竪琴の乙女

ライヒェル

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二章

世継ぎ王子の正妃の間

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翌日から3日の間、ずっと部屋に閉じ込められ軟禁状態が続く。サリー達が用事で出入りする時以外はライアーの練習に没頭していた。カスピアンは馬で半日ほどかかる地域に出向いており不在。なんでも、しばらく前から地盤が緩んでいたところで山崩れが起きて、麓の村が他の地域から寸断されてしまったため、災害状況の視察と復旧支援活動の指揮をするために王宮を離れているらしい。
カスピアンの命令で、私は部屋から一歩も出てはならないことになっており、24時間、もう3日もずっとこの部屋に閉じ込められている。
カスピアンの呼び出しも、アポなし訪問も無いから平和といえば平和で、安心してライアーの練習に集中できるけれど、3日間も部屋に閉じこもりっぱなしではさすがに息が詰まる。それに、いつまでこの状態が続くのか先が見えない不安な状態であることは変わらず、このままだと時間の感覚もおかしくなりそうだった。
ため息をついてしまうと、すぐにサリーが、「お寂しいかと思いますが、もうすぐ殿下がお戻りになりますから」と、大きな勘違いをして慰めようとするから、退屈そうに見えないように過ごすのもかなり骨が折れる。
今日も、陽が傾きかけるまでライアーを奏でていた。休憩を取って、ぼんやりと窓辺から外を眺めていると、何やら扉の向こうが騒がしくなったのに気がつく。
これは、まさか……
身構えた直後、案の定、ノックの音もなくバンッと勢いよくドアが開くなり、開口一番、声高に呼ばれる。
「セイラ!」
我が物顔で部屋にずかずか入ってくるのは当然、カスピアン王子。
ついに、視察先から戻って来たらしい。
この人はどうしていつも、ノックをしないのだ!
窓際に立つ私を目で捕らえたカスピアン。
「来い」
そう言われて、ハイと頷くはずがないと未だに分からないのだろうか。
犬じゃあるまいし。
しかも、どこへ何しに行くのか説明もせず。
3日も軟禁状態で放置していたかと思えば、突然「来い」だなんて、失礼にも程がある。
ムッとして身動きせずにいると、イライラした様子のカスピアンが近づき、こちらへ手を伸ばしてきたので、捕まる前に素早く後方へ逃げた。
「せめて、理由くらい言ってくれてもいいんじゃないの?」
そう訴えると、大袈裟にため息をついたカスピアンが、腕組みをしてジロリと私を見下ろした。
「なぜ、俺がおまえに命令されねばならんのだ」
「命令してません!ただ、来いって言われても、それだけじゃ分からないから、質問してるだけです!」
不敬罪と言われて首を跳ねられても困るので、意図を誤解されないよう説明すると、カスピアンは面倒臭そうに髪を掻き上げながら答えた。
「移動だ。おまえの部屋の準備が出来た」
耳を疑った。
おまえの部屋?
「ちょっと待って!何、私の部屋って?」
それじゃまるで、このままこの宮殿に……
嫌な予感に焦りが走る。
「そんなの、要らないでしょう?もうすぐ山に帰してくれるでしょう?」
一縷の望みをかけて訊ねたが、カスピアンは逆に驚いたように目を見開いた。
「誰が山に帰すと言ったのだ」
言葉に詰まる。
それは、誰も、言ってなかったけれど。
てっきり、無実、無害が証明されたら、いずれ解放されるのではと思い込んでいた。
衝撃的な事実に、がっくりと気落ちする。
部屋の外に整列する兵士達の姿に、私には選択権などないことを思い知らされ、無駄な抵抗はやめた。
のろのろと窓辺に置いていたライアーに手を伸ばすと、サリーがベールを持って来て私の髪を覆い隠した。
カスピアンの後ろを歩き、左右を兵士達に囲まれてぞろぞろと回廊を歩く。通りかかる女官や臣下、使用人達が、この仰々しいカスピアン王子の御一行様を見かけると、すぐに端に寄り皆恭しくお辞儀をする。連行される私に向けられる興味津々な視線が、体中を刺すように痛い。
相変わらずこの巨大な宮殿は迷路のようで、どこを見てもどのあたりを歩いているのか、全く見当もつかなかった。いくつもの回廊を右に左にと何度も曲がり、深紅の絨毯が敷き詰められた螺旋階段を上ったところで、ようやく目的地に到着したらしく、前を行くカスピアンの足が止まる。大きな扉の前に立つ衛兵が二名、カスピアンに向かって敬礼すると、重そうな扉をゆっくりと開けた。
カスピアンに続き恐る恐る部屋の中へ足を踏み入れると、まず高い天井から吊り下げられている巨大なガラスのシャンデリアが目に入る。数えきれない数のクリスタルがキラキラと光に反射して、直視するのが眩しいくらいだ。
足を止め、部屋を一周見渡し、驚きで仰け反りそうになった。
