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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食

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「そもそも、この国には予言書がいなくなってしまった」

 予言書はいなくなってしまった……?
 予言書。たしか、あの男こそが預言書だとサンジェルマンはザルゴ公爵のことを指して言っていた。
 ザルゴ公爵は、この世界で会議中に錯乱して数十人銃殺したあとクロードに殺されたはずだ。

「そもそもの話をしよう、はなおとめ、この世界は君が元々いた世界に相違ない」

 元々いた世界?

「時間軸はずれているけどね。それは瑣末な問題だよ。君は違う世界の自分に魂だけ入り込んでいると思っているんだろうけど、それは大きな間違いだ。世界は一つしかない。君がただ、他の世界の記憶を持っているだけに過ぎない」

 ……どういう意味だ?

「君のいた世界が更新されたんだ。大神が書き換えた。大神は意思を持って背の皮に細工を仕掛けた。君がこの世界に至るように記述を書き換えたんだよ」

 それじゃあ、まるで私がいた世界がーーギスランが生きていた世界がもうどこにもないような言い方だ。
 ニコラはこくりと頷いた。まるで私の心を読んだように。

「ないよ。君がいた世界は背の皮に記載された文字が改竄されて消えてしまった」

 ニコラは感情を排して、表情を変えずに、もうないと繰り返した。

「背の皮に記された記述は、この世界のありとあらゆる物事を記している。事細かくね。あれの厄介なところは書き換えられたら、その記述に沿うということだ。世界の流れを書が書き記しているんじゃないんだよ。あの背に記述されるから、世界がそうなるんだ」

 そんなのでたらめだ。だってそうだとするならば私達が生きてきたあの世界は、まるで一枚の紙のように吹けば飛ぶような軽いものになってしまう。

「でたらめだと思うかもしれない。けれど、これは本当のことなんだ。それぐらい、世界というのは脆いものなんだよ。……預言書は背の皮と繋がる唯一無二の存在だ。その本質は、背の皮。体を乗り換えて、終焉の時まで生き長らえる。……でも、それが、この世界では例外的に消えてしまった。預言書には、自殺が認められていない。けれど、この世界の預言書はそれを成し遂げた」

 本質は、背の皮?
 自殺が認められていない?
 ニコラは何を、何を言っているのだ。

「予備だったミミズクも、予備として機能する前に預言書が殺したのだろうね。どこにもいない」

 ミミズク……ぽやぽやとしたあのミミズクが死んだ?

「彼は預言書が次代の体を乗っ取るまでの間、預言書として機能するんだ。けれど、この世界にはもうミミズクもいない」

 予言書もいなくて、予備のミミズクもいない。
 それはわかったけれど、だとして預言書がなくて、何が困るんだ?
 いや、本当は分かってなんかいない。分かったふりをしている。言葉が耳から抜けていくようだった。

「もう一度、整理しよう。この世界は大神によって書き換えられた世界だ。世界はこの記述に沿って動き、はなおとめは今ここにいる。――預言書は、その記述に沿ってこの世界を書き換える機能を持つ。預言書は背に書かれた言葉を通して、この世界を改変する。――でも」

 もう、預言書は亡くなった。

「予言書は自殺してしまった。もうこの世界は、背の皮の記述を書き換えても、改変はされない。――元に戻らない」
「ま、っ」

 思わず声が出そうになり、慌てて唇を噛む。
 そうだとするならば、背の皮に書かれた記述を元に戻しても、私はギスランが生きている世界に戻れないと言うことではないだろうか。
 それに、予言書が自殺した?
 ザルゴ公爵は、クロードに殺されたはずなのに?

「……君の疑問は最もだね。このままじゃあ、背の皮の記述を直しても、元には戻らない。君はこのままこの世界で生きていくことになる。卵と同じだ。割れたら、中身は戻らない。書き換えられたらもう帰れない。これじゃあ、希望を持てというのは酷だ。けれどーーけれどね」

 拳を握り、ニコラは勝ち気に微笑んだ。

「きっと元の世界に戻れるよ。大神が何を考えているのか、分からないけれど、僕も手伝う。かの神の思い通りなんかにはさせてやらないさ」

 でもと流石に疑惑を抱いてしまう。
 ニコラがどのような立ち位置にいるのか私はよく分かっていない。神様に選ばれた人間というのはそれとなく理解しているが、それがどんな意味を持つのだろう。そもそも、どの程度の能力を持っているのかも、知らない。
 きっと戻れると安請け合いされても、はいそうですかと簡単には頷けない。

「とはいえ、すぐこの話を信用しろというのは無理があるよね。そもそも、状況が状況だ。予言書が死んでいる以上、ことは上手く運ばないだろう。君も今初めて聞かされて戸惑っているに違いないし。……少し弱ったな。僕のこと、信用できると今のところ思えないよね」

