証なるもの

笹目いく子

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高輪屋敷

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 公儀目付が急行したことで、戦いは終息した。
 ことは柳井対馬守の乱心による凶行として処理されるだろう、と屋敷の奥で休んでいた紀堂に杉本が知らせにきた。

「柳井が討ち取られてございますから……死人に口なしということにございましょう。もっとも、生きておったとしても、やはり乱心として片付けられたに相違ありませぬが」

 自身も刀傷を複数負った公用人は、口惜しげにそう言った。
 林肥後守、島津斉宣、さらには大御台がかかわっていることを公になどできない。だから、すべては乱心による独断であったとして、柳井が切り捨てられることになるのだろう。

「しかし、大御台様がこの上広衛様を害そうとなさることはなかろうと存じます。越前守様が公儀の各所を押さえておられ、動かせる手勢はもはやございませぬ。薩摩藩主の斉興公は老公の狂気にふるえ上がり、隠密衆を引き上げ手を引くゆえ何卒穏便に収められたいと、越前守様に申し入れて参られたそうにございます。この襲撃が、広衛様を亡き者とする最後の機会でございました。ここを乗り切ったことは、まことに僥倖にございました」

 疲労に窶れた様子ながらも、両目に安堵を浮かべて杉本が言った。

「それでは」と紀堂は身を乗り出した。

「千川家の再興は叶いましょうか。大罪人の汚名を撤回していただくことは……」

 途端、公用人の表情が曇ったのを見て、紀堂は愕然とした。できないというのか。ここまでしても、まだ足りないというのか。

「この上まだ、広衛は隠されておらねばならぬのですか。大和守様や越前守様のお力にて千川家を再興し、広衛に家督を継がせることは叶いませぬのでしょうか……?」

 紀堂が訴えると、杉本は眉の間に深い皺を刻んで唸った。

「まことに口惜しゅうございますが……直接手勢を動かせぬとはいえ、大御台様や島津のご老公の力にはまだ抗えませぬ。千川家への処分を撤回し、お家を再興することは、西丸と大奥の権勢が衰えぬ間は難しかろうと存じまする」

 紀堂は膝を両手で掴みながら、口惜しさに身をふるわせていた。
 水野老中や、屋敷を蹂躙され、家臣を殺された当の堀大和守も、沈黙を守っている。
 広衛がここに匿われていることは幕閣に知れ渡っているであろうが、救うことも、さりとて処罰するわけにもいかない。広衛は火中の栗だ。「存在しない者」として、大和守の掌中に匿われて生きる他に、この世のどこにも居場所はなかった。
 広衛の前にあるのは、この未来だけなのだ。

──これでは、駄目だ。

 屋敷の一室で畳に転がり、一刻ほど泥のように眠った紀堂は、ふっと目覚めながら頭の中で呟いた。
 すっかり日が落ちて、障子が青く染まっている。
 広衛と正馬が医者に解毒の薬を施され、眠り込んだのを確認すると、紀堂も手近な小部屋を借りて休ませてもらっていた。
 荒らされずに済んだ座敷とはいえ、布団もなしに寝かすのは、と杉本らが恐懼したが、重傷を負って生死の境を彷徨うけが人が大勢おり、皆手当てに追われていた。布団で眠りたいなどと思うわけもない。
 紀堂の脇腹の傷は幸い浅く、数針縫うだけで済んだ。手裏剣の傷も痛みはひどいが急所を逸れている。他の浅い傷の手当ても済ませ、水を浴びて長着の着替えを借りたら、とにかく転がって休みたかった。
 眠り込む前は屋敷はまだ騒然としていたが、今はずいぶんと静まり返り、鈴虫の鳴き声が遠くから聞こえてくるばかりだ。
 これでは、駄目なのだ。
 紀堂は水底のような藍色に翳る格天井を眺めながら、胸の内で呟いた。これでは、広衛を自由の身にしてやれない。
 たったの十六だというのに、これから先の人生を、隠されたまま、存在しない者として生きていけというのか。
 命を守るだけでは駄目なのだ。
 冬の嵐に逆巻く波が目に浮かぶ。
 己と同じ思いを、広衛にさせることなどできない。

