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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食

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 四角い透明な箱の中に背もたれがついた豪奢な椅子が二脚。一人はユリウス、そしてもう一つは私が腰掛けている。
 互いに向き合っていた。ふと気がつくと、足元に水が溢れて来ている。どこからきたのだろう。冷たくて、薄暗い油のような水だった。
 彼の後ろを――背後を見たくない。透明な壁の向こう側には悲惨なものが吊り下がっていた。首吊り死体だ。それに、腹を裂いた子供もいた。片腕を千切られた女も。口から血を吐いている男もいる。
 皆、ユリウスを指差していた。まるで、糾弾するように。

「何かあるの?」

 彼は後ろを覗き込み、首を傾げた。見えていないのかとどうしてか安堵した。
 血の臭いがする。ユリウスも、ユリウスの後ろにあるものも。

「まあいいや。どこから話そうか」

 私は相変わらず、口の中の花のせいで喋れなかった。

「そうだな、まずは僕の帝国の勝利から話そう。長きにわたる戦争に勝利した! ライドル王国は衰退し、属国となった。王族を廃し、処刑したんだ。王子達の首が飛ぶ姿は壮観だったな」

 ぞくりと肌が粟立つ。この男は、私が傷付くと承知で、こんなことを言っていると思った。

「だが、天帝を信奉する清族達の牙城は崩せなかった。もともと、清族と王族の激しい対立があったらしくて、戦にも出てこなかった。聖塔を拠点とし、徹底抗戦されて一週間、和解することになったんだよね」

 ……? 何を言っているのだろう。
 そもそも、帝国とはどこのことだろう。ライドル王国を属国にした国などあっただろうか。
 それに、天帝を信奉する清族? ラサンドル派のことか? だが、聖塔を拠点? 地下新聞を拠点?
 いや、何かがおかしい。そもそも、ユリウスは何と言っていた?
 別の世界のと言っていなかったか。

「聖塔のなかには君がいた。はなおとめ。目をくりぬかれ、口を縫われた君が。僕はぞっとしたよ。まるで出来の悪い人形だった。身長の高い、身分の低い盗賊に抱え込まれて、何も分かっていないようになすがままに座っていた」

 ど、どういうことだ。この男、今、私を、はなおとめと呼んだのか。
 それに、身長の高い、身分の低い盗賊?
 目をくりぬかれて、口を縫われている……?

「お付きの清族は、狂喜乱舞。ここに神降ろしがなったのだ! ってもう気狂いさ。盗賊は僕を睨みつけて、どんなに脅しても怯えもしない。しかも、どんなに君の中に入ろうとしても無理だった。どんな精神攻撃系の魔術も効かない」

 駄目だ、話にまったくついていけない。神降ろしって、なんだ。

「しかたなく、僕は盗賊と会話をすることになった。薄汚い服を着て、汚い言葉を喋ったけど、知性があった。彼曰く、君は――の花嫁であるのだと」

 聞こえない言葉があった。何かに邪魔をされるように、ぽっかりと穴が開いているような無音だった。

「何者だと尋ねると、抜け殻だと答えた。もともと君は、目も口もあったのだと。自分がなくさせたのだと。意味が分からなかったけど、それ以上は興味がなかった。だって、そうでしょう? 人を傷つけるのは、パンを食べるような単純な動機がある。人が人を傷付けたいんだ。それ以上の理由は後付けに過ぎない」

 ……私は目をくり抜かれ、口を縫われた状態で、盗賊に守られている。盗賊のせいで、そんな目にあった?

「けれど、君は最後の王族だ。君を殺さないと、帝国に凱旋できない。僕にはやることがあるんだ。僕の神様、死に神様が、人を救えと大合唱していたからね。面倒だけど、偉大な神のために働かなくちゃならない。僕って可哀そうだよね……」

 ……?!
 死に神? 僕の神って、言ったのか。ユリウスは。
 どうなっているんだ。このユリウスは、本当に騎士ユリウスと関係がないのか?
 顔はそっくりなのに、信奉する神様は全然違う?

