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第一章 夜の女王とミミズク

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 地上ではレイ族の男を撃退しようとする部下達が返り討ちにあっていた。
 彼は素早く地面を駆け、自由に飛び跳ね、サーカスの曲芸師のように身軽に宙を舞っている。
 部下の一人の首筋を食いちぎった。そうかと思えば、違う部下の肩に乗って挑発した。誰にも止められなかった。武器は役に立たなかった。剣は味方を殺す刃になり、拳は味方殺しの部位になった。誰もレイ族の男の速さについていけない。

「同士討ちをするな! 敵をきちんと目視しろ! 一匹だぞ、我らの力を見せてやれ!」
「誰か、こいつを一緒に運んでくれ。首から血が出てる!」
「うるせえ。そんな奴さっさと捨てやがれ! じゃねえと俺らはみんな揃ってあいつに殺されるぞ!」

 怒号が飛ぶ。場が混乱し、右往左往していた。戦場とはこんなに混乱しているものなのだろうか。誰もかれもがそれぞれ大声を張り上げて真っ白な東棟を声で埋め尽く。

「カリレーヌ嬢をはやく助けなければ」
「……そうでしょうか」
「どういう意味?」
「――ギスラン様、なんです、これ。すげえ。いいですね。清族にこういう風に管理できる物見台欲しいんですけどって言って作ってもらえるんですかね?」
「うっせ」

 イルは私とギスランの反対側から顔を出して、ポスターをのぞき込んだ。
 カリレーヌ嬢は部下達の反対側で壁に張り付くように寄り掛かっていた。

「それにしても、このご令嬢はなんだって、お一人でこんなところに?」
「一人、残されたのでしょう?」
「こんだけ殺しといて、この人だけですか? そりゃあ、すごいな。このえっと、レイ族でしたっけ? ご令嬢に惚れてんですかね?」
「意思疎通できない馬に恋心抱くか?」
「俺は無理ですけど。できないこともないんじゃないですか?」
「……俺も無理だな。こいつには番がいた。他のやつに目がいくものか?」

 トーマへ謝る機会を失っていた。彼は、何事もなかったように私を無視し、イルへと疑問を向けていた。
 トーマは清族だから、そういったことには疎いのあろうか。私が読んだ物語のひとつに馬に恋をして、祝言を上げたという貴族の女がいた。だが、それは物語だ。どうなのだろう。

「なぜ、カリレーヌ嬢は逃げない?」
「足が竦んでいるのでは? こんなに人が死んでいるのだもの」
「彼女の父親は軍にいました。彼女は、父親に会いに行き、戦場で病人の看病をしています。戦場に赴き、負傷者を運んだ話を聞いたことがあります。それに、ここの死体は平民と貧民だけです。どうしてでしょうか?」
「……なんか、さっき聞いた覚えはあるような話なんですがね、ギスラン様」

 それだけはないと語尾を強めてトーマが否定した。

「臭いで判別できないつってるだろ」
「トーマ。言葉を覚えられる知能を持っているのならば、貧富の差を判断することも可能なのではないか?」
「……なるほど。あの個体は、賢いしな。人の衣装で階級を判別しているのか」
「だから、軍服どもは弄ばれるものの殺されない可能性があるな。首を噛みちぎられたものは攻撃したからだろうが、それ以外は殺されないのでないのか」
「じゃあ、高貴な身分の方そうだったら、危害を加えられないってことですか? カリレーヌ嬢はなんだって夥しい貧民と平民の屍の上にいるんですかね? 逃げりゃあいいのに」
「目の前で人がこんなに死んでたら、自失してもしかたないでしょう」

 悪意ある見方ではだめだ。カリレーヌ嬢はたまたま貧民と平民達を避難させていたところにレイ族に出会ってしまったに違いない。穿った見方をするのはよくない。

「リスト様が来ましたね」

 リストが来たら、安心だ。
 堂々とした足取りでリストが白と赤の色であふれた東棟の玄関ホールに踏み入れた。
 兵達は倍増し、それを喜んだ声が次々と鼓舞する雄叫びに変わる。

「何をしている! 一度、あいつらを戻せ。これでは、同士討ちするだけだろう」
「はっ。笛を鳴らせ!」
「人数を減らして対応しろ。怪物は敏捷だ。動きを殺せ。硝子でも敷き詰めれば、早さを軽減できるだろう。清族を呼べ。こいつを眠らせることもできるかもしれない」

