証なるもの

笹目いく子

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隠密衆(一)

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「腕をもぎ取れ。頭だけ無事ならよい」

 八代の平たい声に背筋が凍った。無言の殺気が襲いかかり、左右に刃を向けて牽制しながら歯を食い縛る。不気味なほどに静かな気勢は、男たちが手練であることを教えるようだ。全身の神経がひりひりと緊張し、喉の奥で心ノ臓が激しく暴れる。幸い通路は狭く、四人が一斉に飛びかかるだけの余裕はない。そうはいっても、左右の二人を同時に相手にしなくてはならないだろう。抜き身で戦ったことなどない紀堂にはあまりにも荷が勝ちすぎるが、右か左に突破口を開く他になかった。腹を決めて丹田に力を込めると、男たちが膝をたわめ、飛びかかろうとする気配を見せた。

──途端、右手の二人が急に仰け反ってたたらを踏んだ。

 悲鳴を上げながら身悶えする裁着袴の二人の後方に、突如沸いて出たように走り寄ってくる羽織袴の侍が二人見える。新手か。何が起きているのか分からぬまま、上段から打ち落としてきた八代と無我夢中で斬り結んだ。
 重い刃を撥ね上げざま喉元を狙って踏み込んだが、しのぎで捌かれた。次の瞬間、八代の右足が跳ね上がる気配を感じた。後ろに飛ぶと同時に、男の爪先が唸りをあげて目の前をかすめていった。間髪入れずに鋭く胸元に飛び込み、袈裟がけに斬り下ろした。体を開いて躱した八代が、柄を握った拳を顎目がけて打ち込んでくる。身を捩って空を切らせた瞬間、すさまじい力で左腕を掴まれた。裁着袴の二人であろうか、剣戟の音と悲鳴が背後に聞こえるが、振り返る余裕などない。鋼のような目をした八代が、その腕目がけて打刀を振りかぶる。鎌で稲束でも刈ろうとするかのような躊躇いのなさにぞっとする。本当に頭さえ無事であればいいというつもりか。
 考える間もなく渾身の力で地を蹴り、体当たりを食らわせた。刃が男の脇腹を貫く嫌な感触が手に伝わり、耳の横で唸り声が上がる。飛び下がろうとした紀堂の左肩を、冷たいものが水平に薙いだ。体が傾ぐ。八代が血走った目を見開き、気合を発して脾腹目がけて刃を繰り出してきた。
 躱そうとして、背後に小屋の壁があることを察した。──逃げ場がない。
 白刃を凝視した一瞬、ほんの刹那の一瞬に、走り去る有里の後ろ姿が音もなく脳裏を過った。

 後悔が、ただ心に浮かんでいた。

 眼前を針のような光が鋭く過った。かと思うと、八代が弾かれたようにして顔を押さえ、きりもみしながら膝をついた。

「水野の犬め!」

 雄叫びを上げる八代の右目と首筋に、五寸ほどの長さの黒い棒のようなものが深々と刺さっているのを見た。

──棒手裏剣。

 打刀を八双に構えた羽織袴の男が視界を横切り、右目から血を溢れさせて悶絶する八代に襲いかかった。白い糸のような光が一閃する。目を潰された男の喉笛から鮮血が吹き上がり、小屋の壁一面を真紅に塗り替える。うめき声がぶつりと止んで、男が仰向けに転がった。八代を斬った男はさらにその背後にいたもう一人の侍に飛びかかり、気づいた時には真っ向から額を割っている。どっと侍が倒れこむと、細い路地に唐突な静けさが広がった。
 広小路のざわめきが、思い出したかのように静寂を埋めていく。
 血振りをして刀を納めた男は、

「ご店主、こちらへ」

 と短く声をかけてきた。細身の長身で、灰鼠色の小袖袴に羽織を纏い、二刀を帯びたごく目立たぬ出で立ちだが、引き締まった体躯と眼光の冷やかさが不穏なものを感じさせる。
 混乱に襲われながら正眼に構えた。両手に汗が吹き出し、短刀の刃が細かくふるえる。どうなっている。どうして助けた。こいつらは何だ。足元に八代ともう一人、少し離れたところに、裁着袴姿の二人の男が重なり合うようにして倒れ伏している。その首といわず背中といわず棒手裏剣が突き刺さり、赤黒い血がじくじくと着物に染みを作っていた。
 二人の首根には骨が露出するほどの刀傷がぱっくりと口を開き、首が半分落ちかけている。この一瞬の間に。人間離れした早業に怖気が走った。

