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第36話『愛を欲する獣』
しおりを挟む「そもそも、よくそんな扱いに困るやつを受け入れましたね。入学させなければそんな気苦労しなくて済むのに」
別に大学受験のようにテストの点数だけで合否を判定するわけではないのだから、事前に不合格にすることもできただろうに。
「そうできればどれほど平和だっただろうな。……私が学園の理事の娘であることは知っているな?」
「ええ、一応」
「私の父親と彼女の父親は旧知の間柄。頼みこまれて仕方なかったらしい。単純な話だろう?」
『いろいろなところにいい顔をしなくてはならないから窮屈であるとも言えるがな』
以前、権力者であるうえで伴ってくる弊害を彼女はこう語っていた。
その言葉を権力者でもないのにこんな形で実感することになろうとは。
「引き受けたはいいが、学校の下駄箱に猫の死体を詰め込んだり学年主席の小鳥遊由海を精神的に追い込み不登校にしたりしたときにはさすがに父も頭を悩ませていたよ」
「……やっぱり、学校側は犯人が誰かを把握していたんですね」
「まあ、彼女の過去に起こした事件と状況が酷似していたからな。八重樫の前科を知っていれば誰もが真っ先に疑いの矛先を向けるだろう」
もはや包み隠そうともせずあっさり裏事情を暴露してくる。
全てが終わった今、煙に巻く必要はないということか。
それとも中途半端に事情を知る俺を不安視し、放置するくらいならいっそ完全に引き込もうという算段か。
どちらにしても黒い。どす黒い。
「だが学校側は見て見ぬふりをして目をつぶらざるを得なかった。八重樫は表の顔は大人しい優等生だからな。それに明らかな証拠もない以上、疑わしいというだけでは裁くことも出来ん。下手を打てば八重樫父の怒りを買いかねなかったしな」
「大人の事情ってやつですか」
「そんな目で見てくれるな。私とて歯がゆい思いをしていたのだ。友人の妹が苦しい目にあっているのにくだらない都合で事実を知りながら手を下せない状況を」
「友人の妹?」
「小鳥遊由海には姉がいてね。私は姉のほうと知り合いなんだ。彼女はこの学校よりもさらに難関の私立女子高に通っている。いけ好かない天才肌の女だ」
あいつ、姉がいたのか……。
というか、いけ好かないって。友達じゃねえのかよ。
それに乙坂先輩がこんなあからさまな言い方をするのも意外だった。
「君は小鳥遊由海の隣に住んでいるのだったな」
「ええ、そうですけど」
無論、乙坂先輩にそのことを話した覚えはない。
だが知っていても驚かなかった。
もうこの人はなんだって知っていてもおかしくない気がしていたから。
「君の目から見て、小鳥遊由海はどんな人間だ?」
「人見知りで、卑屈で。被害妄想がすごいやつ」
突然の横道に逸れた質問に戸惑いつつも俺は簡潔に答える。
……だが慣れてくると途端に違和感のない図々しさを発揮してくる不思議なやつ。
そんな由海と関わることで知った部分はあえて口にしなかった。
「そうだな。君の言う通り、彼女はあまり華やかな性格ではない。文武両道で人心掌握に長け、人望厚く気立てのいい姉は彼女に劣等感を抱かせ後ろ向きにさせるに十分な存在だった。小鳥遊由海は優秀な人間だ。だがそれも彼女の姉には遠く及ばん。小鳥遊由海は神童の如き姉と比べられ続けたことで必要以上に自己評価を低く捉えるようになってしまった。まあ彼女と比べられれば誰でも十把一絡げの凡夫へ貶められるものだが」
そんなにすげえ人なのか由海の姉貴は。乙坂先輩が手放しで褒めちぎることがその印象をより際立たせる。
「乙坂先輩でもそうなるんですか」
「当たり前だ。そもそも私はそんな大層な人間ではないよ。ただ野望は凡人の比ではないほどに壮大だがね」
乙坂先輩は計算高く、狡猾で。
安全圏から見下ろしながら人を操る。
冷静に状況を見定め感情や良心に惑わされないで求められる可能な限り最高の結果を残す。
