竪琴の乙女

ライヒェル

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九章

竪琴が繋げる心

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ユリアスが指摘した通り、カスピアンの苦しみのひとつは、すでに、セイラがルシアの手に落ちた可能性だった。時すでに遅しかと思う度に、心臓に釘を打たれるような苦悩に襲われる。
だが、例え手遅れであっても、セイラの心が自分にある限り、この先も共にありたいという想いは揺らがない。
もし、セイラの心まで奪われていたらと考えた時、カスピアンの頭の中には何も浮かばなかった。
セイラが自分を拒絶した場合、自分は、諦めて身を引くのだろうか。
いくら考えても、それを受け入れる自分の姿は想像出来ない。
想像の範囲を超えない事柄に気を取られ、重要なことをおざなりにしてはならない。
例え、どのような状況にあっても、この愛が消える事はないだろう。

セイラが去って、七回目の夜。
奇しくも、今日は婚儀が執り行われる予定の日だった。
もう何年も離ればなれになっているかの如く、長い時間が過ぎた気がした。
この竪琴を抱き、夢のような物語を奏でていたセイラを思い出す。
あの幸福なひとときを懐かしむように、竪琴を抱きかかえたカスピアンの指が、ピンと張る細い弦に触れた。思いのほか強く振動し、竪琴はひとつの音を弾き出す。セイラの奏でる美しく優しい音色とは違う、閑寂な響き。荒涼とした夜に響くその音は、カスピアンの抱える切なさを語るように、しめやかに溶けていった。
セイラは、今、何を考えているのだろうか。
人生最良の日になるはずだった今日。
本来であれば、今頃、晴れて夫婦となり、幸せの絶頂にいたはずだった。
あれほどに恋い焦がれた娘が、妻となり、この腕の中にいるはずだった。
長い間待ち望んだこの日が、このような悲劇になろうとは、一体誰が予測できたであろうか。
すべてが神の意思のもとに起きたならば、このような堪え難い試練を与えられた理由が、いずれわかる時が来るのだろうか。
やり直しなど出来ない過去など、振り返るつもりもない。
ここにあるただひとつの真実は、不変の愛のみ。
この想いのすべてをぶつけられない辛さは、肉体的拷問を遥かに超えた。
愛する者を永遠に失う恐怖を味わうくらいならば、いっその事、この命を奪われるほうを選ぶだろう。
なんとしても、もう一度、この腕に取り戻したい。
カスピアンはセイラの竪琴を抱きしめ、祈るように目を閉じる。
時折溢れる静かな響きが、あたりに響いていた。




