竪琴の乙女

ライヒェル

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十一章

アデロスの帰還

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「あちっ!」
思わず叫けぶと、隣でトレイを並べていたアリアンナが驚いたように声をあげた。
「大丈夫ですかっ!?」
「ご、ごめん、つい……大した事ないから」
湯気の立つお鍋から、林檎のスライスをフォークで取り出そうとしたら、それがフォークから滑り落ちた拍子に熱いシロップが指に跳ねてしまった。
「アリアンナ、やっぱりあれを取ってくれる?」
フォークをお皿に置いて、私はテーブルの上のカップに入っている二本の棒を指差した。アリアンナがすぐにそれをとって渡してくれる。
「ありがとう。これなら、完璧!」
実は今日、箸代わりに二本の細い棒を準備してもらっていた。
私はこの世界に一膳しかないであろう箸を手に取ると、湯気の立つ鍋に向き直る。
目の前には、ふたつのお鍋。
ひとつは、赤林檎の薄切りコンポート。
もうひとつは、洋梨の薄切りコンポート。
冷めるまで待つ時間がないので、出来立てを使って作業をする。
まず、赤林檎のコンポートの鍋に箸を入れ、鮮やかな濃いピンク色に染まった林檎のスライスをつまみ上げ、トレイの上に置いた。それをくるりときつめに捻りをかけて巻く。そしてもう一枚、林檎のスライスを取り出し、最初の分に少し緩めに巻き付ける。その作業を4回繰り返したら、ひとつの薔薇の花が出来上がった。
「わぁ……!」
「素晴らしいですね……!」
感嘆の声をあげ、うっとりと薔薇を見つめるアリアンナとエリサ。
私の隣に居たヘレンが感心したようにため息をついた。
「本物の薔薇よりきれいだよ。それに棒を二本持って、そんなことが出来るなんて、セイラは器用だねぇ」
私はにっこり笑って、得意げに皆の目の前でお箸を動かしてみせた。皆、信じられないというように首を振る。
「慣れたら、ナイフやフォークより使いやすいの。練習すれば誰でも出来るよ」
エリサが私の手にある箸を眺めて、難しい顔で呟いた。
「そうでしょうか?でも、難しそうです。ペンを持つのとは全然違うようですし」
「興味あったら今度教えるからね」
「はい、ぜひ」
アリアンナとエリサが声を揃えて頷いた。
私は笑いながら、早速次の薔薇に取りかかった。
赤い葡萄酒を入れた林檎は、ロマンチックなピンク色の薔薇。
洋梨は、クリーム色の清らかな白い薔薇。
トレイが薔薇で埋まっていくのを見ていると、頬が緩んできてしまう。
檸檬汁をたっぷり入れたから、あたりいっぱいに爽やかな甘酸っぱい香りがした。
「林檎の匂いがここまで来てるよ。お腹が空いてきてしまうね」
カウチのところで竪琴の調整と点検をしているアンリが声をあげる。私は笑いながらアンリに向かって箸を振ってみせた。
「アンリ、出来上がりまで、楽しみに待っててね!」
アンリがにこにこと嬉しそうな笑顔を向けてくれるのを見て、私は目尻が下がるのを止められず、鼻歌まじりに薔薇作りに精を出す。



今日はお昼から、アンリとヘレンが王宮に遊びに来てくれている。
3人でしばらくいろいろ話した後、アンリは竪琴の点検を始めて、そしてヘレンには、今日の私の計画の手伝いをしてもらっているのだ。
午後、サロンで内輪のお茶会があるので、その為に私はお菓子を焼きたいとカスピアンに申し出た。
案の定、王宮の厨房に入ってはダメだと言われたが、カスピアンは代替案を出してくれた。必要な材料や調理器具を部屋に運ばせて、室内で全ての準備を行い、焼く準備が出来たら、それを厨房に運ばせオーブンで焼けばいいというアイデアだ。エリサとアリアンナには、厨房と部屋の間を数往復してもらうことになったけれど、おかげで全ては私の希望通りに進んでいる。
部屋のテーブルを作業台として準備してもらった。
私が薄く切った林檎と洋梨をコンポート用の鍋に入れ、檸檬汁と砂糖、そして林檎のほうには赤の葡萄酒、洋梨には白の葡萄酒を投入。厨房で火を通してもらい、出来上がったら、それをまた室内に運んでもらったので、こうして薔薇を作っているところだ。
ケーキの生地もここで混ぜて準備済み。
流石にカスタードはここでは作れなかったので、分量を計って準備した後、ヘレンにお願いして厨房で作ってもらった。



