上 下
16 / 35
破天荒な交響曲

訪れた真実の出会い

しおりを挟む
あの夜、表の呼び出し音が2回鳴った。
私はベッドの中に潜り込んでそれには応えなかった。
果てしない虚無の世界での日々が始まる。時間が私の回復を待ってくれることはなく、周りはいつも通りのスピードで日常が過ぎて行くのだ。

私も機械的に決まった時間に起床し、登校。夏期休暇で休業中のお茶屋のHPの定期更新やネット注文の対応も、はるからきた原稿の手直しもきちんとこなした。
ただ、誰にも会いたくなくて、アナに誘われても、聡君に誘われてもなにかと理由を付けて断る。
今の私には時間が必要だった。
誰にも事情を説明できるほどに状況を消化出来ていないということだ。
時々、あれでよかったのだろうかと思い返す。
きちんと私の状況を説明して、彼の答えを聞くべきだったのかもしれない。
でも、もしその答えがあの手紙と同じ真実であった時、きっと私は更にショックを受けただろうと思うと、やはりあの時自分が取った行動でよかったのだと自分に言い聞かせる。
弱虫カノンの、自己防衛法というものかもしれない。
あれから、彼からも連絡はこなかった。
心のどこかで、期待していた自分に気がつく。
もしかしたら、電話をくれるかもしれない。またメールをくれるかもしれない。
でも、もしそうして彼が連絡をくれたとしても、自分がそれに応えたかはわからないのに。
諦めるということは自分の気持ちを真っ向から逆向きに変えることだ。嵐に向かって無理矢理突き進むのと似てる。
元彼にふられた時を思い出し、あの時と今回が全く別の次元のものだと気がついた。
あの時は、ただ泣いて泣いて、彼にも考え直してもらえないのかと聞いたくらい、自分に正直だった。今思えば、その状況を少なくとも受け入れていたから、自分の気持ちに素直な行動をしていたのかもしれない。
でも、今回は全く違った。
私の心は全く同調していない。まったく、受け入れていない。完全に、この状況を否定したい自分がいる。
だからこそ、消化出来なくてずっと喉になにかがつっかえているような苦しさがあった。
でも、私は彼の幸せを一番に優先するためだ、と自分に言い聞かせる。
きっといつか、私の心にも平和が戻って来るだろう。時間が、解決してくれる。たとえそれがどれだけ長い時間を要したとしても。

