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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食

この化け物には、小石程度の重さしかなかった

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 黒煙のなか、カルディアを探す。
 暗闇を覆い尽くさんとするほど、炎が燃え上がっていた。
 ギスランは半狂乱になりながら、走っていた。
 馬車の窓から見えた火柱は、カルディアが住む屋敷を飲み込み、めらめらと燃え盛り続けていた。門扉についたとき、ギスランは御者の制止を振り切り走り出していた。

 肺の中の酸素を吐き出しながら、カルディアの名前を叫ぶ。
 逃げ出してくるのは侍女達ばかりで、捕まえて問いただしてもろくな反応を示さない。
 そんな女など最初から屋敷にはいなかったと言わんばかり。
 苛立ちで奥歯が砕けた。
 役立たずの女どもを投げ捨てて、ギスランは屋敷の中に入り込む。

 カルディアの部屋の場所は知っていたが、階段には火の手があがり、行き道を塞ぐ。ギスランは火傷も構わずに炎の中に突っ込んだ。
 炎がギスランの体を嬲る。痛みは気にならなかった。

「カルディア姫、カルディア姫……! カルディア!」

 服が焼ける。
 階段はすでに半壊しており、足を取られて落ちそうになった。
 手をついた途端、手がじゅうと熱した鉄に触ったように焼けた。
 恐怖に陥りそうになる。彼女は無事なのだろうか?
 ギスランの姫は、なぜこんなに惨い目にあっている?

 愛人の子だからなのか。人付き合いが苦手で、勉強が不得意だから? テストの成績が良くなかったから、捨てられるように火をつけて燃やされるのか。

 煙を吸い込み、咳き込む。
 唇が火で炙られ、くっつきそうだ。肺の中まで熱気が入り名前を呼ぶたびにざらついた痛みが走る。
 やっとたどり着いたカルディアの部屋は既に火の柱が上がって何もかもを燃やし尽くしていた。

 カルディアが好きだと言っていた童話も、ギスランが贈ったぬいぐるみも、跡形もなく燃える火のなかに消えている。

 カルディアの名前を叫んだ。寝室にも、ソファーにも姿がない。
 ふと、見やると、炎が夜空を目指すように火の手を伸ばしていた。バルコニーへの扉が開いていたのだ。

 ギスランはもやは燃え尽きそうになる体を何とか術で形を保たせて、轟々と音を立てる炎の中を通り、手摺りに触れた。
 肉の焼ける臭いは吐き気がするほど気持ち悪いものだった。
 それでも、覗き込むことをやめられなかった。
 真下には花壇があった。誰かが虫のように這いずっている。花を掴み、炎から逃げるように小さく、小さく進んでいる。
 ドレスは焦げていた。炎に照らされて、彼女の真っ白なドレスがオレンジ色に染まる。

 ――カルディア、姫?

 どうして彼女が地べたを這いつくばっている?
 どうして彼女を助けるものがいない?
 どうしてギスラン彼女のこともろくに守れない?
 誰かが、助けるべきだ。
 ――ちがう。ギスランが助けるのだ。
 手摺りに足をかけて、飛び降りる。
 脚の骨が折れた。術で無理矢理動かした。腕の力だけでカルディアに近づく。もう、人間の姿を保てているかすら怪しかった。

「……、ギスラン」
「……ッ」

 土を掻きむしりながらカルディアは譫言のように呟く。

「カルディア姫!」

 ギスランはもう死んでもいいと思った。今彼女を抱き抱えられないのならば死んだ方がましだ。
 ボロボロと涙が溢れた。醜い人間だからか、涙はすぐに宝石に変わる。どうして、うまくできないのだろう。カルディア姫と名前を呼ぶことしか出来ない。
 カルディアは生きている。
 ――だが、死んでしまいそうだった。
 地獄のような場所で、天国に片足を突っ込んでいた。息は浅く、喘鳴のような息を吐く。
 もう助からないかもしれないと、冷静な自分がいた。いや、そもそもこのような地獄にカルディアを本当に生かしていいのか。
 侍女達は誰もカルディアのことを守らなかった。
 燃える屋敷に残された彼女を、誰も救うことはなかった。
 天使のような人なのに、無視され、虐げられていた。ゴミのような扱いだ。

