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第一章 夜の女王とミミズク

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「ハル!」

 目の前で、サラザーヌ公爵がサラザーヌ公爵令嬢を庇って死んだ。
 数十秒間に起こった信じられない光景は、網膜に焼きつくように鮮明に記憶に刻み込まれた。あっ、あっと、過呼吸のような息がこぼれる。ぐっと舌を噛んで、情けない声を抹殺した。硬直する余裕はない。父親の死をサラザーヌ公爵令嬢にこれ以上見せてはいけない。彼女を庇った人間の捕食をこのまま見せてしまえば、正気に戻れなくなる。
 私の声に、ハルは反応してくれた。サラザーヌ公爵令嬢を軽々と担ぎ上げ走ってくる。ちゃっかりとミミズクが後ろについてきていた。なにを考えているか分からない、ぼんやりとした瞳をしてサラザーヌ公爵令嬢に視線を注いでいた。

「はやく、逃げよう。……森の奥へ。こんなことなら、さっさと森に避難すればよかった」

 後悔のにじむ声色でハルが告げた。

「いこう。もう、逃げ遅れた人はいない」
「何を言っているの?」

 サラザーヌ公爵令嬢はぼんやりとした声で、ハルに反論した。

「まだ、お父様が、ほら、あそこにいらっしゃるわ」

 夢をみているような、朴訥とした口調だった。心が軋むような痛みを発する。精神がおかしくなってしまったのだと気がついてしまった。遅かったのだ。一時的なものだと、治療できるものだと、信じるしかない。

「助けなさい。お前、貧民でしょう?」

 ハルの肩を叩いて、催促する。我儘で、傲慢で、貴族の女そのものだった。彼女はいつものように、傲然と命令した。

「ほら、困っていらっしゃるわ。あんな女に絡まれて。お父様は、お母様一筋なのに。なんのつもりなのかしら。あの豚のような体を見て。誰があんな女を愛するというのよ」
「サラザーヌ公爵令嬢」

 彼女の瞳にはこの状況が、歪んで映し出されていた。まだ、公爵は生きていて、怪物はただ公爵に絡んでいる女になっている。

「お助けしなくては。体の弱い兄様の代わりに。わたくしが、守らねば」

 濁った瞳が私やハルを素通りした。サラザーヌ公爵令嬢は別の世界を見ているようだった。今にも、ぐらりと、別の世界に堕ちていきそうだった。
 サラザーヌ公爵令嬢は今にも飛び出していきそうになっていた。苛立ちを表すように小刻みに腕が震え、ハルを叩いている。

「お父様を助けなさい、役立たずの貧民、さっさとしなさい」
「できない。……行こう」
「助けるのよ! もういいわ、おろしなさい! わたくしが自分で助けに行きます」
「もう、死んでいるよ?」

 ぴくりと耳をぴくつかせて、サラザーヌ公爵令嬢はミミズクを見た。真っ白いその生き物だけが別の世界と現実を結びつけることが出来た。睫毛まで白のミミズクは、青白い唇を震わせ、残酷な真実を告げてしまう。

「お前の父親、じゃあなかったか。血がつながってないもの。……したっている、ひと。そこで食べられている」
「ミミズク!」

 今すぐに、ミミズクの口を塞ぎたかった。これは、今、サラザーヌ公爵令嬢に告げていい言葉ではない。これ以上、心を傷付け、苦しめることになんの意味があるの。

「なあに、はなおとめ」

 愕然とした。ミミズクは人ではないから、感情の機微に疎いのだ。真実を告げたことを悪いことだと思っていない。善悪よりも、真実を告げる方が正しいと思っているのだ。
 サラザーヌ公爵令嬢はミミズクの言葉に戦慄いた。唸り、額に汗を浮かべ、荒く吐息をハルに吹きかけている。

「嘘よ」

 ハルの背で暴れまわり、サラザーヌ公爵令嬢はお父様と何度も呼んだ。
 返事がないと恐慌し、女を罵った。
 ハルは短く瞬きすると、しかたがないと目を伏せ、手刀でサラザーヌ公爵令嬢を気絶させた。