「そこで一計を案じることにした。謀殺だ。僕は日参し、君のもとを訪ねた。といっても、君は喋らないし、目を閉じたまま。たまに身動きはするけれど、耳も聞こえないらしいと清族が教えてくれた。ヴィクター、だったかな。やけに冷めた目の男だったよ」

 もう、まとめるのは後回しにしよう。
 今は、この男の言葉に耳を澄ませる。

「彼と盗賊は反目し合っていた。けれど、どうしてか、盗賊を外に出す気はないようだった。彼が君の世話を焼くのを黙認していたな。僕に対しても辛辣で、和解したというのに、魔術をかけられそうになってひやひやしたよ」

 踝まで水が上がって来ていた。

「しばらく通って、盗賊が気を許したのか、それとも君と何らかの密談でもあったのか、突然、王族の墓参りに行かせたいと言い出した」

 君と言いながら、ユリウスは私を指差している。

「願ってもないことだった。僕は君を外に連れ出したかったからね。あそこには、凶器になりそうなものが一つもなかった。たった一つもだよ?」

 透明な壁を、男が叩いている。ゾッとするような見た目の男だ。髪は伸び切り、髭も手入れされた様子がない。爪は血塗れで、引っ掻いたところが赤く線を描く。

「王都に出て、墓場に。作戦は上手くいったよ。君を殺した。革命者気取りのエヴァ・ロレンソン。彼が上手くやったんだ」

 エヴァ・ロレンソン!
 死に神の眷属、イヴァンがその名を読んでいた。
 どうして、その名前が出てくる?
 ユリウスの後ろにいる男が何度も何度も壁を殴り付けている。
 鳥がやって来た。
 彼の頭に嘴を突っ込み、食べはじめた。
 逃げ惑いながら、それでも男は叩きつけるのをやめない。

「君は死んだ。死は厳かなものだった。次の日、清族が死んだのは愉快だったなあ。首吊りだよ、自殺さ! ぶらんぶらん、体が揺れて見ているだけで心が惹かれた」

 こいつは、人の死ぬところを楽しんだのか。自殺を、愉快だと思ったのか。

「日をへるごとに清族は自殺していく。やがて、国から清族がいなくなった。僕はもう、有頂天だよ! これで事実上、ライドル王国は属国になった」

 けれどね、とユリウスが声を落とす。
 水位は腰まで来ていた。だというのにユリウスは気にした様子がない。

「君が死んだその日から、おかしくなった。僕の帝国で疫病が流行り始めた。雨が何日も続き、土砂崩れが起きた。ライドルにいた僕は、それを知らなかった。――両親が土砂に埋れて死んだ、兄弟が疫病に罹って死んだ。死に神様は僕を責め始めた。人が死ぬ、助けてくれ。救ってくれ!」

 帽子を掴んでくいっと顔に近付けた。ユリウスの表情が見えなくなってしまう。

「僕が帝国に帰ると、皇帝が馬鹿をやらかしていたよ。疫病の特効薬は人の生き血だと流布させていた。生き血を啜って自分だけは生き残ろうとしていた。それだけじゃない、雨が止まないから、人柱を立てた。それでも、雨は止まない。足らないから人数を増やした。でも、止まらない。止まらない、止まらない止まらない!」

 片腕を失くした女がぱたりと倒れる。腕から垂れ流す血に、人が群がった。

「おかしいよ、だって僕は死に神様のために人を救った。僕なりの方法だけど、ライドルの肥沃な土地を奪えば帝国で飢えて死ぬ人間は減るはずだった。だから、僕は土地を奪った。奪って、奪って、この手を血で汚して、祖国を離れて、戦争を」

 群がった人々が殺し合いを始めた。
 首吊り死体が腐って落ちてくる。それを誰も見向きもしない。戦いに勝った人間だけが、血をすすりながら死体を踏みつけた。
 何だ、これは。
 何で、こんなことに。

「――ねえ、僕はやめろと言ったよ。でも、誰も聞かない。いくら術をかけても、僕一人じゃあ、どうにもならなかった。世界の終わりは水が溢れて来るはずだった。死に神様は僕にそう言ったんだ。誰も助からないって。けれど、水が溢れる前に世界はあっけなく滅んだ。太陽がなくなって、雨しか降らないようになった。君が死んで、世界は本当の意味での落陽を知った。人間は殺し合って、もう残っていない。僕の好きだった綺麗なモノも、僕が嫌いだった醜いモノも、果敢で勇敢な人も、嘘つきで惨めな人も、夢うつつのことのように儚く消えた」

