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第二章 王子殿下の悪徳

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 再び開かれた選ばれた貴族達の集会は、明らかに参加人数を減らしていた。サガルは過半数を貴族の座から引き吊り降ろしてしまったようだ。
 阿鼻叫喚だったに違いない。次は自分がなるかもしれないという恐怖から、貴族達は華美な衣装を着こんで目いっぱい目立とうとしていた。サガルの機嫌を取らなければ死ぬと孔雀のように着飾っている。やはりというか、あの時の商人の息子はいなかった。あの一件で、彼の評判は落ちてしまったのだろう。
 サガルに媚を売る姿はピエロより道化師らしい。どうか私だけは落とさないで下さいと体で現している。
 平民に落ちた人間を虐げてきた特権階級の彼らだ。どんな手を使っても残ろうとするだろう。サガルはそれを見越している。愉快そうに眼を細めて、受け答えしている。
 権力の笠をかぶると、あの女の声を聞いて縮こまる彼は消えてしまう。残酷な王子様が美しい顔をして人々を惑わせ、従わせようとする。
 そっと目を伏せて、壁に避難する。この間のように囲まれてしまっては叶わない。
 遠目で見つめているとサガルと目が合った。器用に眉を動かして、退屈を表現する。寄ってたかって同じようなことを何度も繰り返されて辟易しているのだろう。

「……リスト様ですか?」

 突然、そう声をかけられた。私が、リスト? なんの冗談だろう。
 視線を横に向けるとこの間の集会で私と目が合った貧民が、隣で壁に背をつけ恐る恐る顔を伺ってくる。

「申し訳ありません、人違いでした」

 数秒して、男はあからさまに肩を落とし、その場から去ろうとした。引き留めるために大股を開き、袖をつかむ。

「あの……」

 喉の前に手をやり、指でばつ印を作る。それで察したのか、痛ましいものを見る瞳で見つめられる。
 近くで顔を覗くと見覚えがあった。名前は知らないが、サラザーヌ公爵令嬢が開いた夜会で頭にリンゴを乗せていた貧民の一人だ。私がリストだと名乗った男だった。急におかしくなってしまい、唇が緩んだ。
 そうか、この男の中で私はリストなのだ。久しぶりに真っ赤な髪の男を思い出した。リストの顔が見たくなる。

「よかった。やはり、貴女だったのか。この間、遠目でお顔を拝見し、もしやと思っていたのです」

 義理堅く顔を覚えていたのか。一夜の戯れを夢にしなかったのか。リストの名前だけ覚えていればよかったのに。律儀だと苦笑する。助かったのは彼らの絶え間ない献身とリストの名前のおかげだろう。私は何もしていない。

「あの時の感謝を述べさせて下さい。貴女のおかげで同胞達が責め苦を受けずに済んだ」

 同胞達という言い方に少なからず驚いた。この場所に来ているということはここでは彼は貴族の一人だ。貧民は虐げ、扱う道具に過ぎない。てっきり貴族の思想に染まり見下しているものだと思っていた。だが、彼の言葉にはハルが貧民の家にいた彼らに向けた声とよく似た、同じ階級だからこそ与えられる親愛の情があった。少なくとも目の前の男にとって貧民は今でも情を向ける相手のようだ。

「貴女に永遠の感謝を。助けて下さったのは貴女だけだ。それが無謀だと非難されようとも、私達だけは蛮勇だったと知っている。これを言うために皆で金を出し合ってこんな立派な衣装を拵えたのですよ。我ながら、似合わないでしょう?」

 照れくさそうに頬を掻く。もしかして、リストを探すために彼らはサガルが作った階級を利用したのか。あの場にいた貴族にお礼を言う、たったそれだけのために。品行方正にして、サガルの従者に気に入られるように振る舞い、上り詰めたのか。
 執念の勝利だ。素直に喝采を送りたくなる。

「もう一度、お礼を言わせて下さい。名も知らぬ方。貴女のお陰です」

 首をふるって否定する。だが、よかった。逃げのびてくれたのだ。ゆっくりと肩に手を置いて、何度か叩く。体たらくな口では伝えきれない熱のようなものが手を通して彼に伝わればいい。
 生きていてくれて、よかった。その思いが伝わればいい。

