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第二章 王子殿下の悪徳
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子供を子供のまま見続けるおぞましさをどう形容すればいいだろうか。身勝手にも、一生自分がいなければならない存在だと勘違いしている。反抗期の子供を窘めるような言い方に、やっと正常を取り戻した心が苛立ちを思い出す。
サガルはもうこの女に干渉されるような年齢ではない。
「お前を外に出したのは誰だと思っているの? わたくしがいなければ、ろくに太陽の下も歩けない癖に!」
「僕は貴女の提案に乗るべきじゃなかった。太陽の下に出るべきじゃなかった。あそこで餓死した方がいくぶんもましだった。嫉妬や恨みの感情を持たずに済んだのだから」
「馬鹿な子だわ。こんな女の何が良いっていうのよ。グランディオス様も、お前も! 醜女ばかりを好きになる。いったいどうしてそんなに潰れた顔に執着するの!」
ぎらつくような視線で顔をなぞられる。心臓を撫でられているようだと思った。急所を的確に狙っている。
自分でも、地味な顔だと自覚している。
美しい人を目の前にするととげとげとした感情が噴き出してくることがある。この女はそのざらついた感情を一身に受けたことがあるはずだ。妬みや嫉みを受けて、仕返しにお前の顔はなんて醜いのだと指摘し、自己嫌悪に陥らせる。そうやって人を屈服させてきたのだろう。
この女は人を誑かす毒婦だ。
私を自己嫌悪に陥らせようとしている。そして、同じぐらいサガルを怒らせようとしている。
興奮させて、正常な反応をさせないように挑発しているのだろう。放埒に言葉を放っているようで計算されている。
「運命の相手じゃなかったから。ただ、それだけの理由では?」
女の顔が歪んだ。サガルは朗らかに言い放った。
「綺麗な顔も、艶やかな痴態も、甘美な声も、磨き上げた教養も、身につけた知性も無意味だった。貴女の献身や努力は無駄になった。自尊心を傷付けられたのは知っています。それでもあの人のことを嫌えない一途さも憐れになるほどです」
それでもとサガルは言葉を切った。
「カルディアを別の人間と重ねるのはやめて下さい。それは、逆恨みだ」
「ち、違う! わたくしは……わたしは! この女と一緒にいたら、サガルも変になっちゃうに決まってる! 現に今がそうでしょう? わたしに逆らって、いじめてる」
「いじめてたのは貴女だ。昔、僕を脅したじゃないですか。カルディアを殺さないかわりに、貴女の姉を殺すからと殺人補助をさせた。今更、被害者面はやめて下さい」
母が死んだ時のサガルの行動は、そういうことだったのか。この女に無惨に腹を切り開かれる母に駆け寄ろうとした私を、後ろから抱きついたサガルが留めた。僕から逃げたらお前を嫌いになる。サガルはそう言った。あの時の残酷な言葉が、違う意味を持ち始める。
サガルはこの女から犯行の決行を聞いていた。邪魔をすれば私を殺すと脅されたのだろう。
サガルはわざわざ殺されに行こうとする私をとどめて、抑えつけた。嫌いになる。きっとそんな言葉でしか出てこなかったのだ。助けを呼ぶ私を前にして、その言葉しか出てこなかった。
じくじくと胸が痛む。サガルはあの時どんな気持ちで私を押さえつけていただろうか。
「そもそも、あの殺しは貴女の嫉妬心からの行為だったのですか? 貴女は、腹の子が男だと決めつけ、レオン兄様を差し置いて王座につくのだと言っていた。次代の王の母。国母となる自分の地位が脅かされるのが、恐ろしかったのでは?」
