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七章
絡み合う嫉妬と陰謀
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「な、なにを言っているの?」
パニックのあまり、声が震える。つま先から悪寒が走り、膝がガクガクする。
彼女のいわんとすることが分からないほど、鈍くはない。
つまり、カスピアンとサーシャが、ずっと深い関係にあったと言っているのだ。
二人が?
信じられない!
しかも、私が戻った後もずっとだなんて、絶対に信じられない!
彼は、サーシャは妹のような存在だと言っていた!
彼が、私に嘘つく筈はない!
断固として、反論する。
「そんなこと、信じない!」
サーシャはふんっと鼻で笑い飛ばし、薄い笑みを浮かべると、まるで秘密の話をするかのように小声で囁く。
「あら、信じられないの?だったら、もうひとつ、教えてあげる。彼は、昨晩も私を王宮に呼びつけたわ。国王の命に逆らうことなんて出来るはずもないから……そう言えば、今朝、帰り際に貴女を見かけたわよね」
驚きに目を見開く私を見下ろし、勝ち誇ったように微笑むサーシャ。
彼女は、胸元の大きなリボンを掴み、ドレスの襟ぐりを少し引き下ろした。豊満な胸の谷間の周辺に、いくつか赤らんでいるところがあるのを見て、私は絶句した。
「案の定、随分遅くまで眠らせてもらえなかったから、すっかり寝不足よ」
サーシャはくすりと笑い、口元を手で覆いながら小さな欠伸をしてみせる。
心臓が激しく鼓動し、思考が錯乱していく。
つまり、今朝、奥宮でサーシャを見かけたのは、彼女がカスピアンのところで夜を過ごしたからというの?
では、昨晩、カスピアンが急ぎの用があると言っていたのは、サーシャと会うため?
そう言えば、彼は、国王の間に私を呼び入れることはなかった。中に入った事もなければ、扉を叩いた事もない。どうしてなのか、深く考えた事はなかったけれど……
それはもしかして、サーシャが出入りしていたことを、隠すため?
そんなはずはない!
彼は、そんな卑怯なことをするような人じゃない!
心は全身全霊で否定しているにも関わらず、一気に涙が溢れ出す。
彼が嘘をつくはずはないと強く思っているけれど、こうやって辻褄の合う証拠を出されると、彼への信頼がわずかに揺らぎ出すのを止められなかった。
彼の愛を信じていたからこそ、ショックのあまり頭の中が真っ白になる。
混乱する頭のどこかで、冷めた自分が居た。
彼はもう、23歳になる大人だ。私が彼と過ごした時間なんて、合計でも2、3ヶ月ほどしか無い。彼を側でずっと支えて来たのはサーシャだ。自分を深く愛してくれる美しい女性が近くに居たら、普通の男であれば、心揺らがないはずはないだろう。
私のもとの世界だって、その年齢だったらもうすでに、数人と付き合ってそれなりに経験を積んでいる人も多いだろう。奥手過ぎて、まだ誰とも深い関係を持った事がないという、この私こそが、言ってみればかなり特殊な部類なのだ。
だから、カスピアンが彼女と深い関係にあったからといって、大した事じゃない。
理路整然と一般論を自分に言い聞かせようとしたが、全く効き目はなく、心はその全てを激しく拒否する。
これが、過去のことならまだ、なんとか消化できたかもしれない。
しかし、サーシャの話が真実なら、現在進行中ということなのだ。
だとすれば、これは、間違いなく裏切り。
サーシャに対しても、私に対しても。
でも、私はそれでも、彼を愛している。
胸が焼けるように痛いのに、まだ彼を信じたいと思ってる。
もし、彼がサーシャの話を事実と認めたら。私の彼への愛は、きっと悲しみで完全に崩壊してしまうだろう。
どうしたらいいの?
