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第二章 王子殿下の悪徳

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 ラーと別れ、『黄色い貴婦人』に入る。
 内装はよくある大衆食堂風だ。安価な椅子と机が並び、そこに大勢の労働者達が瓶を合わせて乾杯している。
 貴金属をはずしているからか、あまりよそものには見られていないようだ。だが、どこの娼婦だと探るような野卑な視線を向けられる。

「おおっと、こりゃごめん!」

 少年に激突される。目を瞬かせたあと、首を振ると、にっと口元だけ半円を描くように笑われた。

「ここは初めて?」
「ええ」
「お相手するなら、あそこの右から三番目の旦那とかいいよ。あとは、左から六番目の、あの黒子のある彼とかね」
「そういうことのために来たんじゃないわ」
「へえ? こんな時間に出歩いてるのに、変なこともあるもんだ。じゃあ、さっさと帰りなよ」

 そういうと、少年は酒場を出て行った。あの子何者だったのだろうか。
 よく見ると、少年の仲間らしき子供達が私を見ながらひそひそと会話をしていた。言いたいことがあるならば、直接言えばいいのに。なんなんだ。
 この酒場はほとんどが筋肉の塊のような男が多かった。酒を飲んでいるせいでみんな、赤ら顔だ。
 カウンターの奥に女将らしき姿が見えた。イルは確か、女将に聞けと言っていたはずだ。
 意気揚々と直進していると、中央の机に一人の男が座っているのが見えた。
 夥しいほどの酒瓶が周りに転がっている。相席をさせず、一人、酒を飲んでいるようだった。
 後ろ髪は清冽な水色。徐々に近づき、その髪の毛の美しさに見惚れていたときだった。
 酒瓶に足をとられた。
 机に手をついたものの、体のバランスが取れずに倒れこんだ。
 今日は厄日だ。受け身も取れなかった。
 大きな音が響いたからだろう。耳目が私に集まっていた。赤面しながら、なにごともなかったように立ち上がる。
 なにもなかった。だから、恥ずかしくない!
 突然、腕を強い力で掴まれた。痣が出来そうなほど、力強く引っ張られる。
 酒臭い息が吹きかけられた。

「ひっ!」
「あはは、なんだい、その反応は。初々しい姫のようではないか」

 豪快に笑われた。私がこける原因をつくった酒瓶を持ち上げて、机の上に置くと、急に私を抱きしめる。

「可愛い。可愛い。なんて、可愛いんだろう。俺の奥さんは」
「――?」

 奥さん?

「俺をやっと迎えにきてくれた。愛人などではやはり物足りないだろう? 情欲など、限りあるもの。俺が日々、胸に積もる花のような恋慕をささげるよ」

 おおと外野から野太い悲鳴が聞こえる。
 何が起こっているんだ?!

「愛しい姫。俺のものだとずっと誓って」

 青い髪の男が迫ってくる。その顔は、どうしてだろう、私が殺してしまったイヴァンによく似ていた。
 男の影で目の前が陰る。
 ぱんと乾いた音が酒場にこだました。手が、出てしまった。
 歓声が途切れ、また爆発的に広がった。



「えらい嫁を捕まえたもんだなあ、にいちゃんよぉ」  
「だれが嫁よ!」

 周りに集まって来た男達は皆酒臭い。
 そのくせニヤニヤとだらしもなく笑っている。私と男を交互に見ながらだ。

「おいおい、嫁さんは知ってるのか? この人、毎日のように浴びるほど酒飲んでんだよ。店の酒、全部飲み干す気かよっての」
「なにやってるの!? 体壊すわよ! 酒に呑まれている場合ではないでしょう」

 怒鳴った時にはっと視線を巡らせる。
 墓穴を掘ってしまった。

「ひゅうひゅう、愛されてるねぇ」
「よ、色男! さっさと家帰ってしっぽりやりな」

 ピアノ椅子に座った男は頬をおさえながら微笑んだ。
 私は彼の耳に顔を近づけ、警告する。

「私、お前のお嫁さんじゃないわよ。私は……えっとディア。ここには私の友達のハルを探しに来たの。ここの女将は情報通だと聞いたのよ」

 私と男の瞳がかち合う。
 半分が骸骨でないことに違和感を覚えるほど似ている。
 ぱちぱちと睫毛が上下する。
 睫毛の色まで透き通るような水色だった。

「ハル? 愛人の名前?」
「お前、酒に酔ってるのね。この顔に見覚えないでしょ? いい加減酔いを覚ましたら!?」
「お、痴話喧嘩か?」
「いいぞいいぞ、やれやれ!」

