を開いてこちらを見上げた。
目が覚めたみたいな顔をしているので、私のほうがその反応に驚いてしまう。
「今日は、有り難う。いろいろ見れたし、美味しいもの食べたし。おかげで楽しかったよ」
そうお礼を言うと、ヴィクターが片手を挙げて笑顔を向けた。
「こっちこそ。いい感じで疲れて、ぐっすり眠れそう」
「確かに言えてる」
思わず笑ってそう答え、じゃぁね、と階段を上り始めると、後ろから声が追って来る。
「金曜日、7時すぎからだから、顔出して」
例のパーティのことだと気がついて、私は振り返る。
「わかった!おやすみ」
そう返事をすると、同時に欠伸が出た。背後から、「おやすみ」と追って来た声を聞きながら残りの数段を上って、自分のウィークリーアパートに到着する。鍵を取り出した時、ヴィクターの部屋の扉が締まる音がした。



ウィークリーアパートに入って、ブーツを脱ぐとほっとする。
今晩は美味しいご飯もご馳走になったし、イベントまで見に行けて、盛りだくさんの内容の一日だった。
眠かったけれど、先にシャワーを浴びることにして、荷物をソファに置くとまっすぐにシャワールームへ行く。熱いお湯で体も温まり、人込みでホコリっぽかった感じもすっきりする。バスルームに置かれていたココナッツのシャンプーをしたので、ドライヤーで乾かすと甘いココナッツの香りが広がって、リラックスした気持ちになった。
メイク落としも歯磨きも全部済ませて、キッチンでミネラルウォーターを飲むと、ベッドルームへ直行した。
すぐに寝ようかと思ったけれど、サイドテーブルに置いてあったiPadでメールチェックをすることにして、それを持ってベッドに横になる。
昨晩、日本の家族や友達に、森鴎外記念館に行った時の写真を送ったので、何か連絡が来ているかもしれない。
私はSNSは使っていないので、基本的にメールだけで人と連絡を取るようにしている。
インターネットを立ち上げて、メールプログラムを開けると、新しいメールが数件、入っていた。
差出人の名前を見ると、友達二人、弟、会社の同僚が1人、そして、次の名前を見た途端、瞬時に凍り付いた。
その名前は、日向拓海。
2月に別れた、元彼だ。
もう、7ヶ月以上、連絡も取っていないのに。
なぜ、今頃になってメールが入っているんだろう?
先ほどまで襲いかかる睡魔でまぶたが半分閉じかけていたのに、驚きのあまりに眠気など吹っ飛んだ。
なぜか、件名は書いていない。
しかも、送信時間はたったの20分前。
日本は真夜中過ぎて明け方近い、そんな時間に送信されている。
もしかして、ウイルスメールとか?
だったらいいのだけど……
そのメールをクリックしようかどうか悩んで、後回しにすることにして、先に他のメールを開ける。どれも、私が送った写真の内容や、日頃の出来事に関する普通のメールだった。
最後に、覚悟を決めて元彼のメールをクリックしてみた。
一体、何を書いてあるのか。
私に対する文句であれば、黙ってそのまま受け入れるつもりで読み始め、2行も読まないうちに私は驚きのあまりにスクリーンを凝視したまま身動きも出来なかった。
内容は、簡潔明瞭。
アンティーク家具の買付けで西ヨーロッパと北欧を回っている最中で、共通の友人から、私が旅行でベルリンに来ていることを知ったらしい。ベルリンのアンティーク家具ディーラーを回る予定で昨晩からベルリン入りしていて、金曜日の夜にはデンマークへ移動する予定だから、明日、夕方に会いたいと。しかも、私の滞在している場所は知っているので、メールの返信が無ければ直接会いに行くとまで書いてあった。
こんなメールを受信する心の準備なんてしていなかったから、ただ、呆然とする。
しかも、最後のあたりは若干、脅迫に近い文章じゃないか。
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咲子のやつ!
情報を勝手に渡した友達に頭にきたけれど、彼女も、私と拓海の間で板挟みになっていて、別れた当初はかなり迷惑をかけたから、もう投げやりになってしまったんだろう。
迷惑をかけたのは、私本人なのだから、彼女を責めるのはフェアじゃない。
私は大きな溜め息をついて、ベッドに仰向けに寝転び、真っ白い天井を見上げた。
晴天の霹靂とはまさにこのことだろう。
帰国子女の拓海は、とても押しが強く、遠慮するとか、謙遜するとか、そういう普通の日本人が持ち合わせている常識が部分的に抜けている。
新年明けの合コンで初めて会った時は、私がロサンゼルスに留学していたということもあって、話が弾んでとても楽しかった。アメリカでは有名なスイミングクラブの選手育成コースに所属し、全米大会にも出ていたらしく、見るからに強靭な体格で、逆に顔立ちは甘いマスク。社長の信頼も厚く、バイヤーとして一回で数百万円以上の買付けを1人でこなすという重要な仕事を任されている若干28歳の彼は、女性を惹き付けるイケメン要素を充分に揃えていた。
合コンの二次会で行ったバーで、男性陣がダーツマシンを見つけて、そこで勝負をすることになった。その時に、拓海が、勝負に勝った者が誰かにデートも申し込み、申し込まれた女性は拒否権なし、という条件を挙げ、その場の盛り上がりで皆が賛成し、ゲームが始まった。そして最終的に圧倒的な点差で拓海が勝利し、彼は私をデート相手に選んだのだった。
物怖じしない強さも感心したし、裏表の無いところに惹かれて、約束の映画デートの後に交際を申し込まれた時、私は OKしたのだった。
思い返せば、自分でもどうして別れたのか、不思議だ。
好きなのに、なぜか、彼じゃないと確信している。
何を根拠に?
トパーズの石言葉なんて、それに気づいたきっかけに過ぎない。
私は、拓海を「好き」であって、「愛して」はいないんだと。
でも、この二つの感情の違いが漠然としていて私にもわからない。
「好き」の延長線上に「愛」があるんじゃないの、と言う友達もいたけれど、私はそれは違うような気がしていた。
きっと、本当に愛する相手に巡り会った時は、それが「自分の愛する人」だと直感で確信するはずだと、何故か私は思い込んでいた。
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