先ほどまで居た客室の豪華さを数十倍増加させたような、豪華絢爛で広々とした部屋。もはや部屋というより広間と呼べる、200畳くらいはありそうなこの空間に、金箔や宝石で装飾された美術品のような家具が置かれていた。至る所に複数の彫刻や動物の剥製も陳列されており、壁には誰かの肖像画や風景画が所狭しと飾られている。
「なにを立ち止まっている」
立ち尽くす私の手を掴んだカスピアン。
茫然としたまま手を引かれ、真紅の絨毯の上を歩きながら、ここは部屋ではなく美術館じゃないかと目を疑う。
左手のほうから何かの視線を感じてまた立ち止まると、カスピアンがにやりと笑みを浮かべた。
「あれは俺が仕留めた冬狼だ」
体長は160cm以上はありそうな、銀毛の狼の剥製。
その迫力にびびって言葉を失う。
今にも飛びかかってきそうな姿勢で、青い義眼をぎらつかせている。歯茎をむき出し尖った犬歯を見せ、唸り声が聞こえてきそうな凶暴な顔つきだ。
「あ、あれは……?!」
本棚の前にのっしりと立つ、2メートルはありそうな大きな茶色の影。
「2年前に仕留めた熊」
毛深い焦げ茶色の顔面にはめられた黒いガラス玉の義眼が生きているように爛爛とし、今にも動くのではと怖くなる。
しかもこの熊は、背丈といい、獰猛そうな顔つきといい、このカスピアンそっくりじゃないか!
一体なんなんだ、この部屋は!
絶対にイヤだ!
夜な夜な動物の霊に襲われるんじゃないか。
それに、壁中の肖像画の人物達もじっとこちらを見ているようで気味が悪い。
お化け屋敷みたいな雰囲気で背筋がゾクゾクする。
これってある種の拷問部屋みたいだ!
涙目になりつつ引きずられるように部屋を一通り回ると、今度はバルコニーへと連れ出される。
そこは解放的で広々とした明るい空間だった。手入れされた中庭が見下ろせるし、テーブルやカウチも置いてある。
少しホッとして深呼吸したところで、カスピアンがバルコニーの反対側のガラスの扉を開け、私を振り返った。
「ここがおまえの部屋だ」
「えっ?」
ポカンとしてカスピアンを眺めた。
さっきの、剥製オンパレードの部屋はなんだったのだ?
やっぱり、美術品などを集め飾るための部屋?
でも、確かベッドも置いてあったような。
私が腑に落ちない顔をしていたせいか、カスピアンがふっと嫌な笑い方をした。
「さっきのは、俺の部屋だ」
「オレ……?」
オレって誰?
ふと考えこんで、数秒後に気がつく。
オレって、俺?!
「バルコニーでも繋がっている」
「えっ」
絶句しているうちに、隣の部屋に押し込まれ、サリーが女官達に指示をしながらあれこれ忙しそうに立ち回っているのが目に入った。
ホワイトを基調にピンクや淡いブルーが挿し色の、色彩を統一された美しい家具は、所々に金や銀の繊細な飾りが施され、あっちもこっちもキラキラ輝いている。大きな天蓋付きベッドも、レースの飾りが幾重にも重ねられた上品で豪華なもの。広々とした部屋の至る所に色鮮やかな花が活けられ、部屋全体が甘く優しい香りに包まれていた。衣装部屋らしき奥の方では、女官達が忙しそうに衣装を収納している物音がする。
「お、お断りします!」
考えるより早く、口から飛び出した本音に、カスピアンが訝しげに眉を潜めた。
「何が不満だ。言ってみろ。希望にあわせてやる」
「違うの!」
「何がだ」
「私は、こんなところじゃなくて、山に、お、お父様と、お母様のところに戻りたいだけで……」
「それは、許さん」
あっさりと突っぱねられ、それ以上は聞く耳は無いと威圧する鋭い目で睨まれた。
猛烈に悲しくなって、口をつぐむとカスピアンに背を向けた。
背後で、大袈裟なため息をつくのが聞こえたが、やがてカスピアンの足音がして、騒々しい兵士の一団と共に彼は去っていった。
この宮殿の奥深くに閉じ込められ、しかも熊男カスピアンの隣の部屋とは、ますます監視が厳しくなるのが明らかだ。
気落ちしてうなだれていると、サリーが近寄ってきて、私の手を取るとカウチに座るように勧めた。しぶしぶカウチに腰掛けて、再度、部屋を見渡す。
これぞ、お姫様のお部屋という美しくも豪華な部屋だ。
お城ホテル滞在を体験する女子会の場であれば、それは楽しいことだろう。誰だって、こんなプリンセスのような部屋に憧れたことはあるんだから。
でも、今回は、表面上は絢爛豪華な家具で飾り立てられた、事実上の牢屋だった。
「サリー、どうして、私はまだ、山に帰してもらえないの?どうして?」
彼女を責めるのはフェアじゃないと分かっていても、もう我慢出来ない。
サリーは困惑したように黙っていたが、やがて、諭すようにゆっくりと説明をする。
「セイラ様、貴女はカスピアン王子が王宮に招き入れた貴賓なのです。エランティカの乙女だと噂がされている御身を危険からお守りするために、王宮内で一番安全である場所、つまり、王族の方々が居住するこの奥宮でお住まいいただくことになったのです」
「だから、私はエランティカの乙女じゃないのに。山から王子が狸をさらうように誘拐された庶民!サリーも知っているでしょう?」
御身をお守りするとか大層な綺麗事を言うけど、大体一番危険なのが隣の住人、暴君カスピアンじゃないか!
