竪琴の乙女

ライヒェル

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九章

港の焼き菓子屋へ

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ルシア王子の外出許可を得て、私はお忍び用の簡易な馬車に乗り、港へ向かっていた。ジョセフィは明日のティミリへの出発準備があるとのことで、同行しているのは、コリンを含む3人の女官、そして護衛の騎士が6名。短時間の外出だというのに、予想以上の同行者数からして、これが護衛なのか監視なのかは微妙なところだ。
コリンはもともとは同行者ではなかったのだが、私が希望して追加してもらった。コリンを呼んだジョセフィに、なぜ普段関わりのない彼女を同行させたいのか理由を聞かれた。それで、コリンとお菓子の話をしたことがあり、彼女も興味がありそうだったからと誤摩化したところ、コリンがうまく話を合わせてくれたので、特に疑われずに了承してもらえた。
コリンが意味有り気な視線を私に向けたので、私は頷いてみせる。彼女が頷き返したことから、私がこの外出の際に逃げ出すつもりだと察したのは間違いない。
部屋を出る直前に、私は絵本を布に包んでコリンに渡し、預かってもらう。彼女は女官服のポケットにそれを入れてくれた。
馬車の中で、これからどうやってこの大人数を撒くことが出来るか策を練る。
お忍びということで、割とシンプルな衣装を着用しているとはいえ、どう見ても一般庶民に見えないこの格好はどうにかしなければならない。
つまり、焼き菓子屋さんのところで、服装を替える必要があった。
現場を見てからどう実行するか見極める必要があるが、逃走シナリオの大筋は決まった。
焼き菓子屋の厨房で、今着ている衣装を汚し、庶民の服を借り着替えた後に、護衛達の目を盗んでトンズラする。
髪は結い上げているから、何かスカーフみたいなもので覆えばいいだけだ。そして、無事に港に出たら、停泊しているマドレアの商船を見つけて、アデロスと合流。目下のところ気になる点は、果たして、マドレアの商船の乗組員が、私の事情を知っているのかどうかというところだ。でも、アデロスが商船に来るように言っているのだから、そこに行けばなんとかなるのだろう。
逃亡のシナリオが決まったところで、馬車が停まる。
前回の視察の時とは違いお忍びということで、街外れの要所で一旦馬車を停め、騎士達は全員馬を下りた。そこに馬を置いて、彼等は徒歩で同行するらしい。6名もの騎士が馬上から護衛していると、目立ちすぎるからだとのこと。再度動き出した馬車は、のろのろと港町への道を進む。どうやら、離宮の使用人の外出に見えているらしく、窓から見ると、人々がちらちらとこちらに目を向けてはいるが、それほど気にする様子はなかった。
相変わらず賑わっている港町に入り、先日立ち寄った焼き菓子屋さんの前で馬車が停まる。護衛達は、店内には入らず、店の周辺で警護を行うとのことで、到着するなり四方に散らばっていった。彼らの動きを見ていると、店頭のみならず、裏側にも向かったようなので、この店の回りは完全に包囲されてしまうらしい。この監視の目を掻い潜るには、確実に見た目を変える必要があった。
「まぁ、先日のお姫様ではございませんか!」
女官達と共にお店の中に入ると、女主人が私を見るなり声をあげた。
自分で訪問の理由を説明しようとしたが、同行している女官が、私が口を開くより先に女主人に話しかけた。
「こちらはルシア王子殿下がもてなされている姫君でいらっしゃいます。先日のお菓子に大変興味を持たれて、一度、厨房の様子を見学されたいとのご希望です」
女主人はびっくりしたように目を見開き、しげしげと私を眺めた。
姫君が厨房に興味があるってこと自体が異常なのは重々承知なので、実際に自分が料理などしていると思われないほうがいいだろう。