漆黒の空に浮かぶ月を眺めつつ、私は酷く落ち込んでいた。
この数日は、ルシア王子にお願いして、離宮内の厨房を手伝わせてもらったり、厩舎の馬を見せてもらったりと、とにかく忙しく動き回り、なんとなく一日をやり過ごしていた。ルシア王子も当然仕事はあるらしく、半日ほどは臣下と共に姿を消していたが、夕食の時は必ず呼ばれ、離宮内の庭園の散歩にも連れて行かれた。断ろうにも立場上断れず、呼び出しには従う。だが、二人きりになるとどうしても、距離が近くなるのが気苦労の種だった。
面と向かって好意を示され、最初はただの美辞麗句と聞き流していた言葉も、幾度となく形を変えて聞かされているうちに、本当に口説かれているのだと思わざるをえなくなってくる。
とても紳士的で優しく、話題も多岐に渡り面白いので、つい気が緩んで笑ってしまったりして、後で自己嫌悪に陥る。こんなはずじゃないという罪悪感に苛まれ、これからの身の振り方が分からず焦りが募っていた矢先、恐れていた事態になってしまう。
自分の将来をどうするかという難題を、短期間で決めるなんて不可能。後で後悔しないよう、ちゃんと考えなければならない。もっと時間が必要だ。そう強く念じていたのに、期待は大きく外れた。
頼むから、可能な限り遅れてくれと、必死に願っていた生理が来てしまったのだ。
しかも、予定より数日早くという最悪なパターン。
ストレスのせいかもしれない。
当然、隠しようのないこの事実はジョセフィの知るところとなり、私はこれから数日、部屋に閉じ篭ることになった。この世界では、生理中の女性は悪魔に魅入られやすいと思われており、身分のある女性は基本、人との接触を最小限にして静かに過ごすことになっているからだ。
当たり前ながら、これはルシア王子の耳にも入り、妊娠なんてしてないことがバレたその結果、これから6日後には、エティグス王国の王都、ティミリへ出発するとの知らせが来た。ルシア王子と共に、王都へ移動してしまったら最後、もう、後に引けなくなる。
悠長に悩んでいる場合ではない。
皮肉にも、決断のタイムリミットが明らかになった今日は、婚儀をあげる日だった。この日を迎える為に、毎日、お妃教育に励み、神殿で行われる儀式に必要なラベロアの古代語も学んで、ほぼ、準備万端というところまで来ていたのに。
本当なら、今、この時間、無事に儀式を終えて、招待していた貴賓を持て成す夜宴の真っ只中だっただろう。
私はきっと、世界で一番幸せな花嫁になるんだと、信じて疑わなかったのに。
どうして、こんなことになったのだろう。
私は、彼の全てをあるがまま受け入れることが出来なかった。
受け入れる以前に、向き合うだけの勇気さえ持ち合わせていなかった。
見たくない、聞きたくないことから、ただ、逃げただけ。
神殿での儀式に使われるはずだった、誓いの言葉を思い出す。
丸暗記していたラベロアの古代語。
その言葉を呟きながら、その意味を噛み締めるにつれて、愕然とする。
無条件に愛すること。
節操、貞操を守ること。
一生を共にすること。
神々の前で、これらを誓わなくてはならなかった。
私は、このひとつも守れないような、軟弱な人間だったのだ!
無条件に愛せていないから、逃げ出した。
そしてまさに、いつ、貞操を破るか分からない状況を甘んじているこの状態。
こんな私が、神の前で、誓いの言葉を述べるなんて許されるはずがない。
今更気づいた事実に強いショックを受けた。
少なくとも、今、私が八方塞がりの状態にあるのは、自分の致命的な愚かさ、弱さが露呈した結果だ。
誰を責めるでもない。
私自身の問題だったのだ。
ショックのあまり、全身から力が抜けるような気がして、窓際を離れ、ベッドに横になる。
空っぽになった頭で、ぼんやりと辺りを見渡していて、ふと、ベッドのサイドテーブルに置いていた、黄色いカバーの絵本に目が留まる。
シルビア様の書庫で見つけて、いつか読もうと思って借りたまま、お妃教育の勉強が忙しく、結局まだ一度も読んだ事がなかった。カスピアンの落書きがあったことを思い出し、本を手に取ってみる。パラパラとページを捲ると、所々にライオンの顔の落書きがあった。
この絵本の題名は、「仔ライオンの探し物」。
文字が読めるくらいになった子供が読む絵本は、一頭の仔ライオンが、ぽつんと草原に座っている場面から始まっていた。物語は、短い文章と、挿絵で進められていく。


仔ライオンの探し物

群れから追い出された一頭の仔ライオン。
なかなか離れたがらなかった仔ライオンに、母ライオンがかけた言葉は、「大切なものを探しにいきなさい」。
その、大切なものを見つけたら、きっとまた、母のもとに戻る事を許されると思った仔ライオンは、仕方なく、ひとり、草原を歩き出す。
仔ライオンは、小さい頭で一生懸命考える。
どうしたら、その、「大切なもの」を見つけられるのだろうか。
初めて過ごす、ひとりぼっちの夜。
寂しくて、夜空に浮かぶ月を見上げた仔ライオン。
この世で一番高いところに登れば、きっとその「大切なもの」がどこにあるか見えるだろう、と思い立つ。
仔ライオンの長い旅が始まった。
大きな山の頂上を目指し、毎日、毎日、ひとりで歩く。
焼けるような日差しの中も、凍えるような寒さの中も。
冷たい雨に濡れ、ぬかるみにはまってもがく日もあった。
飢えて、身動きができないほど疲れた日もあった。
巨大な鷲に襲われそうになり、洞穴に身を隠して怯える日もあった。
途中で出会った妖精が、羽が生えるという魔法の花を見せてくれる。これを食べるだけでいいという。だが、引き換えに、その牙をくれと言う。羽が生えたら、一気に頂上まで飛べるのだと、その花を食べそうになる仔ライオンだったが、結局、その誘惑を断る。
山頂を目指す仔ライオンの旅は続く。
諦めて山を下りればいいと囁く悪魔も現れた。
今にも崩れ落ちそうな危険な崖も、なんとか登りきった。
ただ前へと進み続け、どれくらいの時間が経ったか忘れるくらい歩いた。
そしてついに、山頂に辿り着いた仔ライオン。
見渡すと、巨大な世界が一望出来た。
山脈にかかる雲と、その下に世界の果てまで広がる緑の草原。
美しい景色に感動しながら、ずっと自分が探していた「大切なもの」はどこにあるのかと考える。
結局、それがどこにあるのか、それが何だったのか分からず、がっかりする。
山を下りる前に喉の乾きを癒そうと、山頂にあった湖に近づいた。
汚れの無い美しく澄み切ったその湖を覗き込む。
キラキラする水面を見て、仔ライオンは驚いた。
そこには、立派なたてがみが生えた、雄々しい一頭のライオンがいた。
これまで見た事がないほど、強そうなライオン。
それが自分だと気づき、呆然とする。
その時、ようやくその「大切なもの」を見つけたことに気がついた。
何ものにも負けない強さ。
自分を信じる強さ。
選んだ道を迷わず突き進む強さ。
じっと水面に映る自分を見つめるライオンの鼻先に、虹色の蝶が舞い降りた。