今回私が焼くのは、カスタードクリームが入った、丸型のケーキ。
デコレーションはメルヘンチックに、濃いピンクとホワイトの薔薇の花をぎっしり飾る予定だ。焼き上がってあら熱が取れたら、パウダーシュガーをかけて、鮮やかな緑のミントの葉を飾る。
「ヘレン?ケーキの生地、そこにある型に分けてくれる?もうすぐ薔薇も全部完成するから」
「生地にはカスタードを挟むんだったね」
「うん、生地を半分入れたら、カスタードを入れて、そしてその上から残りの生地を入れてね」
ヘレンは腕まくりをすると、大きなボウルを抱えて、生地を型に流していく。
「お二人は息がぴったりですね」
エリサがしみじみそう言ったので、私とヘレンは顔を見合わせて笑った。もう何回も何回も一緒にお菓子を焼いたので、例えブランクが長くても、阿吽の呼吸で共同作業が出来るのだ。
カスタード入りの生地が型に入ったところで、私は細心の注意を払いながら、スプーンと箸を使い、二色の薔薇を上に乗せていく。そうして、私達の前に、二色の薔薇がぎっしり詰まった大小のケーキ型が4つ、焼く準備が出来た。
大きな型は、今日のお茶会用。
小さい型3つは、ヘレンとアンリのお持ち帰り用、サリー、エリサとアリアンナ用、そして、アデロスの分だ。
アデロスは、エヴァールの港からマドレア国へ戻り、そこからシーラ公国に寄って、今日まもなく、やっとラベロアに戻ってくる。カスピアンと一緒だったエイドリアン達には、アンカールの離宮で夕食を準備してお礼をしていたが、別行動だったアデロスにも、なにかきちんとお礼をしたいと考えていた。そしたら、ちょうどタイミングよく、アデロスの帰還がお茶会の日と重なったので、お礼は、薔薇ケーキにしたのだ。
「セイラ様。それでは、厨房へ行って参ります」
ワゴンの中に大小4つのケーキ型を入れて、アリアンナとエリサは注意深くそれを押しながら部屋を出て行った。
「厨房の調理人達なら、ケーキの焼き加減は心配しなくてもいいね」
ヘレンは濡れ布巾で手を拭きながら、嬉しそうに私を見る。私も同じく手を拭いて、エブロンを外した。
「カスピアンがね、私が使える小さめの調理場を作ってくれるらしいの。そしたら、いつでも料理が出来るようになるから、とっても楽しみ」
「まぁ、それは素晴らしいことだね。陛下は本当にお優しいお方だね」
ヘレンが目を細めてにっこり笑った。
「セイラ、ちょっとこっちへ来ておくれ」
アンリが声をあげたので、私とヘレンはカウチのほうへ行く。
「3本、弦を張り替えたから、音を確認してみてごらん」
「ありがとう!」
私はアンリから早速竪琴を受け取ると、カウチに腰掛けた。
私の隣にヘレンが腰掛けるのを見計らって、竪琴を膝に乗せると、姿勢を正す。
3人で顔を見合わせると、揃って笑顔になった。ずっと前、彼等の家で毎晩こうして3人でライアーを聴きながら過ごしていた時の記憶が蘇り、またこうして心休まる時間を共に過ごせることが奇跡のような気がしてならなかった。
目を閉じて、竪琴の弦に指を触れると、優しく魂に響く音色があたりいっぱいに広がる。
「あぁ、懐かしいね。あの頃を思い出すよ」
ヘレンが漏らした声を合図に、竪琴の弦から溢れ出す美しい音色が世界を虹色に染めていくのを感じた。



