暁に消え逝く星

ラサ

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第4章

回想 叶わぬ願い

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「嘘よ……そんなはずないわ……」

 小さく小さく、その呟きは漏れた。
 男は、皇宮の外で、何が起こっているか短く話した。
 物価が高騰し、庶民が二倍近くとなった税金を払えなくなり、餓えに苦しんでいること。
 そうして、何人も餓死者が出ていること。
 リュマも、その内の一人であったこと。
 多分、女が仕送りを続けていても、リュマは餓えていただろう。
 食料自体がなかったのだ。
 この皇宮以外に。
 店は軒並みつぶれていた。
 先を読めるものなら、とっくに国外に出ていた。
 貧しく、行く当てもない弱い者達だけが、残り、真っ先に死んでいったのだ。
「……あの子は、どこにいるの? 家に?」
「――いや、知り合いの医者のところだ。葬儀の手配は整えた。明日には荼毘にする」
 女がはっと顔を上げた。
「それは、あたしの役目よ。あの子を送るのは、身内のあたしじゃなくては」
 焦燥にかられたように、女は動いた。
 男をその場に残し、女は作業小屋をとびだした。
「おいっ!」
 男は一瞬呆気に取られたが、すぐに女の後を追った。
 女の足は速かった。
 男が乗り越えてきた使用人の使う通用門の錠を開け、屋敷の外へ出る。
 そして、南東へ向かって追い立てられるように走った。

 弟のところへ、行かなくては。

 その思いだけが、女の心を占めていた。


 この二年近く、女の生活はまさに針の莚だった。
 仕えた姫は傲慢で、彼女をこの敷地内から昼は一歩も外へ出さず、男の目に触れぬよう下働きとしてこき使った。
 彼女の仕事は、最初のうちの数ヶ月を除いて、常に地下の作業小屋か、みんなが寝静まった後の今日のような嫌がらせのくだらない言いつけばかりだった。
 仲間と呼べる同じ下働きの侍女も、片手で数えるほどしかできなかった。
 たった一人の作業で、女を孤立させる意図はみえみえだった。
 明らかに、女に対する嫉妬だった。
 お世辞にもその姫は美しいといえる容貌ではなかったからだ。
 理不尽に鞭打たれることだけはなかったが、心は、そうされているのと同じだった。
 たまの休みに、家に帰しても貰えなかった。
 他の下働きの女達が交代で帰してもらえるのに、女だけは何かと理由をこじつけられ、帰れなくされた。
 自分がおいてきた弟が心配で、唯一歳の近いカリナという侍女に、手紙と生活費用の金をことづてるしかなかった。
 カリナが持って帰ってくる、二月に一度の弟からの返事だけが、心の慰めだったのだ。
 それなのに、この半年、カリナが手紙を持っていっても、返事はなかった。
 カリナは行っても家におらず、手紙と金を扉の下の隙間に押し込めて戻ってきたと告げる。
 最初は、すれ違っただけだろうと思っていた。
 休みごとに様子を見に行ってもらっても、金と手紙はなくなっていると言われたからだ。
 もし何かあったのなら、連絡がくるに違いないから。
 何の連絡もないのなら、ちょうど都合が悪くて会えなかっただけだと自分に言い聞かせた。
 生きているのなら、それでいい。
 あと少しでここでの奉公も終わる。
 今日も夜明けを待つように、ひたすら祈っていた。
 早く、弟のところへ帰れますようにと。
 終わったら、弟にしてやりたいことがたくさんあった。
 この二年で、きっと背は大きくなったに違いない。
 新しい服を、作ってやらねば。
 この二年、給金をもらっても弟の仕送り以外使うことはほとんどなかったから、戻って新しい仕事を見つけるまでは、半年は余裕で二人で生きていける。
 最後に見たとき履いていた古い靴は仕立て直して、新しい靴も買おう。
 あの子は本を読むのも大好きだから、新しい本も買おう。
 ここで覚えた珍しい料理も作っておなかいっぱい食べさせてやりたい。
 もう十歳になっている。
 会えなかったこの二年の空白を埋めるように、たくさん話をしよう。
 それこそ、夜が明けるまで。

「リュマ――リュマ……」

 会いたい。
 もう一度。
 死んでしまったなんて。
 自分がいないところで、独りで死なせてしまったなんて。
 約束したのに。
 死んだ両親と。
 幼いあの子を守ると。
 それなのに、それなのに――!!