「なんの話をしているの?」

 突然後ろから抱きしめられる。甘い声は低くて、肌をざわつかせた。サガルは笑顔を貼り付けたまま、貧民の男に向き合っている。睨まれた蛙のような怯えた顔を浮かべ男は固まった。硬直をかき消すように頭を下げたが、もう遅かった。
 サガルの纏う雰囲気が刺々しいものに変化する。表情は微塵も変わっていないのに、威圧感が増している。男に対して敵対心を抱いているようだった。

「なんの話をしていたかと訊いたのだけど」
「も、申し訳ございません。姫の美しさを讃えていただけです」
「そう? じゃあ僕のことも讃えてみせて」
「そ、それは……」
「それとも僕は醜いかな。讃えるに値しない?」

 ひゅうと息を呑む音が聞こえた。
 巧妙な威圧だ。軽口のように聞こえるが、相対する男にとっては脅しのように感じられただろう。口ごもり、あきらかに目を泳がせる。
 額から汗を溢し始めた。美貌を目の前にして、顔を直視できないのだろう。視線が定まらない。
 震える唇から浅い息が零れる。

「まるで、月のようなお方です。さめざめとした満月……」
「僕には太陽の匂いがしないの? よく、太陽に例えられる」
「そ、そう、でしょうか。太陽は土地を干上がらせる。植物も、動物も、からからと乾ききった骨と皮に変わる。太陽は、豊穣の象徴でもありますが、死にも近い。灼熱の光の前ではどんな旅人も死を覚悟します。満ち引きする海を動かす月。それこそが、貴方にふさわしいかと思いまして」
「……夜は、死の象徴だろう? 月は夜空にこそさめざめと輝く。暗闇こそ似合うといいたい?」
「死の夜に見上げるのが月です。月影は頬にかかると生の匂いがする。温度があるわけでもないのに、心に安堵をくれる。素晴らしい存在です」

 この男の人生が垣間見えたような気がした。もともとは農民だったのではないだろうか。日照りが続き、地面が干上がり、一念発起して王都にやってきた。農村から移動する際に見上げた月の光に背中を押され、勇気付けられた。
 実感のこもった賛辞だった。詩人や貴族が口ずさむ美辞麗句ではない。心をざわつかせる純粋さだった。
 サガルは口を閉ざし、じっくりとさっきとは違う眼差しを男に向けた。尊敬とも、畏敬ともつかない切ない顔だった。

「お前は月が好き?」
「――はい。時々、今でも眺めます。そして生の匂いを嗅ぐ。まだ鼻が馬鹿になっていないのだと、確かめます。心を温めてくれるものだと、感じられるか確かめる。……ああ、これは賛辞になっていたでしょうか。こういうものはどうにも不得手でして」
「そうだね。賛辞とは違うけれど、気に入った。続けるといいよ、その確認を。物差しは大切だ。自分を狂人から、凡人へと引き戻してくれる」

 男は頬を染めて嬉しそうに頭を下げた。サガルが私と同じように彼の肩を叩く。
 下の階級に落とす気なのだと直感した。悪意を持っているからではない。似合わないからだ。偉ぶることができないのに、高い地位にいても苦しいだけだ。野心家だから上り詰めてきたわけではない。誠意と善意の塊だったから、責任感で上り詰めたのだ。途中で私利私欲に走ってもいいところを鉄の理性で暴れだす本能を閉じ込めてきた。
 そのままの彼でいて欲しいと願うのはおかしなことではない。
 ぱんぱんとサガルが気を取り直したように手を叩く。肩を叩かれた男は嬉しそうに破顔すると私に会釈して、消えてしまった。

「今回も余興を用意したよ。どうか楽しんでくれると嬉しいな」

 暗転し、中央にスポットライトがあたる。光のなかにはアンナがいた。アルジュナからやってきた歌姫。
 だが、首元に手を置いて蒼白い顔をして首を振っている。明らかに不調そうだ。
 そんなことは関係ないとばかりにピアノの旋律が鳴り始めた。イヴァンの演奏ではないが、美しく、綺麗で上品な音色だった。
『女王陛下の悪徳』に出てくる曲だろうか。アップテンポで、踊りながら歌うと気持ちがいいだろう。
 アンナは不承不承というように歌い始めた。伸びる高音は、アンナの不安を表すように揺れている。
 力強く鍵盤が弾き鳴らされる。盛り場がやってくる。大きく息を吸い込んで、アンナが声を上げようとした。
 だが、掠れた声が出た。上ずった、変なうめき声しか上がらない。

