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待ち受けていた景色

その先の道しるべ

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全くその気配に気がつかなかったことに驚くが、よく考えたら、敷き詰められたカーペットでは、ダニエラのハイヒールの足音も聞こえなくて当然だ。
「……これは、どういうことかしら?」
明らかにショックを受けた様子でこちらを見るダニエラ。
その表情は人間のものとは思えないほど冷酷だ。氷のように冷たい視線をこちらへ向けている。
それはそうだろう。
娘のクララが、彼女の忌み嫌う私と一緒に座り、しかも手を繋いでいたわけだから。
一方、私達も心の準備をする間もないうちに不意にダニエラが現れたため、言葉が出ない。
呼吸さえ許されないような緊張が辺りを覆う。
深紅のスーツと、同じく真っ赤なルージュを唇に引いたダニエラは、一切の感情を失った顔つきでこちらを凝視している。
「クラウスが、クララを連れてこちらへ来ると聞いていたのに、どうして貴女までここにいるのかしらね」
ダニエラが憎しみを浮かべた目で私を見た。
そしてゆっくりと娘のクララへ目を移す。
「クララ?貴女がどうしてこの娘と一緒にいるのかしら?」
冷ややかな声が響く。
ダニエラはゆっくりと、クララと私を順番に眺めた。
「クララ?こんな娘にくだらないことを洗脳されるほど、愚かな貴女ではないわよね?」
辛辣な言葉が放たれて、思わず息を飲んだ。
すると、私の手を握りしめていたクララが、そっと手を離した。
驚いていると、彼女はゆっくりと立ち上がった。
私は信じられない思いで彼女を見上げる。
クララは顔色はよくなかったものの、とても落ち着いているように見えた。
心を決めたというような決意のみなぎる強い視線を、まっすぐに自分の母親へ向ける。
私は息を飲み立ち上がった。
そして、クララは口を開く。
「ママ。私は、クラウスでなく、カノンに会う為にベルリンへ行ってたのよ」
「……なんですって?」
ダニエラは驚きの声をあげ、大きく目を見開く。
私の隣に立つクララが、ゆっくりと静かに深呼吸をするのが聞こえて、彼女はついに、その言葉を口にした。
「私は、彼の子供を身籠っているの」
クララの透き通った静かな声がリビングに響き、その場は凍り付いたように空気が止まる。
数秒後、ダニエラの腕から深紅のバッグが滑り落ちた。
彼女の足下に転がる、エルメスのバーキン。
ダニエラはそれを拾う事も無く、直立不動だ。
恐る恐る彼女の顔を見ると、驚愕を通り越し完全に無表情になった蒼白のダニエラが、呆然自失という状態でクララを見つめていた。
それから、その真っ赤な唇が動き、彼女の震える声が問う。
「……彼、の子供とは……あの、長髪に髭の、汚らしい男のことを言っているの?」
「名前は、ラルフというの。彼を汚らしいなんて言わないで」
母に反抗するように、クララは静かに答えた。
次の瞬間、ダニエラの悲鳴のような激しい怒号が飛ぶ。
「クララ!!!貴女、そんな愚かなことを!」
足下のバッグを踏みつけ、大股で歩いてこちらへ来たかと思うと、彼女は娘の肩を掴み、荒々しくソファに押しつけた。
「許されると思っているの!別れろと言ったのに、なぜ妊娠なんかしているの?!汚らわしい!発情期の雌犬と変わりないじゃないの!」
髪を振り乱してソファに倒れ込むクララを怒鳴りつけるダニエラの恐ろしい形相に私も震え上がった。
「私は産むと決めたの!離して!いやっ!」
クララがダニエラを押しのけようともがくと、ダニエラがカッと目を剥き、右手を空に挙げた。
「やめてっ」
私は咄嗟にその手にしがみついた。
「どきなさいっ!」
ダニエラがものすごい力で私を押しのけようとしたが、私は絶対に離すつもりはなかった。
何が何でもこの手は離さない。
私を振りほどこうとするダニエラと、絶対に離すまいとしがみつく私が激しく揉み合うのを見て、クララが悲鳴をあげた。
騒ぎを聞き付けたのか、誰かがテラスのほうから走って来る足音が聞こえて来る。
怒り狂っているダニエラには何も聞こえてはいなかった。
彼女は突然、私が掴んでいないもう片方の手でクララの肩を掴み、つんざくような大声で叫んだ。
「許さない!私は許さないわ!すぐに堕ろしなさいっ!」
「嫌よ!絶対に、嫌!この子は、産みます!」
泣きながらもはっきりと拒否の言葉を口にしたクララに、ダニエラは絶望の叫びをあげた。
「許せないわ!許すものですかっ」
次の瞬間、ダニエラがクララから手を離し、いきなり私を振り返ると両手で思い切り突き飛ばした。同時に誰かの悲鳴があがり、その時私は自分がバランスを崩して後ろへ倒れることに気がつく。
ガシャン、と何かが割れる凄まじい音と、地響きがするような重い落下音が聞こえ、強い衝撃と共に私は上半身を壁にぶつけて倒れ込んだ。
あたりに連続で響く激しい音に思わず目を固く瞑る。
「……カノン!」
マリアの悲鳴が響く。
はっとして見れば、壁にぶつかり床にうつ伏せに倒れ込んでいる私の周りは白い煙が立ちこめ大小の石膏の欠片が散らばっている。カーペットは一面、その破片と白い粉にまみれ、ソファの側に、白大理石の分厚い台も落ちている。
見上げれば、陳列台の上に置いてあったはずの石膏の胸像が消えていた。
自分の周りを見渡して、私は胸像にぶつかり倒れたのだと気がつく。
呼吸をした直後、白煙を吸い込んで咳き込んだ。
「カノン!怪我はっ?」
マリアが私の所へすっ飛んで来た。
「なんの音だ!?」
ヨナスの大声に顔をあげると、テラスのほうから、ヨナスに続いて、クラウスとカールが入って来るのが見えた。