心の中でそう叫ぶ。
サリーが眉をひそめて首を左右に振る。
「セイラ様、エランティカの乙女であるなし以前に、既に危険なのです」
「どうして?」
わけが分からず、聞き返すと、サリーが言いにくそうに一度目をそらした後、仕方ないというように重い口を開いた。
「……カスピアン王子が、セイラ様をお妃にされるという話も出ていますから」
「え?今、なんて……」
耳を疑う言葉に、何か聞き間違えたに違いないと思い、聞き返すと、サリーが今度は、はっきりとした声で私に言った。
「カスピアン王子が、ついにお妃を娶る気になったと。それが、ご自身で選んで王宮に迎えた、セイラ様だという話が出ています」
「えっ?! な……な、な、なんでそんな、根も葉もない話が、うっ!」
気が動転して慌てた拍子に舌を噛み、激痛に両手で口を押さえた。
血の味が広がる中、ワナワナと武者震いしていると、サリーが苦笑いしながらガラスの水差しを手に取り、グラス半分の水を注ぎ入れ、私の前に置いた。
そして、くるりと部屋を見渡して、満足そうににっこりと微笑む。
「この部屋は、カスピアン王子の正妃様用の空き部屋だったのです。しばらく前に殿下が、これまで一切手付かずだったこの部屋の内装から調度品の準備などを指示され、今日やっとこうしてお部屋が整いました」
話しながらも段々と目が輝き出すサリー。
「陛下の体調が思わしくないため、一刻も早く、世継ぎ王子であるカスピアン様には、せめてお一人でも妃を迎えてもらいたいと国中が願っております。殿下の幼き頃よりお仕えしている私としては、あの晩、夜半過ぎにセイラ様を宮殿へお連れになった殿下を見た時には感極まる思いで、神々に感謝の祈りを捧げました」
開いた口が塞がらず、茫然としてサリーを眺める。
感謝の祈り?
何を言っているの?
誘拐されてきたこちらの身にもなってほしい!