「わたしの恋は本物よ! 地位なんて、どうでもいい。サガルにだって否定させたりしないわ! あれは、姉さまが悪いのよ。私のグランディオス様を取ったのだから!」
女は少女のように慟哭した。
憎くてたまらない相手なのに、恋を主張する姿に同情を覚える。国王は彼女の恋に報いなかった。この女の愛を受け入れなかった。それなのに、結婚して子供を作った。それは、拒絶するよりも辛い仕打ちだ。
手に入る場所にいるのに、手を伸ばした途端、霞のように消えてしまう幻。この女はずっと、その幻を見続けて狂ってしまったのかもしれない。
「わたしは姉を食った! 甥を食べた! だから、この恋は叶うべきなのよ。肉親を犠牲にしたのよ。あの人に好かれるためだけに、そこまでしたのよ。わたしは愛されるべきなの。愛されてしかるべきなの。だって、そうでなければこの激情はいったいなんだというの? 姉さまを殺したあの瞬間の意味は? 姉さまの死は、わたしの恋の成就のために必要不可欠のはずよ。そうでなければならないのよ」
支離滅裂だ。それでも、言葉を繋ぎ合わせて咀嚼すると、どうやってこの女が自分自身を保っているのか分かってしまう。
人を殺すことに、何も感じない女ではないのだろう。
少しだけ噂で耳にしたことがある。母とこの女の話だ。小さい頃から仲睦まじい姉妹だったらしい。この女は昔から、国王のことが好きだった。恋の相談を姉にしていたと。
裏切られたと思ったのだろうか。だが、国王が母のことが好きだったというもの昔から有名だったと聞いた。入り組んだ恋愛模様にこの女も苦悩したのだろうか。
冷徹で血も涙もないような鬼畜だったらよかった。あるいは、脆くて罪の意識に沈んでしまう女ならば。
でもこの女はそのどちらでもなく、ただ、父に愛されることを望んで生き続けている。
愛を希求して、諦めきれないのだ。
「ねえ、サガル。もうお前はわたくしに従わないのでしょう? ならば、その女を食べていいわよね? きっとあの人がわたくしを見てくれなかったのは、一人取り残していたからだと思うの。大丈夫よ。骨の髄まで食べてあげる。姉さまも、お前の弟もここにいるの。きっと、楽しくやれるわ。わたくし達、同じ王族の血が流れているのだもの」
のろのろと近付いてくる女を見て後ずさる。
「貴女はまだそんなことを。僕が許さないと言ったはずだ」
サガルが一歩前に出て後ろで私を隠す。こうやって、知らないうちにこの女からサガルは私を守ってくれようとしていたのだ。その献身を私は全く知らなかった。
「どいてちょうだい。大丈夫よ。姉さまの時は口止めが面倒だったけれど、ここにいるのはわたくし達だけですもの。ここで殺せば後処理が簡単よ」
「……カルディアに手を出すつもりなら、僕が貴女を殺す」
サガルは護身用に持っていた銃を取り出して、目の前で構えた。
王妃様! と侍女が悲鳴を上げる。けれど、対峙する女は銃のことを知らないようにほわほわと顔をほころばせる。
「撃てないわよ。お前は優しい子だもの」
銃声が響く。ヒールをかすめた銃弾の跡がくっきりと残った。
「次は威嚇射撃だけはすみませんよ」
「お前は母の恋がどうなってもいいというのね!」
いきり立った女が飛び込んでくる。サガルは私を後ろに押し倒し、そのまま引き金を引いた。
大きな銃声が響く。耳を劈くような、鼓膜が破れそうになる音だった。
「王妃様! ――リヒテル様!」
胸に赤い血を咲かせた女がぐったりと倒れ込んだ。胸元からしとしとと血が溢れて、真っ赤なドレスに染みを作り始める。
侍女が泣き崩れるようにその体に縋りついた。
サガルは呆然としている。手銃口から煙が上がっていた。
「サガル!」
立ち上がって、駆け寄る。
頬に血飛沫が飛んでいた。頬の血を擦ると、サガルは詰めていた息を吐き出す。