「クラウス!ダニエラが、カノンを突き飛ばしたのよっ!石膏像にぶつかってここに倒れてるわ!」
マリアの声に、ソファの後ろで見えなかった私達に彼等が気がつく。
クラウスが真っ青になってこちらへ早足でやってくると、カーペットの上に散らばる石膏の欠片を手早くどけ、私の側に来て膝をついた。
ヨナスが、泣いているクララに掴み掛かっていたダニエラの腕を引きはがしているのが見える。
「カノン」
クラウスに声をかけられて、はっと我に返った。
「……大丈夫……びっくりしたけど、別に怪我はしてないから」
マリアとクラウスが真っ青になっているので、逆に冷静さを取り戻してそう言うと、二人が少しだけほっとしたように顔を見合わせた。マリアが涙目で微笑み、私の体についている石膏の欠片を丁寧に指で取り除き始めた。
「動けるのか?」
クラウスが慎重に私の肩を掴み支えてくれたので、私も両手を付き身を起こそうと腕に力を籠めてみた。
「あっ、あいたっ!」
右足に走る激痛に思わず悲鳴をあげてクラウスにしがみついた。
動こうとすると右足に激痛が走る。
「お医者様に連絡をします。診察に行く手配をしましょう」
カールがそう言うと素早く姿を消した。
「足をくじいたのかもしれない。骨折していなければいいが……」
クラウスが低い声で冷静にそう呟き、ゆっくりと私のお腹を抱く様にして動かしてくれた。体のあちこちがズキズキと痛んで、私は声をあげないように唇を噛みしめる。
なんとか上半身を起こして壁に寄りかかるように座ると、クラウスが慎重に私の脚に触れて、履いていた茶色のショートブーツを脱がせてくれた。足首のあたりだけが赤らんでいるだけのように見えるにも関わらず、右足全体がものすごく痛くて、1ミリも動くことが出来ない。じんじんと痺れ、特に右膝の下は全体が腫れているように重く感じる。
力を入れられないせいもあるが、右足が自分のものじゃないような感覚がした。ソファからクッションを取るとクラウスがそっとそれを私の右膝の下へ差し入れる。
「そのまま動かさないように」
彼は静かにそう言うと、一度私の頬に触れてから、ゆっくりと立ち上がってダニエラを見た。
見上げれば、これまで見たクラウスとはまるで別人のような、激しい憎悪を帯びた表情をしている。
私は緊張とショックで急に体がぶるぶると震え始めた。
クラウスの手が、青白くなるほどきつく握りしめられているのが見えて、何か得体の知れない恐怖感で思わず目を瞑った時、静かな声が聞こえた。
「……何の、騒ぎだ?」
ユリウスが、来た……
一瞬で血の気が引く。
私は固く瞑っていた目を開き、その声が聞こえた方を見る。
テラスから入って来たユリウスが、厳格な表情でまずダニエラを見た。
それから、ゆっくりと状況を確認するようにあたりを見渡す。
ソファに寄りかかり静かに泣いているクララ。
その目の前で仁王立ちになっている放心状態のダニエラと、そのダニエラの腕を掴んでいる鬼の形相のヨナス。
大小様々に割れた石膏の欠片が散らばるカーペット。
ソファの隣に落ちている白大理石の台。
壁に寄りかかって座っている私は、全身に石膏の屑を被っている。
そして、その私の側に座っている涙目のマリアと、隣に立つ、顔面蒼白のクラウス。
誰も、何も言わなかった。
静かにすすり泣くクララの泣き声だけがリビングに響く。
やがて、マリアがゆっくりと立ち上がると、クララの側に行き、何か声をかけた。
多分、この場にこれ以上クララを置いておくのは良くないと判断したのだろう。
マリアに肩を抱かれて、クララはゆっくりと立ち上がり、部屋を出て行った。
それを見て、私は少しほっとする。
「……クララは恋人の子を身籠っているんだ」
ヨナスがそう言うと、ダニエラが悲鳴のような声をあげ、ヨナスに掴まれていた腕を振り払った。
「終わりだわ!もう、すべて終ってしまったわ!!!」
そう叫ぶと、両手で顔を覆い、わっと泣き出してカウチに崩れ落ちた。
ユリウスは固い表情のまま、泣き崩れたダニエラを一瞥し、それからゆっくりと私のほうを見る。
彼は悲しそうに眉をしかめると、掠れ気味の声で聞く。
「これは、ダニエラの仕業ということか」
その言葉に、私は慌てて首を振った。
「いえ、あの、これは、事故、です……ごめんなさい、胸像が壊れて、あの……ぶつかって……」
舌がもつれてうまく喋れない。
必死で弁明しようとしたが、ユリウスは大きく溜め息を付いて首を左右に振った。
「どうやって君に謝罪すればいいのか、思いつかない。カノン、大変申し訳ないことをしてしまった」
「違う……違うんです、これは……違う……」
私は困惑して何かを言おうとするが、体の震えのせいで言葉もうまく出て来ない。
ユリウスは悲しそうに目を伏せて、それからカウチに顔を埋めて泣きじゃくっているダニエラを見下ろした。
そして、静かに、はっきりとその言葉を口にした。
「ダニエラ。私達は、終わりだ。別れよう」
その言葉に、ダニエラが顔をあげてユリウスを振り返った。
絶望の色を浮かべた目。
あの美しかった顔が涙で濡れて老女のように歪んでいる。
ユリウスは哀れみの表情で彼女を見つめた。
「もっと早く、終わりにしておくべきだった。おまえのためにも、私自身のためにも。そして、周りの皆の為にも。せめてもの償いに、おまえたちの生活の保証は約束しよう」
「あなた……」
ダニエラは力なく一言そう呟くと、諦めたように静かに目を伏せた。
その横顔はまるで死人のように生気がない。
魂を抜かれたかのようにうなだれるダニエラの姿に、胸が苦しくなる。
彼女もまた、深く傷ついているのだ。
「おまえをこのように歪めてしまった責任は私にもある。悪かった。私を許してほしい」
