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九章
沈黙の時
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緘口令の敷かれたラベロア王宮では、普段に増して王宮への出入りが厳しく制限され、いつになく暗く重い雰囲気が漂っていた。指定された地方への追放処分を受けたハントリー元侯爵一家は、牢から出されたサーシャと共に、人目をはばかるように王都を離れた。爵位を剥奪と言っても、身ぐるみ剥がされたわけではなく、監視下のもと、いわゆる隠居生活を送ることが出来るような穏便な措置となっている。ただし、金輪際、王宮と関わることは一切許されない。
ピエールの処分については現在も討議中となっていた。不法な取引に対する罪は、その内容の重さにはよるものの、贖罪金を納めさせ終結となることも少なくはない。しかし、ピエール自身の財産が殆どないだけではなく、サーシャを巻き込み次期王妃の暗殺未遂に絡んだ罪も問われている。目下のところ、処分を決めるカスピアンにピエールの案件に費やす時間など皆無ということもあり、勾留されているピエールの処分の如何は後回しになっているのが現実だった。
王宮では毎夜の如く、限られた面子が集まり、行方不明となっているセイラの奪還に関する策戦会議が開かれていた。
セイラが姿を消し、七日経った今晩、エティグスに忍ばせていた間者から二度目の報告が入り、策戦決行に向けての最終確認が行われる。数日前に、ルシアの居所がエヴァールであることは判明しており、今回、セイラの姿の有無についての報告が届いた。
王宮が鎮まった夜更け、人払いをした執務室に集まった関係者の前で、エイドリアンが静かに報告を読み上げる。
「この書面によると、セイラ様がエヴァールの水殿に捕われているのは確実です。エヴァールの街は、警備が緩そうに見えるのですが、一般市民に紛れた警備のものが街のいたるところに配置されているとのこと。ルシア王子を追っていた我が国の間者が、離宮内のセイラ様に接触を試みるのは困難と思われます」
エヴァールから放たれた伝書鳩が届けた報告は、セイラの目撃情報について細部まで書き込まれていた。引き続き読み上げられる内容に耳を傾ける一同。
報告書は、セイラの姿を確認した場所や様子のつぶさな記録の後、今後の見通しで締めくくられる。
「恐らく、これから一週間もしないうちに、エティグスの王都、ティミリへの移動が間違いないとのこと。市場での視察以降、ルシア王子もセイラ様も離宮からは出ておらず、出立の準備らしき動きが確認されたそうです」
エティグスの王都、ティミリは内陸部の方にあり、移動には丸二日以上はかかる程、沿岸部からは離れている。つまり、王都へ移動する前に、事を起こす必要があるのは言わずもがなの状況だ。
一同は、テーブルの上の近隣諸国が描かれた大きな地図を見下ろす。
カスピアンはこれまでに纏めた策戦に基づき、必要とされる時間や準備の詳細の最終確認を行い、該当任務を遂行する要員を選定した。
現在までのところ、エティグス側ではセイラの存在を公けにしていない。恐らく慎重に物事を進めようという魂胆なのだろう。
諸外国では、ラベロア国王の婚儀が延期となったのは、次期王妃の怪我によるものと伝わっており、セイラが不在であることは知られていない。
ラベロアとエティグスは国交を断っているため、カスピアンは今回、両国と国交のある国のうち、シーラ公国とアンカール国の支援を要請した。前回のように、開戦になる事態を避けるため、策戦はあくまで水面下で進め、決行される手筈となっている。
しかし、この策戦が期待通りに進むかどうかは、セイラ本人がどのように動くかというところが大きい。
言ってみれば、これは、賭けに近いものであった。
直接セイラに連絡を取る手段がない故に、現在も誤解は解けていない。策戦の最中で事実を伝えたとしても、果たしてセイラがそれを信じるかどうかも、推し量ることは出来ない。