「おい、待て!!」

 背後から小さく聞こえる声。
 女は振り返らなかった。
 地の利がある分、女の方が有利だった。
 小路に入り、皇宮の門へと女は向かう。
 走り抜けたところで、門前の広場の横に出た。
 左側には、神々の末裔と称される皇族の住まう美しい皇宮殿。
 右側には外へと出られる大きな門が。
 広場を挟むように皇宮殿にまっすぐ流れる水路に架けられた橋を渡って、女は迷うことなく門へと走る。
 大きな門は、閂が下ろされていた。
 門前には二人の見張りが立っている。
 脇に備えられたかがり火が門の周囲だけを明るく照らしていた。
 女は門番達に駆け寄って行った。
 突然現れた女に、門番達はぎょっとしたが、

「お願いです、扉を開けてください。外へ出なければならないの。弟が死んだの。あたし、あの子の魂を送ってあげなければ!!」

 そう叫ばれて、ますます困惑したように顔を見合わせた。
「どこの侍女だ? 聞いていないのか。戒厳令が出ているんだ。誰も通してはならないんだ。誰も出してもやれない。聖皇帝様直々の発令だ。出たいというなら、聖皇帝様の許可をもらってから来い」
「お願いです。大きな門ではなく、そこの、小さな通用門でいいんです。開けられないというなら、見逃してください。あたしが勝手に開けて出ますから、ほんの一時でいいんです。もう戻ってきません。出してくれるだけでいいんです!!」
 必死の女の叫びも、男達には通じなかった。
「駄目だ駄目だ。俺達には、事前の許可が出ていなければ、扉に触れることさえできないんだ。破ったら、俺達の首がとぶ。外に出たいんなら、主に頼め。主が許可をもらえば、補給のための官吏が出て行くとき、一緒に出してもらえる。次は五日後だ。戻って朝に頼んでみろ」
「今出たいんです。明日には、荼毘にされるの。お願いです。ほんの少しでいいんです。あたしが出るだけ、通用門を開けてください。外に出して! 弟に、会わせて!!」
「俺達にそんなこと言われたって、どうしようもないんだ。開けてやりたいけど、無理なんだよ、娘さん」
 女は、突如男達の脇を抜け、通用門へと走り出した。
「お、おい、こらっ!」
「待て!」
 大きいほうの一人が、女を捕まえる。
「駄目だと言っただろう! あきらめて帰れ!」
「お願いです!! なんでもしますから、扉を開けて!!」
「いいかげん聞き分けろ! 女だからって容赦しないぞ!!」
 女を引きずって、門番は水路の近くの橋まで、連れて行った。
 そして、些か乱暴に、女を突き飛ばした。
 石畳に倒れた女が痛みに呻くだけで起き上がる気配がないのにほっとして、門番は強い口調で言った。
「いいか、これ以上騒いだら承知しないぞ。大人しく屋敷に帰って、主に頼め」
 門番が背を向けて去っていく。
 叩きつけられた痛みで、女はしばらく動けなかったが、それでも、何とか、身体を起こした。
「――大丈夫か」
 橋のほうから、かかる声。
 男がいた。
 痛ましげに、女を見ていた。
「……」
 ゆっくりと、男が近づいてくる。
 それが、女には終わりを告げる死神のように思えた。
 門を出ることはできない。
 弟のところに、行くことはできない。
 あの子の魂を送ってやることもできない。
 何もできない。
 自分に許されることは何一つない。
 そう、思い知らされるように――無力な自分を打ちのめす。
「――」
 女は、あきらめなければならなかった。
 終わったのだ。


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