ユリウスは静かにそう言うと、戻って来ていたカールに言う。
「ダニエラを連れて行ってくれ。今後はイヴァンを通すことにする」
カールは頷いて、転がっていたダニエラのバッグを拾い、彼女に近づく。
彼女は抗う余力もないのか、素直にカールに支えられ立ち上がると、頭を垂れたままこちらに背を向けた。
その背中にユリウスは静かに声をかける。
「娘の幸せを第一に考えるんだ。娘の幸せは、いずれおまえ自身の幸せに繋がる。クララは、いい娘だ。大切にしなさい」
ダニエラは一度立ち止まったが、ユリウスを振り返る事も無く、やがてゆっくりと立ち去って行く。
気のせいか、彼女の肩の力が抜けて、何かに解放されたような後ろ姿だった。
これで、終ったのだ。
ダニエラの孤独な戦い。
彼女を脅かし続けた幻との長期に渡る戦いに、ついに終止符が打たれた。
彼女が愛したユリウスの心から消えない、レオナという女性の影は、これほどまでに彼女を狂わせた。
その救いようのない嫉妬は、彼女自身を束縛する無意味なものだったはずだ。それでも、自分の存在価値を脅かす幻は、常に彼女につきまとっていたのだろう。彼女の愛したユリウスを見るたびに、その幻は彼女を苦しめ続けていたに違いない。
別れという悲しく辛い決断となったけれど、ダニエラにとっても、ユリウスにとっても、いずれは通る道だったのだろう。
でも、終わりは始まりだ。
終わりが来なければ、始まりも来ないのだから。
私は、祈る様な気持ちでそう自分に言い聞かせる。
ダニエラも、クララも、そしてユリウスも、必ず、それぞれのために神様が準備してくれた自分の道を見つけるだろう。
彼等をその先の幸せへ導いてくれる道しるべが、未来にはある。
それを見つける瞬間が、一瞬でも早く訪れますようにと、私は心の中で強く願った。




それから、私は足を保冷剤で巻いて冷却しながら、クラウスに抱えられ、ヨナスの運転で病院へ行った。
診察の時、ナースがヨナスとクラウスには待合室で待つようにと指示したが、クラウスは私に付き添うと言い張ってしばらく揉めた。服を一部脱ぐ可能性があったから男性を外そうとしたらしいのだが、結局ナースが、私さえ構わないのならと了承したので、私はしぶしぶ付き添いをOKした。
ナースが車いすを準備してくれていたけれど、私の意思を聞きもせずクラウスがそれを断ってしまい、私は彼に抱きかかえられて診察室のほうへ向かう羽目になった。
他に数人患者が待っている待ち合い室で、ソファに座っているヨナスが、なんだかニヤニヤと変な笑いを浮かべて手を振っているのが見えて、私は赤面した。
皆の興味津々な視線に恥ずかしくなり、クラウスの耳に小声で囁いた。
「診断の結果は一緒に聞くんだから、診察は付き添わなくても、私、子供じゃないんだし」
「何を言うんだ。俺も打撲の状態を確認しておきたいし、脱ぐ必要があるなら、俺が手伝ってやる」
「なっ……クラウス、そういうのは、ナースがやってくれるからっ」
「なぜだ?慣れている俺のほうがいいだろう?」
真顔で聞き返すクラウスに、恥ずかしさで返す言葉も出ず、私は溜め息をつく。
何か言おうかと思ったけれど、彼が私の怪我をとても心配していることは分っているので、その気持ちを考えるとこれ以上、不満を言うことは出来なかった。こんなに心配されているのに不満を言うなんて、我が侭だ。
診察室では、私達より少し年上くらいの男性医師が待っていた。クラウスが簡単に状況を説明すると、最初にレントゲン写真を撮るようとのことで、隣のレントゲン室へ案内される。
診察室へ戻って待っていると、すぐにレントゲン写真が医師のところへ届けられた。しばらく写真を見ていた医師が、小さく頷いて私達を振り返った。
「骨折はしていないので、捻挫ですね」
それを聞いてほっとしていると、医師が診察台に座っている私のところへ来て、ゆっくりと右足を診始めた。腫れ具合や、どこまで動かせるのかなど調べた後、軽度の捻挫ということで、ギブスを装着する必要はなく、弾力包帯固定を装着し、なるべく安静にということだった。
ナースが弾力包帯固定を施してくれる間、時々痛みで声が出そうになったが、じっと我慢する。しっかり固定されると、不思議と痛みが和らいだ。
「後は、打ち身の確認をしましょうか」
医師がそう言うと、ナースが私の側にやってきた。
こんな時に限って、上下別の服でなくて、マスタードイエローのニットワンピース。
しかも、ボタンで少し開けるとか出来ないタイプで、頭から被るものだった。つまり、このニットワンピースを脱がないと何も見えない。
女性医師だったらまだしも、さして年齢の違わない、アラフォーの男性医師。別に、医者は女性の半裸姿なんて珍しくはないだろうが、患者のほうは、他人にそんな姿を頻繁に見せるわけじゃないので、必要以上に緊張してしまうものだ。
己の運の悪さに溜め息を付く。
恐らく、クラウスがそこに居るというのが尚更居心地が悪い原因のひとつだろう。ちょっとだけ、席を外してくれたら……と思いながら彼を見たが、とても真剣な顔でこちらを見ているので、私の考えていることなんて気がついていないかもしれない。
「では、少し手を挙げてください」
ナースに言われ、諦めた私は素直に頷いた。
下からめくり上げられるようにワンピースを脱がされ、私はスリップ姿でふてくされていた。せめてもの救いと言えば、華美な装飾のないネイビーブルーのワンピースドレスっぽいスリップだったことだろう。ニットワンピースを着る時は、下に着ているものの凹凸が浮いて見えやすいので、スリップや下着は、ラインが滑らかで装飾がないシンプルなものを身につけるように気をつけている。