 リストの鋭い声が飛ぶ。周りの人間達の動きが今までの明らかに俊敏になっていた。レイ族に遊ばれていた兵士たちと負傷者が下がった。足元には硝子がまかれた。それを踏みしめる音は玲瓏としていて、場違いなほど美しかった。

「リスト様! お助け下さい! お助け下さい!」

 今まで叫び声一つ上げなかったカリレーヌ嬢が、突然奇声に近い声を出して泣き出した。
 ぎょっとした叫びにリストの耳目がカリレーヌ嬢へとむけられる。彼女は何度も懇願を繰り返した。顔を突き出し、レイ族に見つかることも厭わない様子だった。

「リスト様、リスト様だけがいいの。お願いです。助けてくださいませ。お助け下さいませ!」

 リストはわずかに顔に疑問を浮かばせた。おそらく、ギスランが感じたような違和感だ。
 私も、ここにきてやっと、なんだかおかしいぞと感じ始めていた。

「い、いかがいたしましょうか、リスト様」
「リスト様、リスト様がいいの。お願い、愛しい方! 助けてくださいませ!」

 リストは覚悟を決めたのだろう。上着を脱ぎ、腰につけた剣の位置を直した。

「ご令嬢の願いを断るわけにはいくまい。何人か、俺とともにこい。だれか! あの怪物を惹きつけよ。功労者には褒賞を用意してやる」

 部下達が褒美を目当てに勇んで怪物を目指していく。リストはその横を数人の部下達とハヤブサのように足早に疾走した。死体をうまく避け、レイ族が襲い掛かってきても、軽くいなす。転がったレイ族が硝子の破片が突き刺さって獣じみた悲鳴を上げる。
 部下が追撃した。その間にリストがカリレーヌ嬢へと駆け寄った。顔色を窺い、喉を何度もひくひくさせる彼女を宥める。

「もう大丈夫だ。こちらへ」
「抱きしめて。震えが、止まらないのです。お願いです。お願いします!」
「もう、大丈夫」

 リストは問答の時間が惜しいと思ったのだろう。カリレーヌ嬢を早急に抱きしめた。
 リストの熱い体温がこちらに伝わりそうなほど強引な抱擁だった。カリレーヌ嬢の震えは止まり、顔には笑顔が浮かんだ。体が静かに離れる。
 リストが腹部をおさえた。膝をつき、苦悶の表情を浮かべる。服の赤い染みが徐々に広がった。
 カリレーヌ嬢は精神錯乱をおこしたように「お父様! やりました、やりましたわお父様! ふふふ、うふふふ。やっと偽物を殺せたわぁ!」と高笑いしている。手には血に濡れたナイフがあった。
 高笑いする女、ナイフ、腹部を刺された人間。怖気が走る。頭がちかちかと痛んだ。
 カリカリとリストの描かれた動くポスターを掻いた。こんな現実起こっていない。削り取って、なかったことにしたかった。喪神したくてたまらなかった。
 カリレーヌ嬢の挙動はおかしかった。けれど、リストを刺すなんて思ってもいなかった。どうして、リストがこんな目に合うのだろう。しかもノエルが言った言葉と同じものを吐きながら笑っている。
 リストが理不尽に虐げられている。胸のなかで悪意がとぐろを巻く。
 カリレーヌ嬢を理由なく壊したいと思った。自分でも嫌悪するような、ひやりとする感情の暴走だった。

「……勝手に殺すな」

 掻いていた指をどける。血に濡れた服をおさえながら、リストが不敵に笑った。
 泣き出しそうになった。唇を噛む。リストに変わってナイフで刺されたかった。痛みを私が受けたかった。

「カリレーヌ嬢。勘違いされているようだが、俺は貴女の御父上を殺したわけではない」
「うふ、うふふふ」
「どこで下卑た噂をきいたか知らないが、俺が魔薬を止めたわけではない。空賊に奪われた。その先は、あちらの国の民が疲弊していたせいだ」

 魔薬関連はサラザーヌ公爵が生きていたときにカンドに向って言っていた話ではないのか。
 属国の国に届くはずの魔薬を空賊が奪ったせいで届かず、暴徒達になぶり殺しにされたのだと言っていた。まさか軍人だったからという理由でリストを刺したのか?
 カリレーヌ嬢は狂ったように笑ったまま、ナイフで自分の体を切り裂いた。どばどばと血が流れていく。唐突な自傷行為に、リストはやめさせようとカリレーヌ嬢からナイフを取り上げた。