何が彼女をここまで駆り立てているのか。
先輩が抱く野望は一体何なのか。
俺には想像もつかない。
だけど肌で感じて理解できたことが一つある。不用意に乙坂先輩に近づけば呑まれる。
自分が思惑通りに動かされていると知らぬまま、気がつけば彼女の手の内で踊るピエロに成り下がってしまう。
遅効性の毒のように巡るその支配力はゆっくりと身体を蝕み彼女の手駒として扱われる。
前にここへ来たとき棚橋がギリギリまで黙っていたことも頷ける。
彼女を知っていればわざわざ関わり合いになろうとはしないだろう。
あの時、棚橋は万が一俺が乙坂緒留を知っていた場合を想定して黙っていたのだ。
「私が怖いか?」
乙坂先輩の切れ長の目が俺に刃の切っ先を突きつけるような鋭さで視線を向ける。
「だが君も同じだろう?」
これはノイズだ。
『わたしとあなたは同じ側にいて正反対の位置にいる』
「君は私とよく似ているよ」
うるさく響く雑音だ。
『君は俺の知っている人によく似ているからね』
誰かに似ていると、そう言われたことがあった。
そしてその誰かとは。
……ならば棚橋は俺の道化を見抜いていたというのだろうか。
棚橋の目には俺が乙坂先輩と同等の化け物に映っていたというのか。
「ははっ、俺と先輩が似ているって、そんなわけないでしょう?」
曖昧に笑う。
心をひた隠すようにして。
しかし、乙坂先輩はそんな俺を逆に吸い込まれてしまいそうなほどさめざめとした瞳で見据え言うのだ。
「……彼女は、八重樫は知っていた。自分はただ愛を語り合うだけでは何も満たされないと。自分が愛を実感できない無色な心しか持ち合わせていない周囲とずれた人間であると。やがて成長していくにつれ、彼女はそのことに焦りを感じるようになった」
そして愛を求め、感情を渇望した。
「これだけのことをやらかしていながら、八重樫は殺戮愛好者ではない。殺傷自体にはさして興味はない。それは君もわかるだろう?」
「そうっすね……」
八重樫とのやり取りのなかで俺はあいつの真に望むものを理解している。
「彼女が繰り返し殺意と狂気を振りかざすのは自分の中に人間らしさがあると信じてそれを掘り出そうとしているからだ。言わば自傷行為の置き換えだ」
求めて求めて。
苦しめないことに苦しむという矛盾。
「殺戮を行い続ければ次こそは心に痛みを覚えるのではないかと期待し縋り、過ちを犯し続ける。憐れだと思わないか? 彼女の行いは種のない鉢植えに水をやり続けているのと同じ。進歩することなく足踏みを延々繰り返し空転し続ける。あの女は論理的に物を考えず、ただ求めるがまま愛を欲する獣だ」
愛を欲する獣。言い得て妙だ。
ひたすら生き物を殺すことで心が揺れ動くか知ろうとし、自分の健常さを証明するために愛を叫んで殺意を振るうパラドックスに嵌まったモンスター。
「八重樫のような、愚者の作り出した定義に翻弄された道化は惨めなものだ」
呆れ果て、嘲笑することもできないほどに八重樫を扱き下ろす乙坂先輩。だがその態度は自分の行く末が八重樫のようにならないための戒めに見えた。
「小鳥遊君、君はどうだ?」
「……俺?」
意味がわからずに訊き返す。
「いい加減、私や彼女の考えに同調しながら自分だけは違うなどという自惚れた意識は捨てたまえよ」
「……なっ」
羞恥に顔が熱くなる。
「あえて言おう。君も私も、彼女も同じ人間失格者だ」
辛辣な言葉が投げかけられ俺は動揺する。
「俺は……」
「君は今日ここへ何をしに来たんだ? 事件の真相を聞きに来た。それだけか? 本当は私という人間を見極めに来たんじゃないのか。私が自分と同じなのか。孤独を分かち合うに相応しい人間であるのか」
俺は黙って聞く。静かに耳を傾ける。
「君が今回のことで私に不快感を抱く理由は人道的に反しているかいないかというような抽象的な部分にはない。自分の嫌な部分を見ているような気がするから気に食わない。ただそれだけのことだ」
俺が感じた嫌悪は同族に対するやっかみ。そうなのか?
