竪琴の乙女

ライヒェル

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七章

孤高の人

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「おまえ達はいつからそこにいた」
「……ほとんど、全部、聞こえてました」
努めて冷静に答えたつもりでも、声は勝手に震えてしまう。
あまりの衝撃に涙も出てこないが、緊張からか、寒気に襲われぶるっと身震いする。
「そうか」
カスピアンは独り言のように呟くと、薄い笑みを浮かべ私の顔を覗き込んだ。
「私から逃げずに留まったことは褒めてやろう」
とても彼を直視出来ず、目を逸らして俯いた。
「だが、許しも無く立ち聞きした罰を与えねばならぬ」
その言葉にカッとなり、反論しようと顔をあげると、わざと私が頭にくるような事を口にしたらしいカスピアンの、笑いを含む視線が私を捕らえた。
「……っ!」
計られた、と思った瞬間にはもう口づけされてしまう。
逃れようと腕の中でもがいたけれど、鋼鉄のような腕が体に巻き付いて身動きも出来ない。
さっき、サーシャとキスしたばかりで、こんなのってひどい!
頭に来てるのに、離れようと抵抗しているのに、だんだん体に力が入らなくなってくる。私を黙らせようという魂胆なのか、いつにも増す強引さで呼吸もままならない。こうして激しく求められると、やっぱり愛しさのほうが勝ってしまうのが悔しい。彼の胸を押し返そうとしていた両手も、結局ただ、上着を握りしめるだけの無力なものとなってしまった。
ようやく解放され肩で息をしながら、恨めしくてカスピアンを睨む。
これで問題を解決しようとか、そんなずるいことを考えているんじゃないか。
私が本気で睨んでいるのに、カスピアンは全然怯む様子もない。
「おまえが気にするようなことは何もない。気に病むな」
宥めるように優しくそう言われても、たった今、この目で見て、この耳で聞いた事をあっさり忘れるなんて無理だ。
彼を信じていないわけではないけれど、このまま、ハイそうですかと引きさがるほど、私は心の広い人間じゃない。
ずっと彼と一緒に居たいから、尚更、真実と向き合いたい。
ついに心を決めて、口を開いた。
「でも……サーシャに、妃になれって言ったんでしょう」
そうだ。
しかも、それだけじゃない!
「……っ、それに、約束の口づけ、とか、夜に、愛を、誓っ……っ……」
口にするのも憚られるような内容に、言葉が喉につかえて、最後は黙り込んだ。今更ながら、二人は深い恋愛関係にあったとしか思えない内容だと改めて気がつき、青ざめた。
私の様子を見ていたカスピアンの顔に困惑の色が浮かんだ。
「セイラ……」
反射的に両耳を塞ぎ、顔を背けた。
答えを知りたくて聞いたのに、それを聞くのが恐ろしくなる。
知りたいけど、知りたくない!
聞くのが、怖い!
カスピアンが私の両手を掴み、耳から外した。
「もう、いい……何も、言わないで……!」
どうしても答えを聞きたくなくて、そう呟いた。
聞いたら最後、深く傷つき、もう二度と彼の顔を見れなくなる気がする。
例え過去のことだったとしても、嫉妬で狂ってしまうに違いない。
「いや。おまえにそんな顔をさせるわけにはいかない」
カスピアンは静かにそう呟くと、私の手を引きながらゆっくりと歩き出した。
彼が、全てを明らかにするつもりだと分かり、不安に駆られ怖じ気つく自分を奮い立たせる。
秋色の葉が風で舞う中、彼は遥か遠くを見るように目を細めていた。
「サーシャが言っていたことは、事実ではあるが、真実ではない」
その曖昧な表現に、黙って次の言葉を待つ。
「手に触れただけで、あれが妃候補かと騒がれる。それが、一国の王子の宿命だ。目が合っただけで、好かれていると勘違いするような姫君さえいるのだ。ユリアスの周りなど、姫君同士の掴み合いの喧嘩が絶えず、稀にこちらに飛び火して散々な目にあった。必然的に、無用な誤解を避けようと、寄ってくる姫君はことごとく遠ざけるようにしていた。だが、アンジェの幼馴染であるサーシャは、その例外だった」