「うふふ、ふふふふ。お父様ぁ。カリレーヌはすぐにそちらに参ります……」
「カリレーヌ嬢。……はあ。恨むぞ、神よ。俺が何をしたというのだ」

 ぴきぴきと変な音がした。トーマが、顔を上げた。
 私もつられてリストから目を離す。ギスランが私を引き寄せた。胸に顔を押し付けられる。

「トーマ、この音はなんだ」
「わからない。……ギスラン様、怪我でもしているのか?」

 血の臭いが強く香る。鼻が曲がりそうだった。

「はあ? してはいないが。カルディア姫、もしかして怪我を?」
「違いますよ、ギスラン様。足元から血が噴き出してやがるんです。……トーマ様、なんだってさっきからぴきぴきっていう奇怪な音が聞こえるんですか?」
「奇遇だな。俺も聞こえる」

 全員で足元を見たときにはもう遅かった。
 さっきまでたくさんあったポスターの間にクモの巣のようなひびが入った。
 息を止めた瞬間、地面は割れ、東棟のなにもかもが、たとえば、死体が、柱が、破片が、部下達が、リストが、カリレーヌ嬢が、そのまま落っこちてきた。
 土と血が口のなかに入り込んだ。歯の間に砂が入り込んできた。じゃりと嫌な感触がした。
 今まで無害を装っていた水が牙をむいた。水は鼻と耳から体内に侵入し私の中へと入ってくる。息が苦しかった。鳥人間に殺されそうになった時よりも苦痛の時間が続いた。
 水は敵になり、水の流れは命を刈り取る鎌となった。終わりがこない。このまま、じりじりと長く苦しみ続けるしかないのではないかと思った。
 それが怖くなり、目をあける。見ることができたら、恐怖が薄れるのだと考えた。眼球の隙間から、水が入り込んでくる。目の奥がきんと痛みを放った。だれかに、目玉を洗ってほしくなった。
 それでも目を開いたままにしたのは、人を探すためだ。けれど、見つけられたのはレイ族の男だけだった。視界の端でどこかで逃げ出すのが目視できた。
 口から気泡がのぼる。気泡を食べたかった。息が苦しい。
 空気を求めて、口を開いてしまった。その唇をギスランが塞いだ。
 舌が私の口内を荒らす。私もギスランの呼吸を奪うために、歯をなぞり、舌を蹂躙した。ギスランは嬉しそうに私の髪を撫でる。
 背中に爪を立てた。その痛みさえ感じないと言わんばかりにギスランは笑い、私の肩をきつく抱きしめた。



「はなおとめ、はなおとめ」

 ゆすり起こされる。視界いっぱいにミミズクが映っていた。飛び起き、ギスランやリスト、ハルやイル、トーマの姿を探す。だが、だれも見つからなかった。
 黒い柱、鏡のように顔を反射する床。火の灯されていない松明があった。洞窟のような空洞に私は寝ていた。手で自分の肌を擦らなければ寒さに耐えられなかった。
 ミミズクは全身濡れていた。ぺたりと髪は顔に張り付いている。ぷるぷると頭を振った。
 私も同じぐらいドレスも下着も髪も濡れていた。
 髪にたまった水を絞る。手に滴る水滴の量は多かった。

「ここは?」
「死に神の居住区。ひどい目にあった」
「死に神!?」
「謁見に行こう。死に神が待っている」

 ミミズクに手をひかれてたどり着いたのは、祭壇めいた王座だった。蒼い炎が揺らめいていた。真っ黒な獅子、首が三つある犬、灰色の鷹がそれぞれ、王座の下、横、上に憮然と存在した。王座の装飾は蛇だった。ぐるぐると長細い胴体をに巻き付けている。
 蒼白い炎だけがあたりを輝かせていた。ここには月の温かな安らぎも、太陽がもたらす力強い陽射しも届かない。
 その王座の間には人の怒鳴り声が響いていた。男女混じった声だった。リストの声が聞こえた。ハルのおし殺したような低い声も聞き取れた。
 腕を掴まれ、引き寄せられる。天鵞絨の布に頬があたる。鼻先には青い獣の毛が触れた。
 くすりと形のいい唇に笑われた。
 陽に当たったら、溶けてしまいそうなほど白い肌だった。その白い肌には、黒い文字が這っていた。刺青とは違うようだが、インクで書かれたわけではないらしい。擦っても消えなかった。