「行こう」

 血肉をすする音、骨をかみ砕く音。おぞましい音がする。人が食事に変換されていく、無慈悲な音。じゅるりじゅるりと唾液をすすっている。恐ろしい予感のために拳を握る力が強くなる。
 死体から内臓や心臓を抜き出すという話が『女王陛下の悪徳』に書かれている。古い書物にも同じような記載がある。
 昔の王族は、水葬する前に心臓や内臓を取り出して保管していた。主に清族が実験するためだという。死を受け入れた瞬間、体はただの中身のない器になり、亡くなった故人とは違う。魂は死後の世界へ向かう。だから、不謹慎ではあるが、冒涜的ではないというのだ。死体にはもう魂は宿っていないのだから、器を切り刻んで何が悪いのだというのだ。
 けれど、さっきまで生きていた体温が残る肌を切り刻むことがなぜ出来たのだろう。魂はなくとも、肉体はその人自身だというのに。
 怪物は美味しそうに陶酔としながら食べている。それはサラザーヌ公爵の死体なのか。それとも、怪物にとっての食物になり果てたのか?
 考えれば考えるほど吐き気と悪寒に悩まされる。
 なぜ怪物はサラザーヌ公爵を食べることが出来るのだろう。姿形は人そっくりだというのに、なにが私達と圧倒的に違うのだろう。

「走って!」

 ハルが突然、慌てふためいて叫んだ。気がつけば音が止んでいた。振り返ろうとした私を静止して、ハルが走れと強く叫んだ。
 がむしゃらに走った。恐怖が迫っている。ハルは抱えたサラザーヌ公爵令嬢をしっかり支えていた。ミミズクは懸命にハルに引っ付いている。
 森の中に入ることが出来た。月の明かりが遠く、大雨が降ったあとの川の中のように空気が濁っている。だが、不思議と安心感を持つことができた。きっと、この森が嫌いなのではないかと言っていたサラザーヌ公爵令嬢の言葉があったからだろう。
 森の道はどこかしこもぬかるんでいる。足の裏が泥で濡れていく。服にまで、汚れがついてしまった。
 樫の木やブナの木のごつごつと隆起した太い根が歩くのを邪魔する。特にハルはサラザーヌ公爵令嬢を抱えているせいか体がよく傾いた。ハルは転びそうになるのをこらえて奥へ奥へと走った。できる限り深く、見つからない場所へ。けれど、歩みは止まった。
 ハルが、根に足をとられて転んでしまった。



 抱き起こそうと転んだハルへと引き戻る。そのとき、視線の端でぷくりとした贅肉が震えたのが見えた。目を見張った時には遅かった。
 間近で見る腕は真っ赤に染まっていた。ぷんと鼻に血の臭いが襲いかかってきた。腕を触られた感触は、人間の手となにも変わらなかった。
 ーーサラザーヌ公爵が襲われたのだ。彼の言っていた階級を判別する能力はこの怪物にはない。階級を判断するだけ優秀ではないのだろう。
 カンドとサラザーヌ公爵の姿が脳内にこびりついている。まるで擦っても取れない泥のようだ。気になって何度もあの場面を頭のなかで繰り返してしまう。
 死ぬなんて、ごめんだ。ハルを身代わりにしてでも、走って逃げたい。こんな暗い森で死ぬのは寂しいし、嫌だった。それに、私は何も悪いことはしていない。なのに、殺されるなんておかしいではないか。誰彼構わず恨み言をぶちまけてしまいたい。罵って、なぜ私なのかと詰りたい。かわりに死んでくれと懇願したい。食べられたくない。恐怖で心の中が真っ黒だ。ハルを突き放した。立ち上がろうとしたハルがバランスを崩して、地面に尻もちをついた。

「走って、ハル。逃げて」

 ーーなぜだろう。口が勝手に動いた。悪い口だ。こんな優しい言い方では、ハルは助けようと尽力してしまう。傲慢に、悪役のように命令しなければ。
 歯ががちがちと鳴っている。死の恐怖に打ち勝つことができない。一人で死ぬのは嫌だ。

「さっさとしなさい」

 ハルの手がこっちに伸びてくる。

「ぐずぐずしないで。……もう、誰も殺さないで、ハル」

 ねじ切られそうなほど強く腕を掴まれた。真っ赤な腕だった。
 鳥人間にも同じように、殺されかけたのだったか。ギスランの部屋で死にそうになったのが、何十年も前のことのようだ。
 ギスランはきっと、ひどいと私を責めるだろう。恨むだろう。瞳から宝石をぽろぽろと降らせて。
 後追いしてくれると言っていた。大言壮語でないといい。ギスランは私のものだ。私だけに愛を囁く鳥のような男だ。他の女と結ばれる未来を想像したくない。私がいないのに幸せになって欲しくない。

