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第一章 夜の女王とミミズク

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 イルは、こちらを不安にさせるような言葉を吐いて、仕事があるからと去っていった。嫌味な男だ。
 伝えたいことがあるならば、直接的な物言いをすればいいのに。
 足がじくりと傷んだ。ナイフで刺されたときに負った傷はもう塞がったはずなのに。どうして、急に痛みがぶり返してくるんだろう。
 イルが去っても落ち着かないのか、ミミズクは私の周りでばさばさ羽を動かしている。そもそも、このミミズク、なんで私に懐いているんだろうか。

「はなおとめ」

 ふわふわとした毛先で頬を撫でられたような、優しく慰めるような声色だった。

「天帝様はね、泣いていらっしゃる。狂気にのまれ、愛惜に襲われ。はなおとめも、そう?」
「天帝様は、泣いているの?」

 そういえば、前も言っていたな。天帝様が嘆く。この世を嵐に埋める、と。

「うん。だから、天が乱れる。雲は天帝様の怒り。雨は天帝様の嘆き。嵐は千々に乱れる心」

 では、未曾有の水害も、天帝の嘆きから起こったというのか。
 神は人を何百、何千と葬り去っても、悲しかったと言えば許される?
 なんだ、それは。全能者だからか。人間より上位の存在だからか。
 ーーなにを考えているのだろう。これは八つ当たりだ。神に八つ当たりをするなんてどうかしている。
 自分の罪の重さは把握している。
 だが、イルに指摘されて、これまでなるべく考えないように胸の湖に沈めていたことが露見する。
 重責から逃げ、平等を望んでいる。
 だが、平等とはなにを示すのか、あやふやだ。貴賎はどこにでも芽生え、平等とは燦然と輝く星のように遠い、未知のもののように思えてならない。
 そもそも、平等な世界など見たことがないのだ。優劣のない世界を覗き込んだことがない。
 考えれば、考えるだけ分からなくなっていく。
 なにをもって平等をなしたかという基準は、個人の裁量次第ではないのか。
 平族ならば、平族が貴族や王族と同じに扱いを受ければ満足するだろう。リナリナやココはおそらくこの考えだ。
 しかし、それは貧族の視点から見れば、不平等だ。個体差がある時点で、平等という基準は意味を持たないものなのではないか。

 熟考している私の頭にミミズクが乗って、ぷくりと膨らむ。
 やはり、重い。思考を停止されたことに苛立って、頭から追い払う。
 ムッとした雰囲気をミミズクから感じ取った。

「はなおとめ、いじわる」
「お前、重い!」

 ミミズクは、体重を言及された乙女のように衝撃を受けた様子でふらふらと飛び上がる。

「ひどい! はなおとめ、ひどい!」
「なに、その反応! 女みたいよ」
「ーーひどい!」

 ミミズクの大きな瞳が憎らしげに私を一瞥した。そして、私の周りを半周すると、ミミズクは拗ねたように飛び去っていった。
 あのミミズク、本当になにしに来たんだ。



 ミミズクが去っていったがあてなく花園を散策するというわけにはいかなかった。

「カルディア姫」

 飛び出しそうになるほど、心臓が跳ねた。
 甘い声で名を呼ばれたことが何十年と前のことのようだった。

「お会いしたかった」

 早足で近づいて来たギスランは、外套のまま、私に抱きついた。顔を寄せ、頬擦りをしてくる。ミミズクに似た行為に、同じ種族なのかと問いたくなる。そのうち、背中から羽が生えるんじゃないだろうか。
 至近距離から見るギスランは相変わらず美しかった。目鼻立ちは整い、髪は銀糸のように繊細だ。
 けれど、どうしてか紫の瞳が赤く濁っている。

「ギスラン、どうしたの?!」

 質問したいことは山とあるが、今はそれどころではない。充血しているのだ、目が。目の周りも、どことなく腫れ上がっている。許されない事態だった。
 あたふたしてしまう。
 指を頬に滑らせ、目尻の外側を擦る。だめだ、もっと赤くなった。

「お前、誰かに殴られでもした? 目の周りが腫れぼったくなっているわ」
「そのように非力ではないのですが?」

 嘘つけ。よく泣くくせに。
 誰がこんなことをしたのだ。今すぐ、調べて仕返してやる。こいつが泣くと、面倒くさいんだ。
 口を割らせようと、ギスランを目線で問いただすと、ますます目の周りが赤くなった。

「そうではなく。お笑いにならない?」
「今、すごく怒っているのだけど。誰が、こんな気に入らない真似を?」
「……私のために怒ってくださっている?」

 ギスランは呑気すぎる。はやく、相手を見つけなければならないだろうに。
 温度差に戸惑い、目を瞬かせる。
 もしかして、理由があるのか?