「なぜ、俺をみない?」

 その声は魔力を帯びていた。私にとって何者にも代えがたい人の声だった。
 さっきちらりとふしだらにも覗いて見てしまった、形のよい、美しい唇。その口元の主を知っていた。毎日のように眺めても飽きることがなかった。さっと顔を逸らしてしまったのは、怖かったからだ。こんなところに、サガル兄様がいるわけない。

「――うん。あまりに強情だから、嫌がらせをする」

 顎を持たれて、無理やり顔を上げさせられた。
 ただ、見惚れた。サガル兄様によく似ていたが、頭の上にある雄牛の角が異形のものであることを伝えてくる。それに髪の毛の色や目の色が違った。だが、サガル兄様と並ぶほどの美しさがあったことには驚いた。
 夜の美しさだけを抽出してつくられたような細く滑らかな髪の毛。頬は蒼白く、顔の造形は少しのゆがみもない。すべてが整然と数式によって定められた位置に存在しているようだった。美貌を持つ女性を称えるときに傾国だと例えるが、一国など、簡単に傾けてしまいそうだ。壮絶な美貌だった。残酷だと言い換えてもいいかもしれない。
 これほどでは、微笑まれなかっただけで死者を作りかねなかった。

「やっとこちらを見てくれた。けれど、どうしてまたすぐに顔を隠す? 俺の顔は綺麗だろうに。どうして、頑なになる?」
「頑なにしているつもりは! ただ、見つめられると、干上がりそうになるだけ」

 だめだ、この万人を虜にする美形を前にすると、刷り込みのようにサガル兄様と重ねてしまう。暴力的美しさの前では屈服するしかない。

「干上がる? ああ、頬が熱い。照れているのか」

 月色の瞳は、長い睫毛の影が落ちていた。
 顔を近づけられ、頬を撫ぜられる。その手は優しいものだったのに、なぜか知ってはいけない欲が手という形になって私を撫ぜているように思われた。

「誰なの」
「死に神だよ、はなおとめ」

 ミミズクはすぐそばで美貌の異形――死に神を睨みつけていた。

「なぜそんな姿を? みにくい」
「うるさいミミズクだ」

 よく見れば、死に神の腹は妊婦のように膨れていた。なにかを孕んでいるのか? ということは、死に神は女性か!?
 声の響きはサガル兄様にそっくりで、リストよりも高いが穏やかな男性のものだ。

「はなおとめ。さあ、罪人達の裁きをしよう。人は他人を裁くのが好きだろう? 俺も好んでいるらしい。天国と地獄へと導くのだったか?」
「さっきから、声が聞こえる」
「ああ、そうだろうとも。では、さっさと初めてしまおう。木槌の準備はよい? 人に罰を当たるときには必要なのだろう? いや、それは鞭だったか?」

 ぼそぼそと独り言をこぼしながら死に神がぱちんと指を鳴らす。
 すると、二人の人間が照らし出された。ハルとイルだ。
 ハルが大声でイルを怒鳴りつける。怖い顔をして、イルを睨みつけていた。
 死に神が私を抱きかかえて王座に座った。
 背中に死に神の腹部があたった。骨の硬い感触があった。

「どうして、カンドを殺した!」
「――は?」

 思わず声を出してしまうほど驚いた。
 どくんどくんと心臓が脈打った。カンドを殺した? どういうことだ。

「どうしてって、答えが必要か?」

 イルは眼鏡をはめていなかった。外しているとかなり目つきが悪い。目元が涼し気で、小さな泣き黒子があった。嫌そうに眉をしかめて、薄く口元に笑みを浮かべている。

「はなおとめ。二人のどちらが悪いと思う?」
「どちらって、どういうこと?」
「どちらかを天国に、どちらを地獄に送らなければならないのだろう? 俺は、そちらののっぽではない方を地獄へやったほうがいいと思うが。人を殺すのは重罪だろう?」

 正面を向いて、二人を見比べる。どちらかを地獄へ、どちらかを天国へと導くのか?
 じゃあイルもハルも私は死んでいる?

