竪琴の乙女

ライヒェル

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四章

天幕の下で

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「殿下、サリーが到着しました」
エイドリアンの声がして、少し間をあけて天幕が開き、サリーが入ってきた。
「セイラ様!よくご無事で……」
涙ぐんだサリーが近くに寄ってくると、カスピアンが私から手を離し立ち上がり、静かに天幕を出て行った。
「一体どこにいらっしゃってたんですか!」
サリーは怒っているような、でも安堵したような口調で問いかけながら、私の着ていた、所々破れ汚れていたエティグスの衣装を脱がせてくれる。温かいお湯に浸した布で、体についていた砂や埃を奇麗に拭ってくれた後、オフホワイトのシルクドレスを着せてくれた。そして最後に、ふんわりとした桃色のウールのショールをかけてくれたので、着替え中寒気でゾクゾクしていた鳥肌もやっと収まる。
ホッとしていると、サリーは籠の中から、数種類のクッキーや、プラムなどの果物を出し始めた。天幕の外のエイドリアンに声をかけ、熱いお茶を運ばせると、お皿に盛った食事と一緒に私の前に出してくれた。
「さぁ、少しは召し上がってください」
「ありがとう、サリー」
お礼を言って、真っ先に、紫色にピカピカ光っている、まん丸なプラムに手を伸ばした。
かじりつくと、甘酸っぱい果汁が溢れて、疲れ果てた体に生気を吹き込むように染みていく。
美味しい……
こんなにリラックスした気持ちになったのは、随分久しぶりだと、満ち足りた気持ちでため息をつく。
サリーは私が食べているのを見て、にっこりと微笑んだ。そして、ぼさぼさになっていた髪を櫛で丁寧に梳かしながら、自分たちがどれだけ心配したか、カスピアンがずっと探していた事などを散々喋り続ける。
一通り言いたいことを喋りきったらしいサリーが口を止めて、手際よく片付けをしていると、カスピアンが戻ってきた。
真っ白なシャツと紺色のパンツで、ブーツは履かず裸足のラフな姿。
王宮で見ている時とは随分と印象が違う。
大きなマントを羽織り、腰に剣を差している時は近寄りがたく、威圧感でピリピリした雰囲気を醸し出していたけれど、今は、そんな怖さは感じない。
カスピアンは、温かいショールにくるまっている私の様子を確認するように見た後、控えているサリーに声をかけた。
「明日の朝に王宮に戻る。それまでおまえも休むがいい。遠路ご苦労だった」
「かしこまりました」
サリーがにっこりと微笑み、天幕を出て行った。
王宮に戻る、という言葉でとあることを思い出す。
すっかり頭から抜け落ちていたが、私は、エティグス王国と密通している疑いをかけられ、しかも、カスピアン王子を騙した悪女と呼ばれ、死刑になるとの話ではなかったか。
死刑。
急に私の顔色が悪くなったのに気がついたのか、隣に腰を下ろしたカスピアンが眉をひそめた。
「具合が悪いのか」
「……そうじゃなくて……」
口ごもっていると、カスピアンの眉間の皺が深くなる。
さっさとはっきり答えないとすぐに機嫌を悪くする短気な性格は、相変わらずのようだ。
「……ラベロアでは、私は内通者ということになってて、戻ったら死刑になるって、ルシア王子が……」
黙っていても拉致があかないと思い、正直に不安を吐露した。
「だから、ラベロアに帰ると、命がないと言われて……」
なんと言われるかと生きた心地がせず、びくびくしていると、カスピアンの顔に、意地悪そうな笑みが浮かんだ。
「その通りだ。おまえには、それ相応の罰を与えねばならん」
「それは、どんな罰?牢屋に入れるの?あの、死刑というのは」
不安の余り矢継ぎ早に質問すると、カスピアンは両腕で私を抱き寄せ、ゆっくりと身を横たえた。
早く答えを聞きたいと思いながらその横顔を見ていると、彼はしばらく思案するように頭上のランプを見上げていた。
「……まずは、首輪で繋ぎ、室内から出れぬよう、鎖をベッドに縛り付ける」
「えっ、首輪?鎖?」
「当然、もう二度と脱走出来ぬよう、ドレスを剥ぎ取っておく」
「ええっ」
予想もしていなかった答えに動揺した。
これは、カスピアンらしくない、冗談?
