証なるもの

笹目いく子

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真実

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「……参りましょう」

 側に戻ってきた玄蕃が、固い声で言った。
 人気のない前庭を抜け、車寄せ玄関に降り立った紀堂は、薄暗い御殿の空気にそっと身震いした。
 蝉の声も、鳥の声さえも聞こえぬ重い沈黙が、広大な御殿を支配しているかのようだった。
 現れた家士が先に立ち、紀堂たちを御殿の奥へと先導していく。
 いくつもの廊下を抜け、豪華な襖の間を歩き、渡り廊下を通り、さらに奥へと歩き続ける。
 やがて畳廊下に沿って、一際豪壮な襖が目を引く一角に至った。
 控えの間らしき小部屋に入ると、

「そなたたちは、ここで待て」

 と家士が無表情に告げた。
 玄蕃らが張り詰めた視線を投げてくる。
 紀堂は腹を据えて視線を返し、落ち着いた声で言った。

「……ご苦労だった。ここまででいい」
「一之間はすぐ近く。何かありましたらすぐに駆けつけますので、ご心配は無用にございます」

 不敵な色を目に浮かべ、玄蕃が家士に聞こえるように答えた。
 壮年の家士は動じる気配もなく、紀堂を誘った。

 促されるまま襖の内へと足を踏み入れると、上段の間に続く、一之間が眼前に広がった。
 閉めきられた二十畳ほどの薄暗い広間に、点々と明かりが灯されていた。一段上がった上段之間には、華麗な欄間と床の間の滝と老松が明かりに浮かび上がり、威圧感を持って見るものに迫ってくる。
 上段之間の前に紀堂が座すと、おもむろに上段之間の襖がかすかな音を立てて開いた。
 紀堂はわずかに上体を傾けて、衣が畳を擦る囁くような音を聞いた。
 衣擦れの音と共に目の前に坐した人物が、無言で紀堂を見下ろすのを感じる。

「ようやくお目にかかれましたな、広彬様」

 意外なほどに柔和な、よく響く声が耳を打った。

「御自らお運びを賜るとは、欣喜雀躍きんきじゃくやくの心地。恐悦至極に存じ上げる」

 紀堂はすっと顔を上げ、真正面から男を見た。
 総髪の老人が、おお、と嘆息し、紀堂の顔に見惚れる。
 六十八のはずであるが、老いを感じさせなかった。体格がよく、上背があるのがうかがえる。生気に満ちた双眸は鋭い知性を浮かべ、高い鼻と引き締まった口元は意志の強さを感じさせる。
 かつて名君と呼ばれた島津斉宣の、威風を思わせる佇まいであった。

「もったいなきお言葉にございまする。よもや、父に続きそれがしまでもご老公様に拝謁仕る機会がありましょうとは、夢にも思いませず」

 紀堂は表情を動かすこともなく、冷やかに応じた。

「そこで、父はどうやらご老公様のお怒りを買いましたようで……」
「いかにも、いかにも。そのようなことがございました」

 思い出話に興じるように、嬉しげに男が笑った。左右に置かれた明かりを映す双眸が、朗らかに煌めいている。己が千川家に何をしたのかなぞ、忘れているかのような邪気のなさ。蟻を踏み潰したか、蝿を叩き殺したかという程度の軽々しさ。これは王者の傲慢だ。石翁などとは比べ物にならぬ途方もない不遜さに、紀堂は危うく自制心を失いそうになった。

「伊予守どのは、強情であった。あれの在り処を隠し通し、引き渡すことにも頑として応じなかった。挙句、仕方なく姉上にご相談したら、肥後守に相談を持ちかけてしまわれてな。火盗改なぞを使う羽目になった。大塩めの密書を隠し持つなど、重罪でありますからな」

 子供に道理を説くように言う。紀堂は両目を強張らせ、腸を焦がす怒りに耐えた。
 大御台に相談を持ちかければ、将軍家の治世を揺るがす密書の存在が危険視されるのは当然であろう。密かに千川家ごと滅ぼせとの命が下るのは予想がつくはずだった。
 それを……
 なんという狡猾さ。こうなることをわかっていて、姉の耳元で密書について囁いたのだ。

「おや、お怒りであられますのか」

 初めて覚ったように、男が目を瞬かせた。
 奥歯が軋むほど食い縛る紀堂の姿に、男の聡明さと狂気を浮かべた目がかすかに笑った。

「お怒りになる必要などございませぬ。広彬様。私はあなた様を傷つけようなどとは致しておりませぬ。のう、相違ありますまい? あなた様を姉上が狙ったことこそございましても、私はそのようなこと、夢にも望んでおりませなんだ」

 怒りが視界を赤く染めた。

「我が父を殺し、弟を襲い家門を潰すは、私の魂を殺すに等しい所業ぞ!」

 鋭く放った声が広間に響き渡り、薄暗い静寂に吸い取られて消えていく。
 ぽかんとして男がこちらを見詰める。やがて、がっしりとした肩がふるえだした。
 凝然と見上げる紀堂の前で、男は心底朗らかに笑っていた。
 獰猛な怒りが、いつしか得体の知れぬ寒気へと変わっている。この男は、何だ。何を考えているのか、理解できない。これほどまでに捉えられぬ相手に出会ったことは、これまでの人生には一度としてなかった。