頭がくらくらする。血の臭いで吐きそうだ。
「誰か。誰か! リヒテル様しっかり。私の手を掴んで下さいまし!」
「ああ、いやだわ。お気に入りの服が真っ黒になっちゃう」
「駄目です。まだ、貴女の恋が叶っておりません。死ぬときは成就したときだと言っていらしたではありませんか」
サガルに怪我がないかしっかりと確かめる。女の方は見れなかった。見たら、気絶する自信があった。
「怪我はない? お前が無事でよかった。本当によかった」
ぎゅっと硝煙香る体に抱きしめられる。心臓の音が聞こえた。どくどくと脈打っている。
サガルがいなければ殺されていた。それが分かっているのに、サガルに感謝の念が出てこなかった。
どうして、サガルが手を出してしまったんだ。反撃は私がするべきだった。
だが、同じだけサガルがやってくれてよかったと薄汚く思ってもいた。傷を負った姿を見ることもできないのに、殺そうとなんてできるはずがない。
人に頼りきりで、何もできない私の身代わりにサガルはなってくれた。浅ましい思いに泣きたくなる。
「――おい、はやく王妃を運ぶぞ」
聞き覚えのある声が背後から聞こえた。振り返り、愕然とする。
真っ白なローブで身を包んだトーマがいたからだ。杖をついて器用に王妃に近付くと、のぞき込んで応急手当をし始めた。事態を把握していたのか、包帯などを持参していた。顔色を確認しながら、処置を完了させる。
そして、連れてきた清族に命令すると、さっさと王妃を担架に乗せて運んでしまった。すすり泣きながら、侍女があとに続く。
「あの女は死ぬ」
サガルがトーマに声をかけた。あの出血だ。私も助からないと思った。
「死なせませんよ。こっちは生きたあの体がどうしても必要なんでね」
「それはどういう意味?」
「うるさい、馬鹿女。怪我人が待ってる。もう行く」
嵐のように唐突に現れて、去っていく。トーマ達がいなくなると、血と硝煙と食べ物の臭いが充満した場所にいることが気持ち悪くなった。あの女の血でできた水たまりを踏んで、靴が赤黒く染まる。
そこで、ふっと力が抜けた。血だまりの中に崩れ落ちる。
びっしょりと濡れた内布を指で触れると血がついた。
この血は王族の血だ。母の血だ。性別もわからない胎児の血だ。そして、あの女の血だ。
喉を血のついた指で肌の上からなぞる。
漏れる音は喘ぎ声に似ていた。
サガルが私に手を伸ばす。人を傷付け、殺そうとした指なのに、たまらなくなるほど温かかった。
この安らぎはなんだろう。あの女が死ぬかもしれないというのに、重い荷物を降ろしたような充実感があった。
どれだけ、言葉を紡がれ理解を深めても、同情を覚えても、私と、きっとサガルにとってあの女は悪魔のような存在だ。死んでいて欲しいと今は願わずにはいられない。生きていたらまた、あの女は私に襲いかかってくるだろう。食べようとするだろう。
それが、あの女にとって大切な儀式だからだ。
死んでなどやるものか。殺されるぐらいならば、自死してやる。
そこで考えが止まる。この間までと全く違う結論だ。殺してしまおうと考えていたじゃないか。なのに、なぜ、突然自死してやるという暴論に辿り着いたのだろう。
ゆっくりと記憶をなぞる。そうすると自分が誰の為に殺害を決行しようとしたのか、思い出してしまった。私はサガルの為ならばあの女を殺す想像が出来た。けれど、自分が死ぬとなれば、話は違う。死んで解決出来るならばそうした方がいいと無意識に思っている。
私は死にたいのだろうか。
目の前にいるサガルを見つめる。桜色の唇が言ったことを反芻する。
私を傷付けるならば容赦はしない。サガルはそんなことを言っていた。サガルも相手のためならば人を殺す決断が出来るのか。自分のためには人を殺せない?