「嬉しい。もっと怒ってくれて構いませんよ」
「ギスラン、なにがあったか、話して」
「もっと怒った貴女様が見たかったのですが」

 ギスランは残念そうにため息を吐く。 
 やっぱり、殴られたわけではないらしい。

「カルディア姫、私を恋しがってくださった?」
「そんなこと、していない」
「お酷い。ギスランは毎夜、泣き暮らしていました。貴女様が恋しくて」
「は?」

 つまり、その真っ赤な目は、泣きすぎたから?

「このように、十数日、お側を離れたことは、学校に入ってなかったことですよね? 心臓が縄で締め付けられるような感覚でした。貴女様に会えないと、私はおかしくなる」
「なっ、な」
「カルディア姫は、本当に私のことを恋しいと思っておられなかった? 少しも?」

 あ、ありえない!
 恋愛小説に出てくる一途な乙女か! 恋し過ぎて泣き暮れたなんて。

「カルディア姫、きちんと食事をとっていらっしゃる?」
「なんで、そんなことをきくのよ」
「細くなっていらっしゃるようだから。きちんと食事をとったのはいつ?」
「……それは」

 言えるものか。ギスランがいなくなってから、必要最低限以下の食事しかしていないなんて。おかげで寝つきも悪い。頭痛が定期的に訪れるし。頭が無駄に重たい。
 ギスランは言い淀む私に察したような顔をした。双眸が蜜を垂らしたように甘く蕩ける。

「もしかして、ギスランがいなくなってから、きちんと食べていらっしゃらない?」
「うるさい!」
「どうして? カルディア姫にはこの手があるでしょう?」

 ぞわりとするほどゆっくり手をなぞられる。
 一本一本、検分するような細やかさで、爪の先まで指を這わせられた。
 指と指の間にギスランの指が入り込み、力強く手繰り寄せられる。

「ギスランのこの手でなければ、満足に食事も出来ない?」

 ギスランの瞳には、興奮が水に混じった油のように浮かび上がった。
 口角が、ゆっくりとほころぶ。私を苛む微笑だった。

「ほら、きちんと声に出さねば。ギスランの手がなければ、生きていけないと」
「私に言えと?」
「真実ならば、仕方ないでしょう?」

 誰が言うものか。
 だが、ギスランは、口を閉ざす私の唇に触れると、むりやり指をねじ込んできた。
 ギスランの爪が私の口内を引っ掻き回す。舌で押し返しても、やすやすとは出て行ってくれなかった。
 どういうことだ、これは!
 脳内が警鐘を鳴らしている。やばい。これは、やばいぞ。
 手足を強引に動かして、ギスランから離れる。
 ギスランは、名残惜しそうに唾液で汚れた指を見つめ、そのまま舐めた。
 ギスランの赤い舌が、白い指を這う。顔が真っ赤になるほど淫靡な光景だった。
 卒倒するかと思った。慌てて、視線を逸らす。落ち着け、ギスランに良いように振り回されているだけだ。

「ギスラン、お前ね! 不埒すぎるのではないの?」
「ギスランがいないと生きていけない、でしょう?」
「誰が言うものですか! お前なんかいなくても、私は生活できるのだから」
「……私は、カルディア姫がいないと生活できません」

 なんだ、その捨てられた子犬のような目は。
 哀切な表情をしても無駄だ。誰が言うか、そんな台詞。だいたい、だんだんと話が大きくなっているじゃないか。

「カルディア姫。そう怖がらず」
「誰が怖がっているですって?」
「貴女様が。私のことを好きというのが、そんなに口にしにくいこと?」
「誰がお前を好きだって?」

 思い違いも甚だしい。
 確かに、ギスランには醜悪な執着をしている。だが、それは決して好意ではない。
 その、はずだ。

「お好きでしょう、ギスランのことが」

 赤く濁っている瞳が、仄暗い光を溜め込んで淀んでいた。私は狼狽えた。瞳のなかに、老衰せんばかりの女を見つけたからだ。

「貴女様は、憔悴しきっている。肉が減り、隈もひどい。それはなぜか? 私がいなかったからです」
「馬鹿なことを!」
「そろそろお認めになられてはいかがです?  貴女様は、もうすでにギスランがいないとまともに暮らせないのです。私のことが好きだから」
「戯れを口走るその唇を縫い付けるわ! 糸と針を持ってきなさい」
「だが、真実は揺らがない」