「どうしたの」

 ピアノの演奏はアンナを置き去りにして先へと進んでいってしまう。サガルは置き去りにされたアンナを気遣うように声をかけた。だがアンナは凶暴な瞳でサガルを睨みつけている。こんなに荒い仕草をする人間だっただろうか。

「せっかくみんなの前で発表する機会に恵まれたんだ。歌った方がいいよ」
「晒し者にして、楽しいの!?」
「まさか。どこぞの男と行きずりで寝て喘がされたから声が出ないって正直に言えばいいのに」
「この、男娼め! 地獄に堕ちろ!」

 サガルの美しい顔から性的な言葉が出たことに、周りの貴族達は驚いたようだ。清らかなものが穢された時の淫靡さがあった。

「自分の恋が破談になったからっていきり立たないで欲しいな。お腹のなかに子供がいるなんて知っていたら協力なんてしなかったよ」
「うるさい、うるさい! 子供なんて宿したくて宿したわけないだろう! せっかくの玉の輿が立ち消えたんだ」
「じゃあ流してしまえばいいだろう? 望まれない子供の方だって親を選ぶ権利があると思うけれど」

 アンナはきいっと甲高い声を上げ、髪を掻きむしる。長い真っすぐな髪が指でぐちゃぐちゃにされると、上品ぶっていた仮面が外れるように、年増めいた女が顔を出した。

「ああそうだね! ちくちょう、ちくしょう! どうしてあたしだけがこんな目に合うんだ! あたしがなにしたってんだよ!」

 アンナの声は掠れて、聴き取りにくくなる。いや、もう誰も彼女の声を聞こうとはしなかった。サガルが振り返って、申し訳なさそうに片目をつぶる。

「ごめんね、歌姫を連れてきたはずだったんだけど、間違って娼婦を連れてきたみたいだ」

 誰もがアンナのことをオペラ座で『女王陛下の悪徳』に出てくる歌姫役だと知っている。歌姫から娼婦に落ちる役だ。自慢の声が出せずに、身売りに身を窶すことになる。
 だが、そもそも歌姫自体が高級娼婦のようなものだ。パトロンに体を売る役者の話はよく聞く。実力がないからパトロンに身を任せるのではない。実力があるからこそ、その才能を食いつぶそうとする害虫に食べられてしまうのだ。金を得るために、彼女達は純真の身を軽々と売り渡す。だから、『女王陛下の悪徳』では彼女は元の姿に戻ったのだという解釈もあった。娼婦が、歌姫という虚飾を脱ぎ去り、娼婦に戻る。
『女王陛下の悪徳』は主人公の女王は後悔をしない。改心せずに終わる。人は変わらない。変わったところで、それは本当の変化ではない。そうとも読み取れる。
 アンナはもともと娼婦だったのだろうか。貴族に見初められて、歌姫になった?
 それとも、歌姫だったのに、娼婦に落ちてしまったのだろうか。
 どちらにしろ、アンナの結婚話は立ち消えてしまったようだった。ココと同じだ。子供が出来たから、捨てられる。
 交配は気持ちがいいと侍女たちが囁いているのを聞いたことがある。分からないなりに、それが秘められるべきものだとわかり真っ赤になった記憶があった。快楽があるから、子供が生まれる。ならば、気持ちよくなければ軽はずみに作れない。けれど、性的な行為に快楽は伴うし、なにかを産み出すという行為は褒められる。子供は喜ばしいことだとされるからだ。
 サガルの瞳は残酷な光を帯びて、美しく瞬いていた。
 サラザーヌ公爵令嬢をはめたギスランに感じた、興奮が駆け上がる。
 研ぎ澄まされた敵意が膨張し、体の隅々を力で漲らせる。瑞々しい悪意は肌の上を滑り、張りを与えた。
 失意のうちに暮れるアンナを尻目に、サガルは貴族達を呼び寄せ、お詫びだと言って頬に唇をつける。そうするとすべて帳消しになると確信しているようだった。
 実際、貴族の誰も不平不満を溢さなかった。サガルに盾突いて地位を失うのが怖いのだろう。サガルの独壇場だ。暴君は、何をしても許される。
 すべての貴族にお礼をしたサガルは私の肩を抱いて、ピアノの音に合わせてダンスをした。
 よく出来た劇のように、貴族達が固唾をのんで見つめている。
 くるり、くるり。
 くるり、くるり。
 サガルに合わせて、体が揺れる。体が回る。

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