歪曲した事実が誤解を与えただけでなく、カスピアンの残酷な姿を目にし恐怖に曝されたセイラが、果たして、ラベロア王国へ戻る勇気を持てるのか。それも、当の本人にしかわからないというのが現実。
ルシアがエヴァールに居ることを知った後、そこにセイラが連れて行かれると踏んで、カスピアンは今回の策戦を作り上げた。セイラは、自分を巡る戦いが起きることは望まない。カスピアンは、その気持ちを裏切らないためにも、武力行使を避ける方法に拘った。
だが、この策戦は、セイラ本人の機転や行動力なしでは、成功しないという難点がある。セイラが、カスピアンのもとへ戻るという意思があれば、その賢さと判断力をもって、必ず良い結果をもたらすだろう。
ラベロアへ、この自分のもとへ戻ることを選んでほしい。
カスピアンはこの策戦に、その強い想いを託していた。
ユリアスが纏めた指示書を受け取ったエイドリアン、アデロスは、各々の任務を遂行する準備に取りかかるべく、早々に退室した。その他、数名の腹心の臣下も、それぞれの任務を受け、順番に退室していく。
やがて、執務室に残ったのは、カスピアンとユリアスの二人となる。
窓の外で、フクロウが鳴く声が響く、静かな夜。
「おまえ、寝ていないのか」
ユリアスに聞かれ、カスピアンは黙って首を振る。
実際のところ、眠っているのか起きているのかわからないような夜を過ごしていたカスピアンは、明らかに顔色が悪く面変わりしていた。鋭い三白眼が更に険しさを増していることからして、いくらかやつれたのは間違いなかった。
ユリアスは、目にかかる濃いブロンドの巻き毛を鬱陶しそうに掻き上げ、皮肉っぽく笑う。
「夢見が悪いのは私も同じだが、おまえのその目つきは酷いぞ。まるで死人のようだ」
ユリアスの嫌味にも応える気になれないのか、カスピアンはただ、じろりとユリアスに目をやるだけだ。ユリアスはしばらくカスピアンの顔を眺めていたが、やがて、浮かべていた笑みを消す。真顔になったユリアスに気づいたカスピアンが目を逸らした。
「カスピアン。おまえが恐れていることくらいわかる」
ユリアスは独り言のように静かにそう呟くと、自分から顔を背けているカスピアンの横顔を眺めた。
「セイラの奪還を取りやめるなら、今しかないぞ」
その言葉に、カスピアンの顔が苦痛に歪む。
ユリアスは、怒りと苦痛に苛まれているカスピアンを見つめ、ひとつ、深いため息を零した。
「天下の色男、ルシアのことだ。すでに、セイラは……」
「やめろ」
カスピアンはユリアスの言葉を遮り、苦悩の色を浮かべた目でじっとユリアスを見据える。ユリアスが向ける視線は、カスピアンの覚悟を試すかのように挑発的だった。
「私を見くびるな。何が起ころうと、一度決めた事を翻すつもりはない」
「……そうか。迷いはないか。なら、いい」
ユリアスは僅かに微笑みを浮かべ、頷いた。そして、会議用の椅子から立ち上がる。ユリアスは、窓際に置かれた執務席に腰掛けると、書類の溜まった机の上に両足を投げ出した。
「おまえも、準備を始めろ。留守は預かってやる。さっさと行け」
カスピアンは険しい表情のまま立ち上がり、何枚かの書類を手に取ったユリアスに、頼む、と呟くと、執務室を後にした。
国王の間へ戻る前に、カスピアンはその主が不在であるセイラの部屋に立ち寄った。
暖炉の火がない部屋は寒々と冷えきっている。静かで無機質な空間に、カスピアンが歩く衣擦れの音が微かに響く。真新しい薪がおかれたままの暖炉の上には、いつもと変わらず、セイラの竪琴がある。
カスピアンは美しく輝いている竪琴を手に取ると、カウチに腰掛けた。
滑らかなクリーム色の木目に触れると、心を落ち着かせるような温かさを感じる。それは、深い闇を抱えたカスピアンを慰め、見失いそうな希望の光の方角を示してくれた。
エヴァールの市場を視察するルシアが、セイラを伴っていたとの報告を聞いた時、カスピアンは心がずたずたに引き裂かれるような衝撃を受けていた。しかも、二人は連れ立って街を歩き、遠目からは仲睦まじい間柄に見えたという。エイドリアンが報告を読み上げる中、表面上はかろうじて冷静を保っていたが、カスピアンはそこに座り続けることさえ耐えられないほどの苦痛に襲われていた。