 なんだ、こいつら。煽って何が見たいんだ。
 だいたい外野がうるさ過ぎだ。これでは囃し立てられるだけだ。
 男の体を弄る。男達は、や、やめろよこんなところでと意味わからない羞恥に悶えていた。
 無視して財布を取り出すと、迷惑料として上乗せして料金を机の上に置いておく。安酒みたいだから、本当はもう少し安いような気がするが。ここで値引きしたら、こいつの不名誉になりそうだ。

「ほら、取り敢えず外に出るわよ」
「待って。俺のピアノを聞かせてない」
「酔っているのにピアノもなにもないでしょう!」

 だが、周りの奴らの反応は違った。涎を垂らして、喜び始めたのだ。

「弾いてくれるのか!」
「ああ、今日来てよかった! ほら奥様、きちんとおねだりして」
「もうたまらねえ! はやく弾いてくれ」

 じゅるりと拭き取りながら、男達が迫ってくる。
 男は私の手を引くと、股の間に私を座らせる。頭に顎を置く形で抱きしめるようにピアノと向き合った。

「ちょっと!?」
「静かにして」

 太鼓が心臓で鳴っている。どうしてこんなに強引にできるんだ?!
 男がすうっと息を吸う。
 それだけで、空間が無音になった。
 ピアノの鍵盤の上を指が踊る。最初に鳴った音から次々と骨にに入り込んで体を痺れさせる。
 緻密な計算に従うように縦横無尽に十の指が弾く。
 流星が降り注ぐ荒野が目蓋の裏に浮かぶ。隣にいる優しい誰かとそれを見て互いに笑いあうのだ。
 穏やかな旋律が急に物悲しくなっていく。幸せな情景が過去のものとなり、隣にいた人間はどこか遠くの方へと去ってしまった。
 感嘆を漏らす息さえ不必要だった。
 たまに頬に当たる腕すら心地いい。
 慰める音に顔が上がる。
 再び綺麗な星がパラパラと降り始めた。
 華やかな時代も、穏やかな時代も過ぎ去っていく。
 気が付けばまた隣には誰かが座っていた。老けた顔を覗き込んで思い出す。ああ、彼と歩んできたのだ。
 走馬灯のようにこれまでの過去を思い出し、音楽が途切れた。
 音楽が、暴力的なまでに美しかった。
 頭の中で物語になっていた。私は星を見ながら彼を思った。見知らぬ彼なのに、まるで一生を添い遂げた恋人のように身近だった。
 それが音楽によって想起された幻だなんて……。
 余韻に浸っていると割れるような歓声が起こった。
 気が付けば、ピアノの周りには大勢の人間が押し寄せていた。店の中はぎゅうぎゅう詰めで人が揉みくちゃになっている。
 ピアノの蓋を丁寧にしめると、男は肩を竦めてあたりを見渡した。

「こんなにいたの?」
「すげえぞにぃちゃん!」
「もっときかせてよ! お酒奢るからさぁ!」
「ねえ、ねえ、もう一曲だけ! さっきの曲で構わないから!」

 純粋な懇願に、男は頬を掻いた。

「俺は好きな人以外の為には弾かないと決めてるんだ」

 ぱちぱちと何十もの眼が開閉する。
 どっと笑い声が起こったのはすぐのことだった。


 そのあと酒瓶を持って女将らしき人は現れたが、大盛況のせいで話す時間が取れなかった。
 私はさっきから見知らぬ男に保護されるように腕を取られてしまっていた。
 それは彼が酒場を出るまでそうだった。



「どうしてピアノを弾いたの?」

 月が浮かぶ夜空は澄んでいた。珍しく霧も出ていない。
 すっかり夜の帳は落ち、カタカタと夜遊びに行くのか馬車の音が聞こえる。

「お気に召さなかった?」

 腕を引く男は上機嫌だった。ふらつく足なのに、しっかりと前を向いて歩いている。

「……とても素敵だった」
「それはよかった。君のために弾いた曲だったからね。昔の曲にアレンジを加えた変奏曲なんだ」
「星に関係している? まるで、流星が降ってきたみたいだと思ったの」
「どうしてそう思ったんだろう? これは、ある娘が母親に好きな人のことを語る曲だよ。恋歌だ」

 確かにと納得出来てしまう。星のようだと思ったが、星を一緒に眺める恋人達も連想できたのだ。
 つくつぐ、音楽の力はすごいと思った。
 貧民の家でハルが歌ったことを思い出す。あの時も、周りにはたくさんの人間が集まっていた。
 ……ハルの居場所を訊くことができなかった。せっかくここまで来たのに、目的を果たせずに終わってしまうだなんて。
 この男と別れたあと、こっそり酒場に戻ってしまうおうか。