「私達、死んでいるの?」
「俺に会っているのに、暢気なことを尋ねる」
「死んでいるのね?!」

 心臓がどくりどくりと高鳴っているというのに、私は死んでいるの?
 死って、こんなにあっけなく訪れるものなのか。もっと、苦痛に満ちているのかと思っていたのに、そういうものは一切ない。拍子抜けといってもいいかもしれない。
 それともまだ、ここからが本番なのだろうか。こうやって、裁かれた先に地獄が待っている?

「もう、はなおとめ。どちらが悪いか、決めてしまわないと。きちんときいてくれないのならば、勝手に決めてしまおうかなあ」
「ちゃんとやるわ! けれど、よくわからない。カンドを殺したってどういうことなの?」
「本当に? はなおとめは俺の相手をするためにここにいるのだから、裁判官の真似に付き合ってくれなければならないよ。そうでないと拗ねてしまうから」

 この死に神、子供っぽいな。ミミズクと重なる部分がある。
 だが、突然なんで私が死に神の手伝いをすることになったのだ。成り行きとはいえ、突飛なこと過ぎる。

「ええ。……それで、殺したって、どういうこと?」
「どうもこうもないよ。そこののっぽで猫背な人間の大切な友を殺したと言ったのだよ、そこの凶悪面は」

 イルはカンドを船と一緒に置いてきたと言っていたではないか。なのになぜ、今更死んだなんていうのだろう。辻褄が合わない。

「きちんと罪を告白し、相手の罪を密告すれば、きちんと裁量してやると言ったら話した。随分と人間は天国が好きなのだな? それとも、地獄に落ちたくないのだろうか」

 ハルは拳を震わせて、今にも殴りかかりそうだった。二人を照らす光が長い影を足から伸ばした。

「そもそも、剣奴の俺が馴れ合いばかりで向上心の欠片もない貧民達と酒飲んだり、歌をきいて和んだりするのが、打算なく純粋な好意からくるものとでも? 俺に与えられていた任務はお前達の監視であり、観察だった。まあお姫様連れて家にきたのには単純に驚いたけどな」

 イルが大きく手を振って私の方を見た。

「カンド殺したのは、勢いだったけど。あいつ半狂乱で俺に襲い掛かってきたんだ。殺してくれっていいながらな。仕方ないことだった」
「殺してないって言った理由は? カンド会ったなんて言わなかったら、よかっただろ」
「それはそうだよな。俺も気が動転してた。地面のなかに入るって人生初だったからさ。とりあえずお前がカンドを見つけようと騒ぐのをとめようとしたんだ。それに、お姫様も甘いっつーか、情にあついところあるから。二人して、カンドのことで騒がれたら面倒だ。ここを出て、カンドのことをなぜ言わなかったかと指摘されるもの煩わしいしな。……でも、ハル、お前も案外非情だよな。俺が言うまでカンドのことなんか考えもしてなかったんだろ?」

 目を伏せ、ハルが黙り込んだ。

「お姫様に気を取られて、カンドのこと考えもしなかった。違う?」

 唇を噛んだまま、ハルは何も言葉を発しない。発してしまったらハルのなにかが壊れてしまうとでも言いたげに頑なだった。

「カンドの状態はすごかった。血みどろで、出血多量で死ぬに決まってるぐらいにふらふらしててさ。青い唇をぷるぷるさせて、俺の名前を呼ぶんだよ。そうそう、お前に謝ってたっけ。殺してすまなかった、すまなかったって。お前、カンドに殺されかかったの? だから、カンドのこと、どうでもよくなった?」
「違う!」

 ハルの唇が開いて、すぐに閉じた。
 カンドが死んだって、本当なの?
 まだ、現実感がない。死体を見ていないからだ。片腕を失って、ハルを突き飛ばして走り去っていったカンドを思った。
 逃げている間に自責の念に囚われ、衝動に任せて突き飛ばしたハルのことを後悔した。
 カンドは悪人なのか、分からなくなる。ノエル達に行った仕打ちは理不尽なものだったが、ハルにとっては気のいい友人だったのだろうか。誰かにとっての善人は悪人になりえる。ならば、悪も善も同じではないのか。それは、裏と表のように存在して、一方だけではない。

「そ? ま、どうでもいいけどさ。俺、地獄にだけは行きたくないんだよね。男狂いの淫乱女と顔もあったことない親父と同じ息を二度と吸いたくない」

 イルがハルの胸をとんと片手で押した。

「俺のかわりに地獄に落ちてよ」
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