 ニコラは私の不安をきちんと嗅ぎとってくれていた。うーんと頭を悩ませ、何度も唸った。

「どうにかなるって思う具体的な理由を話すね。そもそも僕は二つのある仮説を立てているんだ。一つは、そんなに簡単に預言書がこの世界からいなくなってしまったのかという疑問から生まれたものだ。この世界にいま、預言書がいないのは本当だよ。でも、もしかしたら、まだ預言書としての自覚がないだけなのかもしれない」

 そういえばさっきも、予備のミミズクについて不思議なことを言っていた。
 預言書が次の体を乗っ取るまでの間、代わりを務めるのだと。

「預言書の移り変わりについてきちんと説明するよ。預言書は、さっきも言った通り、背の皮のことだ。それは、生物に寄生して役割を果たしている。宿主が寿命で死んだりや事故で亡くなったり、殺害されるたびに、寄生先を変更する。預言書は、新しい宿主を見つけるとまず寄生して、そのまま完全に自我を乗っ取るんだ」

 自我を、乗っとる?

「自我と言っても、まあ、そう物騒なモノじゃないみたいだよ。宿主の意識も勿論ある。いうなれば共生している感覚らしいね。預言書としての感覚と、自分自身の感覚が混ざると言っていた。僕は、預言書自体に会ったことはないけれど、会ったことがある人に、話を聞いたことがある。預言書になる人物は、過激な人間が思慮が深くなったり嫋やかな性格になったり、とまるまる変わるわけじゃない。ただ、死んでも次があるのだと思うようになるだけなんだって」

 ザルゴ公爵のことを思い描く。サンジェルマンは彼こそが預言書だと言っていた。ならば、ザルゴ公爵は、預言書の宿主の一人だったといことなのだろうか。クロードに殺された後、予言書としての機能が誰かに移った?
 そのあと、自殺した、ということだろうか。
 でも、そう言われれば、どこか腑に落ちることがある気がした。……いや、やっぱり腑に落ちない。そもそも、どうして予言書が自殺したのだとニコラは知っているんだ?

「そうだ、この説明がまだだった。どうして、自殺したのか知っているのかなんだけど、背の皮にその記述があったからだ。というか、大神の細工がそれなんだよ。大神は背の皮で予言書とやりとりをしていたんだ。僕にはあの文字あまり読み取れないんだけど、メルが言うには自殺することで予言書としての機能が完全に失われる、みたいなことが書かれていたみたい。どうも、予言書と結託して、今回のこの世界を作り上げたみたい。他にも何か書かれていたようだけど、メルには分からないことが多くて読み取れなかったって言ってたな」

 ごくりと唾を飲み込んで、ニコラは一呼吸ついた。
 また饒舌に話し始める。

「自殺が出来ないのは、神様が自殺出来ないからなんだ。メルも、エルシュオンも、大神も、死に神も自殺は出来ないらしい。預言書の大本である背の皮は、大神のものだから、預言書も自殺が出来ない。でも、今世の預言書は豪胆にも自殺をした。でも、予言書が自殺した前例なんかないから、予想が間違っているかもしれない。予言書は自殺してと生き残っていて、新しい宿主に寄生するのが難航しているだけかもしれない。これが僕の一つ目の仮説」

 うーん。希望的観測だけど、ありえなくはないという程度だろうか。ニコラの言葉が全部真実だとして考えたとしても、希望があるとはあまり言えない仮説だ。
 事実、今、預言書はこの世界にいないのは確定しているようだし、正直あまり頼りになる仮説じゃない。

「もう一つの仮説は、大神の視点から見たものだ。……けほっ。ごめん、ちょっと喋り過ぎて疲れちゃった。久しぶりにこんなに話しているせいだね。なるべく、きちんと一度一度、まとめをつくって整理しているつもりだけど、あまりうまくなかったら、ごめんね。僕、こういうのあんまり、生きているときにやってこなかったから。もっぱら、戦闘要員でね」

 気を取り直したように、ニコラは指で頬を叩いた。

「さて、話を戻すよ。この間といい、君は大神にとても気に入られている。はなおとめは、神様達のなかでも特別な名前らしくてね。……なんというか、愛玩する対象というか、愛でるべきものというか。ともかく、軽んじたり、嘲弄してはいけない存在らしい。メルも最初はそういう意味での寵愛だと思っていたらしいんだけど、ちょっと度が過ぎていると今回のことで確信した。今回のこの干渉で、大神は一部の権能を取り上げられている。この間といい、これで背の皮の記述を書き換えるのは二回目だ。もう一度同じような真似をすれば、神から堕落することになる。神からの妖精に堕ちることは神様達にとって最大の汚点だ。自分の核たる名前を忘れてしまうし、権能も取り上げられる」