「ギスラン」

 醜い女には残忍な末路が似つかわしいのかもしれない。艶やかな肉体を持つ怪物は腹を撫でて、口を開ける。不揃いな歯は杭のようだった。怪物は大胆不敵だった。私を食らうことが、羊や魚を食べることのようにごく自然なことのようだった。桃色の肉塊が私の体を包み込んだ。女の滴るような甘い香りがした。

「カルディア!」

 ハルが声を上げた。目の錯覚だろうか。ハルの体がだんだんと沈んでいるような気がする。まるで、沼にはまったような。
 いや、錯覚ではない。本当にハルの体が地面のなかに引きずりこまれている。
 死にそうになっていることも、食料にされそうになっていることも頭から吹き飛んだ。ハルを助けなくては。頭のなかにはそれしかなかった。

「手を!」

 肩の関節が外れてもいいと思った。掴まれていない方の腕を限界まで伸ばす。けれど、ハルの体が階段から足を踏み外したように急速に土のなかに吸い込まれていく。
 ハルが消えていった土に指先が触れた。指先から異常な寒気が伝わってきた。触ってはいけない、踏み入れてはいけない。誰かが頭のなかで警告している。
 恋しはなおとめ。そこに堕ちてはいけない。
 だれかが大気もとろけそうなほど甘く私に呼びかける。これは誰?
 頭のなかで、知らない人の声がする。
 じんじんと頭が痺れる。
 土が水面のよう私の指先を受け入れた。指がずぶずぶと沈んでいく。まるで、土の中から誰かに引っ張られているようだ。けれど、それを怪物が許さなかった。
 髪がすっぱりと口内に入り込む。吐き出される息は絶望的な臭いがした。目元まで影に覆われた。肩をつかまれ、ゆっくりと影の線が深く広くなっていく。木々がざわざわと騒めいていた。

 ぱあんと激しい音がして、怪物の手が痙攣する。
 もう一度、ぱあんと音がした。怪物は私の体ごと倒れこんだ。だが、地面に投げ出される前に、誰かが抱き寄せてくれた。

「お姫様、大丈夫?」

 耳元で聞き覚えのある声が聞こえてきた。硝煙の臭いを服から漂わせていたのは、見覚えがある眼鏡をかけた男だった。私を引き上げて、イルは反対側の手でもっていた銃を構える。

「耳を塞がないと、鼓膜が破れるよ」

 いうなり、イルは引鉄をひいた。慌てて耳を塞ぐ。発砲音は森中にこだまして、収束する。怪物は痙攣し、分厚い唇からは喘ぎ声しか聞こえない。

「ああ、面倒臭い」

 イルは怪物をしり目に私に跪き、袖で私の頬を擦った。硬直していた体からやっと力が抜けていく。

「イル」
「なんでこんなところに? どっかの軍人殿の部下がお付きになったはずでは? お一人でなにを?」

 丁寧だが、粗暴な口調でイルが尋ねた。

「まあ、いい。そんなことよりも、お姫様。怪我はしていない? どこか、痛いところは?」
「痛いところ?」

 まだ、頭がぼうっとしていた。
 どうやら私は助かったらしかった。腕を上げて、指の一本一本を動かす。爪の端に血がこびりついていた。拭おうとして、イルに止められ、絹のハンカチで丁寧に綺麗にされた。

「痣がある。これは?」

 イルは私の手首をじろじろと無遠慮に眺める。怪物が掴んでいた場所だ。獣に噛み付かれた跡みたいな痣が残っていた。
 イルの顔が段々と曇っていく。眼鏡をゆっくりと押し上げて、奇矯な笑い声をこぼした。

「あははは、これは、言い訳が思い付かない。……痛まない?」
「痛い?」

 痛みはなかった。ただ、痺れているだけ。
 腕を見て、カンドのことを思い出す。腕がないまま走り出したあいつの方が重症だ。そう訴えかけると、イルはぐるりと目を回した。

「なんてお気楽なお姫様なんだ。脳みそはお花畑になっているに違いない。あんな盗人風情野垂れ死させたところで誰の不利益にもならないだろうよ。馬鹿で役立たずな軍人殿達はやり返す相手がいなくなったと嘆くだろうが」
「カンドが出血多量で死んでしまうのよ?」
「死んでしまえ、と俺は思うけれど?」

 忌々しげに吐き捨てられた言葉に瞠目する。こんなに冷淡な男だったか?