カスピアンは静かにため息をついた。
「私がおまえに出会う、ほんの少し前のことだ。サーシャが、命に関わる重い病に罹った。ある夜、危篤の知らせが入り、アンジェ、ユリアスと共に病床のサーシャを見舞った。病に負けぬよう声をかけた時、あやつは、朦朧とした意識の中で、妃になりたいと言ったのだ。私は、励ますつもりで、叶えて欲しければ、まずは病に勝て、と答え、あやつの望む通り、口づけてやった」
思いがけない話に、驚いて言葉を失う。
カスピアンは自嘲するかのように苦い笑みを浮かべた。
「母を失った夜を思い出し、死の淵にいるサーシャを見るのは辛かった。唐突に妃になりたいなど、熱に浮かされたサーシャの戯れ言と思い、愚かにも深く考えずに約束めいた事を口したが、結果的に、サーシャにとって酷な事をしてしまった。何故なら、私はあやつを妹のようにしか見た事は無い。当然、あれを妃にと考えた事など、一度もなかったのだ」
カスピアンは立ち止まると、じっと私を見下ろした。
「サーシャの病が峠を越し、快方に向かい始めた頃に、私はおまえに出会った。そして、おまえは私の世界を永遠に変えたのだ。私が妃に望むのは、この世にただひとり。セイラ、おまえだけだと心に固く誓った」
私を見つめる彼の目は曇りが無く、どこまでも澄んでいた。胸が熱くなり、涙が溢れそうになって、何度か瞬きを繰り返した。
優しい微笑みを浮かべたカスピアンは身を屈め、触れるような口づけを落とすと、私を抱き上げた。まるで赤子をあやすように両腕に抱かれて、私は彼の話に耳を傾ける。
「おまえをルシアから取り返し、王宮に迎える準備をしていた矢先、おまえが姿を消した。その後に、やっと回復したサーシャが王宮へ顔を出し、あの時の約束について聞いてきた。私は、あの時の言葉は、危篤状態にあったあやつを励ますつもりで口にしたが、本意ではなかったと答えた。浅はかにも約束めいたことを口にしたのは誤りだったと釈明し、私は妃にと定めた娘がいると伝えた。あれは利発だがとても気が強い。激しく泣いて反発した。サーシャはおまえを見たことも無く、現におまえが行方知らずだったこともあり、あやつは私が妄想していると決めつけ、目が覚めるまで待つと言い張った。私が何度言い聞かせようとしても全く手がつけられず、最終的にユリアスがあやつを説き伏せた。その後は諦めたのかその事は口にしなくなり、私もすでに過去のことと思っていた」
静かにため息をついたカスピアンが、険しい表情で私を見る。
「昨年、議会が、暫定的に妃候補としてサーシャを推して来た時、例の件があるだけに、即座に却下した。だが、本人が、国のためにその任務を遂行したいと強く申し出て来たのだ」
カスピアンは顔を曇らせ、深いため息をついた。
「実際に妃候補として任命する際も、おまえが戻るまでの公務を代行する任務であり、妃候補とは名ばかりのものだと、明確に伝えていた。報酬額を含めた契約内容を載せた念書も作成し、合意した。しかし、その裏で、私に断りも無く、3年務めれば必ず妃になれるよう取り計らうという密約を結んだ議員がいたのだ。事業に失敗し多額の負債を抱えていたやつだ。サーシャが妃になった暁には、あやつの一族に多額の援助を要求する魂胆だったらしい。これは、おまえが戻った直後に行方をくらました議員がいたことから発覚した。国外に逃亡しているが、既にその足取りを掴んでいる。近いうちに拘束し、厳しい処罰を与えることになるだろう」
私の知らないところで起きていた様々な出来事に呆然とした。
ただひとつだけ確かなことは、恐らく、カスピアン以外の誰もが、私が戻る事などありえないと思っていたということだ。実際、この私自身も、ラベロア王国での記憶は夢だったのかと思っていたくらいだから、驚くようなことでもない。
カスピアンは苦々しい表情で私を見下ろした。