激しい混乱と動揺、衝撃で言葉は出ない。
ただ、涙だけがぼろぼろと溢れ落ちる。
サーシャは一歩私に近づくと、冷えきった目で私を睨む。彼女は押し殺した静かな声で言った。
「あの人は、貴女がエランティカの乙女の化身だと思って、手に入れたがってるの。貴女を妃にしたい理由は、それだけなの。山奥で育ったただの異国娘のくせに、次期王妃気取りで、身の程知らずもいいことよ。これで真実がわかったかしら。いい加減、私の彼を返して。早く、この王宮から出て行ってよ」
そして、憎しみの籠った目で私を一瞥し、竪琴を振り上げたかと思うと、あらぬ方向へ投げた。
「竪琴なんかで彼を繋ぎ止めようだなんて、許さないわ!」
サーシャが叫ぶ声が響く。
まるでスローモーションのように見えたその瞬間。
私は思わず、駆け出して竪琴に飛びついた。
絶対に壊してはならない!
私とラベロア王国を繋げる、大切な竪琴。
私の命ともいえる、魔法の竪琴。
長いドレスを踏みつけ転びかける直前、ぎりぎりのところで竪琴に手が届き、素早く抱きよせた。
「セイラ様っ!」
サリーの叫び声と同時に、私は固い大理石の床に片手を付く体勢で倒れ込んだ。即座に腕の中の竪琴の無事を確認する。
「あぁ……」
これが落ちていたら、と血の気が引く思いで思わず息を付いた瞬間、ガッシャーンという激しい音がした。はっと顔をあげると、テーブルが倒れてその上のものが自分の頭上に落ちてくるのが見え、咄嗟に竪琴を胸に抱いて床に屈み込んだ。
陶器やガラスがぶつかり合い割れる音が響き、金属製の皿やポット、熱湯やカトラリーなどが次々と雪崩のように落ちて来る。背中や後頭部に、連続して鈍い痛みと衝撃が走った。
「……あ、いたっ……!」
腕や肩に猛烈な痛みを感じて、思わず声が漏れた。
「セイラ様っ!」
遠巻きに見守っていたサリーが駆けつけ、私が差し出した竪琴を受け取る。同じく走り寄って来たエリサとアリアンナが蒼白になって私の周りに膝をつき、あたりに散らばるカップや皿をどけようと手を動かす。
「何事です!」
アデロスの叫ぶ声と共に、複数の兵士が駆け込む足音が聞こえた。
「誰一人もこの場から出すな!直ちに陛下に報告を!」
アデロスは厳しく指示を出した後、すぐに私のところへ駆けつけた。
「セイラ様!」
動けずにうずくまっている私の様子を見ると、顔色を変え、すぐに私の身を起こして座らせた。
腕と肩が焼けるように痛い。
「セイラ様、少し痛みます。我慢してください」
アデロスが申し訳なさそうにそう呟くと、私のドレスの右肩の部分を裂き、エリサに冷水をかけ続けるように指示した。私の左腕の袖も裂いて剥ぎ取ると、何か酷く沁みるものをかけた後、引き裂いたテーブルクロスをきつく巻き付ける。
「……っ」
染みる痛みがなんなのかと自分の左腕に目を落とし、そこが赤く染まっているのを見て驚く。
その合間も、エリサが私の右肩に冷水をかけ続け、もうずぶ濡れ状態だ。
水浸しの私の周りは、壊れたカップやお皿、ポットやお菓子が無惨に散らばっている。
じんじんと痛かった左腕の痛みが少し引いて来て、はぁ、とため息をついた。
「セイラ様、他に痛むところはございませんか」
アデロスが青ざめた顔で私に尋ねる。
「ううん……大丈夫、ありがとう、アデロス」
手際よく緊急手当を施してくれるのは、さすがに軍人ならではだろう。
とても立ち上がる気力もないので、支えてくれているアデロスに寄りかかったまま、顔をあげて周りを見渡した。
広場を囲むように兵士がずらりと立って、さっきまで笑い声をあげていた姫君や侍女達が真っ青になって立ち尽くしている。
「まぁっ!なんですか、これは……!セイラ様!?」
テオドールを腕に抱いたロリアン妃が、たった今到着したのか、蒼白になり叫んだ。驚いたテオドールが激しく泣き出す。