「そ、それに、ハルが。そう、ハルがいないわ。さっきまで、そこにいたのよ」
「そのハルは、怪物に食べられたのか?」

 イルはハルを贔屓するように私に囁きかけていなかっただろうか。それはひとえにハルへの好意からだと思っていたのに。今、眼鏡の奥にあるのは這うように冷たい怒りの感情だけだった。

「イル。ハルは地面の中に吸い込まれていったの」
「……ま、ハルの身を心配するより、自分の心配をした方がいい」
「私の身は大丈夫だと言っているでしょう」
「どうだかね」
「どうして、そんなに怒っているの?」

 私の痣を見てから不機嫌になる意味はなんだ。ハルやカンドよりも私を気にかける理由はなに?
 イルは眉根を寄せて、憂鬱そうに髪をかき上げた。

「あのなあ、お姫様」

 イルが説教をするように苛立った時だった。
 鐘の音が鳴った。ぴくりとイルの耳は動いた。ごおん、ごおんと不気味に鳴る音が終わると、イルは木に飛び移り、するすると上に上がっていく。まるでサーカスの曲芸師のような身の軽やかさだった。イルは本当に剣奴なのだと実感する。身体能力が優れているのだ。
 でも、いったい、こんな森の中でなにをしていたのだろうか。私がいることにとても驚いていたようだし、助けてくれたのだから、味方なのだと思いたいけれど。
 イルは、筒状のものを取り出し、導線に火をつけ宙に投げ捨てた。筒状のものが破裂し、花火が上がった。赤と青の大輪の花が夜に咲き、散った。火花がぱらぱらと落ちてきたときだった。火の粉に紛れて、大きな影が空中から降ってきた。その影は木々を突っ切って髪を靡かせ、私の頭上に落下してくる。唖然とし、落ちてきたものを凝視してしまう。イルが木の上から喧しく叫んでいる。

「カルディア姫!」

 ギスランが勢いよく空から落ちてくる。支えきれずに、地面に倒れる。だが背中に感じたのが地面の感覚ではなかった。ゆっくりと引きずり込まれるように、地面に吸い込まれていく。沼だったのか!? と驚いている暇もないほど土に沈んでいく。顔がすっぽりと覆われた。耳なかでぐじゅぐじゅと音を立てている。
 目の奥がちかちかとしていた。次にまぶたを開けると、世界はとても澄んだ色をしていた。ぼこぼこと音を立てながら気泡が上がる。気泡の先に目をやると空には星が――ない?

「大丈夫?!」

 ハルの心配する声が聞こえた。ひっくりかえったまま、瞬く。
 あたたかな感触が私の体を這う。嗅ぎなれた臭いに安心して、力が抜ける。
 木の節にあたって奇妙な違和感があった。なにかおかしいと感じながらも空から目の前の男へ視線を戻す。

「泣かないで、ギスラン」

 ぽろぽろと私の上に宝石が落ちる。体がますます密着した。こいつ、空から来たかと思えば、泣き出すなんて、涙腺が崩壊しているのだろうか。

「服に血がついていらっしゃる」
「怪我なんかしていないわよ」
「本当に?」

 頷いて、髪を撫でてやる。
 ギスランは手に頭をこすり付けて、従順に喜んだ。顔の筋肉が緩む。やっと、安全になったと実感した。

「それで、お前、どうして空からやってきたのよ」
「花火が見えたので」
「……危ない。だいたい、あんな高所から落ちてきたら普通、墜落死しているわ」
「私は普通ではありませんよ、カルディア姫」

 声は落ち着いていた。けれど、ぐっと喉にせりあがってくるものがあった。

「私は、潰れるかと思った」

 ギスランはやっと表情を和らげる。私の上からどいて、私を抱え上げて膝立ちをして左太腿の上にのせる。

「遅くなってしまった。恐ろしかったでしょう? 異変が起こったときにすぐにお側に向うべきでした」
「大丈夫だったもの。それより、大変なことが起こったの」
「大丈夫などではない」

 ギスランはきっぱりと断言した。

「大丈夫ではありませんよ、カルディア姫。貴女様の肌に痣がある。これは、誰に負わされたもの?」

 指が手首をゆっくりとなぞる。
 ギスランの紫の瞳が、暗闇のなかで、怪しく光った。

「答えていただけないと、そこで慌てふためいている貧民から、拷問しなくてはならないのですが、よろしい?」
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