竪琴の乙女

ライヒェル

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七章

時を待つルシア

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日が傾き始め、オレンジ色に染まり始めた、エティグス王国の海沿いの街、リヴァール。その夕焼け空に、一羽の鳩の影があった。それは己の現在地を確認するように、一度、上空を大きく旋回した後、真っすぐにある場所を目指し降下していく。
鳩が舞い降りたのは、水殿と異名をとる、エティグス王国の離宮のひとつ。ここは、宮殿の半分が海上にあり、船がそのまま宮殿内部まで入る事が出来る造りになっている。
見張り塔の小窓にいる鳩の姿に気がついた監視兵は、すぐさま鳩を捕まえ、階下へと急ぐ。夕暮れの海を臨むサロンの扉をノックし、待ち構えていた臣下に鳩を手渡すと、すぐに退室する。
臣下は、鳩の足に装着されていた小さな筒から、折り畳まれていた紙を取り出すと、鳩を籠に入れ、夕日の差し込むテラスへと急いだ。
「殿下。報告が入りました」
その言葉に、夕暮れの海を眺めていたルシア王子が振り返る。折り畳まれた紙を受け取り、注意深く開きそれを手の平に乗せた。その小さい紙には、判別するのも困難なほど細かい文字が、隙間が無くぎっしり並んでいた。その手の中を覗き込むのは、ルシア王子の二人の妃の一人、シモナ妃。
「なんの報告ですの?」
シモナの問いが聞こえているのか、特に答えもせずしばらく紙を見ていたルシアだったが、やがて独り言のように呟いた。
「ようやく時が満ちたようだ」
ルシアはふっと静かな笑いを零すと、足下に控えている臣下、ダミアンに紙を渡す。
ダミアンは目を細めて文面を確認した後、苦笑を浮かべた。
「内部に思わぬ助っ人がいたとは……それも、接触せずとも、こちらの都合のいいように動くようですね。このところは、セイラ様の周辺は厳重警戒体勢で、蟻の這い出る隙間も無いほどですから、間者が表立って動くわけにもいかず、どうしたものかと思っておりましたが……」
「恐らくこの流れであれば、セイラは自ずからカスピアンのもとを去るであろうな」
「ええ、ほぼ間違いございません。丁度、あやつが王宮を離れる時期と重なるとは。前回の失態が逆に功を奏し、いい機会を作りました。後は、セイラ様をここへ無事にお連れすれば、あやつも汚名返上となるわけですな」
確信したように述べるダミアンに、ルシアも満足気な笑みを浮かべる。
夕焼け色に染まる海の向こうを眺めるルシアは、ゆっくりと腕を組み、懐かしむように目を細めた。
「あれから3年の時が経ち……セイラはますます美しくなったと聞く。英知に富み、ラベロアの国民に絶大な人気を誇るという。あの勝ち気な姫を、今一度、この腕に抱く日が待ちきれぬ」
その言葉を聞き、隣に寄り添っていたシモナが顔色を変えた。
「殿下……まさか貴方はまだ、そのセイラという姫を、捕らえようとされているのですか」
「いかにも」
ルシアはくすりと笑いを零した。
「まぁ!貴方から逃れた無礼な姫君ですのに。しかも、ラベロアの次期王妃と決まっているのではございませんか」
シモナのまるで責めるような口調に、ルシアは眉をひそめ不快感を露にした。
「シモナ。おまえはいつから私に意見するようになったのだ。そのような許しを与えた覚えはない」
「殿下、恐れながら……貴方には、私とエヴェリン様という妃がいるではありませんか。貴方はもうすぐ、国王としてご即位されるお方でもあらせられるのに、何故、敵国の王妃になる姫君など」
悲痛な色を顔に浮かべ、ルシアの胸にすがろうとしたシモナ。ルシアは怒りを帯びた目でシモナを一瞥し、まとわりつくその腕を振りほどいた。
「だまれ。おまえたちは父の選んだ妃。形だけの妻だと、もとよりわかっていたであろう。私の世継ぎは、この私が選ぶ妃に生ませる」
ルシアは驚愕に言葉を失っているシモナに、氷のごとく冷酷な目を向けた。
「口が過ぎると離縁すると申したであろう」
「殿下!私はただ、貴方のお側に」
「煩わしい女は好かぬ。そもそも、呼んでもおらぬのに、おまえは何故ここに来たのだ。早々に王都へ戻れ!」
「殿下!」