複数の馬が駆ける音が聞こえて、皆がハッとしたように顔を見合わせる。
「陛下のご到着だ!その場を動くな!」
エイドリアンの叫び声が聞こえた。
ああ……
頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
サーシャが告白した、衝撃の事実とどう向き合うかも考える間もなく、こんな大惨事になってしまった。
ショックのあまり、涙も出ず、ただ呆然とする。
「何事だ!」
轟く怒声に皆がビクッとして息を飲む。
真っ青になり激怒しているカスピアンが外出着のまま広場に現れた。
割れて飛び散った皿やカップのど真ん中で、アデロスに支えられ身を起こしている私に気がつくと、カスピアンはまっすぐにこちらにやって来た。
「右肩に軽症の火傷、左腕に裂傷、止血済みです。申し訳ございません」
アデロスの報告に、カスピアンがきつく唇を噛み締めた。
「何があった!サリー!」
カスピアンの怒号に、サリーとアリアンナ、エリサが跪く。
「竪琴をご覧になりたいとおっしゃるのをお断りしましたが、どうしてもということでしたので、セイラ様がお見せすることを許可されました。その後、皆様が竪琴を次々と回されて、セイラ様が、かえしていただくようお願いしたところ、竪琴をあらぬ方向へ投げられた方がいらっしゃったため……」
サリーがそこで黙ると、カスピアンが呟いた。
「セイラが、竪琴を守ろうとして倒れたということか」
「はい。おっしゃる通りです」
サリーが答えた後、エリサが我慢ならないというように涙ながらに声をあげた。
「どなたかが、意図的にテーブルを倒されたんです!」
「セイラ様が床に倒れられた時、テーブルにはぶつかっていらっしゃいませんでした」
アリアンナが震える声でそう言うと、カスピアンが3人から目を離し、立ち尽くしている姫君達に目を向けた。
「おまえたち。誰が企てたか答えろ!知らぬとは言わせんぞ!」
殺気立つ低い怒声に、姫君や侍女達が震え上がる。数人、ショックのせいか気絶するようにバタバタと床に倒れ込んだ。
かろうじて立っている姫君達は青くなったまま身動きもせず、口も開かない。
「答えぬか。よかろう」
カスピアンは苛立つようにそう吐き捨てると、腰から剣を抜き取った。
「ひっ……」
一人ずつ、ゆっくりと剣先をその顔に向けて回り始めたカスピアン。
「私に偽りを申すは、死罪。今この場で始末するぞ!」
轟く怒声にまた、一人が失神してバタリと崩れ落ちた。
「も、申し訳、ございませんっ!お許しください!」
ジェシーがわっと泣き出した。
エイドリアンが興奮状態のジェシーの両肩を掴み、カスピアンの前に押し出す。
仁王立ちで剣を突きつけるカスピアンの前で、ジェシーが激しいしゃくりを上げた。
「私、言われる通りにしないと、後で痛い目に合わせると言われてっ」
しゃっくりを挟みながら、ジェシーが泣き叫ぶ。
「私は、嫌だったのに!セイラ様の竪琴を取り上げて、壊してしまえって……!」
「誰がその指示をした!」
エイドリアンが詰問すると、ジェシーがビクッとして黙る。
カスピアンの剣先がジェシーの顔面の鼻先に突きつけられると、ジェシーはガタガタ震えながら必死で身を引こうとした。しかし、エイドリアンが両肩を押さえつけているため身動きが出来ない。やがて、ジェシーは紫色の唇を震わせながら一度息を飲み込み、恐る恐る後ろの姫君達のほうへ目を向けた。
ジェシーの視線が止まったのは、アンジェ王女とサーシャの二人の方向だった。
カスピアンは突然、近くにあった座椅子を片足で踏みつけまっぷたつに叩き割った。ものすごい音がして、後ろに控えている侍女達が悲鳴を上げた。
「竪琴の破壊を企み……故意にテーブルを倒したのはおまえ達か……」
低く押し殺した声でそう呟いたカスピアンが、アンジェ王女とサーシャの目の前まで来ると二人を見下ろした。