 ギスランだって、そうだ。何も出来ずにここにいる。
 この世界で生きることはカルディアにとって不幸なのではないか。苦痛だけが続くのでは。
 ギスランは守れるのか? 今ですら何も出来ないのに?
 彼女の幸せはどこにあるのだろう。

 カルディアはギスランを見上げてーー悲鳴のような声でこう言った。

「生きたい」

 ――ああ。
 そう願ってくれるのか。
 いつだって、生きていくことは苦痛だった。
 家庭教師が涙を出せ、宝石を出せと頬を叩いて、意地悪をして泣かせてきたときも。
 母親がギスランのことを女の子のように扱うときも。
 父親が無関心にギスランを見下すときも。
 政敵から毒杯を飲まされたときも。
 令息達に清族の子! 使用人と同じじゃないかとせせら笑われたときも。
 令嬢達に薄汚い血と罵られたときも。
 リストからごみのような目で見られたことも。
 ーーあの赤い瞳が侮蔑を向ける。清族との混血児。正統な貴族ではない紛い物と。

 ギスランにとっては心が割れるような出来事だった。
 心を抱くだけ無駄だと、理解した。
 人形のように言われたことだけこなすようになれば、粉々になった心を忘れる。
 人形のように振る舞えば、憎い相手に笑顔さえ向けれた。歯の浮くような言葉。褒めそやす甘言。お手のものだ。

 ――けれど。

 カルディアがギスランを家庭教師から守ってくれたときに。
 食べたこともないいちごタルトを美味しいからと食べさせてくれたときに。
 お前など嫌いなのだからねと言いながら、童話を読んで聞かせてくれたときに。
 ギスランと、名前を呼んで少しだけ恥ずかしそうにするのを見たときに。

 ギスランは死にたいと思うことを忘れることが出来た。
 ずっと、死を望んでいた。苦しいことを終わらせたかった。
 けれど、カルディアと一緒ならば幸せを感じた。生きたいと思えた。
 きっと、ギスランはカルディアが寂しいから一緒に死んでと言ってくれれば嬉々として従っただろう。
 だが、カルディアはまだ生きたいと言っている。生きていたいと。
 炎のなかにいようといまいと、苦痛だけが支配する間違った世界。
 こんな、地獄で。


 ならば、ギスランがするべきことは一つだけ。






「ギスラン様!」

 眠りから醒める。掠れた声がギスランの名前を呼ぶ。カルディアの声ではなかった。ケイのーーギスランの剣奴の声。
 内臓が爛れるような痛みを思い出す。
 ギスランは死にかけていた。
 彼の美しい瞳は潤み、熱を持っていた。銀髪は乱れ、唇は土の色だ。
 カルディアのかわりに毒の入った料理を全て平らげた。
 猛毒だったから、すぐに毒が体に回った。術で体を巡る速度を遅らせたが、遅らせただけに過ぎない。もう助かることはないだろう。
 剣奴達は脂汗を流して帰ってきたギスランをぎょっとして見つめていた。
 ケイに一才合切を話したら、皆錯乱してしまった。先んじて三人ほど自殺したところで付き合ってられないと寝室で横になったところまでは覚えている。
 かなり眠ってしまったらしい。もう夜の帳が下りていた。
 しんと静まり帰る静寂の暗闇の中、剣奴達の啜り泣く声が聞こえる。

「――うるさい」
「申し訳ございません」
「カルディア姫に、花を。贈る準備を」
「ギ、ギスラン様?」

 最悪な夢を見た。
 火に飲まれた屋敷でカルディアを探す夢。
 ギスランは実際には、屋敷に立ち入っていない。彼女を探しているうちに花壇を這いずるカルディアを救出しただけだ。
 彼女の爪に入り込んだ泥土を今でも悔しくて忘れられない。生きたいと呟いた言葉だけが本当で、他はギスランが作り出した馬鹿げた妄想だった。