「あのお菓子が、とっても美味しかったので、是非、作るところも見てみたいと思ったのですが、ご迷惑でしょうか?」
ここで断られるわけにはいかないので、出来るだけ控え目に、丁重に申し出てみると、女主人が慌てたように手を振り、恐縮する。
「いえ、迷惑なんてとんでもございません。でも、厨房なんて、汚れますし、臭いもつくので、とても、お姫様をご案内するような場所とは言えないのですが」
「是非、お願いします!とても、興味があるんです!あんな美味しいお菓子が焼けるところ、一度見てみたいんです!」
この衣装を汚す必要がある私には、厨房ほど都合の良い場所はない。満面の笑顔でお願いしてみたところ、女主人が、はにかんだように顔を赤らめて、笑い出した。
「まぁ、そんなに私どものお菓子を気に入っていただけたんですね。恐れ多いことです」
ついに厨房に入ることを了承してくれた女主人が、私と女官3人に大きなエプロンを渡してくれた。カウンターの奥の扉を開けてもらい、厨房へと足を踏み入れる。そこには近代的な立派なオーブンが設置されていて、熱気がこもっていた。2人の女性スタッフが、大理石の台の上で生地を混ぜたり成形したりと働いていたが、私達を見てびっくりしたように手を止め、慌ててお辞儀をする。
「お仕事中、ごめんなさい。どうぞ、そのまま続けてくださいね」
一言謝って、彼女達の仕事の様子を眺める。電動泡立器がないこの世界では、メレンゲを作るのも手動で大変そうだが、流石に手慣れているのか、私より断然手際がいい。ドライフルーツを切り刻むスピードも、動画を高速で見ているような見事な包丁捌きで、心底感心する。小麦粉の焼ける香ばしい香りや、バターの溶ける甘い香りに包まれて、自然と頬が緩んでしまう。
こじんまりしているこのお店は、いくつもの種類のお菓子を販売するのではなく、季節ごとに決まったお菓子を焼いて提供しているとのことだった。国内では入手が難しい材料も、外国からの輸入品が手に入りやすい港町では問題もなさそうだ。
差し出される味見用のお菓子をつまみながら、つい、ここへ来た本来の目的を忘れそうになり我に返る。さっさと行動を起こさないと、そろそろ離宮へ戻ろうと言われかねない。
台の上に置かれている小麦粉の容器に目がついた。しかし、大きなエプロンをつけているので、小麦粉をひっくり返しただけじゃ着替えるほどの汚れにはならないだろう。やっぱりここは、液体。水場で水を汲んで引っかけるのはわざとらしすぎるし、牛乳の入っている大きなアルミ缶を抱えて溢すというのも、無理がある。そもそも、見学している身で、厨房内の設備や材料に手を出すわけにもいかない。
「セイラ様、そろそろお戻りになるお時間です」
隣にいた女官に声を掛けられ、焦って首を振った。
「もう少し、まって。もう少しだけ」
女官が渋々、かしこまりました、と答える。
もう、時間がない!
何か、衣装を汚せるものはないか。
再度、厨房の全体に目を走らせ、あるものに目が止まる。
厨房を出る扉に向かうところにある棚の上に、いくつかの籠が置かれていた。
果物や、胡桃の籠があり、その隣には、てんこ盛りになった、生卵の山。
生卵!
これだ!
これに、わざとぶつかろう。
心を決めると、作業中のスタッフを振り返った。
「それでは、失礼します。お仕事中に、お邪魔してごめんなさい。とても、興味深く面白かったです。ありがとう」
お礼を述べると、時間を気にしていた女官がホッとした様子で、私を厨房から出る扉の方へと誘導する。
あぁ、ドキドキする。
うまく、自然に出来るだろうか。
私はゆっくり歩きながら、エプロンの結び目を外すために背中に手をやる。頭からエプロンを外すタイミングを、卵の山の真横で行うべく、横目でしっかり目標物を確認した。
今だ!
わざと大きく肘を広げてエプロンを外すその瞬間、肘が勢いよく卵の山にぶつかる感触がした。
「あっ」