人に接触するのを極力控えた日々が3週間ほど続き、8月の半ばになった。
最近は夜はDVDを見たりネットで日本の動画を見たりして過ごすことが多い。食事だけはきちんとしようと、なるべく自炊をして、自己管理は怠らないように努力している。
学校の勉強も順調に捗って、先生が、もうすぐレベルをひとつ上げたクラスに行ってもよさそうだと言ってくれた。
少しだけ生活にポジティブな光が見えて、元気を取り戻すほどではないけれど、夜はなんとか眠れるようになった。
彼を思い出してしまうものはすべて、スーツケースに入れたりクローゼットに入れたりして目につかないようにしている。
彼のアパートの鍵は、返したくてもさすがに書留で送るのも危ない気がして、未だに返せていない。これをどうしたらいいのか悩んでいるところだけれど、近いうちに、アナか誰かに頼んで持って行ってもらおうと考えている。
少しずつでも前に進まなければ。
私は秋に、美妃が彼氏を連れて来るということで、近所のウィークリーアパートをネットで検索していた。
9月の後半に1週間の予定で来ると連絡が来たので、早めにいいところを探して予約してあげようと思っている。
調べてみると、かなりの数の短期滞在型のアパートがあって、私のアパートの近所にも何軒かあるようなので、数カ所、メールで空き状況の問い合わせと、可能であれば下見をしたい旨を書いておくる。
夜の10時半を過ぎたので、そろそろ寝ようかと思って着替えていると、携帯が鳴り始めた。
見てみると、聡君からだ。
最近は電話での連絡をあまりしなかったので、皆とはもっぱらメールでの近況連絡を取っていることを考えると、電話がかかってくるのは珍しい。
応答するかどうか迷って、結局応答してみた。
「もしもし?」
『あっ、カノン』
聡君の声が騒々しい雑音の中で聞こえた。何か言っているけれど、うるさくてよく聞こえない。
「もしもし?すごい雑音で、よく聞こえないんだけど、どうしたの?」
思わず自分も声を大きくして聞いてみる。
『ちょっと、まってて、今、移動するからさ』
聡君の声が聞こえて、しばらく待っていると、騒々しさが和らいでやっと声がはっきり聞こえるようになった。
「どこに居るの?イベント?」
『あ、違う。今、クラブ』
「なるほど。そういえば、音楽みたいなの聞こえるよ』
耳を澄ませば、重低音の音楽が響いているし、がやがやと大勢の人の話し声や笑い声が聞こえる。
聡君はほぼ毎週末、ベルリンの主要なクラブに出かけている。時々はブースで演奏するメンバーの一員だったり、あるいは何かの集まりだったり、様々な理由があるようだが、彼はああ見えてものすごくお酒が強い。あんなにすらりと細い体なのに、絶対に潰れないらしいので、よほどの酒豪なんだろう。
『カノン、出てこない?』
「えっ?」
急なお誘いに驚いて声が裏返る。私が夜のクラブに行くなんて、ほぼあり得ない話だ。
「私さ、お酒ダメだし、やっぱ早寝早起きタイプだから、ちょっと無理だよ」
日本ではたまに打ち上げとかでバーに行ったりはしていたけれど、ベルリンの夜の世界は東京よりずっと危険な気がするので、ベルリンのクラブで遊び回るとかいうナイトライフは、臆病者の私には難易度が高い。真夜中に空いている電車に乗るのも怖いし、無茶して何か変な事件に巻き込まれるのも嫌だし、大体、酒自体にあまり興味がないので、どうせ夜出かけるなら、時間的にも場所的にも人出が多いレストランやカフェ、もしくはアナが演奏するライブのほうが断然好きだ。
『そっかー……』
少し落胆した様子の聡君の声が聞こえ、はっと気がつく。もしかしたら、私がこのところ元気がないから、ぱーっと明るくしようと思って声をかけてくれたのかもしれない。勘の強い人だから、私がニッキーと別れたことに気がついている可能性も否めない。
「聡君?」
『うん?』
「あのさ、ありがとね。気を使ってくれてるんでしょ?でも、大丈夫だから、ね」
そう言うと、聡君が黙り込んだ。図星だったんだろう。
「月末くらいにさ、またランチとか行こう?聡君のライブも行こうと思ってるよ。今週末には、マリアもポルトガルから帰って来るから、そしたら皆で見に行くよ」
そろそろ外に出ることも考えないと、本当の引きこもりになってしまう。月末には、何か約束を入れて外出しなければ、本当いまずいことになる気がするので、自分にプレッシャーをかけるつもりでそういう言葉を口にした。
『ありがと。そうだね、月末か。うん、それもそうだけどさ……』
聡君がどこか歯切れの悪い言葉を続ける。
どうも様子が変だなと思って、少し聡君のことが逆に心配になった。
「ね、聡君、なんかあったの?」
彼もいろいろと恋愛関係で浮き沈みの激しい人だ。私になにか打ち明けたいことがあるのかもしれないと思ってそう聞いて見た。
しばらく沈黙があって、それから聡君が、低い声で、独り言のように言った。
『……100%確信は出来ないんだけど、ニッキーっぽい人が居るんだよね』
「え」
ドキンとして息が止まり、思わずソファから立ち上がる。
今そのクラブに、彼が居るということなのだろうか?!
『あの時は、ヘルメットで目くらいしか見れなかったんだけどさ、背格好とか、声のトーンは覚えてるし、周りの連中が、ニック、って呼んでるのが聞こえた』
「……そう……クラブで飲んでても、別に変じゃないし」
聞きたくないのに、何故かそうは言えず、ただ口ごもる。彼の様子を知りたいという気持ちが、どうしても出て来てしまう。
聡君がまたしばらく黙り込んで、それからとても言いにくそうな声が聞こえる。
『ラウンジのほうでさ、かなりの人数に囲まれてるから、よく見えないんだけど、多分、そうじゃないかな……』
「ふうん」
かなりの人数、と聡君が濁したけれど、それはきっと、女性達のことで、聡君は私を傷つけないようにわざとそういう表現をしたのだろう。自分から別れを突きつけたくせに、彼が他の女性達に囲まれていると思うだけで、嫉妬と憤りでカッと頭に血が上った。そしてそんな自分に気がついて強く嫌悪する。
『だからさ、こっち来て、様子見たらどうかと思ってさ……なんか、荒れてる気がする』
後半、声が遠のいた様子から、聡君がニッキーのほうを見て振り返ったんだろうと察する。
『すごい量、飲んでるっぽいな』
「……大丈夫だよ。かなり強そうなこと言ってたし」
自分でも驚くくらい、冷静な言葉が口から出て来て驚く。
『なにがあったのか知らないけどさ、カノンは暗いし、彼もあんな感じだから、やっぱりなにか、中途半端なんじゃないかと思うな』
「中途半端?」
『どっちも全く先に進めてないって感じだな』
「……」
『話さなきゃこのまま状況がかわらないとか、よくあるよ?』
最もなことを言われて返答のしようもないけれど、一瞬でも話したり、会ってしまったら決意なんて一瞬で崩れ落ちて、彼を道連れに不幸へまっしぐらになりかねない。あの目を見たら最後、自分の気持ちが止まらなくなって、今懸命に保っている理性ももろく吹っ飛ぶだろう。
『あっ』
聡君が短い悲鳴をあげた。
「どうしたの?!」
思わず携帯を握りしめて聞くと、聡君の返答がない。耳から聞こえて来る音が揺れているということは、歩いているか走っているかだ。
何か起きたんだろうかと息が詰まる思いで耳に神経を集中していると、聡君の溜め息が聞こえた。
『見逃した……』
何を見逃したというんだろう?もしかして、ニッキーが出たということだろうか?
『……油断していたら、店から外に出て行ったよ』
やっぱりそうだったらしい。何故かほっとしたようながっかりしたような複雑な気持ちで一気に力が抜けてソファに座る。
『両サイド、がっちり女がついてた……』
「えっ……」
ドキンとして言葉が出ない。その様子がまるで自分にも見えたかのように頭に浮かび、ショックをうけた。
電話の向こうで聡君が慌てた様子で言う。
『ごめん、カノン!余計なこと言っちゃった、僕。ほんとにごめん』
「……ううん、いいの、大丈夫」
ものすごく虚しい気持ちになりながら、私はそう答えた。
大きく深呼吸をする。
いいんだ、それで。
きっと、そうやって別れを消化していくしかないんだろう。自分が一歩踏み出さないと、未来へは進めない。
今を、受け入れないと。
「聡君?」
『うん、なに?』
「来週、ご飯にいこう。美味しいタイ料理かインド料理か、辛いのでぱーっと行こう!」
私は威勢良くそう言って窓の外へ目を向けた。
このままアパートでくすぶっていてはダメだ。


翌日の朝6時という異常に早い時間、私はGrunewald駅から出発したバスに乗っていた。
昨晩の聡君との電話の後、合い鍵はすぐにでも返却しようと決心した。
この決心が揺るがないうちに行動に移すべく、翌朝早くに実行することにする。その際、彼の姿を見たりしなくてすむように、今朝は辺りがまだ薄暗い5時半にアパートを出た。
赤いレザーのキーホルダーにぶらさがる二本の鍵を手に握りしめる。
新品でピカピカの合鍵。
たった一回しか使わなかった。
アイロンがけした洗濯物を届けたあの日だけ。
この鍵をくれた時のニッキーを思い出し、切なさで胸が苦しくなる。
それを振り切るように、私は青色の封筒の中にその鍵を入れた。
まだ、朝焼けの中にマラソンや犬の散歩をする人が時折目につくだけの、静かな夜明けだ。
空が、オレンジ色に染まって、お日様の顔が半分ほど東の空に姿を現して来ている。
ニッキーが昨晩は遅くまで飲んでいたことを考えると、彼がこの時間、起きていることはまずないだろう。
それに……
このアパートに彼が1人でいるとは限らない。
そう考えただけで、胸が引きちぎれるような嫉妬で気が狂いそうだった。
嫉妬がこれほど胸を熱く焦がすとは!
誰かが彼の側にいると想像しただけで泣き叫びたい衝動にかられて、私は唇をきつく噛み締めてその憤りを封じ込める。噛み締めた唇が切れて、少し血がにじむのを感じた。
私は急いでポストの前までくると、部屋番号と名前を確認し、そっと封筒を中に入れた。手から滑り落ちて行く青い封筒。
カタン、とその封筒がその鉄のポストの中に落ちる音がした。
これで、終った。
本当に、終ってしまった。
私は大きく深呼吸して、彼のアパートの扉を見つめた。あの扉の向こうにいるであろう彼を想う。
溢れて来る涙で歪み始めるその扉。
私はその扉に背を向けて、バス停に向かって走り出した。これで、よかったんだと自分に言い聞かせて。
合い鍵を返却したことで、何か重荷がおりたような、不思議な脱力感に襲われて、帰宅後は気を失うように眠りに落ちてしまったのだった。