「……広彬様、お目覚めで」

 襖の外に玄蕃の声を聞いた。

「ああ」と返事をしてようよう身を起こした。襖が開き、揺らめく手燭の明かりと共に、玄蕃が音も立てずに滑り込んできた。後ろには滝本の姿もある。二人とも傷の手当てを受け、小袖袴も着替えていた。あれだけすさまじい闘いを生き延びたばかりだというのに、すっかり元の身ごなしに戻っているのを見て、内心舌を巻いた。さすが隠密衆だけのことはある。紀堂とはまるで鍛え方が違うのだ。
 
「広衛と、先生は? 小島どのらは……」

 畳に座り直して訊ねると、玄蕃と滝本も向き合って坐した。滝本は握り飯やみそ汁の椀を載せた折敷を手に持っていて、紀堂の膝の前に滑らせてきた。

「お二方ともまだお休みになっておられますが、大事はございませぬ。あれは即効性の猛毒でして……解毒を施しても少しの間痺れが残りましょう。野月どのが即座に傷を肉ごと噛み千切ったので、広衛様のお命が無事であったのです。野月どのの方が毒に多く触れたはずですが、あのご仁はまったくお強いですな。私であればあっという間に死んでいるか、昏睡に陥っているところでしょう」

 滅多に表情を動かさぬ男の唇に、感嘆したような笑みが浮かんでいる。

「小島どのや水沢どのらも手当てを受けて休んでおられます。織部どのが背中を深く斬られて出血も重かったそうですが、お命に別状はないと」

 紀堂は目を和ませ頷いた。途端、猛烈に腹が減ってきた。遠慮なく握り飯を手にして頬張った。塩気の効いた冷や飯がひどく美味い。滝本が甲斐甲斐しく土瓶から茶を淹れてくれたのを受け取って、紀堂はふと手を止めた。

「……そうだ。滝本どのといったか。先ほどは助かった。腹を斬られた時にはもう駄目かと思った。礼を申し上げる」
「いえ、大したことは何も……」

 滝本がぎくりとしたように頬を固め、

「過日は……それがしをお助けいただきました」

 とぎこちなく言った。
 先日、楽其楽園の外で襲撃を受けた時のことか。玄蕃といい滝本といい、義理堅い隠密がいたものだと少し愉快な気分になった。

「──玄蕃、相談がある」

 茶を啜った紀堂が低く呼ぶと、玄蕃が静かに体を傾けた。

「……島津のご老公に会わねばならない。案内を頼めるか」

 玄蕃の顔がすっと張り詰めた。

「千川から手を引かせなくては。交渉するのなら、老公も手勢を多く失った今しかない。お前、俺を連れていくつもりであったのだろう」
「広彬様、しかし……」

 紀堂は静かに二人の顔を見た。

「このままでは広衛は日の下を歩くことも叶わぬ。お永様にまみえることもできず、家門の再興もままならぬだろう。ご老公が俺に何を望んでおられるのか、はっきりさせねばならん。けりをつけねばならぬのだ」

 決着をつけなくては、広衛と広衛の母、千川家旧臣たちの人生を取り戻すことはできない。
 紀堂を送り出してくれた有里と藤五郎に、合わせる顔もない。
 二人は今、この瞬間も恐怖と戦っているはずだ。紀堂を失うかもしれないと、誰にも打ち明けられぬ怖れを抱え、じっと耐えているはずだ。
 決着をつける以外に、二人の恐怖を終わらせる方法はない。  
 何も知らずにいる大鳥屋の奉公人たちの前に店主として戻るためにも、今できる誠意を尽くすのだ。それがせめてもの、店主としての責任の取り方だろう。