二人はお互いを庇うように寄り添い、仁王立ちのカスピアンを見上げている。
「テーブルを倒したのは誰か答えろ!」
アンジェ王女が真っ青になり、激しく首を左右に振る。
二人を交互に睨みつけたカスピアンが、視線を下に落とし、ぴたりと目を止める。そして、身を屈め、サーシャの深紅のドレスの裾をぐいと掴んだ。
「サーシャ。この白い汚れはなんだ」
サーシャの深紅のドレスの裾が白くくすんでいる。
ハッとしたように目を見開いたサーシャが、こくりと息を飲んだ。
倒れたテーブルの足は、真っ白な塗装が施されていたのだ。
カスピアンは身を起こし、サーシャの首をぐいと片手で掴むなり、荒々しく後ろの石柱に押し付けた。
「さっさと答えぬか!おまえがこの足で倒したのだな?!」
サーシャは窒息しかけているかのように声にならぬ悲鳴をあげ、目に涙を浮かべてじっとカスピアンを見上げている。
カスピアンはギリッと唇を噛み締めると、サーシャの腕を掴み、隅で震えているアンジェの隣へ突き飛ばした。倒れ込むサーシャに抱きつくアンジェがわっと泣き出す。
「エイドリアン!アンジェとサーシャ、侍女もまとめて調べろ!一切の遠慮はいらん!まんべんなく調べあげろ!」
「はっ」
すぐにエイドリアンの指示で、兵士達がアンジェとサーシャ、侍女達を捕まえ、身体検査を始めた。
「お、お兄様っ」
ドレスや袖の中まで強制的に取り調べを受けているアンジェが悲鳴をあげる。
カスピアンは怒りに燃える目でアンジェを一喝した。
「だまれ!兄である前に国王だ!」
取り調べをしていた兵士達の中で、一人が声を挙げた。
「陛下!」
そして、一人の侍女の腕を縛り上げてカスピアンの前に引きずり出した。
「この侍女が袖に隠し持っていたものです」
黒い布で巻かれたそれを受け取ったカスピアンが、その布をめくると、中のものを手に取った。
カスピアンが息を飲む。
パニックのあまり、声が震える。つま先から悪寒が走り、膝がガクガクする。
彼女のいわんとすることが分からないほど、鈍くはない。
つまり、カスピアンとサーシャが、ずっと深い関係にあったと言っているのだ。
二人が?
信じられない!
しかも、私が戻った後もずっとだなんて、絶対に信じられない!
彼は、サーシャは妹のような存在だと言っていた!
彼が、私に嘘つく筈はない!
断固として、反論する。
「そんなこと、信じない!」
サーシャはふんっと鼻で笑い飛ばし、薄い笑みを浮かべると、まるで秘密の話をするかのように小声で囁く。
「あら、信じられないの?だったら、もうひとつ、教えてあげる。彼は、昨晩も私を王宮に呼びつけたわ。国王の命に逆らうことなんて出来るはずもないから……そう言えば、今朝、帰り際に貴女を見かけたわよね」
驚きに目を見開く私を見下ろし、勝ち誇ったように微笑むサーシャ。
彼女は、胸元の大きなリボンを掴み、ドレスの襟ぐりを少し引き下ろした。豊満な胸の谷間の周辺に、いくつか赤らんでいるところがあるのを見て、私は絶句した。
「案の定、随分遅くまで眠らせてもらえなかったから、すっかり寝不足よ」
サーシャはくすりと笑い、口元を手で覆いながら小さな欠伸をしてみせる。
心臓が激しく鼓動し、思考が錯乱していく。
つまり、今朝、奥宮でサーシャを見かけたのは、彼女がカスピアンのところで夜を過ごしたからというの?
では、昨晩、カスピアンが急ぎの用があると言っていたのは、サーシャと会うため?
そう言えば、彼は、国王の間に私を呼び入れることはなかった。中に入った事もなければ、扉を叩いた事もない。どうしてなのか、深く考えた事はなかったけれど……
それはもしかして、サーシャが出入りしていたことを、隠すため?
そんなはずはない!
彼は、そんな卑怯なことをするような人じゃない!