マリアがベルリンへ戻って来る前日、アナから電話が入った。
翌日午前中の便で急遽、日本に一時帰国するというので驚いて、即座に待ち合わせすることにする。
授業の後に、学校近くのカフェでアナを待っていると、少し顔色の悪いアナが慌ただしく入って来た。
手をあげると、いつものように笑顔を見せてこちらへやってきて、注文を取りに来たウェイターに「カプチーノ」と即座に注文。落ち着きがなさそうに椅子に座って私に笑顔を向けたが、それが無理して作った笑顔なのはすぐにわかった。
「アナ、大丈夫?顔色よくないよ?」
色白のアナだけど、今日は青白く見える。いつも会う時は、頬がピンク色に染まっているのに、今日は本当に顔色がよくない。
「うん、なんかね、パパが入院することになって」
「えっ、お父さんが?」
驚いて聞き返すと、アナが少し泣きそうな顔で頷く。
「パパはさ、もともとあまり体が強くなくって、たまに過労で倒れてたんだけど、今回は心臓の検査をすることになったって連絡がきて」
「え……」
心臓の検査だなんて、それは心配でたまらないことだろう。
なんと声をかけたらいいのかわからずに絶句する。
アナは、幼い頃に母親を無くしているので、肉親といえば父親だけだと聞いていた。一人っ子で、しかも祖父母も他界しているとのことだったから、どれだけ父親の存在が大きなものかは想像がつく。
「ま、検査だから、結果を聞かないとなんともいえないんだけど、念のため、ね」
そういって笑ってみせるアナがひとく疲れているように見えて心が痛んだ。
気丈な様子を見せているが、普段のアナを知っているだけに、彼女が今、どれだけ心を痛めているかは手に取るように伝わって来る。
「アナ……私、ずっとアナとアナのお父さんのこと考えているから」
いい言葉が見つからず、私はそう言ってアナの両手を握りしめて彼女の目を見つめた。大きな黒めがちの瞳が揺れて、彼女が瞬きをすると涙がぽろりとこぼれた。
「ありがとう、カノン。うん、きっとなんとかなる」
「うん」
「どれくらい帰国しているかわかんないけど、必ず連絡するから」
「わかってる。無理して体を壊さないでね」
私も目頭が熱くなってきて涙ぐむ。
このところ涙腺が弱くてすぐに涙が溢れてしまう気がする。
「明日の昼頃に出発するんだ。運良く空き席があって。今、旅行シーズンだから、飛べるかどうかも心配だったんだけど、とりあえず帰れそうでほっとしてる」
「そうだよね、夏休み中だから、空港まで見送りに行ってもいい?」
せめて空港で彼女を励まして見送ろうと思ってそう言うと、アナがゆっくりと首を振った。
「ううん、いいよ。私きっとすごく弱くなってそうだから。代わりに、私が戻って来る時に空港へ来てほしい」
「うん、わかった。アナがそう言うなら……帰って来る時に必ず空港に行くから」
アナの言うことは確かにその通りだと思った。きっと、私も空港で泣いてしまうから、アナにとっても更に辛い時間になってしまう。アナがまた、ベルリンへ戻って来ると信じてはいるけれど……アナが唯一の肉親である父親の入院という大変な事体に1人で立ち向かうと思うと、その辛さを想像して心配でたまらなくなる。なんという重圧だろう。
アナの父親の検査結果が、悪いものでないことを一生懸命、神に祈るしかない。
「ごめんね、カノン」
「え?どうしたの?」
不意にアナがうつむいて私にそんなことを言ったので、びっくりして聞く。
アナは、言いにくそうに目を伏せて、そして私の目を見た。
「カノンも、辛そうな感じなのに、私のことでもっと心配させて」
「アナ……」
アナもやっぱり聡君と同様、私とニッキーに何かがあったことくらい気がついているのだろう。
私は左右に首を振り、それから笑顔でアナを見た。
「私は大丈夫だから。心配してくれてありがとう。でも、今はお父さんのことだけを考えて」
「うん……カノン、私、いつもカノンの味方だからね。それだけは信じて」
アナがそう言うと、ぎゅっと私の手を握りしめた。私は大きく頷き、その手を握り返す。
「ありがとう。私もだよ。いつも、アナの側にいるから。地球の裏側に居ても、心は側にいるからね」
「うん」
アナは涙で濡れた目を細めてにっこりと微笑んだ。



外は夏らしく眩しい日差しが辺りを照らしている。
人々はつかの間の陽気な季節を楽しむべく、街のいたるところでお日様のもと、食事をしたり談笑をしたりと忙しい。どこのお店のテラス席も込んでいるし、道を歩けば美味しそうなアイスクリームを手にして笑顔の人々を見かける。絞り立てのジュースを販売する果物専門店も大盛況中だ。夕暮れ時から夜中までは、レストランやビアガーデンで楽しそうに仲間との時間を過ごすグループで溢れている。
そんな街の雑踏の中を歩きながら、私の心はひどく荒んでいた。
周りは一年の中で最も楽しい時期を満喫している。
でもその瞬間のこの社会のどこかに、私やアナのように、苦しみや不安で辛い日々を過ごさざるを得ない人間も存在しているのだ。
自分が幸せな時には、すっかり忘れてしまうこと。
光のあるところには、必ず、影がある。
そして、誰かの幸せの裏には、他の誰かの不幸があるのかもしれない。
忘れてはいけない世界の情理。
自分が負の立場になった時にしか気がつかないこの道理を知る。
ふと、ニッキーのことが脳裏に浮かんだ。
貴方は今、どうしているんだろう。
少しは笑顔を取り戻せただろうか。
私は、貴方には明るい光の差すところに居て欲しい。
光の中だけを歩んでほしい。
その時はじめて、私は彼の幸せを一番に願うことが出来た気がした。
自分のことよりも、何よりも大事にしたいもの。
それは、彼が笑顔でいられること。
心からそう願うことが出来たその瞬間、私は自分が捕われていた、冷たく暗い牢獄の重い扉を開けることが出来たような安らかな気持ちを感じた。