尚もすがろうとするシモナの手を払いのけ、ルシアは立ち上がった。衝撃に震えるシモナを見下ろし、ルシアは薄く微笑んだ。
「まもなくセイラがここへ来る。おまえは、直ちにここを去れ。命に従わぬのなら、其れ相応の処分を科す」
ルシアの視線を受けたダミアンが、即座にサロンの隅に控えていた女官に指示を出す。うなだれたシモナは、女官達に連れられてサロンを後にした。
「ダミアン。セイラの到着に間に合うよう、ジョセフィに準備を言いつけておけ」
「はっ」
ダミアンは一礼し、足早に退室した。
ルシアは、名付けようのない様々な感情をもてあまし、ひとつため息を零した。
テラスを歩き波打ち際まで来ると、冷えた大理石の柱に寄りかかるように立ち、夕暮れ色の壮大な海を見つめる。
時折、海から吹き付ける風が、無造作に束ねたルシアの長い髪を撫でていく。乱れた黄金色の髪から革紐を抜き取ったルシアはふと、ある瞬間を思い出した。
近隣諸国でも、聡明且つ眉目秀麗と名高いルシアは、国内外の姫君の憧れの的である。ラベロアのアンジェ王女も、初対面の瞬間から明らかにルシアに好意を持ち、恥じらいながらも、自ら口づけを乞うような眼差しを向けた。口づけひとつで、姫君はいとも簡単に心を奪われ、その身を差しだそうとする。じっと見つめただけで失神するような姫君さえいるのだ。女を操るなど、いとも容易いこと。それが至極当たり前のことだと思っていたルシア。
だが、セイラは、この髪を掴んで口づけを拒むという、予期せぬ行動を取ったのだ。セイラと時を共にした短い期間の間、ルシアのこれまでの常識は幾度となく覆された。
ただ、驚かされただけではない。
この自分が笑いを零した瞬間が多々あったことも、忘れる事はなかった。話せば話すほど、あの娘に興味を惹かれ、深く知りたいという欲求が強くなっていった。
セイラを離宮に残し、王都へ向かった日々に感じた焦燥感。あの娘の顔が見たいと、あの娘の声が聞きたいと、逸る思いで離宮への帰路を急いだことを鮮明に思い出す。離宮へ戻りその姿を探せば、厨房で泡まみれになり、皿洗いの娘と楽し気に笑い合っているセイラが居た。その天真爛漫で溌剌とした笑顔に、心が強く惹かれるのを感じたのだ。あの時、カスピアンが何故、この娘に固執し切望するのか、その理由が分かった気がした。あの娘は、存在そのものが特別なのだ。この世からかけ離れた魅力を纏う、唯一無二の娘だからこそ、伝説の乙女と呼ばれる所以だろう。
セイラと過ごした短い期間に感じた、己の感情の起伏。何事にも冷静沈着と自負していた自分が、実はこれほどに感情的であったのだと知った。セイラに比べれば、シモナやエヴェリン、あるいは他の姫君と話すなど、まるで飾り立てた壁に向かい話しかけているような、まことにつまらぬものだ。
まさかカスピアンが、ヴォルガの河を使い、単身でエティグスの領域に進入し、セイラを奪還するような行動に出るとは思わず、セイラを目の前で連れ去られてしまった。その時の衝撃と怒りは、3年過ぎた今でも強く残っている。
セイラが行方をくらました後も、カスピアンが妃を娶る様子が一切なかったことから、カスピアンが何らかの事情を知っており、いずれセイラが戻るのは間違いないと見ていた。3年もの空白を経て、セイラが戻ったとの知らせが耳に入った時は流石に驚き、事実かどうか疑ったが、それが誠であるとわかった直後、胸の奥底に秘めていた欲望が目覚めるのを感じた。
あの娘を、なんとしても、取り戻してみせる。
国交を断絶しているラベロアに近づくのは困難だが、かなり前からラベロアへ間者を送り込んでいたのが幸いし、この好機に繋がった。まもなく、セイラは自らラベロアの王宮を離れることを願い、このリヴァールの水殿へやってくる。
3年ぶりにこの目にするセイラの姿を思い描くと、もどかしさに胸がじりじりと焼けるようだ。
ここへ辿り着くのは、心に傷を負ったセイラ。その傷は、この腕の中でじっくりと癒してやろう。
あの娘の胸から、カスピアンの記憶を消し去り、この自分で埋め尽くしてしまうのだ。
夕日が落ち、夜の帳が落ち始める。
ルシアは静かに波打つ海の遥か向こう、ラベロアの空を見つめていた。
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