「それで、姫様。俺と一緒に一夜を過ごす?」
「そんなわけないでしょう」

 熱っぽい吐息を落とされる。この男、酒の飲み過ぎだ。

「私が奥さんじゃないってわかっているの? さっさと家に帰って酒の飲み過ぎで不実を働いたのだと謝ってきなさいよ」
「俺の奥さんは家にはいないよ。愛人のもとに通い詰めているんだ」

 足が止まる。そういえば最初に私に絡んできたときも愛人がどうのと言っていた、

「帰ってきてとは言わないの?」
「言えるものかよ。それに惨めに縋るのは何年も前にやったよ。効果はなかったけれど」

 諦めきった口調に胸が苦しくなる。

「恋愛結婚だったんだけどね。人の身に不滅という二文字はないのさ。永遠という二文字もね。愛はすぐに忘れ去られ、残るのは執着だけ」
「そんな……」
「君は恋をしたことがある?」

 男は私の前に立って尋ねた。
 月明かりの下、男の顔はとても真剣だった。

「……まだないわ。したいと思うけれど」
「ならば、肝に銘じておくといいよ。初恋は実らない。俺がそうだった」
「結婚したのは初恋の相手じゃないの?」
「ああ、全然違うね。……けれど、奥さんを愛していないわけじゃないよ? ただ、初恋の人は大きいんだ。彼女ならばどうするだろうと今でも考える。頭からこびりついて、拭えない」

 それは不実だと言おうと口を開いたとき、被せるように男が声を出した。

「俺の名前はイヴァン・ランカン。君の名前は?」

 鍵穴にはいる鍵を見つけたように納得した。
 処刑人の一族のイヴァン。音楽家になると言っていた彼だ。

「私はカルディア。第四王女カルディアよ」

 私は覚えているのに、イヴァンは覚えていないらしい。ふーんと気の無い返事がかえってきた。王族という驚きもないようだ。
 王族だということがばれていたのだろうか。

「第四王女カルディアか。新聞でも悪し様に言われている人物が、こんなに小さい子供だなんてね」
「新聞なんてろくにあてにならないわよ。だって私、記者にだってろくにあったことはないのだし」
「ふふふ、それは少し面白いな。それで、王女様があんなところで何をしていたの?」
「さっきも言ったでしょ。友人を捜したくてきたの。あの店の女将は情報通だと聞いたの」

 イヴァンはまた歩き始めた。首をあげて、月を見ている。

「そのお友達は君の愛人?」
「違う! 大切な人ではあるけれど。そういう関係じゃないわ」

 人の話を聞いているのか、いないのか、イヴァンの返事はどうでもよさそうだった。

「どうして君が? お姫様なんだから、下々の者に任せればいいじゃないか」
「……そうはいかないのよ」
「相手は犯罪者だから?」

 今度は私が足を止めた。振り返ったイヴァンは口端を上げる。

「あの店の女将は王都の裏側に精通している。亡くなった夫が貧民街の顔役だったみたいだからね」
「それは初耳よ。ただ、訊けば居場所が分かるだろうと言われたの」
「それで、ハルって子は犯罪者なの?」

 頬を掻いて時間を稼ぐ。
 ハルは空賊の一員だった。それだけを抜き取れば犯罪者だろう。だが、ハルのことをそうやって断定したくなかった。

「……そうなのかしら」
「それは犯罪者の疑いがあり、有無が分からないということ? それとも犯罪者だと信じたくないということ?」
「どちらともよ」
「そうか。本当に大切な人なんだね」

 イヴァンは私の手を揺らす。

「でも、彼の方はどうかな。君には知られたくない秘密があるかもしれない」
「秘密?」
「そうさ。すべて知ってしまうことが必ずしも得策とは限らない。ちょっとぐらい秘密の人間でいた方が都合のいい時もある」

 それは探さないほうがいいという忠告か?

「好奇心は猫を殺す。君はそれでも知りたいの?」
「……イヴァンはなにが言いたいのよ」
「君はあの酒場に従者もつけずにのこのこやってきた。しかも深夜にだ。娼婦だって連れ立ってくる時間帯だよ。切り裂き魔も出没するこの貧しい地区にいるのに、君は危機感を全く持っていない。これは致命的だ」

 ぐっとイヴァンに引き寄せられた。胸に手をついて、見上げる。

「ほら、今もこうやって俺の思う通りになってしまう。警戒心が皆無な君は、誰かの思い通りに操られているのかもしれないよ」
「そんなわけないわ!」
「本当に? じゃあヒントをあげよう。君が自分を客観的に見られるようにね。一つ、君はこんな夜に酒場にきていた。一つ、君はとてもかわいい若い女の子だ。一つ、君はどう見ても貧民や平民じゃない。喋り方も体運びも洗練されている。一つ、君は男のことを尋ねにきた。一つ、その男は犯罪者かもしれない」