「広彬様、いやいや……どうもおかしいと思いましたのです。いや、どうぞお怒り下さいますな」

 涙を拭いながら、間欠泉のような笑いに肩を引きつらせる。

「……なるほど。あなた様は承知しておられぬのだな。だから千川をお名乗りであるのか……」
「何を……に、ございますか」

 紀堂は思わず、引きずられるように訊ねていた。

「そこもとが何故に、そうも周到に隠されておられたのか。ご承知でない」
「──いえ、理由は承知しております。私は庶子でございますので」
「庶子だから何であろうか。お家に家督争いがあったわけでもない。いやいや、存じておりますぞ。石翁がご母堂に目をつけて付け狙っていたために、密かにご母堂を隠したのでありましたな」
「……左様にございます」

 歯切れ悪く紀堂は呟いた。何が言いたい。男の考えていることが読めなかった。

「これは、何と申したものか」

 男がふっと破顔した。

「そこもとは、よほど伊予守どのを盲信しておられるのかな。いやそれとも、市井にてお育ちになられたからか。どちらにしても、罪作りなことを」

 哀れみの混じった愉快そうな目に、不快感がこみ上げた。

「仰せの意味が、わかりかねまする……」
「広彬様」

 身を乗り出して、男がやさしいと思われるほどの声音で囁いた。

「よく……思料しなされ。ご母堂がそこもとを身籠もられた時、ご母堂は寄合の近藤家におられたのでありましたな?」
「左様にございます」
「それで、伊予守どのはどちらにおられた? まさか近藤家にご滞在であったはずもなかろう」

 突然、ざわりと胸が騒いだ。

「そこもとは、千川を名乗っておられるのか」と驚いたようにいう石翁の顔が、唐突に目の前に浮かんだ。
「伊予守どのは、そのようにお考えであったのだのう」という憐れむような声が響く。
「何をお聞きになられましたか」と引きつった顔で問うてきた、境家老の顔がそれに重なる。

 冷たい手に下腹を撫でられたように体が縮まる。凝然と両目を見開いた紀堂に、男はゆっくりと頷いた。
 途端、熱いものに触れたかのように仰け反って、紀堂は息を止めた。
 何か言おうと試みて、舌と喉を強張らせたまま動けなかった。

「──その通りなのですよ、広彬様」

 紀堂の頭の中を巡る声を聞いたかのように男が囁く。

「おかしいではないか。近藤家にご滞在であったご母堂と、一番町にお住まいであったお父君が、どうしてそこもとを成せるのであろうか。そもそも、ご高家でおられるお父君が、かように恥を知らぬ行いをなさるであろうか……?」

 声にならぬ声が頭の中に反響していた。
 視界が白く明滅し、ぐらりと傾ぐ。
 少年だった紀堂を見詰めて涙ぐんでいる父。笛を与えてくれた父。龍笛の調べ。
 誇り高いお方だった。
 婚儀の前に母との間に子を設けるようなことを、なさるはずがない。

──では、父は……

 蒼白になって男を見上げる。呆然とする紀堂を品定めするように見詰め、男は静かに嘆息した。

「私はあなた様のお父君様をよう存じ上げておりましてな。ここだけの話、ご側室とご子女の多きことといったら、我らの頭痛の種であるのです。……まぁ、私も滅多なことは申せぬ立場でございますが」

 十名を越える側室を抱える斉宣が、はにかみながら軽やかに笑った。

「──お会いになりたくはありませぬか。西丸に密かにお招きいたしましょうか。なに、私の手引きがあれば、そのくらいのことは造作もございませぬ」

 安心させるように、老公は大きく頷いた。

「ですから、お嘆きになられることなぞ何一つございませぬのです。あなた様のお父上様は、亡くなってなどおられませぬ。ですから、つい笑いがこみ上げたのですよ。あまりにも健気でおられるもので……」

 哀れみに満ちた眼差しをこちらに向けて、男が肩を波打たせて笑う。
 紀堂は畳についた手で体を支えながら、瘧のようにふるえていた。
 天地が逆さになったかの如く、ぐるりと目の前が回る。
 心ノ臓が狂ったように暴れている。粘ついた汗が全身を被い、目玉も、喉も、唇も、からからに乾いている。
 胃の腑が裏返りそうな吐き気が襲いかかった。

……嘘だ。

 心が、断末魔のような悲鳴を上げていた。
 嘘だ。こんな、馬鹿げたことがあるものか。
 俺の父は、ただ一人しかおらぬ。やさしい眼差しを下さった、弟と血を分けた、ただ一人しかおらぬはずだ。
 嘘だ。嘘だ。そうでなければ、つまり、俺は。

「ご安堵なさいませ。あなた様は毛ほども傷ついてなどおられませぬ。千川とは、初めから、何の縁もございませぬのでな」 

 愉しげな、慰撫するような声が、抗おうとする意志の息の根を止めた。
 老公の声が耳の中に谺する。
 何の縁も、ない。何も、ない。
 がらんとした、黒く冷たく深い穴が、足元にぽっかりと口を開いていた。
 音も光も飲み込むようなその穴に、どこまでも落ちるように錯覚をする。

……西丸の主が、我が父か。
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