心は全身全霊で否定しているにも関わらず、一気に涙が溢れ出す。
彼が嘘をつくはずはないと強く思っているけれど、こうやって辻褄の合う証拠を出されると、彼への信頼がわずかに揺らぎ出すのを止められなかった。
彼の愛を信じていたからこそ、ショックのあまり頭の中が真っ白になる。
混乱する頭のどこかで、冷めた自分が居た。
彼はもう、23歳になる大人だ。私が彼と過ごした時間なんて、合計でも2、3ヶ月ほどしか無い。彼を側でずっと支えて来たのはサーシャだ。自分を深く愛してくれる美しい女性が近くに居たら、普通の男であれば、心揺らがないはずはないだろう。
私のもとの世界だって、その年齢だったらもうすでに、数人と付き合ってそれなりに経験を積んでいる人も多いだろう。奥手過ぎて、まだ誰とも深い関係を持った事がないという、この私こそが、言ってみればかなり特殊な部類なのだ。
だから、カスピアンが彼女と深い関係にあったからといって、大した事じゃない。
理路整然と一般論を自分に言い聞かせようとしたが、全く効き目はなく、心はその全てを激しく拒否する。
これが、過去のことならまだ、なんとか消化できたかもしれない。
しかし、サーシャの話が真実なら、現在進行中ということなのだ。
だとすれば、これは、間違いなく裏切り。
サーシャに対しても、私に対しても。
でも、私はそれでも、彼を愛している。
胸が焼けるように痛いのに、まだ彼を信じたいと思ってる。
もし、彼がサーシャの話を事実と認めたら。私の彼への愛は、きっと悲しみで完全に崩壊してしまうだろう。
どうしたらいいの?
激しい混乱と動揺、衝撃で言葉は出ない。
ただ、涙だけがぼろぼろと溢れ落ちる。
サーシャは一歩私に近づくと、冷えきった目で私を睨む。彼女は押し殺した静かな声で言った。
「あの人は、貴女がエランティカの乙女の化身だと思って、手に入れたがってるの。貴女を妃にしたい理由は、それだけなの。山奥で育ったただの異国娘のくせに、次期王妃気取りで、身の程知らずもいいことよ。これで真実がわかったかしら。いい加減、私の彼を返して。早く、この王宮から出て行ってよ」
そして、憎しみの籠った目で私を一瞥し、竪琴を振り上げたかと思うと、あらぬ方向へ投げた。
「竪琴なんかで彼を繋ぎ止めようだなんて、許さないわ!」
サーシャが叫ぶ声が響く。
まるでスローモーションのように見えたその瞬間。
私は思わず、駆け出して竪琴に飛びついた。
絶対に壊してはならない!
私とラベロア王国を繋げる、大切な竪琴。
私の命ともいえる、魔法の竪琴。
長いドレスを踏みつけ転びかける直前、ぎりぎりのところで竪琴に手が届き、素早く抱きよせた。
「セイラ様っ!」
サリーの叫び声と同時に、私は固い大理石の床に片手を付く体勢で倒れ込んだ。即座に腕の中の竪琴の無事を確認する。
「あぁ……」
これが落ちていたら、と血の気が引く思いで思わず息を付いた瞬間、ガッシャーンという激しい音がした。はっと顔をあげると、テーブルが倒れてその上のものが自分の頭上に落ちてくるのが見え、咄嗟に竪琴を胸に抱いて床に屈み込んだ。
陶器やガラスがぶつかり合い割れる音が響き、金属製の皿やポット、熱湯やカトラリーなどが次々と雪崩のように落ちて来る。背中や後頭部に、連続して鈍い痛みと衝撃が走った。
「……あ、いたっ……!」
腕や肩に猛烈な痛みを感じて、思わず声が漏れた。
「セイラ様っ!」
遠巻きに見守っていたサリーが駆けつけ、私が差し出した竪琴を受け取る。同じく走り寄って来たエリサとアリアンナが蒼白になって私の周りに膝をつき、あたりに散らばるカップや皿をどけようと手を動かす。
「何事です!」
アデロスの叫ぶ声と共に、複数の兵士が駆け込む足音が聞こえた。