「……あなた様をお連れしようとしたのは、主の心がそれで収まるのであればと、思料致しましたからなのです。ことがこのような事態に至る前に、何としてでも我が殿の暴挙をお止め申し上げたかった。……しかし、遅きに失しましてございます」

 玄蕃が淡々とした、しかし奥底に悲しみを沈ませた声で言う。

「それに……今は、あなた様を主に差し出すべきだとは思えませぬ。そう……したくもございませぬ」

 手燭の小さな橙色の明かりが、妄執の晴れた滑らかな目に写っている。鋼のような意志をもって、執拗に紀堂を付け狙っていたはずの忍だった。
 
「俺は自ら赴くのだ。それに、お前たちがついておれば、無事に屋敷から戻れるはずだ。……違うか」

 紀堂は二人を静かに見詰めた。

「まだ、救える。まだ……できることはある。どうか力を貸してくれぬか」

 玄蕃はしばし滝本と共に沈黙し、やがてぐっと顎に力を入れた。

「……承知致しました。お連れ申し上げましょう。あなた様は、我らが命に賭けてもお守り致します」
 
 蝋燭のか弱い明かりに浮かび上がる二人の忍に、紀堂はゆっくりと頷いた。

*** 

 島津家の高輪屋敷まで、半時ほどの道程を駕篭で向かった。
 危険だと引き止めた杉本には、

「戦いに参るのではございませぬ。交渉をしに赴くのです。奥田らが守りについてくれますから、ご心配には及びませぬ。弟を、何卒よろしくお願い申し上げます」

 と深く頭を下げた。公用人はしばしの間言葉に詰まった様子で逡巡していたが、やがて、夜半までに戻らなければ高輪屋敷へ救出に向かう、とふるえる声で言った。
 まだ眠り込んでいる小島らや、青白い顔で横たわった広衛や正馬の寝顔を少しだけ見て、屋敷を出た。

 深手ではないとはいえ満身創痍の上、重い疲労は少し眠った程度ではろくに回復していなかった。
 堀家が仕立ててくれた法仙寺駕籠に有難く身を委ねることにし、玄蕃、滝本、磐井が警護についた。
 江戸市中に戻り、日本橋から東海道を南へと下り、金杉橋を渡って高輪の大木戸を過ぎた。
 街道は行き交う人で賑わい、これから品川宿の歓楽街へ繰り出そうとしているらしい町人や侍の姿も目についた。
 石垣で固めた堤の上を、高輪海岸を左手に見ながら進む。高輪屋敷は、そこから程近い海岸線の山の手に位置している。
 芝浦の遠浅の海が青灰色に染まり、波頭がちらちらと白く揺れて見えた。東の水平線は、すでに藍色の空と見分けがつかなかった。
 お店者の客引きの声や、すれ違う人の笑い声に混じって聞こえてくる波の音に、紀堂はじっと耳を澄ましていた。

 高輪北町から南町へ至ると、町屋の先に武家屋敷の長大な白壁が見えてくる。薩摩島津家下屋敷、通称高輪屋敷である。高輪台地へ向かって傾斜する海沿いの斜面に、この高輪屋敷、柘榴坂を挟んで久留米藩有馬家下屋敷、さらに今治藩松平駿河守下屋敷などが続き、山の手に向かって諸藩の大名屋敷が広がっていた。 
 駕篭は町屋と高輪屋敷の間のゆるやかな坂を上り、やがて表門の前で止まった。
 豪壮な長屋門の門前は静まり返り、夕闇に辻番所の明かりが見えるばかりだった。
 玄蕃が鋭い緊張を背中に漲らせながら進み出て、潜戸越しに門番を呼ぶ。
 すぐに潜戸が内へと開き、玄蕃が門内へ消えた。しばしの静寂の後、玄蕃が現れて紀堂に向かって小さく頷くのが見えた。
 と、門が重い音を立てて動き出した。
 底の知れない暗闇が、門の内側にぽっかりと口を開く様を、駕篭の内から身じろぎもせずに見詰めた。
 
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