 一回目――ジョージに殺されたあのときのことか!
 そういえば、あのときも、マグ・メルが大神が無理矢理書き換えたのだと言っていた。
 どうして、大神はこんなに私に関わろうとする?
 私に執着しているようなのは分かっているが、本当に私は彼を知らなかった。
 はなおとめと私が呼ばれることとなにか関係があるのだろうが、ニコラはどうして私がはなおとめと呼ばれるのかを知らないようだし、疑問が重なるだけだ。
 ああ、もう、全部知っている奴がやってきてこれはこういうことでと何もかも打ち明けに来て欲しい。

「きっと何か理由があるんだと僕は思った。例えば、君が死ぬ未来があったとする。どうやったって君があのまま進むと死んでしまう。どうしてかは分からないけれど、きっと大神は君が死にそうになると動く。――実際、この間、僕と君が会ったとき、記述が書き換わっただろう?」

 たしかに、私はあのときジョージに殺されかけていた。そして、それが大神が記述を書き換えたことによって阻止された。私がジョージのことを知り、対応を変えたからだ。

「大神の考えは読めないけれど、その根本には君を生かしたいという意思があるのだけは確かだ。どうして死んで欲しくないのかは分からないけれどね。今回のこれは、君がなるべく死なない世界になるように記述を書き換えたのだと思う。だから、前の世界より君が凄い死に方をするってなればあるいは……」

 死ぬことが前提になっていないか!?
 胃が痛くなってきた。本当はこいつの仮説、碌なものではないのでは?

「ということで、この仮説を基に何かをしようとすると少し非人道的だから、こっちはいざというときということにして。基本的には、預言書が生きているのを信じて、というのが本線になるね」

 眠気が覚めてきた。こいつの言葉を聞いていると、全然安心できない。
 つまり、現状全くよくないということじゃないか。元の世界に帰れる見込みもなければ、保証もない。ただ、かもしれないを重ねて、可能性を希望と呼んでいるだけ。

「背の皮の記述の修復には結構かかりそうだ。そっちとこっちの時間の流れは等価ではないから、詳しい日取りまでは言えないけど、一ヵ月ぐらいはかかるかな。あとは、預言書が戻るのを待つだけ」

 あとは、そうだなとニコラは付けくわえるように口を尖らせた。

「君の方も、覚悟をきめておいてくれ。――ちなみに首吊りは案外苦しみなく死ねるらしいからあまりおすすめしないよ。僕の地元だと、割腹か、動物に食まれるのが一番苦しい死に方だって話になったかな」

 鳥肌が立った。こらえきれずに起き上がる。しっかりと彼女を見つめると、唖然としか顔を浮かべたのち、ニコラは苦笑した。

「言ったでしょう? 最終手段はそうなるって。君のこと、大神は特別気に入っている。ならば、それを利用しない手はない。もし、そうなれば、もう二度とこんな変なことに君は巻き込まれないのだしね。ほら、言ったよね。大神はあともう一回同じことをすれば、神から堕ちるって。大神でなくなったかの神はもう君に関われない」

 苛烈な光がニコラの瞳の中を支配していた。嫉妬の感情が瞬いていた。疎んじるような、羨むような、激情に飲まれたその瞳に言葉を失う。
 彼女は笑みを浮かべたが、それは形だけだった。

「神様に飼われなくていいんだったら、その命ぐらい惜しくはないでしょ? 大丈夫、神様に飼われる苦痛なんかと比べれば、死への恐怖なんて、全然怖くなんかないよ」
「――お前は」

 霧がかかったように、ニコラの姿が見えなくなっていく。きっと、ニコラが言っていた通り、この場所は酷く脆いものだったのだろう。もう、彼女の目の色さえきちんと見えない。

「とてもあの港町の――ゾイディックの人間らしいわ。何だか、あの港町の密輸船に乗せられて売られるような、変な気分よ」

 皮肉で言った言葉にニコラは虚をつかれたように黙り込むとくすくすと楽しそうな声で笑った。

「何を言っているんだい。あの港の船員がこんなに優しいわけない。天国があると言って地獄よりひどい場所に連れていく奴らしかいないんだよ」

 笑い声だけが響く。

「そう思うと僕はとっても優しいぐらいだよ。神様へのお祈りは済ませた? 兄妹への挨拶は済ませた? ならばよろしいとまあ、こんな風に最初から覚悟を決めさせてあげてるんだからさ。それとも、死ぬのは嫌だと諦めてみる? それもいいとは思うよ。どうせ、いずれ記憶も薄れる。そのうち、君もこの世界に順応し始めるさ。――前の世界に戻らなくても、案外幸せに生きられるかもしれないよ?」

 声が掠れて、消えていく。ニコラの姿が完全に見えなくなった。

「カルディア?」

 クロードに揺すり起こされ、目を擦る。
 ぼんやりとした頭でさっきまで、ニコラと話していたことを思い出す。頭がガンガンする。吐き気までしていた。

「いや、眠いならばもう少し眠っていろ。疲れただろう?」

 労わる声に、意識が緩んでいく。目を手で隠された。影になった視界が心地よくて、目をゆっくり閉じる。

「おやすみ、カルディア」

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