しばらく竪琴を奏でた後、お茶を飲みながら3人で婚儀の話をしていたら、扉がノックされる音がした。振り返ると、アリアンナとエリサがワゴンを押して戻って来たのが見える。
「セイラ様。あら熱も取れました。ご確認お願いします」
「ありがとう」
私とヘレンは早速ワゴンの中をチェックした。
奇麗に焼き上がって、林檎と洋梨の薔薇も崩れる事なく、美しい形を保っている。当初お願いした通りに、アンリとヘレンの分、アデロスの分は既にケーキ用の箱に入れられて、蓋を閉められるようになっている。
「厨房の皆が感動していましたよ。こんな美しいケーキ、見た事ないって。王宮のレシピに追加したいそうです」
「お茶会には見栄えがするからいいかもね。これとは別に、今度、料理長にレシピとして追加してもらいたいのもあるから、一度、ちゃんと面会する時間を作ってもらうように、カスピアンに言ってみる」
シュークリーム生地の焼き方を、国内に広めなくてはならなかったことを思い出した。あれを、ラベロア独特のお菓子にしておかねばならない。
「さぁ、セイラ。仕上げをしようね」
「うん」
私とヘレンは、粉砂糖を薔薇の上に振りかけた後、ミントの葉を飾り付けた。
雪化粧をした薔薇の美しさに、大満足のため息が出た。
「わぁ……綺麗!これは、食べるのが勿体ないですね!」
「本当です!このままずっと飾っていたいくらいです」
エリサとアリアンナが頬を染め、とても嬉しそうにケーキを眺めている。女の子のハートを鷲掴みにする、可愛らしいケーキであるのは間違いない。
「本当に、このままずっと見ていたいです」
「でも、とっても美味しそうだし……どうしましょう」
二人の笑顔を見て、私は笑いが止まらなくなった。
「またいつでも作れるよ。次回は一緒に作ってみようね」
「はい、ぜひ、お願いします!」
「そしたら、箱に入っているケーキふたつはここに置いて、大きいのはサロンに運んでくれる?もうひとつは、サリーと一緒に休憩時間に食べてみてね」
「はいっ!」
エリサとアリアンナは揃って大きな返事をして、照れたように笑った。
二人は真新しい白い紙箱に入ったケーキをふたつ、テーブルに置くと、ワゴンを押して退室した。
「もう少ししたら、サロンでお茶会だったね」
ヘレンに聞かれて頷いた。
「そうなの。一昨日、アンジェ王女の謹慎が解かれて、今日、内輪で会うことになってて……」
私はそう答えながら、少し緊張を感じ、緩みまくっていた顔を引き締める。
謹慎というのは、てっきり、外出が出来ないとか、公務に出れないとかそういうものかと思っていたが、実際は、部屋から一歩も出れないほど厳しいものだったらしいのだ。カスピアンは謹慎の解除を婚儀の後と考えていたらしいが、私はそれはあまりに酷だと思ったので、すぐに解いてもらうことにした。
ロリアンの提案で、内輪で会い、今回の件についてしっかり話し合う場を設ける事になった。
皆のスケジュールを調整した結果、今日の午後で決定された。カスピアン、私、ユリアスとロリアンがサロンに集合し、その場に、アンジェを呼ぶというものだ。
4人で揃ってアンジェ王女を待ち構えているなんて、まるで説教のために呼びつけているようでどうかと思ったが、私とカスピアンだけで会うより、ユリアスとロリアンも居た方が居心地がいいかもと思い直した。

当時、アンジェがとても難しい立場に立たされていたのは確かだ。
いつか、自分の兄と結ばれるだろうと思っていた親友のサーシャが、夢に破れ嫉妬に苦しむのを見て、放っておけなかったに違いない。竪琴に悪戯するくらいで、サーシャの気が済むのならというくらいのノリだったのが、暗殺計画にまで繋がる事態になるなんて、彼女は思いもしなかったことだろう。
私がちゃんとアンジェと話す時間を持ち、関係を構築していたら、こんなことにはならなかったかもしれない。
これから義理の姉妹になるわけだから、少しずつでも分かり合えるように、外部から王室に入るこの私自身が努力しなければと思った。
それで、顔合わせの場を、少しでも和ませたくて、女の子が好きそうな薔薇ケーキを焼いてみた。これをきっかけに、アンジェとの距離が少しでも縮めばいいのだけど……