医師が丁寧に、打撲の箇所と腫れ具合、その大きさを調べていく。
「肩や背中にも、打撲があるようですが、骨に異常があるところはないですね。最初は冷やす処置が効果がありますが、場所的にアイシングし続けるのは難しいので、自然治癒を待つしかないでしょう。しばらくして筋肉細胞組織の回復期間に入ったら、捻挫同様、打撲も温熱療法が有効です。何カ所か打撲の範囲が大きいので、内出血の跡が消えるまでしばらく時間がかかりますが、いずれは奇麗に戻ります」
医師がそういって、めくっていたスリップから手を離すと、少し風を感じて寒気でぶるっと身震いした。
クラウスがすぐに、横のバスケットに入れてあった私のニットワンピースを取って私の頭に被せる。襟ぐりから髪を出して、静電気でぼさぼさになった私の髪を丁寧に整えてくれるクラウスを見上げたら、彼はとても難しい顔をしていた。
「数日で歩行は出来るようになりますよ。今日は、松葉杖を貸し出しておきましょう」
医師が診断書に記入しながらそう言って、私達を見ると、穏やかに微笑んだ。
「石膏の胸像にぶつかった割に軽傷で済んだのは、運が良かったですね。無理せず、お大事に」
「有り難うございました」
お礼を言った後、私はナースに車いすをお願いして持って来てもらった。
車いすに座るとクラウスがゆっくりと後ろから押して、診察室を出る。
「予想以上に打撲箇所が多かった」
「そうなの?」
私自身は自分の背中は見えないのでその酷さはわからないが、打撲の内出血の具合を間近で見たクラウスにはかなりショックなものだったらしく、彼の顔色は良くなかった。





「落ちて来た大理石のプレートが直撃しなかったのは不幸中の幸いだったな。ほんの5cm落ちる場所が違ったら恐ろしいことになっていただろう」
帰りの車の中でヨナスがそう言うと、クラウスは大きく溜め息をついた。
「想像したくもないことを言わないでくれ。考えただけで生きた心地がしない」
「でも、クララじゃなくて私で良かった」
後ろからそう言うと、クラウスが振り返って呆れたように私を見た。
「君がそう思うのは構わないが、俺はとても、そういう風には考えられない」
「同感だ。クララが身重だから、理性的に考えれば確かに彼女が無傷でよかったとは思うが、感情論で言えば、第三者の立場でえあるカノンがあの母娘の問題に巻き込まれたことは許し難い。君はもう、俺たちの家族みたいなものだろう?」
ヨナスがそう言ってバックミラーごしに私を見てウインクした。
私はちょっぴり照れくさくなって窓の外を見た。
皆に迷惑を掛けてしまったけれど、身籠っているクララに暴力を振るわれるくらいなら、私の捻挫なんてたいしたことはないだろう。
運良く、骨折もしてないし、流血するような傷もない。
胸像の側に、ガレのステンドグラスランプもあったけれど、あれが壊れていたらもっと大変な怪我になっていたかもしれなかった。
ともかく、軽傷で済んだことは運に感謝しなくてはならない。
病院に居る時にカールからヨナスへ連絡があって、ダニエラはドレスデンの市内のホテルへ移動させられて、クララは別のホテルへマリアの付き添いで移動したらしい。
明日、クララの父親が彼女を迎えに来てくれることになっていて、ダニエラのほうは自分でミュンヘンの別邸へ移動するようにとユリウスが伝えたそうだ。ユリウスはイヴァンに離婚調停の指示を出したらしいが、ヨナスの話だと、ダニエラが気に入っているミュンヘンの別邸はそのままダニエラに譲り、財産の一部を譲渡する形で協議離婚の手続きに入ることになるだろうとのことだった。
ヨナスの携帯が鳴り、運転中のヨナスに変わってクラウスが出ると、マリアからの電話だった。
マリアが甲高い声で何かを一気に捲し立てるのが聞こえ、クラウスが一言「オッケー」と答えるなり、通話が切れた。
相変わらずの通話時間の短さに笑っていると、クラウスが電話をフロントに置きながら言う。
「マリアが、今晩はもう、ベルリンに戻るのは止めて一泊したほうがいいだろうから、このまま彼女が市内を回って、全員分の着替えを買ってくると言っていた」
それを聞いたヨナスがぷっと吹き出す。
「俺達もいい加減、学んだ方がいいな。ミュンヘンの時といい、今回の時といい……今後は遠出する時は念のため、宿泊の準備くらいしておこう」
「ほんとね」
私も可笑しくなって笑い出した。
手際のようマリアのことだ。買い物をするお店を直感で決め、必要なものを一気に選んでさっさとレジで会計を済ませてくるだろう。これまで、彼女のような決断力、行動力のある女性に出会ったことはない。

屋敷に戻ったときにはもう、夕方の6時を過ぎていて、すっかり暗くなっていた。
夕食の後にベルリンへ帰ろうと思えば帰れたけれど、いろいろあったし、皆疲れているのでこのまま一泊するほうが無難だろう。きっとユリウスも、そのほうが寂しさも紛れるに違いない。
車から降りる時に、病院から借りて来た松葉杖を試しに使おうと思って、トランクからそれを出してもらうのを待っていると、クラウスがすぐにやってきて物も言わずに私を抱き上げる。
屋敷の入り口に、カールや他の使用人もいるので恥ずかしくなって慌てた。
「クラウス?松葉杖あるし、自分で行くから」
「いや、階段で転ばれたら困る」
「でも、なんだか子供みたいで……恥ずかしいんだけど」
そうは言ったけれど、クラウスは返事もしないでそのまま私を抱えて階段を上って屋敷内に入る。後ろからヨナスが、私が借りた松葉杖を小脇に抱えて上って来るのが見えた。
「ご宿泊されると伺ったので、それぞれお部屋を整えてあります」
「ありがとう」
カールにそう言って、クラウスはそのまま螺旋階段を上り始める。