勿論、むち打ちや死刑なんかとは比較にならない軽罰だろうけれど、まさか本気でそんなことを考えているのだろうか。
下着姿で鎖につなぐなど、そんな趣味がある変態も実在するわけだから、あながちでまかせというわけではないかもしれない。
いや、そういう性癖ではなく、やっぱり、カスピアンは私を獲物として捕らえたつもりということなのだろうか。
理由はともかく、女としてはそんな侮辱的な姿にされるのは到底耐えられない!
……けれど、死刑にならず、ラベロアに戻れるなら、ある程度の罰は甘んじて受け入れるべきだろう。
どうしよう。
鞭打ちじゃないだけマシと思うしかないのだろうか。
イヤだと言ったら、どうなるのだろう。
それより、罪人に拒否権、いや、せめて選択権などはあるのだろうか。
胸に葛藤を抱えてうつむいていると、カスピアンがクスリと小さく笑い、私をぎゅっと胸に抱きしめた。
「もう夜も更けた。ひとまず眠れ」
「でも」
処罰についてはっきりさせなければ、とても眠れやしない。
もう一度、ちゃんと聞こうと思ってカスピアンの顔を見ると、彼は静かに微笑んだ。
「セイラ。おまえには、償わなければならない罪などない」
「えっ?」
思わぬ言葉に目が点になる。
無実ってことがありえるのだろうか。
私は一国の王子、カスピアンに逆らった。
それも、ルシア王子の手引きで逃げたのだ。
カスピアンは怒っていないのだろうか。
しかも、私のせいで、王位継承権の剥奪なんて噂まであるというのに。
それに、たとえカスピアンが私を無実と言ったところで、王宮の皆が納得するだろうか。
落ち着かない気持ちでいろいろ考えて黙り込む。
「案ずる事はない。もう休め」
カスピアンは静かにそう囁くと、ゆっくりと私の髪を繰り返し撫でる。
逞しく大きなその胸は温かく、心地よかった。目を閉じるとすぐに、睡魔が襲ってくる。



死刑になるのではと恐れ、青ざめていたセイラが、何度かゆっくりと瞬きを繰り返し、やがて静かな寝息をたて始めたのを見届け、カスピアンはひとつ、深呼吸をした。
セイラが深い眠りに落ちていくように、ゆっくりと髪を撫でてやりながら、偶然にも急展開となったこの一日を回想する。
昨晩、セイラの捜索を禁ずる父王の命が下り、怒りにまかせて王宮を飛び出し、国境へ馬を走らせた。
橋と呼ばれていた岩壁が崩れ落ち、エティグス王国への陸路が完全に寸断されてしまった崖までたどり着き、ヴォルガの河の遥か向こうに見えるエティグスを眺めていた。
父王の命が下ったことにより、カスピアンが独断で国の兵士を動かす事が出来なくなったのだ。
港や共有海域に配置して警備を行わせる兵士を除き、セイラの奪還のために人員を使う事が出来なくなってしまった。想定外の苦境に立たされ、苛立ちと焦りで正気を失いかけていた。
月明かりで時折うねりが見える漆黒の河。
遥か先の対岸に目を向ける。
暗闇の中にわずかに見える幾つかの灯りが、セイラが囚われている離宮。
今頃どうしているのか。
この河の向こうにいると分かっていて、諦めることなど出来るはずがない。
いずれ、首都へ連れて行かれるはずだ。
ここよりも更に遠くに。
一刻の猶予もない。
残された時間など、ないも等しい。
ならば、もはや、手段など選ぶ必要もない。
己がこの河を渡ればいいのだ。
死の激流と恐れられ、船も通りはしないヴォルガの大河。
カスピアンは、遥か向こうの上流へ目を向けた。