翌日、アナが出発前に空港からSMSを送ってくれた。
タクシーで行くつもりが、どうやらアダムが送ってくれたらしい。
こういう時にすぐに手助けをしてくれるアダムは、本当に優しいと思う。きっと、遠慮するアナを無理矢理車に押し込んで送っていったんだろう。
そのSMSも、少しだけ元気を取り戻したような前向きなメッセージだったので、私もほっとする。
お父さんの検査入院の前日に到着するらしく、数日はかなり忙しいことだろう。
検査の結果が良いものであるよう、神様にお祈りする。
アナが悲しみに暮れる姿は見たくない。
いつものように、薔薇が咲くような華やかで明るい笑顔を見せて欲しい。
彼女ほど、笑顔が似合う人はいないと思うくらい、私はアナの笑顔が大好きだ。

アナは時間に余裕がなくて、マリア達には連絡はしていないということだったので、私はマリアにメールをした。
******************************************
マリア、元気?
今日、ポルトガルから帰ってくるんだよね。
里帰りは楽しかった?
あのね、実はアナが今日、緊急一時帰国したの。
マリアの戻りと入れ違いで。
お父さんが検査入院するので、付き添いのために帰ることにしたらしいの。
検査結果が出てから、ベルリンへ戻る日を考えることになってるみたい。
お父さん、きっと大丈夫!
このことは、アダムとイヴァン、聡君はもう知ってるから。

それから、ひとつだけ質問。
オランダで、海辺のレストランのオープニングに行って来たら、
マリアが撮ってくれた私の写真が飾ってあったの。
すごく、びっくりした……
あれ、オーナーが買ってくれたのかなぁ?