「誰一人もこの場から出すな!直ちに陛下に報告を!」
アデロスは厳しく指示を出した後、すぐに私のところへ駆けつけた。
「セイラ様!」
動けずにうずくまっている私の様子を見ると、顔色を変え、すぐに私の身を起こして座らせた。
腕と肩が焼けるように痛い。
「セイラ様、少し痛みます。我慢してください」
アデロスが申し訳なさそうにそう呟くと、私のドレスの右肩の部分を裂き、エリサに冷水をかけ続けるように指示した。私の左腕の袖も裂いて剥ぎ取ると、何か酷く沁みるものをかけた後、引き裂いたテーブルクロスをきつく巻き付ける。
「……っ」
染みる痛みがなんなのかと自分の左腕に目を落とし、そこが赤く染まっているのを見て驚く。
その合間も、エリサが私の右肩に冷水をかけ続け、もうずぶ濡れ状態だ。
水浸しの私の周りは、壊れたカップやお皿、ポットやお菓子が無惨に散らばっている。
じんじんと痛かった左腕の痛みが少し引いて来て、はぁ、とため息をついた。
「セイラ様、他に痛むところはございませんか」
アデロスが青ざめた顔で私に尋ねる。
「ううん……大丈夫、ありがとう、アデロス」
手際よく緊急手当を施してくれるのは、さすがに軍人ならではだろう。
とても立ち上がる気力もないので、支えてくれているアデロスに寄りかかったまま、顔をあげて周りを見渡した。
広場を囲むように兵士がずらりと立って、さっきまで笑い声をあげていた姫君や侍女達が真っ青になって立ち尽くしている。
「まぁっ!なんですか、これは……!セイラ様!?」
テオドールを腕に抱いたロリアン妃が、たった今到着したのか、蒼白になり叫んだ。驚いたテオドールが激しく泣き出す。
複数の馬が駆ける音が聞こえて、皆がハッとしたように顔を見合わせる。
「陛下のご到着だ!その場を動くな!」
エイドリアンの叫び声が聞こえた。
ああ……
頭の中がぐちゃぐちゃになっている。
サーシャが告白した、衝撃の事実とどう向き合うかも考える間もなく、こんな大惨事になってしまった。
ショックのあまり、涙も出ず、ただ呆然とする。
「何事だ!」
轟く怒声に皆がビクッとして息を飲む。
真っ青になり激怒しているカスピアンが外出着のまま広場に現れた。
割れて飛び散った皿やカップのど真ん中で、アデロスに支えられ身を起こしている私に気がつくと、カスピアンはまっすぐにこちらにやって来た。
「右肩に軽症の火傷、左腕に裂傷、止血済みです。申し訳ございません」
アデロスの報告に、カスピアンがきつく唇を噛み締めた。
「何があった!サリー!」
カスピアンの怒号に、サリーとアリアンナ、エリサが跪く。
「竪琴をご覧になりたいとおっしゃるのをお断りしましたが、どうしてもということでしたので、セイラ様がお見せすることを許可されました。その後、皆様が竪琴を次々と回されて、セイラ様が、かえしていただくようお願いしたところ、竪琴をあらぬ方向へ投げられた方がいらっしゃったため……」
サリーがそこで黙ると、カスピアンが呟いた。
「セイラが、竪琴を守ろうとして倒れたということか」
「はい。おっしゃる通りです」
サリーが答えた後、エリサが我慢ならないというように涙ながらに声をあげた。
「どなたかが、意図的にテーブルを倒されたんです!」
「セイラ様が床に倒れられた時、テーブルにはぶつかっていらっしゃいませんでした」
アリアンナが震える声でそう言うと、カスピアンが3人から目を離し、立ち尽くしている姫君達に目を向けた。
「おまえたち。誰が企てたか答えろ!知らぬとは言わせんぞ!」
殺気立つ低い怒声に、姫君や侍女達が震え上がる。数人、ショックのせいか気絶するようにバタバタと床に倒れ込んだ。
かろうじて立っている姫君達は青くなったまま身動きもせず、口も開かない。