さすがに抱えられたまま階段をあがっていくのは怖くて目をつぶってしまった。揺れるし、高さもあるし、空中に浮いている感覚は怖い。2階に上がるだけといっても、天井がとても高いので、感覚的には3階まで上がった高さだ。
「まだ俺の部屋は見ていなかっただろう?」
「え、クラウスの部屋があるの?」
「実家に戻って来る時に使っている部屋だ」
2階の長い廊下沿いにいくつか扉がある。
「向こうの角がニコルの部屋だ。あちらの二部屋は来客用。俺の部屋はこちらの角で、ヨナスの部屋はこの上の階にある」
「いくつも扉があって迷子になりそうだね」
「ニコルが子供連れで来た時は、子供達がかくれんぼして見つからず、使用人総出で探したらしい」
クラウスは笑いながら、私を抱いたまま器用に部屋のドアノブを回し、肩で押して扉を開けた。
中の広々とした空間は、モダンなインテリアで統一されていたので、びっくりする。
これまで屋敷内はどこを見てもアンティークな家具ばかりが飾られていたので、あまりの意外さに目を疑った。
私が驚いているのを見てクラウスが笑い出す。
「自分の部屋くらいは自分の好みにしてある。ヨナスの部屋も似た様なものだ」
「そうなのね。なんだか不思議な感じだけど、こういう部屋もあると思うとほっとするかも」
いかにもアンティークらしい高級な調度品や繊細な装飾の多い家具に囲まれていると、取り扱いを気をつけないと傷を付けてしまうのではとか、誤って触れたら壊れてしまうのではと落ち着かない。
実際、ダニエラに突き飛ばされ倒れた際、石膏の胸像を壊してしまった。あれは何かの記念にもらったレプリカとかで、ユリウスの話だと価値的には全く気にするものではないということだったけれど……
クラウスの部屋は、ふかふかのシルバーグレーのカーペットの上に、チョコレートブラウンの木目が奇麗な丸テーブルがあり、そのテーブルの足はゆるやかにカーブしたシルバーのパイプで作られていた。
同じ木目の棚板が白い壁に段違いに打ち込まれて、大きなフラットテレビも壁に埋め込み式のものだった。
装飾が少なくて全体的にとてもすっきりとした感じが、いかにもクラウスらしい。
L字型の大きなソファはダークブラウンの光沢がある生地で肌触りも良さそうだ。リビングルーム的なこのスペースの奥にベッドルームが続いていて、チョコレートブラウンの木目枠の大きなベッドや、シルバーメタルの脚に分厚いガラスプレートのデスクが置かれた書斎コーナーもあり、ここはプライベートバスルームと連結していた。
一通り全体を回って見せてくれた後、クラウスは私をそっとソファに下ろした。
「今はもう暗いけれど、日中は眺めもいい」
「森の中だから、夜は真っ暗だね」
大きなガラス窓の外には、広い敷地を照らす街灯の灯りがぼんやりと浮かんでいるだけで、あとはこんもりとした森の茂みしか見えない。
「でも、部屋の電気を消したら、月や星がよく見えそうな気がする」
「今は少し雲が出ているが、後でまた見てみよう。雲が晴れたら夜空が見えるかもしれない」
クラウスはそう言うと、私の隣に腰掛け、身をかがめるとそっと優しくキスをした。そして私の背中を労るようにそっと抱きしめてくれる。知らず知らずのうちに緊張していたのか、急に体から力が抜けたようにリラックスして、私は大きく深呼吸をして彼の胸に身をまかせた。今日は朝、ベルリンを出発してから、あっという間に時間が過ぎた気がする。
マスタードイエローのニットワンピースの下から見える、包帯でぐるぐる巻になっている私の右足を見下ろし、クラウスが大きな溜め息をついた。
「これを未然に防げなかったのは俺の責任だ」
「なに言ってるの?」
私はびっくりして首を振った。
「そんな風に思わないで!私がダニエラの腕を離さなかったせいもあるし、バランス悪く転んだのも自分自身のミスなんだから、クラウスに責任なんてないよ」
そう言うと、クラウスは少しだけ笑って、それから注意深くそっと私を抱きしめた。
「この体のあちこちにあんな酷い打撲があるなんて、自分の不注意を後悔してもしきれない。まさかダニエラが直接リビングのほうへ行くとは思わなかったこともあるが、君を1人にするんじゃなかった」
「打ち身なんてすぐ治るし、捻挫も軽症だから大丈夫。先生も、数日で歩けるし、2週間もすれば殆ど元通りになるって言ってたでしょ」
クラウスを励ますつもりで明るくそう言うと、クラウスは苦笑しながらゆっくりと私の髪を梳いた。
「ダニエラが男だったら、あのまま無傷で逃がしはしなかった」
そんな物騒な言葉を耳にして驚いていると、彼は冗談ではないというようにじっと私を見つめた。
澄んだ瞳に静かな怒りを帯びた光を見て、彼が本気でそう言っているんだと知る。
激情家のヨナスであれば、マリアが同じような怪我を負った場合、間違いなく何かしらしでかしていたとは思うが、冷静なクラウスまでそんなことを考えるとは流石に私も驚いた。
「気持ちは、嬉しいけど、別にただの捻挫だし、殆ど事故、だからね……」
「殆ど事故、か。君はそう言うけれど、ダニエラに悪意がなかったとは言い切れないだろう。いや、間違いなく故意だ。胸像を狙って君を突き飛ばしたとまでは言わないが、多少なりとも傷つけようという意思があったのは確かなはずだ」
「うん……それは、多少なりには、あったかもだけど、状況がとても普通とは言えなかったし」
「いかなる理由があったとしても、俺は許しはしない」
低い声でそう呟くクラウスが、怒りを押し殺そうといわんばかりに厳しい顔で私の右足を見下ろした。それだけ私のことを心配してくれているんだと思うと、幸せな気持ちになってきて、私はぎゅっと彼の背中を抱きしめた。
「ありがとう。心配してくれて。とても、嬉しい。でも、終った事だし、このことはもう、考えないで。ね?」