じゃぁまたね。
カノン
******************************************
その日、マリアから返信はこなかったが、きっとメールは読んでくれただろうと思い、電話まではしなかった。
精神的にきつい出来事が続いて、その翌朝、久しぶりに発熱してしまう。
ベルリンに来て、風邪気味っぽく喉が痛いとか、頭がぼーっとすることはあったけど、寝込むほどまで悪化したことはなかったので自分でも驚いた。咳や鼻水も出ないことからして、典型的な夏風邪っぽい。
熱を計ってみると、39度近くまで出ていて、どうりで関節が痛いわけだ。
基本的に薬に頼るのは嫌いなので、水のボトルを持ってベッドルームに籠る。
頭がぼうっとして、異常な眠気に襲われて、摩訶不思議な夢や、悪夢だけでなく、ニッキーとの楽しかった記憶の回想みたいな夢が、途切れ途切れで流れて行った。
一度、聡君から電話が来て、来週のランチの約束をした。私が寝込んでいると聞いて心配して、何か差し入れを持って行くと言ってくれたけど、食欲が無いので気持ちだけいただいて遠慮した。
熱が出てから3日目の朝、ようやく平熱に戻る。
久しぶりに本当に長く寝込んでしまって、体力は落ちた気がするが、熱が下がったおかげでやっと頭が正常に働き始めた。
だるい体でシャワーを浴びて、冷蔵庫の中からマンゴーバニラヨーグルトを出してひとパック、全部食べた。
冷たくて甘いマンゴーバニラヨーグルトは、病み上がりには最高の食事。
糖分を体に入れたことで、だんだんと回復を実感出来るくらいの気力が出て来て、本格的に寝込む直前以来、およそ二日ぶりにラップトップの電源を入れてみる。
いくつかメールが入って来て、一番にアナのメールを開封してみた。
お父さんの検査は心臓のみならず全身の状態を調べることになっているので、5日間に渡って行われるらしい。でも、久しぶりに会ったお父さんは、思ったよりずっと元気な様子なので、少し心配も和らいだ様子だった。担当医も、今回の入院検査は、人間ドックみたいな感じで念のためという意味が大きいと言っていたそうだ。
アナに励ましの言葉と、夏風邪で寝込んでいて連絡が遅くなったことを謝罪する内容を書いて返信する。
それから、マリアからのメールが入っていた。
短く、「聡から聞いたよ、風邪?治ったら電話ちょうだい」だけ。
いかにもマリアらしい、と思わず笑ってしまった。
彼女から電話をかけてこなかったのは、私が寝込んでいるのを気遣ってのことだ。あっさりしているようで、実は、とっても思いやりがあるところが彼女の素敵な所だ。
私はお昼前にスーパーに行こうかと一瞬思ったけれど、やっぱり三日間も寝込んだせいで足下がおぼつかず、買い物袋をもって階段を上る自信がなかったので結局、冷凍庫に保存していたチキンスープを解凍してランチにした。
本当は、今日、美妃達を滞在させるためのウィークリーアパートの見学を一件予約していたが、電話してそれを別の日に変えてもらった。今日一日は、無理しないで家でゆっくりしておいたほうがいいだろう。
学校も欠席してしまったし、昨日のバイトも休ませてもらった。
明日は木曜日、学校もバイトも行かなくては!
今日中になんとか体調を整えておかないと後でまた具合が悪くなるかもしれない。
その日は、溜まっていた洗濯と簡単な家事をするだけに留めて、後はゆっくりお茶を入れてテレビを付けて過ごす。
夕方あたりになってくると、痛みが残っていた関節も特に気にならなくなって、だんだん力が入る様な気がして来た。
夜の9時すぎくらいに、早々と寝る準備と明日の準備をしてから、私はマリアに電話を入れてみた。
3回の呼び出し音の後、マリアの声が聞こえる。
『ハロー!カノン、調子はどう?』
「ありがとう、なんとか回復したよ。明日からは本調子に戻れそう」
『そう、よかった。結構長引いたわね』
マリアが優しい声でそう呟く。時々、自分にお姉さんがいたらこんな感じなのかなぁと思う時がある。
きっと心配をかけてしまったんだろうと思い、申し訳なくなってしまう。
「マリア、今週いつか、食事でも行かない?」
そう聞いてみると、マリアがうーん……と言葉を濁した。
「忙しいなら無理しなくて良いよ!来週とかでも平気だから、時間がある時に、ね?」
里帰りして戻って間もないし、マリアも製作中の仕事に戻らなくてはならないだろう。
そう思っていると、マリアが、はぁー、と溜め息をするのが聞こえた。
「どうしたの?」
なんだか最近、みんな溜め息ばかりだなと思って聞くと、マリアが小さい声で笑う。
『ううん、まぁ、いろいろとね』
前回、アトリエであったあのヨナスと父親の電話のことを急に思い出した。
もしかすると、あの関係でまだもめ事があるのかもしれない。
当時、マリアが怒って何か叫ぶ声さえ聞こえたんだった。
『カノン?』
考え事をしてしばらく黙り込んだ私の耳に、マリアの声が入って来た。
「あ、ごめん。うん、なぁに?」
聞き返すと、マリアがふぅと深呼吸をする音が聞こえた。
『今から、出れる?』
「えっ、今?うーん、もう寝ようかと思って……明日があるし、病み上がりだし」
流石に今から外に出るようなスタミナは残っていないので、返事を濁しつつ断ろうとしていると、マリアが急に何か決断したようにはっきりと言う。
『迎えにいくから。ちょっとだけ付き合って。ねっ!10分後に外に出て来て』
「えっ、あっ、マリア?」
驚いて聞き返すと、もう電話は切れていた。
この様子だと、もう、車に飛び乗るべくアパートを出るところなのかもしれない。
マリアの行動の突飛さは今始まったことではないから驚くことではないけれど、病み上がりだと分っている私を無理に連れ出そうとしているなんて、なにかそれ相当の理由があるとしか思えない。
なにか、大変なことでもあったんだろうか。
アナのパパの緊急検査入院のショックが未だに尾を引いている私は、嫌な不安に襲われて動悸がした。
もう、マリアがこちらへ向かっているとなると、出ないわけにもいかない。
夜は冷えるかもしれないと思い、風邪をぶり返さないように、洋服をきちんと着ようとクローゼットを開いた。
お気に入りのネイビーブルーのG-Starスリムジーンズを履いてみると、ぴったりだったのが少し緩くなっていて驚く。三日間、寝込んだせいで少し痩せたのかもしれない。ターコイズブルーのキャミソールにホワイトデニムのシャツを羽織った。私は久しぶりに外に出てみた。思ったよりまだ空気が温かいので、デニムシャツのボタンをいくつか外す。
外に出るまでは歩く体力にも自信がなかったけれど、思ったより足下がふらつかなかったのでほっとする。ただ、戻って来る時にあの階段102段をずっと上までいくのかと思うと若干、不安になってしまうのは確かだ。上る時は、各フロアの踊り場で休憩を取りながら上るしかないかもしれない。
表に出てマリアを待っていると、見慣れない車が目の前で停車した。
マリアがいつも乗っているダークグリーンのVolksWagenじゃない。
かなり大型のBenz、メタリックシルバー。
驚いて見ていると、運転席のウインドウが下がってマリアの顔がのぞく。
「さ、乗って!」
「あ、う、うん」
びっくりしながら助手席に座ると、マリアがすぐに私の肩をぎゅっと抱きしめてにっこりした。