後ろに居た女官が声をあげた時、いくつかの卵が山からこぼれ落ち、その半分ほどが棚の上で割れ、残り数個が転がり落ちる。すかさず、棚から転がり落ちる卵を手で受け止めたら、ひびが入った卵は手のひらで割れ、ドロドロと流れ出す。当然、そのまま外しかけたエプロンの上に垂れていった。
「ごめんなさい!」
わざとこんなことをして、本当にごめんなさい!
「卵が……」
私の両手には殻が貼り付き、指の間から卵がだらだらと垂れている。エプロンも大きな染みが出来て、衣装まで濡れたのは間違いなさそうだった。
大慌ての女官達が、急いで私のエプロンを取り、手を拭った。だが、案の定、衣装には大きな染みがついて、卵臭くなっているし、私の手もべとべとだ。
騒ぎを聞きつけてやって来た女主人が私を見て、目を点にする。
「ごめんなさい。このままでは、外に出れないのですが、どうしましょう」
私は謝りながら、コリンに目をやった。彼女が私の視線を受けて頷き、すぐに女主人に交渉する。
「姫君の替えのご衣装を持ち合わせていませんので、衣類をお借りできませんか」
「えっ……でも、ここにあるのは、とてもお姫様にお着せできるようなものでは」
狼狽する女主人に、コリンが説得を試みる。
「でも、姫君にこのまま外に出ていただくわけにはいきません。やむを得ない状況ですので、何か、お着替えを準備してください」
流石にこの状態で私が外に出るのはまずいと理解したのか、女主人が頷いて、私達を裏手の部屋へと案内してくれた。スタッフの作業服のスペアがあったようで、それと一緒に、生卵でべとつく手を綺麗に出来るよう、香草が入った水桶を準備してくれた。
汚れた衣装を脱ぎ、手の汚れを洗い流しながら、今度はこの、コリン以外の2人の女官からどう逃れるかを考える。出来るだけのろのろと着替えさせてもらい、とにかく時間を稼ぐ。
まず、逃げ道を確認すべく、部屋の様子を観察した。
この部屋には、裏口へと続くらしい扉がある。
ここから出ればいい。
外に警備兵がいる可能性があるが、見た目は変わったから、きっと気づかれないだろう。
さぁ、なんとかして彼女達をこの部屋から出して、一人にならなければならない。
何か、彼女達にお願いすることはないだろうかと考え、良いことを思いつく。
「あのお菓子をいくつか持って帰ることは出来ますか?」
買い物するお金なんて持ってないから、彼女達に聞くしかない。
女官の一人が大きく頷いた。
「大丈夫ですよ。いくつくらいご希望ですか」
「確か、10種類くらいあったと思うので、それぞれ、一個ずつお願いできますか」
「かしこまりました」
一人の女官が部屋を出て行く。
私はもうひとりの女官に声をかけた。
「喉が渇いたので、お水かお茶をお願いしてもらっていいですか」
「かしこまりました」
一応姫君扱いの私のお願いに、即座に応えてくれる女官達。
部屋に残ったのはコリンだけだった。
緊張した面持ちのコリンが私を見ている。私は彼女の手を取り、にっこり微笑んだ。
「コリン、手助けありがとう。後は大丈夫。貴女は、さっきのお菓子、二個ずつに変更してって私が言ったということで、表の方に行ってくれる?出来るだけ、時間稼ぎしてもらえると助かります」
彼女は神妙に頷き、心配気に私を見た。
「セイラ様、本当に大丈夫ですか?」
私は大きく頷いて、背後の扉に目を向けた。壁に掛けられている無地のスカーフもあるし、頭を隠せばきっと衛兵にはバレないだろう。
「シモナ様に、お礼を伝えてね」
私がそう言うと、コリンはにっこり微笑んで頷いた。
「セイラ様、どうぞお気をつけて」
私が笑顔で頷くと、彼女は部屋を出て、そっと扉を閉めた。
私は即座に、壁に掛けられていたスカーフを取り、頭から被る。結い上げられた髪がしっかり隠れるように首の後ろできつく結ぶ。床に置いてあった空の籠を手に取り、持って来ていた黄色の絵本を入れ、急いで裏口へと続く扉に走った。

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