 ――火に焼かれて、それでも助けられない夢を見るとは。

 死の間際まで、少しも上手くいかないものだ。

「求婚をする。――カルディアの花がいい」
「ギスラン様、今は」
「死ぬ前に求婚しなくてはいつすると? 死んだら、何も出来なくなるだろう」
「ですが」

 イルとケイの顔が曇る。
 だが、ギスランはその顔を無視して、メッセージの文面を考えた。痛みで頭が変になりそうだったが、カルディアが馬鹿らしいと花束に目をやってーーそれでも、花瓶に飾ってくれることを思うと耐えられた。
 彼女は手紙も添えたら読む。そういう、律儀な方だ。

「ギスラン様、どうか、何か別のことをお命じ下さい。――俺達は全てを叶えます。毒殺の犯人を突き止めよでも、カルディア姫をこちらに連れてくるでも、この腐った国を滅ぼせとでも。お命じのことならば全て」
「必要ない」

 毒殺の犯人は分かっている。
 証拠などないが、リストだろう。
 あの男はカルディアのことを裏切ると思っていた。
 そもそも、自己愛の化身のような男だ。カルディアを求めるのとて、自分が王族でありたいからという浅ましいものでしかない。
 愛など、ないのだ。ギスランのように、燃えるようなものはない。
 あるのはただ、どろりとした権力に執着した汚泥で、そこには愛情なんてかけらもない。
 カルディアは権力のための道具ではない。
 ましてや、王族の証でも、血の穢れを薄めるモノでもない。

 ――ギスランのたった一人きりの大切な方だ。

 童話を読むときの幼い顔が好きだ。むっとしたときの眉を寄せる仕草も。緊張で唇を噛む癖も。
 不安や恐怖があると手の甲に爪を立てる習慣をやめさせたかった。卑屈そうに微笑む時に泣きそうになるのも。

 いつだって、幸せにしたかった。ギスランの手で。

 カルディア姫。ギスランに生まれた意味をくれた人。
 カルディアを幸せにすることで、幸せになりたかった。
 それこそ、生まれた理由だと思えた。清族の女を強姦した男から生まれた混血児が、疎まれながら生き続ける意味だと。

 他の女から情報を得るために猫撫で声で迫り、価値のない涙で出来た宝石を配り歩いた。愛と金を前に、令嬢達はやすやすと陥落した。誰もが薄っぺらくて、薄情だった。口が軽く、幻滅するほど下品だった。
 カルディア以外は、誰だってギスランにとっては敵で、駒だった。都合のいい人形でごみだった。貴族令嬢も、令息達も同じだ。等しく価値がない。
 ギスランが扱われたようにそう扱った。
 ギスランは人間ではないから、心は痛まなかった。カルディアのことでしか、もうギスランの心は動かない。カルディアだけが、ギスランが人の形をして生きる意味だった。


「花を。沢山の、花を」
「ギスラン様!」
「生まれたことに祝福を」

 カルディアが、気がつかなければいいなと思う。
 犯人がリストだと知ったカルディアはどれほど絶望するだろう。
 ギスランはリストのことが嫌いだが、カルディアは彼を家族のように思っている。
 気を許し、甘える。兄のように接する。
 リストだって、カルディアを甘やかした。
 時には膝を貸し、眠るまで童話を読み聞かせたことだってあった。ギスランがどれほど嫉妬したか。髪を撫でながら、めでたしめでたしと締めくくったその口を縫い付けてやりたいと思ったことか。

 リストに毒を盛られたと知られてはならない。それだけは絶対に隠し通されればならないものだ。
 カルディアは、死んでしまえと願われる人間なんかじゃない。
 大切だと思っていた人間に裏切られるような人でもない。
 優しく、微睡むような愛を捧げられる人なのだ。