「これ、ヨナスの車なの。私の車検中だから」
私が驚いているのに気がついたらしいマリアがそう言いながらアクセルを踏み込む。お決まりの急発進でびびるが、さすがに私も慣れつつあって、ドアのハンドルをしっかり掴んで体勢を保持。
慣れて来たと言っても、それが平気というわけじゃなくて、覚悟が出来ているということだ。
「今から、ヨナスを迎えに行くわ」
「ヨナス?出張先から帰ってたんだ」
「私より一足先に帰ってた」
マリアがバックミラーを見ながらハンドルを切ると、車はスピードを殆ど落とさないままカーブを曲がる。ちなみに、赤信号だったような気がするが、見なかったことにして私は前方に注意を向けた。
マリアが片手でハンドルを握りながら携帯を耳に当てる。それを見てますます心拍数が上がってくるが、マリアの行動を止めることが出来るのは、せいぜいヨナスくらいなので、私はただ、何事も起こらないことを祈るだけだ。
「あ、ヨナス?私達、今そっちに向かってるから。あと8分で着く。さっさと出てよ!」
そう叫ぶと、ヨナスの返事を聞くことも無く携帯を切り、それをフロントガラスのほうへ投げる。
相変わらず、豪快なマリアだ……
このがさつな行動も、マリアだと何故かかっこ良くクールに見えるのだから、不思議でしょうがない。
車はだんだん怪しい界隈に入って行く。怪しいと言っても、街の中なのだが、いわゆるレストラン街でも、ショッピングセンター街でもない。家族連れが歩く様な場所じゃないのはわかる。
マリアが車のスピードを落とし、ゆっくりと走行し始めた。何かを探しているように、時々右や左を見ながら徐行して、やがて何かを確認すると、よし、と呟いた。
「そこに停める」
そう言うと、すっとハンドルを切って一発で縦列駐車を成功させる。
縦列駐車。
一瞬、あの人の顔が脳裏に浮かび、頭を振ってかき消した。
マリアが車を降りたので、私もそれに続く。
街灯が少なく夜の世界のネオンがちらほらと見えて、東京の六本木を思い出した。
「こういうところ、苦手?」
マリアに聞かれて、私は首を振った。
「嫌いじゃないよ。東京でも、友達と行ってたから、グループで行くのは楽しいと思うよ」
以前は、元彼や友達と一緒にダンスクラブも行ってたので、そういう免疫がないわけではない。実際、楽しいと思ってしばらく通ったサルサバーもある。ただ単に、国外でそういう場所に行ったことがないだけだ。
マリアの後をついて数分歩くと、巨大で廃墟的なコンクリートの建物の前に出た。その打ちっぱなしのコンクリート壁にはとても大きな真っ黒の扉があり、大柄なガードマンみたいな黒人スタッフが二人立っている。入場制限中らしく、そこには中に入る順番を待つ騒がしい若者達がいた。マリアが腕時計をチェックして、イライラしたように呟いた。
「もう、電話して10分経つのに、ヨナスのやつ!」
マリアがその強健な体つきのスタッフに近寄ると、その強面のお兄さんが急に笑顔になった。
「やぁマリア!随分ごぶさたじゃないか」
マリアはあのガードマンと顔見知りなんだ!
ド迫力の強面男が、普通に笑っている!!!
マリアが笑顔でそのお兄さんとハグをしているのを驚いて眺める私。
「今日は残念だけど遊びにきたんじゃないの。ヨナスを連れ戻しにきたんだけど、ちょっと入っていい?」
「あぁ、もちろんだ」
お兄さんは、後ろに長い列をなす客を止めていた仕切りを動かし、マリアを中に入れる。いわゆるVIP対応ってやつらしい。
あっでも、私はどうしたらいいの!!!
焦ってマリアに声をかけようとすると、マリアが振り返って私に手をあげた。
「すぐ戻って来るから!」
真っ黒な大きな扉が開かれると、ものすごい地響きがするような轟音のダンスミュージックが漏れて、中のネオンライトやミラーボールの反射が見えた。スチームも焚かれているのか、若干煙の匂いもする。
こんなところにヨナスがいるんだ、と少し驚いたが、でも、マリアは思い切り似合う場所なので、ヨナスが行くのも当然かもしれない。ヨナスも、見かけはともかく、性格はこういう場所に合っているとも言えなくはない。
落ち着かない気持ちで、マリアの後ろ姿がその扉の向こうに消えて行くのを見送った。
時々扉が開いて、出て来る人達と待っている人達が入れ替わる。
スーツ姿の人がいれば、いかにもパーティというような超ミニドレスの人もいて、いろんな人が出入りしているようだが、時折ものすごくハイパーな人がいたりして、1人でこの建物の前にいるのは居心地が悪く、そして心細かった。
すぐに戻ると行っていたマリアも、すでに15分、中から出てこない。
「君も中に入りたいの?」
後ろから声をかけられて振り返ると、列の最前列に並んでいる男の子達。恐らく10代後半か20代初めの若い子だ。高校生か大学生くらいだろう。
「入らないよ。友達が出てくるの待ってるだけだから」
そう答えてまた扉を見ると、そのうちの1人の子が私の肩を掴んで、顔を覗き込んで来た。
「一緒に入ってさ、中で探せば?次、俺達が入る番だし」
「え?あ、いいよ、遠慮する」
そんなことして入れ違いになったら大変だし、それに予定外の行動をしたらマリアが激怒するに決まってる。
「君、かわいいなぁ、外国人?俺と付き合わない?君みたいな子、見たこと無い」
そんなことを言われて、思わず苦笑してしまった。
「それはありがとう。でも、貴方、随分年下だから無理」
そう言うと、その子が驚いたように私を見た。
「随分年下?君、何歳なんだ?」
「28」
今更年齢を偽る気もないので、はっきりとそう言ってやった。
その子は目を丸くしていたけれど、でも、それで諦めるかと思いきや、逆にますます興味を示したように私の顔を覗き込んだ。黒髪に青い目の、とても利発そうなその子は、大人になりかけの少年という時期にありがちな軽い雰囲気はなかった。
「ふうん、俺、20だけど、君はてっきり18、9かと思った」
「28だから」
そう言ってその子の顔を見る。まだ、あどけなさが残るような、少年ぽい顔立ちだ。少しだけフーゴの昔を彷彿とさせる横柄さが見え隠れする表情をしている。私もこの年齢の時は怖いもの知らずだったかもしれないな、なんて思う。
その子が目を見開いて、じっと私の顔を見つめ、まるで何か闘志に燃えたような笑みを浮かべた。
「年齢なんて、関係ないさ。俺は君にすごく興味がある」
「はぁ?」
何を言い出すんだ!
私は困惑して一歩後退してその子を見上げた。
「私は、全然興味ないから」
すると、その子はじっと私の目を覗き込んだ。
「クラブに行かなくてもいい。そのへんのカフェでもいいから、少し話がしたい」
そう言って突然私の腕を掴んだ。
「無理!今、友達待ってるって言ったでしょ」
その腕を振り切ろうとすると、逆に引っ張られて今度は両腕を掴まれて、見上げればその子の顔が超至近距離で私を見下ろしていた。人がたくさんいるところで暴力とかそういう心配はないだろうけど、ナンパにしては度がすぎる!!!しかも、こんな年下に!!!
「離しなさいってば!」
「やだね」
その子が、楽しげな表情で、首を左右に振る。
「今、手を離したらもう二度と会えないかもだろ?」
そんなの、私の知ったことか!
こいつが極悪人だとまでは思わないが、悪ガキなのは間違いないだろう。
