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第二章 王子殿下の悪徳
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しおりを挟むそれからサガルは酒を飲んで返ってきては、別室で女を犯すことを繰り返した。相手が娼婦なのか、貴族なのかは判然としない。嫌がらせのように兄様と呼ばせているのが扉越しに聴こえてきて、聞きたくないのに耳を澄ましてしまう自分に嫌気がさす。
リュウは気楽なもので、部屋で思い悩む私を見つめるだけでぼおっとしていた。
『女王陛下の悪徳』は隅から隅までくまなく読んだが、あの挿話と挿絵以外は変わったところはなかった。
恐らく、挿絵はザルゴ公爵が描いたものだろう。ならば、それほど昔の本ではなさそうだ。ページも茶けていないからまず間違いないだろう。
だが、ならばあの挿話はいったいどこからやってきたのだろうか。
日時の感覚はもうなかった。こんなのギスランに軟禁されて以来だった。あいつは私に無断で睡眠薬諸々を使っていたからなお悪い。
あいつは今どうしているだろうか。唇に手をあててギスランの肌や唇の触感を思い出す。
食事は細々と食べていた。口に入れると吐きそうになるが、ものが口に入るうちに、気持ちが澱んで、脱力する。薬を入れられているのだと思う。異物が喉を通るたびに内臓がぐるぐると音を立てる。
ギスランに会いたいと食べ物を消化している時によく思う。胃酸が粘膜を溶かす痛みに耐えながら、あの男の腕を掴んで悲鳴をあげたくなる。口付けも、したい。変な欲求がわいてくる。
私は寂しいのだろうか。
それさえ、自分ではきちんと自覚出来なかった。
オペラを観に行くとサガルが言い出したのは、それからいくらか経ってからだった。サガルが連れていたアンナが出演する『女王陛下の悪徳』だ。
私も一緒に連れて行く気らしく、ドレスも靴も首飾りなどの装飾具もきちんと用意されていた。当日、リュウのかわりにサガルが私のコルセットを締めた。
慣れていない手つきだったからか、そこまできつくは締められずに済んだ。
馬車に揺られ、オペラハウスにたどり着く。
強大な神殿のような造りになっている玄関口から入ると周囲の視線がサガルに集まるのが分かった。熱っぽく湿り、欲望と野心を含んだものだ。サガルは何のことはないと言わんばかりに、周りに手を振ってこたえている。
私は隣で丸くなって、目立たないようにエスコートされるままについていくことしかできなかった。
ボックス席にたどり着くと、ひっきりなしに貴族達が挨拶に現れる。それに受け答えをするサガルの横顔には、酒浸りの狂乱がなかった。
儀礼に乗っ取った綺麗な王子がいるだけだ。
ぽうっと顔を赤らめ放心する貴族達を心配して、優しく気を遣う。包み込むような細かな気配りだった。サガルに紹介されるたびに彼らの視線が訴えてくる。
私がここにいるのは、似つかわしくない。並べてみるとその差は一目瞭然だとばかりに鼻で笑う人間もいた。
嫌味な奴だと悪態をつく元気もない。
一通り挨拶が済むと、サガルはゆっくりと座席に腰かけた。
「あいつら、僕に媚を売って滑稽だよね」
そっと耳元でそう囁かれる。
ぎょっとしてサガルを見つめると、にやりと笑みが浮かんだ。
「僕が王になると本気で思っている奴らも多いんだよ」
「サガルは王座には興味がないの?」
「ない。王座に座っても手に入れたいものが手に入らなくなるだけだ」
兄弟同士の殺し合いに発展しないだけましなのだろうか。サガルはじっとりと熱っぽい視線を私に向けていた。
「そのドレス、とても似合っているよ」
サガルに選んでもらったドレスは全体的に青い。レース状の袖が特徴的だ。
サガルはこげ茶色の紳士服なので、並ぶと見栄えがいい。
「……ありがとう」
お礼を言う口が重い。
「僕は少し、楽屋に寄ってくる。公演後は混んでしまうから、挨拶だけしてくるよ。カルディアはどうする?」
「人にあてられたわ。ここで待っている」
「分かった。くれぐれも、逃げないようにね。お前の大切な人は僕の手のひらの上だ」
釘をさすように一言添えて、サガルは私の首元に噛み付いた。ぴりっとした痛みが走った。
「おまじない」
機嫌良さそうにサガルが椅子から立って行ってしまった。
ぼおっとそれを見送った。
精力的に動き回るサガルを見たのは久しぶりで、いつもの酔人になって帰ってくる彼の姿が幻のようだった。
せっかくの『女王陛下の悪徳』のオペラなのに、楽しみに思えない。
「そんなところでぼうっと阿呆のように惚けている女がいるな。おや、国王の愛人の子じゃないか」
嫌味ったらしい台詞に後ろを振り向く。
体格のいい伊達男が腕を組み私を睨みつけていた。濡れ羽色の黒髪を後ろに撫で付ている。
目の色は緑色。森の緑というよりは花の茎の色の方だ。繊細で、難しげな瞳。
「トヴァイス・イーストン……」
「ああ、勘違いするな。馬鹿にしているわけじゃない。事実だ、そうだろう?」
「お前、人に喧嘩を売らないと生きていけない病気にでもかかっているの?」