激流に流される速さを考え、ずっと向こうの上流から泳ぎ出れば、エティグス王国の河岸にたどり着くこともできるはずだ。向こうの河岸にさえたどり着けば、様子を見て、離宮に入り込むことなど考えればいい。
実際にセイラを見つけたとして、どのように連れ戻すか。
それは今は定かではないが、とにかくまず、居所を確認し、その無事を確認することが先決だ。
すぐにでもこの河を使い、国境を超えなければならない。
決意を固め前方を見ているところに、エイドリアンが追ってきた。
カスピアンが考えていることを伝えると、エイドリアンが血相を変えて猛反対したが、一度決めたカスピアンの気が変わることはないと知っていたため、結局渋々、指示に従うことになる。
うまく向こう岸にたどり着けず流される可能性を考え、ヴォルガの河の下流でエイドリアンを待機させることにする。
一旦、エイドリアンを準備のため王宮に戻らせている間に、カスピアンはヴォルガの河の上流へと移動を始めた。
もうすでに東の空が明るみ始めていた。
エイドリアンに指示したのは、その日の夕刻。
日中より、夕刻のほうが若干河の水温が上がっており、夕日で波の影が出来て、万が一誰かに見られたとしても気づかれにくいからだ。夜になれば身を隠すにも好都合である。
河の流れを見ながら必要な距離を計算し上流へと進み、場所を決めるとその時を待つ。
こうしている間にも、セイラが首都へ連れて行かれていないかと落ち着かず、日が傾きかけるまで待っているのが、拷問のようだった。
夕日が河を赤く染め始めたのを確認し、カスピアンは水の抵抗を考え上着を脱ぎ、上流から河に飛び込んだ。
大荒れの海を彷彿とさせる激しい流れに押されながら、全身の力を振り絞り、ようやくエティグスの河岸の近くまでたどり着く。
かなりの時間と体力を消耗し、まずは岩場で生い茂る葦の影でしばし、休息を取る事にする。
夜が更けてから離宮に忍び込むことを考え、葦の茂みから周辺の様子を確認していると、誰かが河岸へとやってくる気配がした。
姿を見られる事がないよう、葦の茂みに隠れ様子を伺う。
やがて、河岸を歩いているのが、セイラとルシアであることに気づき、カスピアンは息をのんだ。ここで飛び出して一人で敵地に踏み込むほど理性を失っているわけではなかったが、二人が一緒にいるのを見ているだけで、腹の底が煮えくり返るような怒りを覚え、葦の束をきつく握りしめる。
ルシアがセイラを背後から抱きすくめ、その髪に口づけたのを見たときには、我慢がならず、ついに葦の茂みから一歩出た。
まさにその時、セイラがルシアから離れ、こちらに駆けてくるのが視界に入る。
驚いて茂みからさらに前に出ると、セイラが転ぶのが見えた。そして、起き上がろうとして顔をあげたセイラが、こちらに気づいて視線を止め、驚愕したように目を見開いた。
その背後から、歩いてくるルシアの姿が目に入る。
カスピアンは咄嗟に河に飛び込んだ。
セイラが目をさらに大きく見開き、動揺した様子で立ち上がり、一度、背後のルシアを振り返った。
セイラ!声の限りで名前を呼ぶと、セイラが、こちらに向かって走り出した。
背後から、ルシアと兵士が追ってくるのが見え、次の瞬間、セイラの姿が激流に飲まれて水面から消えてしまう。
即座に水中へ潜り、ドレスが巻き付いて河底に沈みながら流されていくセイラを見つけ、懸命に追う。
心の中で叫ぶ。
神よ!
ご加護を!