掴まれている両手でその子の胸を思い切り押して突き放そうとすると、その子が突然手を離し、そのはずみで後ろに倒れそうになる。が、瞬時にその子の手が私の背中に回って、倒れるかわりに抱きすくめられるような思わぬ体勢になった。私の背中を抱き支えたその子が、目を丸くして私の顔を覗き込んだ。
「……君、まるで小鳥みたい」
「いい加減に、はなし……」
思い切りその子の胸を押し返そうともがいた時、どこかで聞いたことのある低い声が私の背後から聞こえた。
「おい、離すんだ」
一瞬、時間が止まったかと思った。
私を抱きすくめていたその子がゆっくりと顔を上げて、私の後方を見る。その子の後ろに居た仲間達が、はっとしたような表情で同じく私の後ろを見ている。その中の1人が小声で囁く。
「おい、エミール、これは、やばそうだ」
エミールと呼ばれた子は、身動きもせず私の背後を凝視している。
「聞こえなかったのか」
またも、その低く押し殺した声が聞こえる。
同時に、私の全身に鳥肌と緊張が走り、一気に血の気が引く。
あの声は。
後ろを振り返る勇気がなくて、私は石像のように固まる。
エミールは、私の後方を凝視したまま、少年とは思えない落ち着いた様子で答える。
「いやだね」
エミールの後ろに居る仲間達がざわついた。次々に彼らが囁く。
「やめろよ、素直に離せよ」
「エミール、まずいぞ」
背後で足音が聞こえて、私の真後ろでぴたりと止まり、エミールの手がその人に掴まれるのを感じた。
「この手を離せと言っている」
私の真上で聞こえた、威圧感のある低い声。
私の心をかき乱すあの声だ。
心臓が喉から飛び出るかと思う程、激しく動悸がする。
エミールが唇を噛み締めて、眩しそうに目を細め私の後方を睨んだ。そしてようやくゆっくりと私の背を解放し、自分の腕を掴んでいたあの人の手を振りほどいた。
「……何人も連れておいて、まだ足りないってわけか」
エミールがそう吐き捨てるように言った。エミールの連れが、シーッと言ってその言動を止めさせようと囁くのが聞こえた。
その時、また黒い扉が開く音がして、中から漏れて来る大音量のダンスミュージックをかき消すようなマリアの叫ぶ声が聞こえた。
「ごめん!待たせちゃった!」
私は思わず、マリアのほうへ走って彼女に飛びついた。
自分の後ろを見る勇気なんてこれっぽちもなかった。今すぐ、この場を立ち去らなくてはならない。
「マリア、連れて帰って!お願い、今すぐ」
必死でマリアに懇願した。
その後ろにヨナスが立っている。
「ヨナス、お願い、行こう?」
私はヨナスにもそう言って彼の手も掴んだ。
お願いだから、今すぐここから私を連れ出して欲しい。
マリアは私をぎゅっときつく抱きしめてくれた。気がつかないうちに震えていた私を落ち着かせるように背中を何度もさすってくれる。涙は出ていないけれど、気が動転して、パニック状態に近いのだと自分でもわかった。
私の背中をきつく抱きしめていたマリアが、私の顔を覗き込んだ。
オリーブ色の奇麗な瞳が、優しく光っていた。私の心を落ち着かせる様な柔かな微笑みを浮かべて、マリアが口を開いた。
「カノン。貴女のあの写真を買った人のこと、言い忘れてたわね」
「えっ?」
顔をあげて彼女を見つめた。今なぜ突然、こんなところでその話をするんだろう。
マリアは長いまつげを何度か瞬かせて私に微笑みかけ、そして顔を上げて私の後方へ目をやった。
「紹介するわ。あれが、クラウス」
私は目を見開き、唖然としてマリアを見つめた。
クラウス?
ヨナスの、弟?
どこに?
呆然としてマリアを見つめ、それから彼女がまっすぐに目を向けている方向へゆっくりと視線を動かす。マリアの視線の先にいるのは、あの人。
ニッキーがいる。
ネクタイを緩め、シャツのボタンを二つはずして、いつものようにスーツを着崩した彼。
魅力的にドレスアップした女性達に囲まれている彼がそこにいる。
彼はただ、固い表情のまま、まっすぐにこちらを見て立っている。
「……ク、ラウス……?!」
全く理解できないこの状態に、私は先ほどまでのパニックから、完全に脳がショートした状態になる。
「クラウス。人払いしたらどうだ」
ヨナスの声がした。
クラウスと呼ばれたニッキーがはっとしたように目を見開いた。
そして何か一言、二言呟くように彼女達に言う。やがて、不満げに眉を潜めたりニッキーの腕にすがりついたりしながら、彼女達は名残惜しげな表情で順番にその場を去って行った。その間、ニッキーは微動だにせず、ただじっとこちらを見ていた。
私はマリアに抱きついたまま、後ろに立っているニッキーを見つめる。
ヨナスが、彼の隣に立って静かな微笑みを浮かべ、こちらに顔を向けた。
あの二人が、兄と弟?
何がなんだか全くわからない。
混乱のあまりに息するのさえ忘れて、目眩がして視界がぐらつくと、マリアがしっかりと私を支えてくれた。
「カノン?詳しいことは、クラウス本人に聞いた方がいいと思うわ」
その言葉に私はドキリとして首を振った。
「だめなの」
私がそう言うと、マリアが眉を潜めて心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「どうして?好きなんでしょう?」
私は黙って、マリアの目を見つめた。
そして、覚悟をして口を開く。
「手紙がくるまで、知らなかったの」
「手紙?なんの手紙?」
私は一度息を飲み込んで、それから声を振り絞ってマリアに言った。
「彼が、家庭がある人だって。結婚してて、奥さんも子供もいるなんて、私、知らなかったから」
マリアが大きく目を見開いて、私を見つめた。それから、信じられないというように首を振って、ニッキーを振り返った。
「クラウス?どうしてかわからないけど、貴方が妻子持ちだって手紙が来たらしいわ」
すると、ニッキーとヨナスが顔を見合わせた。ニッキーは愕然と目を見開いてこちらを見た。
ヨナスが眉を潜めて首を振り、こちらに来ると、じっと私の顔を見下ろした。
「カノン」
私が動揺しながら見上げると、ヨナスがとても優しい微笑みを浮かべて、私の頭をそっと撫でた。
「兄の俺が誓ってもいい。クラウスは間違いなく独身だ」
「え……?」
私は驚いてヨナスの顔を見つめた。今、信じられないことを聞いた。
「……違うの?」
「少なくとも、生まれてから今この瞬間までずっと独身なのは確かだ」
私はしばし呆然とヨナスの顔を眺めた。
言われてみれば、よくみたら、ニッキーと似てる。この優しく微笑む時の表情。頬骨の形。喋り方も、どこか似てるかもしれない。二人は、本当に兄弟なのかもしれない。ニッキーが、クラウス……
「かわいそうに、そんな変な手紙もらって、辛かったでしょう」
マリアが私の背中をぎゅうと抱きしめてそう呟いた。
じゃぁ、あの手紙はなんだったの?
いたずら?
私は、この1ヶ月、ひとりで誤解をして自分を追いつめ、そしてニッキーを苦しめていたってことなの?!
説明不可能なほどの混乱と動揺で、一体自分がどういう気持ちなのかさえわからないほど頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「さぁ、カノン」
マリアが私の肩を掴むと、彼女に抱きついていた私の手をゆっくりと外し、そして、私の後ろに視線をあげた。