聖職者を思わせるコートには、金の白百合の刺繍が施されている。紳士服は当たり前のように上等なもので、カフスの宝石はサファイアだ。
「馬鹿を言うな。この高貴な俺がそんな病にかかるとでも? どこぞの新興貴族とはわけが違うんだぞ」
「今まさに罹患しているのに気がつかないなんて」
これの口の悪さで聖人でもあるのだから、狂っている。
「だいたい、そうやって他の貴族達のことを新興と呼ぶのは、お前とノアぐらいよ」
「嘆かわしいことだ。せいぜい三百年しか、貴族を名乗れていない成金どもと肩を触れ合わせる機会があるなど。怖気が走る」
「……平民達を嫌悪する貴族みたいな反応だわ」
三百年前の革命で台頭した大四公爵家は国の中枢に位置している。
だが、革命以前から続き、今も勢力を保っている大家の一つの当主であるこいつが言うと笑ってすまされない問題だ。
イーストン辺境伯。
彼が治めるのは聖遺物が集まる神聖な土地だ。宗教的に深い意味を持つ。女神カルディアを信奉する国民ならば、一度は行ってみたいと夢想する場所だった。
「似たようなものだろう。どちらも高貴な我らにたかる虫だ」
「……その自意識過剰さ、大人になっても治らなかったのだからもう一生治せないのでしょうね」
「お前こそ、その年になって目上の者に対する言葉がなっていないぞ」
こうやって偉ぶるのだからたまらない。
「何しにきたのよ」
「サガル様に挨拶をしに来た。お前に会うためではない」
「今、アンナーー歌姫に会いに行っているからいないわよ」
「はん、あの売女に? サガル様もなりふり構わずといったところか」
「……どう言う意味?」
鼻白んだままトヴァイスは私を睨め付けた。
緑色の強気な色の目とかち合う。
「サガル様は隠居なさるおつもりらしい」
「隠居って……まだまだそんな歳ではないでしょう?」
「だから、皆止めている。だが、マレージ子爵を懐柔し、とある辺鄙な土地に別荘も建てられたそうだ。近々、移り住む予定だとか」
初耳だった。私にはその兆候すら見せていなかった。
いつの間に、サガルは計画を立てていたのだろう。
「それがなぜ、アンナと関係あるのよ」
「マレージ子爵の後妻に座るのがあの女だからだ。きいていないのか?」
ゆっくりとトヴァイスが近付いてきた。
マレージ子爵のことは知っていたが、隠居のことは聞かされていなかった。
ぴたりと私を無理なく見下ろせる位置で止まる。
「本当に知らなかったのか?」
「知っていたら引き止めているわよ……いや、どうなのかしら。もしサガルがそれがいいと言うのならば」
止める権利は私にはない。
それにもしかしたら、取り巻く環境が変わればサガルは嫌なことから逃げられるかも知れない。
「……まあいい。ノアはまだ顔を見せていないのか」
「ノア? オペラハウスに来ているの?」
元婚約者の一人であるノアはオペラ鑑賞を楽しむような性格ではない。
物語性のある本だって、現実とかけ離れたものだ言って嫌悪しているぐらいだ。自主的に鑑賞しに来るとは思えない。
「わざわざ辺境のゾディックから来ているんだ。遊べと命令しておいた」
「……お前のイーストンも辺境にあるくせに」
「馬鹿め、王都がイーストンから離れているんだ。来てやっているのだから、光栄に思え」
昔から全く変わらない考えに溜息が出てくる。これほどまでに自分の領土至上主義だといっそ小気味がいい。
「ノアが後々顔を見せるだろうが、あまり新婚生活には触れてやるなよ」
「どうしてよ」
「男には触られたくない話の一つや二つあるんだ」
自分も新婚だからだろうか。
言葉には切実さがあった。
「他人を心配しているけれど、自分はどうなのよ。お前のところも新婚なのでしょう?」
「俺は彼女を同じ人間とは思わないようにした」
一言は重かった。続きを催促することを奪う真剣な口調だ。
「結婚は人生の墓場だ。容易に足を踏み入れていいものじゃない」
「……なにがあったのよ」
「言えるか」
もともとトヴァイスは情深く、愛したがり屋だ。結婚する前も恋人が何人もいた。恋人達を平等に愛して、文句ひとつ言わせたことはなかった。
結婚したらまた違うのだろうが、それなりに上手くいっていると信じてやりたい。愛人を囲っているなら別だが。
「……なんだか変な感じね。元婚約者の結婚話をしているなんて」
「そうか? ギスランと婚約しているお前の方が変だろう。俺はてっきり、砂漠の蠍王の所にでも嫁いでいくものだと思っていた」
「はあ?! なぜそうなるのよ」
腕を組み直し、トヴァイスが片目を閉じる。
気障ったらしいのに様になっていた。
「かの王は男やもめらしい。あれでも一国の王であるから、血筋は十分だ。王国にとっても利益になる」
「とても苛烈な性格だと聞いているわ。私が行って、死体で帰ってきたらどうするのよ」
「それはそれで都合がいい。あの国に攻め入る口実になる」
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「泥棒に盗まれた気分だ」
何を馬鹿なことを言うのだろう。
そもそも、こいつのものではないのに。
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