「先ほど、明日以降の公務はおまえを同行するため、サーシャに任務完了を通告した。それが、あの有様で、振り払っても私の後をついてきたというわけだ。サーシャはどうやら、おまえが戻るとは端から思わず、形ばかりの妃候補になり、3年過ぎれば自分が妃になると思っていたのだろう。感情的になったサーシャがあの口約束をぶり返し、言い合いになったところに、おまえたちが現れたのだ」
「そう、だったのね……わかった……」
思いもよらない裏話に、他に何を言えばいいのかわからない。
サーシャの立場になってみれば、本当にショックなことだろう。
恐らく彼女は本当に、心からカスピアンを愛しているのだから。
他の姫君と違い、幼い頃からずっと彼の側に居たとなると尚更、いつかは結ばれるのだと確信していたのかもしれない。それにきっと、妃になるという約束が彼女に生きる力を与え、その病に打ち勝つことを可能にしたのだろう。
なのに、やっと病が治ってみたら、何処の馬の骨かもわからない怪しい異国女に、愛する人を奪われていたわけだ。
端から見たら、彼女は一番の被害者かもしれない。
もし、私自身にそんなことが起きたら、どれほど傷つき、絶望することか。
想像しただけで、悲しくて胸が張り裂けそうだ。
それに、妹のように可愛がって来たであろうサーシャが、死の瀬戸際で苦しむ姿を見た時のカスピアンの心境を考えると、心が酷く痛んだ。愛する母を失った後、サーシャまで命の危険にさらされたなんて。きっと、彼もひどく心配し、不安になったことだろう。なんとかして、サーシャを救ってあげたいと思った彼の優しさが、結果として、裏目に出てしまったことも悲しすぎる。
もし、私が彼に出会わなかったら、この二人は結ばれていたのではないかという気がして、罪悪感を感じた。でも、私はもう、彼を愛してしまった。私が生まれ育った世界を引き換えにしても、彼と共に在りたいと願った。
「カスピアン……私、サーシャには、本当に申し訳ないと思うけど……貴方のいない世界では、もう、生きて行けないから……」
彼女の愛する人を奪ったという、罪の意識を拭いきれず、胸が酷く痛んだ。
サーシャはこの状況を受け入れることが出来るのだろうか。
どう考えても、そう簡単に彼を諦めることなんて出来ないに違いない。
胸騒ぎを感じて、心のざわめきを鎮める事が出来なかった。
この不安をどうすればよいのかも分からず、ただ、ため息をついた。
「セイラ。おまえがそのように気に病むことはない。おまえに出会わずとも、あれを妃にすることはなかった。サーシャもいずれ目が覚めるだろう。あやつに相応しい縁談がないか、ユリアスが探しているところだ」
カスピアンは柔らかく微笑み、私の額に口づけを落とした。
「おまえのおらぬ日々など、太陽の昇らぬ闇の世も同然。私の心はおまえにしか動かぬ。この腕に抱くのは、生涯おまえひとりだと言ったであろう」
耳元で囁かれる甘い言葉に、頰が熱くなる。
最近の彼は、とても自然に愛情を言葉にしてくれるようになった。私が聞きたい言葉を惜しみなく与えてくれる彼の優しさに、胸の痛みが溶けていく。
穏やかに煌めく深緑の目を見上げながら、世継ぎ王子として生きて来た彼の孤独な日々に切なさを覚えた。自由気ままで世渡り上手なユリアスと違い、口下手で不器用なカスピアン。彼は、自分を守るため、そして周りを傷つけないために、あえて人を遠ざけて生きて来たのだ。
きっと彼だって、思いを寄せる人がいた筈なのに、恋愛に至る前に、その先への道を遮断していたのだろう。私達が出会って間もない頃、私が彼の言動に戸惑い、彼という人間を全く理解出来なかったのも、彼が恋愛というものを知らなかったからだ。でも、もし彼が、ユリアスみたいに恋愛経験が豊富な人だったとすると、私はきっと、彼の過去に酷く嫉妬してしまって、彼との恋愛には及び腰になっていただろう。
いろいろ考えていると、カスピアンが突然足を止める。
どうしたのかと思って顔を見ると、なにやらこちらに鋭い視線を向けていた。
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