見上げると、とても厳しい顔をしていた彼の表情が和らいで微笑みを浮かべてくれた。
「月曜日はオフィスに行くのは止めてアパートで仕事をすることにする。君も学校は休むべきだ。火曜日以降、学校に行けそうであれば車で送迎しよう。バイトのほうは、無理しないで休ませてもらえばいい」
「うん……ありがとう。月曜日は、やっぱり安静にしておくほうがいいよね。でも、火曜日は大丈夫だと思う。バイトも、レジの近くに座っているだけでも充分店番の業務は果たせるから、一応行くつもり。それに、多分歩けるようになってると思うし……それに、火曜日は……」
私はちょっと言葉を濁して、黙った。
このタイミングでは、ものすごく、言いにくい。
その日は、エミールの初、日本語レッスンの約束をしている日だ。
「火曜日が、なんだ?」
言いよどんだ私をするどく見つめて、クラウスが聞いてくる。
私は何気なく視線を膝に落とした。
「えーと、火曜日は、日本語レッスンの、初日……」
「……っ!」
クラウスが忌々しげに舌打ちをしたので、思わず肩をすくめてしまう。
予想していた通りの反応だ。
「そんなもの、キャンセルすればいい!怪我している時に、無理してまでレッスンなどする必要はない」
「でも、本当は先週の木曜日、第一回目をするはずだったのよ?クララが来たから、どうしても都合が悪くなったと翌週の火曜日に変更してもらったの。二回も連続キャンセルなんて、出来ないよ」
「……」
明らかに気分を害した様子のクラウスが、きつく唇を結んでじろりと私を睨む。
さすがにその視線を直視する勇気がなくて、私は何度か瞬きをしながら、なるべく落ち着いた口調を心がけた。
「お得意様のお孫さんだし、何度もキャンセルしてたら、お茶屋の信頼にも影響しかねないし……45分、お茶屋で座って教えるだけだから、ね?歩いたりとかしないし?」
「君は、自分の体と、そいつのレッスンとどちらが大切だと思っているんだ?」
「だから、多分、火曜日には充分回復していると思うし」
「優先順位、という言葉を知らないのか」
「でも、物事には、責任っていうものもあるじゃない」
どこか噛み合ない会話だと思いつつ言い訳をしていると、クラウスが憮然とした表情で不快感を露にした。
「カノン、忘れたのか。君の体は、君1人のものじゃない」
「え?」
「この俺のものでもあるだろう?」
はっきりとそう言われ、ドキンとして一気に頭に血が上る。
そういう風に言われると、何も言い返せなくなってしまう。
黙り込んだ私を見て、クラウスはもう一度、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
「君の体のことは、君1人で決めさせない。何故なら、俺のものでもあるからだ」
「……」
まっすぐに私を見つめる美しいブルーグレーの瞳。
優しいその眼差しを受けると、私はドキドキして無口になってしまう。
クラウスはそっと私の額にキスして、幼子をなだめるように囁いた。
「俺が君をどれだけ大切に思っているかは、君も分っているだろう?それとも、まだ分らないと言うのか?」
私を試すようなズルい言い方をする人だとは思ったけれど、きっと、逆の立場であれば私も同じようにクラウスに無理させないようあれこれうるさく言っていたかもしれない。
でも、レッスンは体を酷使するものではなくて、基本、喋っているだけだ。
それくらい、クラウスも知っている。
ただ、私が万全の体調でないのに、エミールに時間を使うことが気に入らないのだろう。これが、アナに会うとかであれば絶対に反対はしないはずと私は分っていた。
「……心配してくれるのは、本当に嬉しい、でも」
その時、ノックの音がして、使用人らしき声で夕食の支度が出来た旨が告げられた。
クラウスは小さく溜め息をつくと立ち上がり、扉を開けて、すぐに階下に降りると返事をする。
ソファへ戻って来たクラウスが身を屈めて私を抱き上げた。
「仕方が無い。この話はまた後でするとしよう」
クラウスはそう言うと、優しく微笑んで私の頬にキスをした。
彼に抱えられて部屋を出る。
また、あの階段を下りるのかとびくびくしていると、クラウスは先ほど上って来た螺旋階段の方とは逆のほうへ廊下を進んで行く。
「どこに行くの?」
不思議に思って聞くと、クラウスがクスッと笑って視線でその先を見た。
「エレベーター」
「エレベーター?」
よく見れば、普通のドアとは少し違うガラスの小窓がついた扉があり、それがエレベーターの乗降口になっているらしかった。クラウスに促されて、▽印のボタンを押すと、ガタンと音がしてエレベーターが上がって来る音がする。2階までエレベーターが上がって来て停止すると、エレベーターの外扉が開いて、中に乗り込む。屋敷に後付けされたらしく、エレベーターは屋敷の外に設置されており、壁はすべてガラス張りになっている。ゆっくりとエレベーターが下りて、一階に着くと、扉が開いた。




キラキラと灯りで煌めくシャンデリアがいくつも吊り下げられた、重厚感のある広いダイニングルーム。
一体、何人が座れるのだろうと思う程、長いテーブルが中央に置かれていた。もうすでに、ユリウスとヨナス、そして街から戻って来ていたマリアは着席している。
テーブルにはアンティークゴールドのキャンドルホルダーの上で揺らめくキャンドルがいくつも並んでいた。
クラウスが注意深く私をフロアに下して、私は痛めている右足は床に触れないように気をつけて、ゆっくりと椅子に着席する。クラウスが私の椅子を少し押して調整すると、その隣に自分も着席した。
やがて、黒光りする漆器の懐石盆を順番に運び始めた配膳係の姿にびっくりする。