「……我らは敵ではない。新手が来る。さぁ」

 男が鋭く促してくる。
 束の間の激しい逡巡の末、紀堂は小さく頷いた。迷っている余裕はないと状況が教えている。短刀を納めようとして、うっすら血で曇った刀身にぎくりとした。寒気をこらえて腰に戻すと、二人が即座に紀堂の前後に立った。と、八代の死骸をちらと見て息を飲んだ。懐からこぼれ落ちたのか、大鳥屋の包金が体の脇に転がっている。
 紀堂は咄嗟にそれをつかんで懐に入れた。むっと血が匂って胃の腑が強張る。顔を背けて立ち上がると、促されるまま長身の男の背を追い、広小路の床見世の間を小走りに縫っていった。
 背後で何かを喚く甲高い声を聞いた。通りすがりの者が死体を見つけたのかもしれない。

「……こちらへ」

 歓声と笑い声、悲鳴が混じり合う中を、幾度も道を折れては歩き続け、気づいた時には吉川町を抜け、神田川に面した柳原同朋町を歩いていた。
 二人は紀堂を導いて船着場に降り、そのまま一艘の屋根船に乗り込んだ。屋根船は板葺の屋根がついた小さな部屋がついていて、前後を板戸、両側を障子で閉めきることができる。けれども町人は障子を立てることが許されておらず、簾をおろすことしかできない。障子を閉てることができるのは武家だけの特権だった。二人はその部屋に素早く入って障子を閉て、船頭に船を出すよう命じた。
 すぐに船が川面に滑り出るのを感じる。
 背の高い男が身を屈めて障子を細く開き、岸をうかがいながら口を開いた。

「滝村、傷を診ろ」

 滝村と呼ばれた男が紀堂に向かって手を伸ばしてくる。ぎょっとして板戸に背中をつけると、

「ご店主、胸に傷を負っておられるようだ。手当てした方がよい」

 外を見たまま男が平静な声で言う。慌てて目をやれば、左胸のあたりの羽織が横に裂けていた。黒い羽織なので目立たないが、下の青灰色の着物がべっとりと血に濡れている。そういえば冷たいものが触れたように思ったが、斬られていたのか、と今更に血の気が引いた。興奮状態にあったせいで痛みすら感じていなかったらしい。急にじくじくとした痛みが襲ってきた。

「結構です……それよりも、何がどうなっているのかお教え下さいませんか」

 紀堂は羽織を脱ぐと、懐を探って手ぬぐいを取り出しながら二人を見た。ちらりと手ぬぐいを見ればすでに血を吸って半分汚れていたが、着物の下に入れて傷をぐっと押さえた。途端に脳天に突き抜けるような痛みが弾け、危うく奥歯を噛み締めて耐えた。
 長身の男は一瞬こちらへ視線を投げ、滝村という男に目配せして首をふった。

「私は薩摩島津家に仕える奥田玄蕃げんばと申す者。これは配下の滝村司。ご店主に危害を加えるつもりはないゆえ安心なされよ」

 奥田と名乗った男は障子の隙間を覗いたまま静かにいうと、大川に出てしばらくしたところでようやくこちらを向いた。 

「……いったい何が起きておるのでしょうか。何故手前が狙われねばならないのですか」 
「過日に、村上啓吾と申す者がご店主に接触したはず」

 紀堂は黙って男を見詰めた。

「あれは我らの仲間だ。千川広彬どのを探しておったところ、先ほどの一派に粛清されてしまった」
「粛清……」

 眉を寄せると、奥田は目で頷いたようだった。

「我らはお家の密旨を帯びて働く任にあり、千川広彬どのの殺害を命じられた。しかし、私は数名の配下と共に、それを阻止しようとお家から離れたのだ。故に、裏切り者として追われる立場にある」

 紀堂は怖気を覚えながら頬を固めた。

「私はさようなお方は存じあげません」

 奥田は感情のうかがえぬ目でこちらをじっと見ている。鎌倉にいた頃、野月家の正馬から薩摩には「山くぐり」と呼ばれる隠密衆がいると聞いたことがある。彼らがそうなのだろう、と寒気と共に察した。薩摩の隠密衆が自分を狙っている。なぜなのか、皆目見当がつかなかった。

「それはまことかな」

 奥田が平坦な声で問う。

「ご店主は千川家と長く親交があったと聞くが」
「……千川家には、広彬様とおっしゃるお方はおられません」
「庶子であられるというからな。さもあらぬ」
「そうはおっしゃいましても、お家の深いご事情など商人ごときが心得ておるわけもございませぬ」
「……ご店主は武家の出自だと聞く。元小田原大久保家のご家中であったとか……野月家の正馬どのといえば神道無念流の使い手だ。ご店主の兄上か。道理で刀筋がいいと思った」
「滅相もございません。それは父の代のことですし、町人となって長うございますから、すっかりなまっております」

 そこまで知っているのかと背筋が寒くなった。男は体温の感じられぬ、鼠色に見える瞳で、紀堂の一挙一動を見ているように思われた。
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