あの女がいなくなれば、サガルはどうなるのだろう。私に対する危険はなくなったと判断して、外に出してくれるようになるだろうか。
「カルディア、行こうか」
サガルの声は優しくて、泣きそうになるぐらい明るかった。
サガルはもうこの女に干渉されるような年齢ではない。
「お前を外に出したのは誰だと思っているの? わたくしがいなければ、ろくに太陽の下も歩けない癖に!」
「僕は貴女の提案に乗るべきじゃなかった。太陽の下に出るべきじゃなかった。あそこで餓死した方がいくぶんもましだった。嫉妬や恨みの感情を持たずに済んだのだから」
「馬鹿な子だわ。こんな女の何が良いっていうのよ。グランディオス様も、お前も! 醜女ばかりを好きになる。いったいどうしてそんなに潰れた顔に執着するの!」
ぎらつくような視線で顔をなぞられる。心臓を撫でられているようだと思った。急所を的確に狙っている。
自分でも、地味な顔だと自覚している。
美しい人を目の前にするととげとげとした感情が噴き出してくることがある。この女はそのざらついた感情を一身に受けたことがあるはずだ。妬みや嫉みを受けて、仕返しにお前の顔はなんて醜いのだと指摘し、自己嫌悪に陥らせる。そうやって人を屈服させてきたのだろう。
この女は人を誑かす毒婦だ。
私を自己嫌悪に陥らせようとしている。そして、同じぐらいサガルを怒らせようとしている。
興奮させて、正常な反応をさせないように挑発しているのだろう。放埒に言葉を放っているようで計算されている。
「運命の相手じゃなかったから。ただ、それだけの理由では?」
女の顔が歪んだ。サガルは朗らかに言い放った。
「綺麗な顔も、艶やかな痴態も、甘美な声も、磨き上げた教養も、身につけた知性も無意味だった。貴女の献身や努力は無駄になった。自尊心を傷付けられたのは知っています。それでもあの人のことを嫌えない一途さも憐れになるほどです」
それでもとサガルは言葉を切った。
「カルディアを別の人間と重ねるのはやめて下さい。それは、逆恨みだ」
「ち、違う! わたくしは……わたしは! この女と一緒にいたら、サガルも変になっちゃうに決まってる! 現に今がそうでしょう? わたしに逆らって、いじめてる」
「いじめてたのは貴女だ。昔、僕を脅したじゃないですか。カルディアを殺さないかわりに、貴女の姉を殺すからと殺人補助をさせた。今更、被害者面はやめて下さい」
母が死んだ時のサガルの行動は、そういうことだったのか。この女に無惨に腹を切り開かれる母に駆け寄ろうとした私を、後ろから抱きついたサガルが留めた。僕から逃げたらお前を嫌いになる。サガルはそう言った。あの時の残酷な言葉が、違う意味を持ち始める。
サガルはこの女から犯行の決行を聞いていた。邪魔をすれば私を殺すと脅されたのだろう。
サガルはわざわざ殺されに行こうとする私をとどめて、抑えつけた。嫌いになる。きっとそんな言葉でしか出てこなかったのだ。助けを呼ぶ私を前にして、その言葉しか出てこなかった。
じくじくと胸が痛む。サガルはあの時どんな気持ちで私を押さえつけていただろうか。
「そもそも、あの殺しは貴女の嫉妬心からの行為だったのですか? 貴女は、腹の子が男だと決めつけ、レオン兄様を差し置いて王座につくのだと言っていた。次代の王の母。国母となる自分の地位が脅かされるのが、恐ろしかったのでは?」
「わたしの恋は本物よ! 地位なんて、どうでもいい。サガルにだって否定させたりしないわ! あれは、姉さまが悪いのよ。私のグランディオス様を取ったのだから!」
女は少女のように慟哭した。
憎くてたまらない相手なのに、恋を主張する姿に同情を覚える。国王は彼女の恋に報いなかった。この女の愛を受け入れなかった。それなのに、結婚して子供を作った。それは、拒絶するよりも辛い仕打ちだ。