「湖畔でセイラ様を目にされたという晩から、殿下はほぼ毎晩外出され、行方をお探しになっていたんです。日中は政務でお忙しいのですから、それこそ、空いている時間があれば必ずお探しに出かけられておりました。あの夜、ルシア王子をお迎えした夜宴の最中に私をお呼びになり、夜半過ぎにまでに客室を整えるよう命じられた時、ついに竪琴の乙女の居場所を突き止められたのだと知って、どれ程嬉しかったことか!」
その時の感激がぶり返してきたのか、やや興奮気味のサリーを前に、私は頭を抱え込んだ。
カスピアン王子に絶対なる忠誠を誓うサリーは、居場所を突き止められ大迷惑している私達の立場なんて、全然考えもしないらしい。
到底私の気持ちなど分かってもらえないのだろう。
まずはその、見当違いも甚だしい、お妃云々のところだけはなんとかせねば。
私はグラスの水を一気に飲むと、大きく息を吸い込んだ。
「ともかく!妃なんて、ありえないから!噂なんて信じない方がいいよ、暇人の妄想が一人歩きしてるだけだったっていずれわかるから!」
何を言ってもサリーには届かないかもだが、こんな噂が広まるのだけは黙認出来ない。
「大体ね、カスピアン王子も、妃にする相手だったら、こんな、狩りで捕まえた動物みたいな酷い扱いするわけないでしょう?人のこと、引きずり回すわ、怒鳴りつけるわ、監禁するわで、一人の人間としてさえ尊重されていないの、サリーも見てるじゃない」
紛れも無い事実を突きつけると、サリーは少しだけ怯んだように押し黙ったが、それでも諦めきれないのか、切々と反論してくる。
「確かに多少乱暴なのは、王子のご性格ですから、仕方ありません。でも、セイラ様が、特別な扱いをされているのは揺るぎない事実であるとご理解ください。お忙しい殿下が、わざわざ客室まで足を運ばれ、セイラ様に会いにいらしてたのはご存知でしょう。今日だって、半日かけて視察先からお戻りになったその足で、セイラ様のところへいらしたんです。それに、カスピアン様が、国王陛下の前に、ご自身の意思で姫君を御連れになったのは、先日のお茶会が初めてです。セイラ様のお手を引いて、陛下の前まで行かれたのを、私も遠目ながら拝見いたしました」
「あれはだって、筋肉痛で、一人で階段を上ることが出来なかったから……」
「本来ならば、王族が招いた客であっても、位のない者は末席に控えるのが常です。国王主催の席で、竪琴を奏でるために招かれた庶民のセイラ様が、国王の次の位にいらっしゃる世継ぎ王子の隣に座るのは異例中の異例だったのですよ。恐らく殿下は、万が一の危険も考えて、お側におかれたのだと思いますが」
「万が一の危険?どうして危険なの?」
腑に落ちず、素朴な疑問を投げかけると、サリーがやや呆れたように目を丸くした。
「セイラ様、お考えください。エランティカの乙女と噂されるだけでなく、世継ぎ王子の妃となる姫君が突然現れたとなれば、快く思わぬ者も少なくないでしょう。良からぬことを企み実際に行動に起こさぬとは限りません」
「良からぬこと……ってつまり、私の命を狙う……ってことだったり?」
物騒な話に、恐る恐る尋ねると、サリーがゆっくりと、深く頷いた。
「残念ながら、先ほど、準備されていた衣装箱の中から、毒針が見つかりました。ここへ搬入する前の事前検査で発見されて既に処理済みです」
「えっ、毒針!?」
ギョッとして思わず立ち上がる。既にそこまで切羽詰まった危険な状況に置かれているなんて、知らないのは自分だけだったのか。
「それって……王子も、知ってるの?」
「もちろんです」
「だ、だったら尚更、早く山に帰して欲しいんだけど!こんなところに、居たくない!」
恐怖に身震いし、悲鳴をあげると、サリーが立ち上がって私をなだめるように背を撫でた。
「不安に思われることを申し上げてしまいましたが、セイラ様にはもう少し、ご自身の立場をわかっていただきたいのです。セイラ様の身の安全を確保するために、殿下は常時気を配っていらっしゃり、セイラ様の知らないところでも日々、様々な手配がされているんですよ。しかも、ここは殿下の目の届くお部屋ですから、ここに居る限り安心してお過ごしいただけることを、私がお約束します。それに、王子ご自身がお選びになった女官だけで身の回りをお世話していますから、どうぞご安心ください」
「でも!」
「お待ちください」
サリーに呼ばれて、衣装部屋の整理をしていた女官二人がこちらにやってきた。
エリサとアリアンナはサリーの直属部下で、私が王宮に連れてこられてからずっとお世話してくれている女官だ。二人ともにっこり微笑んで、私に向かってお辞儀をする。
きっとまだ、17、18歳くらいじゃないかと思うが、とてもしっかりしている二人だ。
勿論、彼女達に支えてもらうのはそれは心強いとは思うが、それでも、安心するとか落ち着くとかいう気分にはなれない。
毒針。
つまり、私を殺そうと考えている人がいるということだ。
これは、絶望的な状況だ。
カウチの肘掛けに寄りかかり、はぁと大きなため息をついたら、サリーが思い出したように手を叩く。