 だから、口を閉じて花を捧げる。
 カルディアはギスランがいなくなったあと、泣いてくれるだろうか?
 結婚なんてしないで、ずうっとギスランのことを引きずってくれればいいのに。
 愛を捧げた男を、ずっと想っていて。
 この身はきっと、心臓だけしか残らないけれど、それでも覚えていて欲しかった。

 ――カルディア姫。

 ……ああ、嘘だ。
 死にたくない。カルディアを道連れにしたい。一人は嫌だ。離れたくない。

 ギスランがいないのに幸せにならないで。
 ずっと、自分を呪っていて。死ぬ時に、ギスランを思い出して。
 ずっとずっと、彼女の影のようにこびりついて離れないものになりたい。
 未練に、後悔に、呪いになりたい。
 ギスランの死だけを悼んでいて。復讐をしてくれてもいい。
 憤怒を身に宿して、ずっと燃え盛る怒りに身動きがとれなくなればいい。

 ――それでも、やっぱり。
 ギスランはこう思う。

 カルディアがリストに死を望まれたことだけは、隠し通したい。

 それが叶うならばギスランはカルディアにずっと思われずにいてもいい。
 好きな人が出来て、結婚をして幸せになってくれてもいい。
 忘れられても、復讐なんかしてくれなくてもいい。
 リストと結婚することだって、奥歯を噛み締めて耐えてみせる。ギスランを殺した人間と結ばれても、いいのだ。
 カルディアが、ずっと幸せでありますように。
 この秘密がバレることがありませんように。
 どうか、泣くことがありませんように。
 もう二度と、カルディア姫が生きたいと地面を這いながら呟きませんように。
 誰かが彼女の手をとって、助けてくれることを望んだ。
 笑っていてくれるなら、それでいい。


 ――カルディア姫。貴女様はずっと、生きていて。

 生きたいと、カルディアが言ってくれた。こんな地獄で。

 また会いましょうねと、言わなければ良かった。
 こんなに、死にたくないと思うだなんて。未練ばかりが募る。

 求婚の花束を見て、カルディアはどう思うだろう?
 死んだギスランを見て、彼女は泣いてくれる?

 命の全てを捧げます。
 いつだって、ギスランはカルディアのもの。死んだあとだって、ずっと、変わらない。

 身体中が熱い。心臓の音が大きくなるばかりだ。
 目を閉じると、もう目蓋は開かなかった。
 沈むような眠気に誘われる。死とはこんなにも穏やかに迫り来るものなのか。強烈な痛みが消え、落ちるように意識が途絶える、その間際。

 啜り泣く声を、聞いた。

「わたくしが、妖精に堕ちる!? そんなのありえない! ありえないわ! ありえていいわけない! 父神様! わたくしを助けて、助けて助けて、助けなさいよ! だってまだ、あの方に会えてもいないのにーー」

 恋しがる女の叫び。
 恋狂い神はいよいよ妖精へと堕ち、天の帝はおのれのはなおとめを探し求める。

 カルディアは復讐に走り、リストはギスランの死に歓喜した。
 ギスランの望みとは裏腹に、カルディアは復讐のためにクロードと結ばれ、血の雨が降る。王族は皆死に絶えて、世界は濁流に飲み込まれる。

 ――カルディアは、リストに殺意を向けられたことを知ってしまう。

 ギスランの望みは何一つ叶わなかった。

 ギスランの寝台の上にはどくりどくりと脈打つ心臓だけが残された。
 妖精に食い荒らされた彼を掬い上げたケイは、ギスランの望みを無視してカルディアに花を送ることはなかった。
 ケイは飛び降りて死に、両親は彼の葬式に義務的に参加して、涙一つこぼさなかった。

 棺桶を運んだイルはファミ河の海岸からギスランを送り出すときにこう思った。

 ーー小石程度の重さしかない。あんなに、美しい人だったのに。





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