 透明な壁の向こうで、高笑いをしながら、生き残った人間が自分の腹に爪を立ててそこから血を飲んでいる。おかしくて、奇妙な光景だ。普通ならばありえない。滑稽だと鼻で笑われるような姿だ。
 けれど、ぞっとした。もしかして、病気に罹らないように自分の血を飲んでいるのか?
 もう、血を啜れる人間がいないから。

「死んでしまえと言われた。凱旋したときお助け下さいと縋りついてきた侍女だった。腕を捥がれて、目が充血していた。つやつやとしていた肌はぼろぼろで、僕をきつく睨んでいた。僕は彼女を殺した。いい子だったよ。でも、もう名前を思い出せない」

 ユリウスの片目から、血がこぼれてきた。

「城を出た。そしたら、病魔に侵された男に笑われた。どこに行こうとも無駄だ。誰もが死を迎えるんだ。僕は彼のことを殺した。むかついたからだ。彼に罪はなかった。けれど、最期、彼は僕にありがとうと言った」

 上から縄が落ちてくる。丸く結ばれた、罪人を処刑するための吊り縄だ。

「死のうと思った。僕は惨めに死にたくない。もう責められるのもごめんだ。――だけど、処刑人が、僕の縄を切った。貴方は英雄だ。生きてくれ。生き残ってくれ。身勝手に懇願して、縋りついてきた」

 荒縄が切り落ちて、水面に浮かんでいる。

「処刑人も死んだ。でも、言葉だけは呪いのように残った。だから僕は醜くこの箱の中に閉じこもって、世界の終わりを見守ることにしたんだ。そこに、君が来た」

 ユリウスが立ち上がる。水で歩きにくそうになりながら、私のところまで移動してきた。
 水は、もう胸のあたりまで来ていた。

「僕を笑いに来たの? それともそっちの世界も滅んでしまった? いや、それはないか。僕よりも無能な人間が、そうそういてたまるものか」

 顎を取られ、持ち上げられる。
 黄色の瞳のなかに移る私は、花なんて咥えていなかった。

「どうして何も喋らないの。僕の話は退屈だった? それとも、言葉を交わす価値すらない? 君を殺してしまったから? ねえ、応えてよ。僕に、人の声を聞かせて。もう何年も、聞いていないんだ。寂しいよ」

 祈るような、縋るような声にこたえるように水面が揺れる。

「僕を見て。僕を許して。僕を罵って。僕を怒って。僕が、悪くないのだと慰めて。僕に生きて欲しいと呟いて。……僕に死んでと言って」

 彼の瞳から涙がこぼれた。
 いよいよ、水は顔を覆い、息が出来なくなる。ユリウスは覚悟を決めたように顔を上げると、ゆっくりと跪いた。
 彼が口を動かして何かを言った。けれど、もうそれどころじゃない。耳に水が入ってきた。不愉快よりも、酸素を求めて上を向く。
 それでも、水が溢れて、止まらない。




 目を開けて、安堵する。私は生きていた。溺れていない。死んでいない。あれは、夢だったんだ。
 立ち上がろうとして、裾を踏みつけて転ぶ。ドレスも、髪も、何もかも濡れていた。転んだ拍子に顔に何かが張り付く。
 指先で取ってみると藤の花弁だった。
 ここをどこか確認するために目線を上げる。レオン兄様も、フィリップ兄様もいない。それどころかレオン兄様の寝室でもない。
 藤の花が植えられている木の真下だ。
 体が震えて、立ち上がれない。こんなことは初めてだった。どうして体全体が水浸しなのだろう。部屋で寝ていたはずなのに、どうしてこんなところにいるのだろう。誰かが私の体を盗んで動かしたとしか思えなかった。
 聖句を唱えて、女神に縋る。こんなときに他に何に縋ればいいのか、分からない。

 ユリウス。あれは、ユリウスだった。

 頭がこんがらがっている。膝を抱えて、寒さに震えながら頭を回転させる。

 私のことを、あいつは別の世界のお姫様と呼んだ。そして、あいつの世界の私は死んだのだと。
 口の中に違和感があり、吐き出す。枯れた花だ。私のなかで成長してものだ。
 吐き気がした。
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