「クラウス。後は、貴方にまかせるわ」
ゆっくりと足音が近づいて、私の背後で止まった。そして、彼の手が私の肩に触れる。胸がどきんと跳ねて、恐る恐る振り返ってゆっくりと視線をあげて、その先に懐かしい瞳を見つけた。目が合った瞬間、随分と長い間その目を見なかったことに気がつく。彼の美しい瞳がゆっくりと瞬いた。
「……会いたかった」
私のすべてを包み込む様な優しい囁きとともに、温かな胸の中に抱きしめられる。
これは夢かもしれない。
自分に都合のよい夢を見ているのだろうか。
彼の背中にそっと触れてみる。冷たい自分の指先に感じる、彼の体温。
「……違った、の?あの手紙は」
未だに信じられない思いでそう呟くと、ニッキーが首を振り私を見下ろして、はっきりと答えた。
「神に誓ってもいい。それは、間違いだ」
「……そしたら、じゃぁ、私、1人で勘違いして、あんなひどいことを」
勝手に勘違いして、ニッキーにあんなひどいことをしてしまったということだ。
彼には何一つ、責められるようなことはないというのに!
今度は強烈な罪悪感と後悔に襲われ、体から血の気が引いて行く。
「もう考えるのはやめるんだ」
ニッキーが静かな声でそう言って、穏やかな微笑みを浮かべた。
「今もうここに、君がいる。俺がずっと恋いこがれていた君が」
私はそう囁く彼の微笑みに魅了されて、他の何も視界に入らなくなる。彼が私の両頬を大きな手で包みこんで、ゆっくりとキスをした。温かな唇から全身に広がっていくその想い。熱い波となり、髪の毛先、指や足のつまさきにまで流れ込んで行く魔法。全身に火がついて熱に浮かされているような感覚に加えて、これまでの緊張の糸が切れたせいで、また脱力してしまった私をニッキーがしっかりと抱きかかえる。
「カノン、君を愛している」
耳元で囁かれる言葉。私は頷いて、彼を見上げた。
「愛してる。大好き……」
自分の声が掠れて少し震えていた。
マリアが近づいて来て、彼の胸に顔を埋めたままかろうじて立っている私を覗き込み、にっこりした。
「さっきまで、真っ青で今にも気絶しそうだったのにね!すっかり顔色がよくなって安心したわ」
「……マ、マリア!」
恥ずかしくなって思わず顔を隠してしまうと、彼女が楽しそうに笑った。
ニッキーがクスクスと笑いながら言うのが聞こえた。
「有り難う、マリア。大きな借りができたな」
「そうね。貴方には随分、借りがあるわね。いずれ、きちんとその分は返してもらうから、お礼はいらないわ」
マリアが冗談ぽくそう言う。
「すべての事情をちゃんと話しておいて。私達全員のために」
「わかってる」
私は顔を上げてマリアの腕を掴んだ。
「マリア」
「なぁに?」
にっこりと私に微笑みかける彼女に、私は急に泣きそうになりながら、心からお礼を言った。
「連れ出してくれてありがとう。私、とんでもない思い込みして」
「それ以上、言わないの。その手紙の主は必ず突き止めるわ。どちらにせよ、誤解が解けてよかった」
マリアはそう言って私の頬を軽くつまんでウインクした。ヨナスがマリアの肩を抱いて笑いながらニッキーを見た。
「俺達はそろそろ行くことにしよう。また、明日の晩にでも一緒に食事はどうだ、クラウス」
クラウスと呼ばれたニッキーが目を細めてヨナスに応える。
「そうしよう。また明日」
ニッキーとヨナスが肩を抱き合っているのを、不思議な気分で見つめる。この二人が兄弟だったなんて、未だに半信半疑だが、こうやって並んでいるのを見るとやっぱり似ていた。ヨナスが私の頭を軽く撫でて笑い、それからマリアと二人で腕を組んで闇に消えて行った。
二人が去って行った後、ニッキーは携帯を取り出してタクシーを呼んだ。
すぐにやってきたタクシーに乗って、ニッキーのアパートへ行く。この間、鍵を返しに来たことを思い出し、あの時の自分の気持ちが、すべて誤解から生じたものだったなんてと信じられない気持ちでいっぱいになる。
「酒なんか飲むんじゃなかった」
アパートに入って、リビングのソファに座りながらニッキーが忌々しそうにそう呟いた。
私は彼の足下に座り、彼の膝に手を乗せてその顔を見上げた。懐かしい愛しい人の顔を、ずっと見つめていたいと心から思う。ニッキーは優しい目で私を見下ろして、ゆっくりとその手で私の髪を撫でた。
「酔いが醒めたらこれが夢で、君が消えていたらと不安になる」
「……私も、同じ。これが夢じゃないかってまだ、本当に信じられない」
夢であって欲しくない!
もし、夢なら、二度と覚めないでほしい!
私は立ち上がって彼の首に手をまわして力の限り抱きしめた。今は、ここにいる。一緒にいる。
ニッキーが両腕で私の体を抱きしめて、その腕に今までになく力を込めた。
「辛い思いをしたんだろう。前より細い。これ以上、力を入れたら壊れてしまいそうだ」
「……風邪ひいて寝込んでたからかな……今朝、熱が下がったばかりなの」
思い出してそう言うと、ニッキーが心配げに眉を潜めて、私の額に手をあてる。
「熱はなさそうだが、これ以上の無理はよくないだろう。今晩はもう、寝た方がいい」
「うん……」
確かに頭が少しふらふらするかもしれない。
本当は、この思いもしなかった幸せをもっと噛み締めたかったけれど、確かにどっと疲れが出た気がする。
少しでも彼の存在を確かめたくて、そっとその髪を撫でて、彼の頬に触れてみる。間違いなく、ニッキーがここに私と一緒にいる。この髪も、頬も、首も、腕も、すべてが間違いなく彼だ。
真剣に彼を確かめている私を見下ろして、ニッキーが幸せそうな微笑みを浮かべて、それから私の頬にキスをした。
「やっと、君を取り戻せた」
そう言って、ぎゅっと私の体を抱きしめた。そして、私の顔を覗き込むとちょっぴり意地悪そうな微笑みを浮かべた。
「本当は、一晩中でも君を愛したいけれど、酒を飲んで酔っている時は君を抱かないと決めているから」
久しぶりのそういう言葉にドキンとして彼を見つめた。
「だから今晩は、眠る君を朝までずっと抱きしめていよう。もう二度と逃げ出せないように」
私は思い切り彼の胸に飛び込んで彼を抱きしめる。楽しそうな笑い声をあげたニッキーが私の背中を抱いて、いつものようにその大きな手で髪を梳いてくれた。二人で顔を見合わせてそっとキスを交わして、私達に戻って来た幸せを確認する。
長かった暗黒の世界に、一筋の光が差し込んで来た瞬間だった。

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

史上最強最低男からの求愛〜今更貴方とはやり直せません!!〜

鳴宮鶉子
恋愛
中高一貫校時代に愛し合ってた仲だけど、大学時代に史上最強最低な別れ方をし、わたしを男嫌いにした相手と復縁できますか?

同居人以上恋人未満〜そんな2人にコウノトリがやってきた!!〜

鳴宮鶉子
恋愛
小学生の頃からの腐れ縁のあいつと共同生活をしてるわたし。恋人当然の付き合いをしていたからコウノトリが間違えて来ちゃった!

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

鳴宮鶉子
恋愛
御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

処理中です...