初めてセイラに出会った時は既に、国王代理としての責務に追われる身だった。
3年後にセイラが戻って来た今は、国王として多忙を極めており、思ったように二人で過ごす時間など取る事は出来ていない。その上、セイラ自身も3ヶ月分のお妃教育を1ヶ月でこなすため、朝から晩まで忙しく、会える時間と言えば、眠りに落ちる前のひとときだけという、到底満足のいくものではなかった。
婚儀の後には、離宮でしばしの休暇を取れるようにと、今のうちにこなせる責務を更に詰め込んでいたこともあり、文字通り、目の回る忙しさだった。
それに比べ、ルシアはまだ自由の利く身分だ。ルシアの父は現在も国王として健在。そのエティグス王が年明けに退位するまでは、ルシアは目下、国内の視察を主にこなすくらいの、かなり余裕のある日々を満喫しているはず。セイラを喜ばせることだけに、時間と労力を割く事が可能なルシア。セイラの心をたぐり寄せようと、あの手この手と策略を巡らしている事だろう。今この時、セイラの心がどのように動いているのかなど、カスピアンには見える筈もなかった。
自分がセイラを裏切ったと誤解させてしまっただけではない。目の前で、身の毛もよだつような残虐行為に及びかねない自分の姿を晒し、強い恐怖を与えてしまった。身近に戦いなどないという平和な世界から来たセイラの目には、自分はきっと悪魔のように醜く映った事だろう。せめてもの救いは、セイラが阻止したことにより、その場で事に及ばずに済んだ事だ。
あの時、正気を保つことなど出来ないほどの怒りが、自分を支配していた。
妹の如く思っていたサーシャの策略の数々。
竪琴が破壊されていたら、セイラはこの世から消えていただろう。
その上、セイラに肉体的な危害を与えた。
セイラの腕に広がる真っ赤な鮮血を目にした時のショックは、今も鮮明に蘇る。
致命的ではなかったとはいえ、場合によっては重傷もありえた。
それだけでも怒り頂点に達したというのに、こともあろうに、毒を塗布した吹き矢での暗殺まで企らんでいたのだ。
家族同然に思っていたサーシャに裏切られたという衝撃と怒りは、カスピアンの持ちうる理性を完全に破壊するほどのものだった。
何故、このようなことが起きる前に、未然に阻止出来なかったのか。
もとはと言えば、愚かな自分が発端であったのが悔やみきれない。
自分がもっと気を配っていれば、サーシャの愚行を未然に防ぐことも可能だっただろう。
サーシャはきっと、兄を慕うような感情を、恋心と勘違いしているのだと思い、時が経てば自然に目が覚めるだろうと、楽観していた。以前、約束めいたことを口にしてしまったことも、繰り返し釈明し、確実に理解させたと思っていた。我が儘で気が強くとも、賢いサーシャなら、いずれ全てを受け入れるはずと疑いもしなかった。
まさかセイラの暗殺まで企むほどに、その心を病んでいたとは。
セイラに出会ってから、カスピアンの目は他の誰にも向いておらず、サーシャの深刻な変化など気づくはずもなかった。
家族のように見えていた人間に、愛する者の命を奪われかけた事実は、あまりにも残酷だった。
セイラの心も、体も傷つけ、卑怯なやり方で自分たちを引き裂こうとしたのだ。
信頼を裏切られた失望は、強い憎悪と変わる。サーシャの企みが引き金となり、セイラが自分に失望し姿を消すという、最悪の結果を招いたのだ。
セイラの命まで狙った者が、まだ生かされているという事実はカスピアンを苦しめた。
激しい後悔に苛まれるも、それは既にやり直しの出来ぬ過去だった。
この世の何よりも大切に思うものを失う恐怖。体を突き抜ける戦慄に震えが走った。
数えきれないほどの兵士が息絶える壮絶な戦いも経験したこの自分が、たった一人の命のことで、ここまで憤激し、我を見失うとは。己の弱さを思い知らされ、国王としての自信も揺らぐほどに動揺した。
誇り高き一国の王であれば、己の下を去った女を追うなど、あるまじき行為だろう。国を司る王が、一人の女を取り戻す為に日夜を費やすなど、端から見たら後ろ指を指されるようなことだ。