手に入る場所にいるのに、手を伸ばした途端、霞のように消えてしまう幻。この女はずっと、その幻を見続けて狂ってしまったのかもしれない。
「わたしは姉を食った! 甥を食べた! だから、この恋は叶うべきなのよ。肉親を犠牲にしたのよ。あの人に好かれるためだけに、そこまでしたのよ。わたしは愛されるべきなの。愛されてしかるべきなの。だって、そうでなければこの激情はいったいなんだというの? 姉さまを殺したあの瞬間の意味は? 姉さまの死は、わたしの恋の成就のために必要不可欠のはずよ。そうでなければならないのよ」
支離滅裂だ。それでも、言葉を繋ぎ合わせて咀嚼すると、どうやってこの女が自分自身を保っているのか分かってしまう。
人を殺すことに、何も感じない女ではないのだろう。
少しだけ噂で耳にしたことがある。母とこの女の話だ。小さい頃から仲睦まじい姉妹だったらしい。この女は昔から、国王のことが好きだった。恋の相談を姉にしていたと。
裏切られたと思ったのだろうか。だが、国王が母のことが好きだったというもの昔から有名だったと聞いた。入り組んだ恋愛模様にこの女も苦悩したのだろうか。
冷徹で血も涙もないような鬼畜だったらよかった。あるいは、脆くて罪の意識に沈んでしまう女ならば。
でもこの女はそのどちらでもなく、ただ、父に愛されることを望んで生き続けている。
愛を希求して、諦めきれないのだ。
「ねえ、サガル。もうお前はわたくしに従わないのでしょう? ならば、その女を食べていいわよね? きっとあの人がわたくしを見てくれなかったのは、一人取り残していたからだと思うの。大丈夫よ。骨の髄まで食べてあげる。姉さまも、お前の弟もここにいるの。きっと、楽しくやれるわ。わたくし達、同じ王族の血が流れているのだもの」
のろのろと近付いてくる女を見て後ずさる。
「貴女はまだそんなことを。僕が許さないと言ったはずだ」
サガルが一歩前に出て後ろで私を隠す。こうやって、知らないうちにこの女からサガルは私を守ってくれようとしていたのだ。その献身を私は全く知らなかった。
「どいてちょうだい。大丈夫よ。姉さまの時は口止めが面倒だったけれど、ここにいるのはわたくし達だけですもの。ここで殺せば後処理が簡単よ」
「……カルディアに手を出すつもりなら、僕が貴女を殺す」
サガルは護身用に持っていた銃を取り出して、目の前で構えた。
王妃様! と侍女が悲鳴を上げる。けれど、対峙する女は銃のことを知らないようにほわほわと顔をほころばせる。
「撃てないわよ。お前は優しい子だもの」
銃声が響く。ヒールをかすめた銃弾の跡がくっきりと残った。
「次は威嚇射撃だけはすみませんよ」
「お前は母の恋がどうなってもいいというのね!」
いきり立った女が飛び込んでくる。サガルは私を後ろに押し倒し、そのまま引き金を引いた。
大きな銃声が響く。耳を劈くような、鼓膜が破れそうになる音だった。
「王妃様! ――リヒテル様!」
胸に赤い血を咲かせた女がぐったりと倒れ込んだ。胸元からしとしとと血が溢れて、真っ赤なドレスに染みを作り始める。
侍女が泣き崩れるようにその体に縋りついた。
サガルは呆然としている。手銃口から煙が上がっていた。
「サガル!」
立ち上がって、駆け寄る。
頬に血飛沫が飛んでいた。頬の血を擦ると、サガルは詰めていた息を吐き出す。
頭がくらくらする。血の臭いで吐きそうだ。
「誰か。誰か! リヒテル様しっかり。私の手を掴んで下さいまし!」
「ああ、いやだわ。お気に入りの服が真っ黒になっちゃう」
「駄目です。まだ、貴女の恋が叶っておりません。死ぬときは成就したときだと言っていらしたではありませんか」