そこで物語は終わりになっていた。
最後の挿絵のページを見た時、私はもう、溢れる涙を止める事が出来なかった。
そこには、日付と、カスピアンのサインがいくつも書き込まれていた。子供の頃から繰り返し読む度に、記録として、日付と名前を書いたらしい。たどたどしい文字から、立派な大人の文字まで。一番インクの発色がよい日付を見てみたら、およそ5年前。母シルビアが亡くなった後の日付であることは間違いなかった。
私は、自分の弱さを悔いて、ただ泣く事しか出来なかった。
胸が苦しい。
とてつもなく寂しい。
カスピアン。
いつものように、しっかりと抱きしめてほしい。
側にいてほしい。
届かない想いを繰り返し心の中で叫ぶ。
とめどなく溢れる涙に顔がぐちゃぐちゃになる。
感情の昂りに呼吸が乱れ、肩を震わせながら、絵本を胸に抱きしめた。
この中に、彼のすべてが凝縮されている気がした。
何があろうとも、彼はいつも真っすぐだった。
どうしてもっと早く気がつかなかったのだろう。
すべての問題を解く鍵は、この私自身の中にあったのだ。
ふと、何かが聴こえる気がして顔をあげ、まわりと見渡した。
どこからか聴こえてくる、静かに響く音。
辺りに目を走らせながら、やがて、その音が自分の頭の中で響いている事に気がつき、ハッとする。静かで、澄んだその音は、悲しみと慈しみを帯びていた。
これは、私の竪琴の音だ。
静寂の間に、時折、響くその音に、全身の鳥肌が立ち、ドキドキと心臓が激しく打ち始めた。
カスピアンだ。
私の部屋で、竪琴に触れている。
目を閉じれば、その様子が見えてくる。
手を伸ばせば届くほど、近くにいるような気がした。
冷えきっていた私の体が、まるで彼に抱きしめられているように、ふわりとした温かさで包み込まれる。疑いようもない、いつもと変わらぬ愛情を感じて、胸が熱くなる。
私はその時、自分の中でひとつの決意が生まれたことを確信した。
私は、何を犠牲にしても、彼と一緒に居たい。
どんな時も、逃げ出さず、真実と向き合う。
私が好きになったのは、生まれた世界も、育った環境も違う人。
愛というものは、あるがままを受け入れてこそ、本物なのだ。
きちんと向き合って、二人で未来を築いていく。
私はやっと、本当の意味で、この世界で生きて行く覚悟が出来た気がした。
「セイラ様」
遠慮がちなノックの音が聞こえ、慌ててベッドから下りた。もう、夜更けのこの時間に誰かが来るとは思っていなかったので、一体何事かと不安になりながら、扉のほうへ行く。
そっと開けてみると、あまり見かけない女官が一人いる。辺りをちらちら見て気にしている様子だったので、とりあえず中に招き入れた。
「こんな時間に申し訳有りません。灯りがついていたので、まだ起きていらっしゃるかと」
「大丈夫です。起きていたから……何か、急用でしたか」
女官は私の酷い顔を見て少し動揺した様子だったが、やがて、何か決心したように深呼吸した。
「私は、コリンと申します。普段は、ルシア王子のお妃様、シモナ様にお仕えしております」
「えっ」
驚いていると、コリンは、じっと私を見つめた。
「セイラ様、もし、私がお役に立てることがあれば、いつでもお申し付けください」
それはどういう意味だと思いながら、コリンを見る。
「決して口外は致しません。何かあれば、ご指示ください」
私は彼女を見ながら、その意味に気がついた。
王子のお妃、シモナの命令なのだろう。私が、ここを逃れるのに手助けが必要であれば、コリンを頼れということだ。自分のこと中心に全てを考えていたが、ルシア王子のお妃様達だって、私がいないほうがいいに決まっている。彼女達はルシア王子を愛しているのだろう。それなのに、もし、本当に王子が私を妃にして彼女達を離縁するなんてことになったら、どれほど悲しい結果となるか。これは、私一人の問題じゃなかった。
これ以上、苦しむ人を増やしてはならない。
そのためにも、私はここを出なければならない。
私は緊張で激しく動悸する胸を両手で押さえ、コリンを見つめた。
彼女の目は真剣で、決して偽りの色はない。
私は黙って、彼女の手を取り、ぎゅっと握りしめた。
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