しかし、例え国中が異議を唱えても、カスピアンの決意が変わる事はない。国王という呼び名の前に、一人の人間なのだ。国の為に人生を捧げる覚悟であるからこそ、支えとなる魂の片割れが必要だった。
ピエールの処分については現在も討議中となっていた。不法な取引に対する罪は、その内容の重さにはよるものの、贖罪金を納めさせ終結となることも少なくはない。しかし、ピエール自身の財産が殆どないだけではなく、サーシャを巻き込み次期王妃の暗殺未遂に絡んだ罪も問われている。目下のところ、処分を決めるカスピアンにピエールの案件に費やす時間など皆無ということもあり、勾留されているピエールの処分の如何は後回しになっているのが現実だった。
王宮では毎夜の如く、限られた面子が集まり、行方不明となっているセイラの奪還に関する策戦会議が開かれていた。
セイラが姿を消し、七日経った今晩、エティグスに忍ばせていた間者から二度目の報告が入り、策戦決行に向けての最終確認が行われる。数日前に、ルシアの居所がエヴァールであることは判明しており、今回、セイラの姿の有無についての報告が届いた。
王宮が鎮まった夜更け、人払いをした執務室に集まった関係者の前で、エイドリアンが静かに報告を読み上げる。
「この書面によると、セイラ様がエヴァールの水殿に捕われているのは確実です。エヴァールの街は、警備が緩そうに見えるのですが、一般市民に紛れた警備のものが街のいたるところに配置されているとのこと。ルシア王子を追っていた我が国の間者が、離宮内のセイラ様に接触を試みるのは困難と思われます」
エヴァールから放たれた伝書鳩が届けた報告は、セイラの目撃情報について細部まで書き込まれていた。引き続き読み上げられる内容に耳を傾ける一同。
報告書は、セイラの姿を確認した場所や様子のつぶさな記録の後、今後の見通しで締めくくられる。
「恐らく、これから一週間もしないうちに、エティグスの王都、ティミリへの移動が間違いないとのこと。市場での視察以降、ルシア王子もセイラ様も離宮からは出ておらず、出立の準備らしき動きが確認されたそうです」
エティグスの王都、ティミリは内陸部の方にあり、移動には丸二日以上はかかる程、沿岸部からは離れている。つまり、王都へ移動する前に、事を起こす必要があるのは言わずもがなの状況だ。
一同は、テーブルの上の近隣諸国が描かれた大きな地図を見下ろす。
カスピアンはこれまでに纏めた策戦に基づき、必要とされる時間や準備の詳細の最終確認を行い、該当任務を遂行する要員を選定した。
現在までのところ、エティグス側ではセイラの存在を公けにしていない。恐らく慎重に物事を進めようという魂胆なのだろう。
諸外国では、ラベロア国王の婚儀が延期となったのは、次期王妃の怪我によるものと伝わっており、セイラが不在であることは知られていない。
ラベロアとエティグスは国交を断っているため、カスピアンは今回、両国と国交のある国のうち、シーラ公国とアンカール国の支援を要請した。前回のように、開戦になる事態を避けるため、策戦はあくまで水面下で進め、決行される手筈となっている。
しかし、この策戦が期待通りに進むかどうかは、セイラ本人がどのように動くかというところが大きい。
言ってみれば、これは、賭けに近いものであった。
直接セイラに連絡を取る手段がない故に、現在も誤解は解けていない。策戦の最中で事実を伝えたとしても、果たしてセイラがそれを信じるかどうかも、推し量ることは出来ない。
歪曲した事実が誤解を与えただけでなく、カスピアンの残酷な姿を目にし恐怖に曝されたセイラが、果たして、ラベロア王国へ戻る勇気を持てるのか。それも、当の本人にしかわからないというのが現実。
ルシアがエヴァールに居ることを知った後、そこにセイラが連れて行かれると踏んで、カスピアンは今回の策戦を作り上げた。セイラは、自分を巡る戦いが起きることは望まない。カスピアンは、その気持ちを裏切らないためにも、武力行使を避ける方法に拘った。