「答えぬか。よかろう」
カスピアンは苛立つようにそう吐き捨てると、腰から剣を抜き取った。
「ひっ……」
一人ずつ、ゆっくりと剣先をその顔に向けて回り始めたカスピアン。
「私に偽りを申すは、死罪。今この場で始末するぞ!」
轟く怒声にまた、一人が失神してバタリと崩れ落ちた。
「も、申し訳、ございませんっ!お許しください!」
ジェシーがわっと泣き出した。
エイドリアンが興奮状態のジェシーの両肩を掴み、カスピアンの前に押し出す。
仁王立ちで剣を突きつけるカスピアンの前で、ジェシーが激しいしゃくりを上げた。
「私、言われる通りにしないと、後で痛い目に合わせると言われてっ」
しゃっくりを挟みながら、ジェシーが泣き叫ぶ。
「私は、嫌だったのに!セイラ様の竪琴を取り上げて、壊してしまえって……!」
「誰がその指示をした!」
エイドリアンが詰問すると、ジェシーがビクッとして黙る。
カスピアンの剣先がジェシーの顔面の鼻先に突きつけられると、ジェシーはガタガタ震えながら必死で身を引こうとした。しかし、エイドリアンが両肩を押さえつけているため身動きが出来ない。やがて、ジェシーは紫色の唇を震わせながら一度息を飲み込み、恐る恐る後ろの姫君達のほうへ目を向けた。
ジェシーの視線が止まったのは、アンジェ王女とサーシャの二人の方向だった。
カスピアンは突然、近くにあった座椅子を片足で踏みつけまっぷたつに叩き割った。ものすごい音がして、後ろに控えている侍女達が悲鳴を上げた。
「竪琴の破壊を企み……故意にテーブルを倒したのはおまえ達か……」
低く押し殺した声でそう呟いたカスピアンが、アンジェ王女とサーシャの目の前まで来ると二人を見下ろした。
二人はお互いを庇うように寄り添い、仁王立ちのカスピアンを見上げている。
「テーブルを倒したのは誰か答えろ!」
アンジェ王女が真っ青になり、激しく首を左右に振る。
二人を交互に睨みつけたカスピアンが、視線を下に落とし、ぴたりと目を止める。そして、身を屈め、サーシャの深紅のドレスの裾をぐいと掴んだ。
「サーシャ。この白い汚れはなんだ」
サーシャの深紅のドレスの裾が白くくすんでいる。
ハッとしたように目を見開いたサーシャが、こくりと息を飲んだ。
倒れたテーブルの足は、真っ白な塗装が施されていたのだ。
カスピアンは身を起こし、サーシャの首をぐいと片手で掴むなり、荒々しく後ろの石柱に押し付けた。
「さっさと答えぬか!おまえがこの足で倒したのだな?!」
サーシャは窒息しかけているかのように声にならぬ悲鳴をあげ、目に涙を浮かべてじっとカスピアンを見上げている。
カスピアンはギリッと唇を噛み締めると、サーシャの腕を掴み、隅で震えているアンジェの隣へ突き飛ばした。倒れ込むサーシャに抱きつくアンジェがわっと泣き出す。
「エイドリアン!アンジェとサーシャ、侍女もまとめて調べろ!一切の遠慮はいらん!まんべんなく調べあげろ!」
「はっ」
すぐにエイドリアンの指示で、兵士達がアンジェとサーシャ、侍女達を捕まえ、身体検査を始めた。
「お、お兄様っ」
ドレスや袖の中まで強制的に取り調べを受けているアンジェが悲鳴をあげる。
カスピアンは怒りに燃える目でアンジェを一喝した。
「だまれ!兄である前に国王だ!」
取り調べをしていた兵士達の中で、一人が声を挙げた。
「陛下!」
そして、一人の侍女の腕を縛り上げてカスピアンの前に引きずり出した。
「この侍女が袖に隠し持っていたものです」
黒い布で巻かれたそれを受け取ったカスピアンが、その布をめくると、中のものを手に取った。
カスピアンが息を飲む。
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