サガルに怪我がないかしっかりと確かめる。女の方は見れなかった。見たら、気絶する自信があった。
「怪我はない? お前が無事でよかった。本当によかった」
ぎゅっと硝煙香る体に抱きしめられる。心臓の音が聞こえた。どくどくと脈打っている。
サガルがいなければ殺されていた。それが分かっているのに、サガルに感謝の念が出てこなかった。
どうして、サガルが手を出してしまったんだ。反撃は私がするべきだった。
だが、同じだけサガルがやってくれてよかったと薄汚く思ってもいた。傷を負った姿を見ることもできないのに、殺そうとなんてできるはずがない。
人に頼りきりで、何もできない私の身代わりにサガルはなってくれた。浅ましい思いに泣きたくなる。
「――おい、はやく王妃を運ぶぞ」
聞き覚えのある声が背後から聞こえた。振り返り、愕然とする。
真っ白なローブで身を包んだトーマがいたからだ。杖をついて器用に王妃に近付くと、のぞき込んで応急手当をし始めた。事態を把握していたのか、包帯などを持参していた。顔色を確認しながら、処置を完了させる。
そして、連れてきた清族に命令すると、さっさと王妃を担架に乗せて運んでしまった。すすり泣きながら、侍女があとに続く。
「あの女は死ぬ」
サガルがトーマに声をかけた。あの出血だ。私も助からないと思った。
「死なせませんよ。こっちは生きたあの体がどうしても必要なんでね」
「それはどういう意味?」
「うるさい、馬鹿女。怪我人が待ってる。もう行く」
嵐のように唐突に現れて、去っていく。トーマ達がいなくなると、血と硝煙と食べ物の臭いが充満した場所にいることが気持ち悪くなった。あの女の血でできた水たまりを踏んで、靴が赤黒く染まる。
そこで、ふっと力が抜けた。血だまりの中に崩れ落ちる。
びっしょりと濡れた内布を指で触れると血がついた。
この血は王族の血だ。母の血だ。性別もわからない胎児の血だ。そして、あの女の血だ。
喉を血のついた指で肌の上からなぞる。
漏れる音は喘ぎ声に似ていた。
サガルが私に手を伸ばす。人を傷付け、殺そうとした指なのに、たまらなくなるほど温かかった。
この安らぎはなんだろう。あの女が死ぬかもしれないというのに、重い荷物を降ろしたような充実感があった。
どれだけ、言葉を紡がれ理解を深めても、同情を覚えても、私と、きっとサガルにとってあの女は悪魔のような存在だ。死んでいて欲しいと今は願わずにはいられない。生きていたらまた、あの女は私に襲いかかってくるだろう。食べようとするだろう。
それが、あの女にとって大切な儀式だからだ。
死んでなどやるものか。殺されるぐらいならば、自死してやる。
そこで考えが止まる。この間までと全く違う結論だ。殺してしまおうと考えていたじゃないか。なのに、なぜ、突然自死してやるという暴論に辿り着いたのだろう。
ゆっくりと記憶をなぞる。そうすると自分が誰の為に殺害を決行しようとしたのか、思い出してしまった。私はサガルの為ならばあの女を殺す想像が出来た。けれど、自分が死ぬとなれば、話は違う。死んで解決出来るならばそうした方がいいと無意識に思っている。
私は死にたいのだろうか。
目の前にいるサガルを見つめる。桜色の唇が言ったことを反芻する。
私を傷付けるならば容赦はしない。サガルはそんなことを言っていた。サガルも相手のためならば人を殺す決断が出来るのか。自分のためには人を殺せない?
あの女がいなくなれば、サガルはどうなるのだろう。私に対する危険はなくなったと判断して、外に出してくれるようになるだろうか。
「カルディア、行こうか」
サガルの声は優しくて、泣きそうになるぐらい明るかった。
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