目の前に静かに置かれた、懐石盆に並ぶ数々のお料理。
明らかに日本の焼き物と思われる小鉢やお皿、漆器のお椀が並び、丁寧に調理された食事が美しく盛られている。敢えて言えば、お箸以外にナイフやフォーク、スプーンが準備されたということが日本と違うくらいで、京都の高級料亭にいるかのように完璧な和食の席が演出されていた。
私の真向かいに座っているマリアが、目の前の食事に驚いた様子で目を丸くしている。
「本日は、カノン様のご指導をいただきまして……」
いつの間にかユリウスの隣に立っていたミヒャエルが、今晩のメニューの説明を始めて、皆が真剣に耳を傾ける。まるで栄養学の講義を受けているような神妙な面持ちの彼等を見て、なぜか更に緊張してしまう私。
ミヒャエルの話が終ると同時に、配膳係が順番に吸い物が入ったお椀の蓋をあけてくれて、そこだけは欧風スタイルなのだと気がつく。
日本人代表として何故かこの食事に大きな責任を感じつつ、和やかな雰囲気で食事が始まった。
私以外の皆は結局、箸は諦めた様子で素直にスプーンやフォークを使っていたが、どの料理もとても美味しく出来ていて、よくこの短期間でこれほどの和食を作れるようになったものだとミヒャエルの腕に感動する。ミヒャエルはもともと有名なホテルのシェフだったらしく、フランス料理が専門ということだったが、中華も学んだ事があるらしく、アジアの食材には通じていたらしい。
「一度の食事で、これだけの種類の材料を使うなんて、和食ってすごいのね。丁寧に切り刻まれた野菜の数に驚くわ」
マリアが感心したようにそう言うと、ヨナスが豚肉のシソ巻をフォークで刺し、ナイフで切りながら口を挟んだ。
「カノン?この肉と一緒に巻かれている野菜は何というものだ?どこかで食べた気がする」
「これは、紫蘇の葉。お寿司や刺身と一緒に出されたのかもしれない。もしくは、紫蘇の天ぷらかも……」
「私もこの葉は好きだわ」
紫蘇の葉はくせがあるからどうかなと思ったけれど、マリアも気に入ったらしい。
「一日に一回、メニューを和食にしております。このところ数値も緩やかですが確実に改善されてきていますので、やはり服薬だけでなく、食生活も見直されたことは良かったと医師も申しておりました」
カールが嬉しそうにそう言って、ユリウスのグラスに炭酸水を注ぐ。
ユリウスが笑顔を浮かべて私を見た。
「キッチンのスタッフが和食の賄いを食べるようになって、体重が自然に減ったとか、体調が良くなったという報告も受けている」
「そうですか、それはすごい効き目ですね」
びっくりしたが、確かにカロリーの高そうな肉料理ばかりを食べていた人が、根菜類や豆、魚や海草が多く使われる和食を食べるようになれば、それくらいの違いが出ても不思議ではないだろう。私が、パスタやパンばかりの食事をしていると体調が狂うのと同じで、やはり、食事というものはすぐに体の調子に影響を及ぼすものだ。それが良い変化なのか、悪い変化なのかが、注意すべき重要な点だろう。
食事が済むと、各自が注文したお茶やコーヒーなどの飲み物と一緒に、フルーツの盛り合わせやチョコレートのプレートが運ばれる。
私は自分が注文したフレッシュミントティに蜂蜜を入れ、ゆっくりと味わう。
隣のクラウスはアールグレーを注文したようで、とてもよい香りが私のところまで届く。
「カノン?捻挫ということだが、痛みのほうはひどいのかな」
ユリウスに聞かれて、私は笑顔で首を振った。
「大丈夫です。触らなければ痛くもないし、数日したらもう歩き始めることが出来ると思います。ご心配をおかけして、ごめんなさい」
「君が謝ることはないだろう。すべては私の責任だ」
ユリウスのその言葉に思わず隣のクラウスを見てしまう。
ついさっき、クラウスから聞いた言葉と同じだ。
クラウスも気がついたのか、苦笑している。
「単なる事故ですから!それに、私の転び方も悪かったんです」
可笑しくなって笑いながらそう言うと、ユリウスは困ったように眉を潜めて僅かに微笑んだ。
「少し間違っていたら大変な怪我を負っていたかもしれない。本当に、申し訳ないことをした」
「お気に病まないてください」
私は明るくそう言って、それから話題を変えようと隣の椅子に置かれていた荷物に手を伸ばした。
こちらに来てからまだ渡し損ねていたラベンダーのウァーマーだ。
「先日、取材でUKに行った時に伺ったところで見つけたものです。良かったらお使いになってください」
若草色の手透きが美しいラッピングペーパーに、薄紫色のリボンで包まれたそれを隣のクラウスに渡すと、クラウスが席を立ってユリウスのところへ行く。
ユリウスが微笑みを浮かべて、手元にあったコーヒーを横へどけると、受け取った包みをそっとテーブルに置いて、ゆっくりとリボンを解き始めた。
ラベンダーファームでの出来事を知っているヨナスとマリアが目を見合わせて微笑んでいる。
包みから薄紫色のビロード織コットン生地で作られたウァーマーが姿を現すと、ユリウスが少し驚いたように目を見開いて、そしてそれを手に取って私を見た。
「それはウァーマーです。クッションの中に、小麦とラベンダーが詰められていて、電子レンジで温めると、カイロや湯たんぽのように使うことが出来るそうです」
そう説明しながら、ふいに私の胸が切なさで締め付けられるように苦しくなる。
ユリウスのその手にあるウァーマーは、彼が未だ愛し続けているレオナが丁寧に包んでくれたものだった。
彼女がそれを手に取って微笑みながら使い方を説明してくれたことを思い出す。
あの苔色の瞳が優しく輝くのを、私はこの目で見た。
そのことを伝えられない歯痒さは、例えようのない苛立ちを生み、私はテーブルの下の両手をきつく握りしめた。