扉のノックの音がし、振り返ると、開いた扉の向こうから、濃紺の軍服を纏った騎士が現れた。
立ち上がってその姿を確認し、思わずくすっと笑いを零してしまう。
エヴァールの離宮で驚かされた、濃いめの髭はすっかりなくなっていて、見慣れた姿のアデロスが居た。軍人であることを忘れてしまうくらい穏やかな茶色の目を細め、彼は、にっこりと笑みを浮かべると、いつものように大袈裟なお辞儀をしてみせた。
エヴァールの離宮で、このお辞儀を見てアデロスだと気づき、度肝を抜かれた瞬間を思い出し、また、笑ってしまった。
「セイラ様。ただいま戻りました」
後方の2人の騎士は敬礼をしている。この2人はアデロスの部下で、マドレアの商船に乗っていた騎士達だ。
「おかえりなさい!アデロス、どうぞ、中に入って」
声をかけると、アデロスは部下2人に外で待つように指示をした。2人が扉を閉めると、アデロスは私の隣にいたアンリとヘレンにもしっかりとお辞儀をした。
「初めてお目にかかります。三等指揮官のアデロスと申します」
アンリとヘレンは、あまりに礼儀正しいアデロスに圧倒されたのか、少し驚いた様子でお辞儀を返す。私達に遠慮したのか、2人はテラスのほうへと席を外した。
「疲れているところに、呼びつけてごめんなさい。こちらにどうぞ」
準備していた温かい紅茶をカップに注ぎ入れながら、カウチに座ったアデロスの顔を見たら、やっぱりかなり疲れているように見えた。目が合うと、アデロスはホッとしたように目を細めて笑った。
「私どもがシーラ公国を出発する時に、陛下とセイラ様がラベロアに戻られたと聞きました。ご無事で安堵しました」
私は大きく頷いて、アデロスの目の前にお茶のカップを置いた。
「アデロスのおかげです。エヴァールの離宮まで来てくれて、ありがとう。あんな危険なことをさせる羽目になって、ごめんなさい」
礼儀正しいアデロスはにっこり微笑むと、首を左右に振った。
「離宮からマドレアの商船まで、私が御連れ出来ればよかったのですが……覆面の警備兵が離宮周辺や港町にも多かったのです。商人らしからぬ行動をとれば、すぐに監視対象として警戒されてしまうので、やはり、陛下の指示通り、セイラ様ご自身にお任せするしか方法はなく……あのルシア王子のところから、よくお一人で商船までいらっしゃいましたね。セイラ様の行動力と判断力には脱帽いたしました」
「ルシア王子のお妃様付きの女官が一人、協力してくれたから、なんとかうまく行った感じだったの。それにしても、そんなに覆面の警備兵が居たなんて、全然気がつかなかった」
「やはり、セイラ様がいらっしゃる間は、離宮周りや港の警戒を高めていたようです」
「そうだったの……」
警備兵の数が少ない平和な港町だと思っていたけれど、実際はしっかり警備、いや、監視の網を張りまくっていたとは、さすが、抜かりのないルシア王子らしい。見つからずにエヴァールから脱出出来たのは、運がよかったの一言に尽きるだろう。
「シーラ公国では、ナタリア妃殿下にも謁見いたしました。セイラ様にお会いするのを、心待ちにされているとのことでした」
「ナタリア様に会ったの?どんなお方?」
思わず身を乗り出して聞くと、アデロスがくすっと笑った。
「きっと、セイラ様と気が合うお方だと存じます。とてもはっきりとしたお言葉で話されるお方でした」
「そうなのね。お会いするのが楽しみになってきた……」
ドキドキしながら頷く。
私のことを良く知っているアデロスが言うのだから、ナタリア様とはいい関係を築けそうだ。国同士の友好関係を強化するためだけじゃない。私にとっても、この国で王妃として生きていくために、同じ立場にいる他国の王妃から学ぶ事も多いだろう。
「シーラ公国に行く時は、ユリアスも一緒なのかな?」
「恐らくそうだと思います」
「アデロスも一緒に行ってくれるのでしょう?」
一応確認のために聞いてみると、アデロスがにっこり明るく微笑んだ。
「もちろんでございます。アンカール国へ行かれる時も、同行致します」
それを聞いてホッとする。
エリオットがルシア王子の部下だったと知ってから、間違いなく信頼出来る人じゃないと、こういう護衛はもう頼めない。
「ありがとう。私も、迂闊なことして迷惑かけないように気をつけるから、見捨てないでね。これからも、よろしくお願いします」
本心からそう言って頭を下げると、アデロスが慌てたように私を止める。
「セイラ様、どうぞ頭を上げてください!迷惑なんて、滅相もございません。警護させていただけることを名誉に思っておりますから……」
顔を上げると、動揺したのか目元を少し赤らめ、慌てているアデロスの顔があった。
お人好しな彼にこれ以上の気苦労をかけないよう、自分の行動にはもっと気をつけようと己を戒めた。
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