だが、この策戦は、セイラ本人の機転や行動力なしでは、成功しないという難点がある。セイラが、カスピアンのもとへ戻るという意思があれば、その賢さと判断力をもって、必ず良い結果をもたらすだろう。
ラベロアへ、この自分のもとへ戻ることを選んでほしい。
カスピアンはこの策戦に、その強い想いを託していた。
ユリアスが纏めた指示書を受け取ったエイドリアン、アデロスは、各々の任務を遂行する準備に取りかかるべく、早々に退室した。その他、数名の腹心の臣下も、それぞれの任務を受け、順番に退室していく。
やがて、執務室に残ったのは、カスピアンとユリアスの二人となる。
窓の外で、フクロウが鳴く声が響く、静かな夜。
「おまえ、寝ていないのか」
ユリアスに聞かれ、カスピアンは黙って首を振る。
実際のところ、眠っているのか起きているのかわからないような夜を過ごしていたカスピアンは、明らかに顔色が悪く面変わりしていた。鋭い三白眼が更に険しさを増していることからして、いくらかやつれたのは間違いなかった。
ユリアスは、目にかかる濃いブロンドの巻き毛を鬱陶しそうに掻き上げ、皮肉っぽく笑う。
「夢見が悪いのは私も同じだが、おまえのその目つきは酷いぞ。まるで死人のようだ」
ユリアスの嫌味にも応える気になれないのか、カスピアンはただ、じろりとユリアスに目をやるだけだ。ユリアスはしばらくカスピアンの顔を眺めていたが、やがて、浮かべていた笑みを消す。真顔になったユリアスに気づいたカスピアンが目を逸らした。
「カスピアン。おまえが恐れていることくらいわかる」
ユリアスは独り言のように静かにそう呟くと、自分から顔を背けているカスピアンの横顔を眺めた。
「セイラの奪還を取りやめるなら、今しかないぞ」
その言葉に、カスピアンの顔が苦痛に歪む。
ユリアスは、怒りと苦痛に苛まれているカスピアンを見つめ、ひとつ、深いため息を零した。
「天下の色男、ルシアのことだ。すでに、セイラは……」
「やめろ」
カスピアンはユリアスの言葉を遮り、苦悩の色を浮かべた目でじっとユリアスを見据える。ユリアスが向ける視線は、カスピアンの覚悟を試すかのように挑発的だった。
「私を見くびるな。何が起ころうと、一度決めた事を翻すつもりはない」
「……そうか。迷いはないか。なら、いい」
ユリアスは僅かに微笑みを浮かべ、頷いた。そして、会議用の椅子から立ち上がる。ユリアスは、窓際に置かれた執務席に腰掛けると、書類の溜まった机の上に両足を投げ出した。
「おまえも、準備を始めろ。留守は預かってやる。さっさと行け」
カスピアンは険しい表情のまま立ち上がり、何枚かの書類を手に取ったユリアスに、頼む、と呟くと、執務室を後にした。
国王の間へ戻る前に、カスピアンはその主が不在であるセイラの部屋に立ち寄った。
暖炉の火がない部屋は寒々と冷えきっている。静かで無機質な空間に、カスピアンが歩く衣擦れの音が微かに響く。真新しい薪がおかれたままの暖炉の上には、いつもと変わらず、セイラの竪琴がある。
カスピアンは美しく輝いている竪琴を手に取ると、カウチに腰掛けた。
滑らかなクリーム色の木目に触れると、心を落ち着かせるような温かさを感じる。それは、深い闇を抱えたカスピアンを慰め、見失いそうな希望の光の方角を示してくれた。
エヴァールの市場を視察するルシアが、セイラを伴っていたとの報告を聞いた時、カスピアンは心がずたずたに引き裂かれるような衝撃を受けていた。しかも、二人は連れ立って街を歩き、遠目からは仲睦まじい間柄に見えたという。エイドリアンが報告を読み上げる中、表面上はかろうじて冷静を保っていたが、カスピアンはそこに座り続けることさえ耐えられないほどの苦痛に襲われていた。
初めてセイラに出会った時は既に、国王代理としての責務に追われる身だった。
3年後にセイラが戻って来た今は、国王として多忙を極めており、思ったように二人で過ごす時間など取る事は出来ていない。その上、セイラ自身も3ヶ月分のお妃教育を1ヶ月でこなすため、朝から晩まで忙しく、会える時間と言えば、眠りに落ちる前のひとときだけという、到底満足のいくものではなかった。