セイラが精一杯伸ばしている腕を掴んだ。
激流に流されながら、流木をたぐり寄せ、セイラの上半身をその上に乗せ抱え込み、下流へ目を向ける。流木を舵代わりに、少しでもラベロア側へ流されるように気を配りながら進んだ。
やがて、遠目に白い天幕が幾つか建ててある高台が見えると、河岸で待つ、エイドリアンと数名の側近がこちらに気づき、縄を投げてよこした。
河岸にようやく辿り着いた時には、セイラは青ざめて意識がなかった。サリーを呼ぶために王宮へ伝書鳩を飛ばすと、ぐったりして気を失っているセイラを天幕に運び入れて、目覚めるのを待つしかなかった。
静かに上下する胸を見て、確かに生きていることを確認する。ずぶ濡れになり冷えた手を握りしめて、乾いた布で体を包んでやる。生気のない唇に耳を寄せ、呼吸をしているかどうか、何度も確認した。
夜も更け始めかなりの時間が経ち、このまま目覚めなかったらという恐れが脳裏に浮かんだ時、小さな声をあげたセイラが、うっすらと目を開いた。
やっと目が覚めた事にホッとしていると、その瞳から、涙が流れ落ちるのが見えた。
体力に自信のある男でも躊躇する、あの激流に飛び込んだのだ。
どれほど恐ろしい思いをしたことか。
この頼りなく見える娘のどこに、これほどの勇気があったのか。
あれは大きな賭けの瞬間だった。
もとはと言えば自分から逃れたセイラが、あの時、自分の方へ戻る事を選ぶという確信はなかった。
だが、あの時、セイラはルシアから逃れるために、あえて危険な河へと身を投じた。
運命をこの自分の手に委ねたのだ。
託されたその尊い命は、こうして無事に目の前にある。
カスピアンの荒れ狂っていた心は、まるで嵐が過ぎ去った海のように穏やかだった。
一度自分から目を逸らしたセイラが、ためらいながらも振り向いた。潤んだ瞳で自分をまっすぐに見ると、消え入りそうな声で、お礼の言葉を口にする。
今すぐに抱きしめたいという衝動をぐっとこらえ、目覚めたばかりのセイラを見守る。これまでのように不要に怖がらせてはならないと思い、なんと声をかければいいか考えあぐねていた。
カスピアンが黙っていることに困惑気味のセイラだったが、同じ空間にいることを特に嫌がる様子もなく、時折、なにかしら声をかけてきたりする。
明らかに動くのが辛そうなセイラが、一生懸命に自分の腕の手当てをする、その健気な姿に、これ以上自分の気持ちを抑えることが出来なくなった。
その冷えた体を抱き寄せると、セイラが大きく目を見開く。
離れていた間、ずっと思い描いていた蜂蜜色の瞳を見つめ、ルシアに囚われていた間にこの瞳が見て来たものを全て消し去りたいと思った。
少しでも怯える仕草を見せたら身を引くのだと、自分の理性に言い聞かせながら、注意深くその体を倒すと、不安げな表情を浮かべたセイラが戸惑うようにこちらに手を伸ばした。
揺れるその瞳に心の中で語りかける。
恐れるな。
もう、傷つけたりはしない。
セイラ。
口にした最初の言葉は、目の前の娘の名前だった。
わずかに頬を染めたように見えたセイラが、苦しげに数度、瞬きをする。
冷えた頬に唇を寄せると、カスピアンの胸に触れていたその手が小さく震えた。
もう一度瞳を覗き込むと、セイラは眩しげに瞬いて、目を閉じる。
柔らかなセイラの唇に触れると、情熱が全身を攻め立て、狂おしい想いが炎のように身体中を駆け回った。
追い求めた娘が拒絶することなく、その身を任せていることの喜び。
この強い想いをなんと名付ければいいのか。


思いを巡らせていると、抱いていたセイラが身じろぎをして、また、動かなくなる。
顔を覗くと、随分血色が良くなり、唇も色が差し、薔薇の花びらのようだ。
安らかな眠りの中にいるセイラ。
なんと美しく甘やかなのだろうか。
自ずと微笑みが溢れて、その背をそっと撫でる。以前よりさらに華奢になった背中に胸が痛んだ。
エティグスにいる間はずっと、毎日不安で辛い思いをしていたのだろう。
もう二度と、あのような恐ろしい思いはさせない。
この娘はこの手で、全ての脅威から守ってやるのだ。
この先、永遠に。
カスピアンは自分の腕の中で眠るセイラを見つめた。
この娘の心が欲しい。
この世に存在するもの何よりも、この娘が欲しい。
持て余す熱い想いがさざなみのように押し寄せるも、カスピアンの心は安らぎで満たされていた。
自分の腕の中の温もりを再度、しっかりと抱きしめたカスピアン。
連夜続いた苦悩からようやく解き放たれ、ゆっくりと目を閉じた。
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