 上げられていくヒントに声もなくなる。
 まるで恋人を探しに家出した令嬢みたいな立場だ。しかも、その恋人ははたから見てもだますために令嬢に近寄った。恋は盲目。そのせいで目を曇らせているような。
 かあと顔が赤くなる。いや、違う。ハルのことは大切だが、恋人では断じてない。

「分かった? 君はとても愚かな選択をしようとしていた。そして、さっきまで君はそれを行おうとしていたんだ。さっさと屋敷に帰って頭を冷やすといいよ」
「カルディア姫!」

 聞きなれた声に振り返る。銀色の髪をたなびかせ、美しい顔が迫ってくる。

「お探ししました。この男になにもされていませんか? 気に食わないので、貴女様を触っていた腕ごと切りはなしたいのですがよいですか?」
「よくない!」

 こいつ、いつの間に王都に戻ってきていたんだ!?
 おおかた、イルに私が逃げたときいて方々捜しまわっていたのだろう。いつもならば綺麗に整えられている髪が、ぐちゃぐちゃに荒れている。

「ギスラン・ロイスターのお出ましか」
「……音楽家のイヴァンだな。カルディア姫に気安く触れるなんて万死に値する。その腕で償え」
「腕だけでいいとは殊勝なことだね」
「死にたいのか?」

 なぜイヴァンはギスランを挑発しているんだ!?
 こいつの闘志に火をつけるといろいろと厄介だ。宥めてやった方がいい。

「死にたくはないけれど。でも、腕ぐらいならとも思うよ」
「……カルディア姫を誘惑している? 殺す」
「ギスラン、今回のことは私が一人で出て行ったのが全部悪いのよ」

 イヴァンを振り払い、ギスランの目の前に立って叫ぶと、ギスランの瞳は私だけを映した。

「そうですね」
「こいつは迷子になった私に忠告しようとしただけよ」
「それにして親しいようですが?」
「まさか。ただ忠告されていたのよ。一人でこんなところを歩いてはいけないと」
「……それでカルディア姫はギスランにどうして欲しいの?」

 砂糖のような甘い声だ。
 なにもかも分かっているが騙されてあげようと言わんばかりの訳知り顔だった。

「帰りましょう、ギスラン」
「口づけをして下さる?」
「ん?」

 ギスランは恥じらうように頬に手をあてる。

「この男の前でして下さるならこの男に危害は加えません」

 この男、よりにもよって要求がそれか!

「悪党のようなことを言うんだね、君は」
「そんなまさか。私はカルディア姫に愛を乞うているだけです」
「脅迫だろう、どう考えても」

 ぎろりと睨みつけている。本格的に殺意が漲った顔をしているぞ。
 このまま殴り合いの喧嘩が始まりそうだった。

「人前でするのは嫌」
「二人っきりならば、ずっと口をつけていてもよろしい? では移動中は絶えず唇を触れさせていましょう」

 なんだその頭がわいた提案。正気か?

「もう、分かったわよ、少しだけよ。本当に、少しだけ!」

 嬉しそうに顔を近づけてくるギスランに思い切って唇を合わせる。よし、すぐ離れるぞ。
 だが、肩に回った腕に阻まれ離れられなかった。唇を舌が舐める。驚いたと同時に口内に舌が入り込んできた。歯をなぞられ、舌を弄ばれる。
 頭が変になるぐらい気持ちがよかった。腰の力が抜け、ギスランに縋りつく。
 ギスランは安心したように私を抱きかかえた。
 やっと唇が離れたとき、イヴァンは背中を見せて私達とは反対方向に走り出していた。
 見られていたと思うと頭に血がのぼり、頭がおかしくなりそうなほど痛んだ。

「ギスラン、何を考えているのよ!?」
「あの男の絶望したような顔。滑稽でした」
「お前ね! いろいろと私のためにしてくれたのに、お礼さえ言えなかったわ」
「他の男に助けられたカルディア姫が悪い」

 ギスランの指が私の指と絡まった。そのまま、待たせてある馬車へと誘導される。
 もう一度会えるだろうか、イヴァンに。彼が途中まで言っていたことは気になる。
 それに、ハルのことも考えなくてはならない。私はハルのことを知ってどうするのだろう。答えが出ないまま知ってしまってもいいのだろうか。

「私の王都にある屋敷に行きましょう。一週間は監禁して仕置きしなくては」
「監禁!?」
「間違えました。滞在です」
「悪意のある間違いね……」

 ギスランは楽しそうに笑った。私の苦難はこれから先も続きそうだ。

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