「君も道化となるのか? あるいはなっているのか」
俺は何も答えない。口に出せる言葉がない。
「……ふん。君がどんな道を選択しようとも、まあ構わんさ」
乙坂先輩はつまらなそうにそう言い、コップを口に運ぶ。
「だが、私は道化にはならん。私が被るのは修羅の仮面だけだ」
彼女の胸の内にある一本筋の通った強固な意志が言霊のように滲み、俺に響いてくる。
「私には目指すべき頂がある。そこへ至る覇道を突き進むためならばどんな荷でも放り捨てよう。あらゆる枷を脱ぎ捨てた裸の猿にも成り下がろう」
目的のためなら修羅になることもいとわない強靭な心。
八重樫にもあって、先輩にもあるが俺にはないもの。
やはり俺はこの人や八重樫とは違う。
「馴れ合いを必要としないなら。孤独であることを恐れとしないのなら。そのまま突き進めばいい。躊躇うことはない。この世に蔓延って常識を謳う大半は無能な愚か者ばかりだ。そんな連中の価値観をなぜ気にすることがあるだろうか? 彼らの評価がいかに自分の利益になり得るのか考えてみるといい」
「…………」
「君は私と同じ、切り捨てる選択ができる人間だ。できれば親しくありたいものだね」
「俺なんかでは恐れ多いので、ちょっとそれは無理ですね」
だって俺は選び捨てているんじゃない。
諦めているだけなのだから。
あなたのように突き抜けた高尚さも美学もない、ただの堕落者なのだ。
あんたと違って高い位置から見下ろしているわけじゃない。
ただ、遠いだけなんだ。
近づくことができなくて、手の届かない場所から眺めているだけの臆病者なんだ。
距離の概算は同じでも、俺だって高みに君臨しているあんたを見上げるだけの一愚者に過ぎない。
あんたの目の届く位置からは遠く離れているせいで見えていないかもしれないけれど。
俺はあんたが支配する図式を外からきちんと見て知っている。
誰が上にいて、誰を見下ろしていて、誰と誰が近しくあるのか。
誰からも見えない場所でひっそりと見て知っている。
当事者になる気はないのに、やたらと周りを嗅ぎ取ろうとするハイエナのような自分が時々嫌になる。
ラインを跨いでもっと向こうに踏み込んでいきたくなる時もある。
外側と内側とを自由に行き来できる器用さを欲したくなる。
……そんな都合のよいことができる人間なんて、いるとは思えないけれど。
痛みだけを避け、甘露だけを味わって生きていくなんて、仮初めの平等主義が許さない。
「……フッ、まあ今日はそういう返事でもいいだろう」
俺の返答に乙坂先輩は余裕のある表情で言った。
「ならば小鳥遊君」
「なんですか」
「これからも妹とは仲良くしてやって欲しい」
「妹?」
何の話をしてんだか。
「君の級友である乙坂イツキは私の妹だが。知らなかったか?」
……ええ、知らなかったです。はい。
思わぬ事実を想定外のお土産として受け賜った俺は生徒会室を後にする。
閑散とした廊下を静かに歩きながら俺は煩悶を繰り返す。
俺はあんた達とは違う。
生まれたその時から怪物だったあんたらとは。
ずっとずっと昔の話だが。
俺には確かにあったのだ。
普通に人を好きになって普通に悩み、悲しむことを悲しんで、孤独を孤独だと感じられていた、そんな時が。
俺は純正じゃない偽物だ。
どちらにも入れない半端者。
人間らしい価値観を否定しながら同類への共感もおぞましさに上塗りされて素直に受け止めきれない。
余計な自意識を手放せないでいる宙ぶらりんな存在。
足を踏みしめながらふと思う。俺はどこへ向かって行くのだろう。
どこへ進もうとしているのだろう。
「ま、別にいいか」
そう。別にどうだって構わない。
不安に押しつぶされないように、俺はそっとさえずった。
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