「ラベンダーのウァーマーというものがあるんだね」
とても嬉しそうに目を細めて、ユリウスはそれをゆっくりと手で撫でた。
辺りにほんのりと漂うラベンダーの香り。
私は一瞬目を閉じてあの牧場の光景を思い浮かべた。
あぁ、レオナは知らない。
彼女が包んでくれたウァーマーがユリウスの手元へ届いたなんて。
「ありがとう」
ユリウスの言葉に目を開くと、彼がにっこりと微笑んでいた。
そして、片手で顎を触りながら、何か考えるように首を傾げて私を見た。
「怪我をさせてしまった君に、お詫びをするどころか、逆にプレゼントをもらうとは、困ったものだ。私はどうやって君にお礼をしたらよいのだろう」
「お礼なんて!喜んでいただけたらそれでもう……」
「いや、それでは私の気が済まない。なにかひとつでも、お礼がしたい」
「でも、ほんとに、お気持ちだけで」
ユリウスは真っ青な目を煌めかせて、何やら楽しそうな様子で腕組みをする。
いたずらっ子のように目を細めるその表情は、クラウスのそれとよく似ていた。
「遠慮はいらない。そうだな、君から何かお願いをリクエストしてもらうまで、誰1人もベルリンへ帰さないということにしよう」
「えっ」
さすがに私もびっくりして、隣のクラウスを見た。
クラウスは苦笑している。
向いのヨナスもマリアも、事の成り行きを面白そうに見ているだけで、誰も助け舟を出してくれる様子はない。
困った事になったと思いながらご機嫌なユリウスを見て、私の中でふと、何かが閃くものがあった。
ラベンダーのウァーマーを手で撫でながら私を見つめて微笑んでいるユリウス。
そうだ。
これが、あったのだった。
私はドキドキと胸が早鐘を打ち始めるのを感じた。
どんどん膨らんでいく興奮で、一気に自分の頬が紅潮して熱くなるのに気がつく。
「お願い、考えつきました……!」
私の声が少し、裏返って掠れた。
隣のクラウスが私を振り返るのが視界の隅に映る。
「……行きたい、スパがあるんです」
「ほう……スパ?」
予想さえしなかったという様子で目を丸くするユリウス。
興味深げに笑みを浮かべたユリウスを見つめて、私は笑顔で大きく頷いた。
私はまっすぐにユリウスを見つめ、もう一度、言った。
「ご一緒に、UKにあるスパに行っていただけないでしょうか?」
「……私も?」
「はい、ロンドンから2時間くらいのところにある、テルマエ・バース・スパです。一緒に、行っていただけないでしょうか?」
まさか自分が誘われるとは思っていなかったらしく、ユリウスが流石にびっくりしたように聞き返した。驚くのも無理ないだろうと思って、どう説明しようかと考える。
私を見つめていたクラウスが、驚きの表情を浮かべて、向いのヨナスとマリアに目を向ける。
その時、カタンと音がして、マリアがエスプレッソのカップをソーサーに置いた。
「……スパって、コレステロールの治療にも良いって聞くし、確か、捻挫の治療にも有効なはずよ」
その明るい声に、皆が彼女を振り返る。
チョコレートに手を伸ばしていたヨナスがちらりとマリアを見て、クスクスと笑い出した。
「マリア。美容にいい、とでも言うのかと思えば、コレステロールと捻挫の治療か?全くもって、色気のない話だ」
その言葉に、クラウスがぷっと吹き出した。
「あら、勿論、美容にもいいに決まっているじゃないの!きっと、ヨナスの短気にも効き目あると思うわ」
「それは、どういう意味だ」
「そのままの意味に決まってるじゃない。スパに入ったらリラックスして、ストレス発散のために糖分の過剰摂取に走ることも減るかもしれないわ」
その言葉に、チョコレートのプレートから手を引っ込めたヨナスが、不機嫌そうに眉をしかめた。
「俺は行くとは言っていない」
「行かないとも言ってないじゃないの」
マリアはそう応酬すると、まるでもう、この話は決まったといわんばかりに皆を見渡した。
「私も大自然のスパに行ってみたかったし、寒い冬が本格的に始まる前に、皆で小旅行に行くというのも悪くないわ。今度こそ、ちゃんと宿泊の準備もしてね」
美しいオリーブグリーンの瞳をキラキラと輝かせて微笑むマリアが、私を見てウインクする。
それまで何も言わなかったクラウスが、ようやく口を開いた。
「確かに、カノンを診た医師も、温熱療法が良いと言っていたし、このところゆっくり過ごすことは無かったから、息抜きする良い機会だかもしれない」
私は感謝の気持ちをこめて、クラウスの手に触れた。クラウスがいたずらっ子のように目を煌めかせて微笑む。
レオナに会えるかなんてまだ分らないけれど、少しでもその瞬間に繋がるチャンスを作りたかった。
「ユリウス様。お医者様にも確認しますが、体調は落ち着いていますし、問題ないと思います。きっとよいご静養になることでしょう」
カールがそう声をかけると、ユリウスはクスッと小さく笑い、ゆっくりと頷いた。
「わかった。それでは、そのスパに行くことにしよう。だが、これではまるで、私を喜ばせるためのお願い事としか思えないな。息子達とスパに行くとは、考えた事もなかった。しかも、奇麗なお嬢さんを二人も連れて行くとは、一体なんのご褒美だろうか」
冗談まじりにそう言うユリウスは楽しそうな笑顔を浮かべている。
「俺がニコルのところにも都合を聞いてみよう。声をかけておかないと、仲間はずれにされたと恨まれて、俺達の命が危なくなる」
冗談混じりにヨナスがそう言うと、ユリウスが可笑しそうに笑い出した。
「じゃぁ、これで、決まりね!」
マリアが嬉しそうに声をあげる。
私とクラウスは目を見合わせ、繋いだ手をぎゅっと握りしめた。
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