 一歩、下がった。
 頭がぐらぐらする。酒を飲みすぎたような酩酊感に襲われていた。ギスランが一歩、踏み込んだ。足先から地面が崩れ落ちていく錯覚に眉根を顰める。

「ギスラン、近付かないで」
「駄目」

 額と額が重なった。じんわりとギスランの体温が体に入り込んでくる。吐息が、顔の皮膚を擽る。
 逃げる腰を掴んで、ギスランはすうっと目を細め、整った鼻を蠢かせた。

「リスト様の臭いがする」

 耳朶の裏を指でなぞられ、ゆっくりと顎の輪郭まで落ちていく。

「頼られたのか、リスト様を?」
「だとしたら、どうだというのよ」
「……気分がいい。リスト様とてカルディア姫を慰められなかったのだから」

 優しい声。優しい愛撫。
 なのに、ギスランの瞳には、牙を光らせた獣がいた。今にも飛びかかってきそうだった。

「認められないならば、もっと苦しめばいい。私は、妥協するつもりはありません。貴女様がぼろぼろになっても、請われなければ与えるつもりはない。ーー私とて、辛いのですよ? はやく、口にして。私を欲しがって」

 ギスランは強引に私の唇に手をのせると、その手の上から唇を押し付けた。
 すぐに顔が離れていく。体が放り出された。倒れ込みそうになるのをなんとか堪える。

「素直な貴女様にならば口付けて差しあげる」

 ギスランから、逃げた。頭がぐちゃぐちゃだ。なにも考えられなかった。
 ギスランの楽しげな声が背中に浴びせかけられる。

「夜会のお供は私が。素直な貴女様をエスコートしたいものだ」



 気がついたら、自分の部屋に帰ってきていた。あんなに恐れていた自室には赤薔薇の花束の山が出来ていた。贈り主はギスラン・ロイスターだ。防腐加工がされているのか、衰えない美しさが凛然とそこにあった。
 ぬいぐるみを抱き締めて、使用人を呼びつける。サラザーヌ公爵令嬢の夜会がある。食事をしなければ。
 煮豆のスープ。羊肉のロティ。鮭とチーズのカルパッチョ。ほどよく焼けたパン。トマトソースのパスタ。使用人が運んできたものはどれも美味しそうだった。
 だが、口に運んでも、口が開かない。使用人に毒味をするように頼んで、食べてもらっても同じだった。口が動かない。
 食欲はあるのに、食べられない。
 全て、下げさせた。ギスランがいないと食事もままならないのか。
 眩暈がした。どこでなにを間違えたのだろう。
 夕刻、ギスランから贈り物が届いた。真っ赤な薔薇のようなドレス。サラザーヌ公爵令嬢と対の色だ。
 どういうつもりで、ギスランはこのドレスを贈ってきたのだろうか。ドレスを纏い、髪を使用人に整えさせる。髪にはギスランが贈った真っ赤な薔薇が髪飾りとしてさされた。
 入念に化粧を施され、爪を綺麗に磨かれる。
 手を見て、会えなかったハルのことを思い出した。ごつごつした指の感覚。繋いだ手のことを思うと幸せになる。

 ーー見たけど、今はいかないほうがいいんじゃない? お貴族様といるから。

 イルの言葉が、幸福感を切り刻む。お貴族様は私じゃない。慰められているのは私ではない。お貴族様。それはどんな女なのか。
 サラザーヌ公爵令嬢と同じような女だろうか。周りに人を侍らせ、もっともっとと他人のものを欲張る?
 何かが恐ろしい。でも、その恐ろしい何かがわからなかった。形のない化物が私の首を締め付けている。退治方法はどの本を探せば見つかるだろうか。
 使用人に促され、自室を出る。
 夜会の時間が近付いてくる。
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