「大事なことをお伝えし忘れておりました」
「なぁに。何か、少しでもいいことが……」
ぐったりとカウチに身を沈めていると、サリーが笑顔で頷いた。
「明後日からは、ご自由に王宮内を出歩かれてよろしいんですよ」
「えっ、本当?」
「勿論、私どもや警備のものがお伴しますが」
「あ、そう……」
ほら、やっぱりオチがあるじゃないか。
「それから」
サリーが饒舌になる。
何を言うかと思えば、明日以降、何やら教育を受けることになるとか、衣装のサイズ調整をしなければならないとか、神殿の祭儀がどうだとか、私の興味を全くそそらないことばかりだ。
しかも教育だなんて、どういうことだ。
何で私がこんなやりたくもないことをやらされる羽目になるのか。
拒否権が一切ないということも我慢がならない。
「最後に」
サリーの話はほぼ全て上の空で聞いていたが、やっと最後だというので顔をあげた。
「夜、お休みになる前に、バルコニーで竪琴を奏でていただきたいのです」
「バルコニーで?なぜ、夜に?」
何故場所と時間を指定するのかと思っていると、サリーが声を潜めて、私だけにしか聞こえないように答える。
「この数日、国王陛下は時折セイラ様の竪琴を聴くために、客室の近くまでいらしていたんです。夕暮れにしばらく聴かれると夜にゆっくりお休みになれると大変喜んでいらっしゃって」
「えっ」
「陛下は、正妃シルビア様を亡くされてから、ほとんど眠ることが出来ず、お身体に様々な不調が出ており、この1年半はほぼ完全に政務から遠ざかっていらっしゃいます」
病に伏せっているというのは、どうやら、正妃が亡くなったショックに起因する不眠症から起こる体調不良のことらしいと分かり、私は神妙に頷いた。
「カスピアン王子殿下と、セイラ様のお部屋の真上が、陛下の寝室となっておりますから」
つまり、夜、寝付くことが出来るように、ライアーを奏でて欲しいということだ。
「そういうことなら、勿論……」
憔悴した顔が痛ましかった国王を思い出し、ここに居る間は、それだけは言われた通りにしようと大きく頷く。
それに、国王の体調が良くなったら、直訴して、王宮から解放してもらうことだって可能かもしれない。なんたってこの国で一番偉い、国王陛下なのだから。
利害関係や損得の有無も気になるけれど、音楽療法で少しでも病む人々の救いになりたいという夢があった私には、ライアーの癒しの力を、気の毒な国王の為に発揮できればそれだけでも嬉しいことだ。
「朝はろくにお食事もされなかったのが、この頃は気分が良いとおっしゃって、少しずつお召し上がりになられているそうですよ」
サリーがそう言って嬉しそうに微笑んだ。
音楽療法は人により効力がすぐに現れることもあれば、ゆっくりと効いてくることもあるので試してみないと効果のほどはわからないものだが、国王とライアーの音浴療法は相性がいいのかもしれない。
今後のことは近いうちにカスピアンに問いただすしかないと腹をくくり、ひとまず新しい部屋での生活に慣れようと決心した。



夜の湯浴みを終えると、サリーを残して、エリサとアリアンナは下がっていった。彼女達は女官達が集まって住む寮のような場所で休むらしいが、サリーは王族に直に仕えている高級女官であるため、この奥宮の階下に一人部屋が与えられているそうだ。つまり、私がベッドに入るまでここにいて、私が起きる時間にはここに来るという、かなりハードな仕事を担当しているわけだ。
「サリー、後は自分で出来るから、もう下がって休んだら?」
真っ白なシルクのナイトドレスを着せてもらった後、遠慮するサリーを追い出そうと扉を開けたところ、目の前に槍を持った衛兵が二人直立していたので驚いて腰を抜かしそうになった。カスピアンの部屋の入り口に居たように、ここにも警備する兵士が居たのだ。外から鍵をかけられ閉じ込められてはいないけど、出入りを監視する衛兵が24時間ずっとそこに立っているのも気が滅入る。
なんとかサリーを追い出して扉を締め、ようやく一人になって、大きく伸びをした。
今晩もひどく疲れた。
部屋にある時計に似た記号盤を見ると、恐らく夜の8時とかそんなものだろう。
暖炉の上の飾り棚に置いてあったライアーを手に取り、アンリに作ってもらったレンチで調弦を済ませると、約束通り、バルコニーへ出た。
いつの間にか新しい大きなクッションが敷かれていたカウチに腰掛け、深呼吸をして夜空を見上げた。乳白色に輝く満月があたりを照らし、ひんやりとした夜風が頰を優しく撫でていく。
毎晩、窓際でライアーを奏でながら、暖炉の前のロッキンチェアで居眠りを始めるアンリを見て、ヘレンと一緒に笑っていた、あの、のどかな夜更けを思い出し、キリキリと胸が痛む。二人はきっと全く音沙汰のない私のことをとても心配していることだろう。せめて、手紙でも出せたらいいのに。
この音楽が、夜空を飛んで、彼等の耳にまで届きますように。
目を閉じて、そっとライアーの弦に指を伸ばした。
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