婚儀の後には、離宮でしばしの休暇を取れるようにと、今のうちにこなせる責務を更に詰め込んでいたこともあり、文字通り、目の回る忙しさだった。
それに比べ、ルシアはまだ自由の利く身分だ。ルシアの父は現在も国王として健在。そのエティグス王が年明けに退位するまでは、ルシアは目下、国内の視察を主にこなすくらいの、かなり余裕のある日々を満喫しているはず。セイラを喜ばせることだけに、時間と労力を割く事が可能なルシア。セイラの心をたぐり寄せようと、あの手この手と策略を巡らしている事だろう。今この時、セイラの心がどのように動いているのかなど、カスピアンには見える筈もなかった。
自分がセイラを裏切ったと誤解させてしまっただけではない。目の前で、身の毛もよだつような残虐行為に及びかねない自分の姿を晒し、強い恐怖を与えてしまった。身近に戦いなどないという平和な世界から来たセイラの目には、自分はきっと悪魔のように醜く映った事だろう。せめてもの救いは、セイラが阻止したことにより、その場で事に及ばずに済んだ事だ。
あの時、正気を保つことなど出来ないほどの怒りが、自分を支配していた。
妹の如く思っていたサーシャの策略の数々。
竪琴が破壊されていたら、セイラはこの世から消えていただろう。
その上、セイラに肉体的な危害を与えた。
セイラの腕に広がる真っ赤な鮮血を目にした時のショックは、今も鮮明に蘇る。
致命的ではなかったとはいえ、場合によっては重傷もありえた。
それだけでも怒り頂点に達したというのに、こともあろうに、毒を塗布した吹き矢での暗殺まで企らんでいたのだ。
家族同然に思っていたサーシャに裏切られたという衝撃と怒りは、カスピアンの持ちうる理性を完全に破壊するほどのものだった。
何故、このようなことが起きる前に、未然に阻止出来なかったのか。
もとはと言えば、愚かな自分が発端であったのが悔やみきれない。
自分がもっと気を配っていれば、サーシャの愚行を未然に防ぐことも可能だっただろう。
サーシャはきっと、兄を慕うような感情を、恋心と勘違いしているのだと思い、時が経てば自然に目が覚めるだろうと、楽観していた。以前、約束めいたことを口にしてしまったことも、繰り返し釈明し、確実に理解させたと思っていた。我が儘で気が強くとも、賢いサーシャなら、いずれ全てを受け入れるはずと疑いもしなかった。
まさかセイラの暗殺まで企むほどに、その心を病んでいたとは。
セイラに出会ってから、カスピアンの目は他の誰にも向いておらず、サーシャの深刻な変化など気づくはずもなかった。
家族のように見えていた人間に、愛する者の命を奪われかけた事実は、あまりにも残酷だった。
セイラの心も、体も傷つけ、卑怯なやり方で自分たちを引き裂こうとしたのだ。
信頼を裏切られた失望は、強い憎悪と変わる。サーシャの企みが引き金となり、セイラが自分に失望し姿を消すという、最悪の結果を招いたのだ。
セイラの命まで狙った者が、まだ生かされているという事実はカスピアンを苦しめた。
激しい後悔に苛まれるも、それは既にやり直しの出来ぬ過去だった。
この世の何よりも大切に思うものを失う恐怖。体を突き抜ける戦慄に震えが走った。
数えきれないほどの兵士が息絶える壮絶な戦いも経験したこの自分が、たった一人の命のことで、ここまで憤激し、我を見失うとは。己の弱さを思い知らされ、国王としての自信も揺らぐほどに動揺した。
誇り高き一国の王であれば、己の下を去った女を追うなど、あるまじき行為だろう。国を司る王が、一人の女を取り戻す為に日夜を費やすなど、端から見たら後ろ指を指されるようなことだ。
しかし、例え国中が異議を唱えても、カスピアンの決意が変わる事はない。国王という呼び名の前に、一人の人間なのだ。国の為に人生を捧げる覚悟であるからこそ、支えとなる魂の片割れが必要だった。
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