証なるもの

笹目いく子

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忍び寄る者(一)

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 鍛錬の後井戸端で汗を流し、身支度を整えた紀堂は、久しぶりに奉公人たちと朝餉を取ることにした。
 文月の一件が起きるまでは、小僧や女中らまで含めた奉公人一同と朝餉を取るのが習慣だった。しかし、憔悴しきっていた紀堂は半月近くまともに食事をしていなかったし、奉公人と言葉を交わすことさえ滅多にしなくなっていた。
 奉公人たちが、店主はどうしてしまったのかと不安に思っていることはよく承知している。だが、絶望と懊悩に胸を塞がれ、とても皆の前に姿を晒す気力が沸かなかったのだ。
 けれども、藤五郎と衝突したからではないが、これ以上店の者を案じさせるわけにはいかないと腹を括った。
 店主は店の顔。奉公人の拠り所なのだ。 
 主筋の母屋と廊下でつながった店の奥へ向かい、台所に続く座敷へ足を踏み入れた途端、部屋の中が静まり返る。二間を開け放った座敷には、すでに膳が並べられ、奉公人たちが座している。ひと月近く姿を見せなかった若店主がようやく朝餉の席に現れたのを見て、皆が息を飲んでこちらを見つめた。
 できるかぎり和やかな表情で、背筋を伸ばして皆の視線を受け止めた。

「──皆、おはよう」

 努めてやわらかな声で言った途端、

「おはようございます」

 と轟くような返事が返ってくる。 
 皆の視線を浴びながら上座の席に着くと、膳を見下ろした。納豆と茄子のみそ汁と、炊きたての飯が湯気を立てている。切干大根と油揚げの煮物の小鉢に、暑さを凌いでほしいというのか、生姜と紫蘇をたっぷり載せた冷や奴もある。つやつやした茄子ときゅうりの糠漬けも添えられている。「正直、勤勉、始末」を徹底する大鳥屋だが、奉公人の食事は疎かにしない。厳しく鍛えることはしても、労ることを怠るなと、代々の店主も義父も紀堂に戒めた。銀五百貫は店主の手柄ではなく、奉公人の働きの結果だ。それを決して忘れてはならぬのだ。

「旦那様、お加減はいかがでございますか。久しぶりに朝餉の席でお目にかかれ安心致しました」

 大黒天のように柔和な目をした筆頭番頭の杉衛門すぎえもんが、安堵したように挨拶を寄越す。
 紀堂は、うん、と小さく微笑んで一同を見渡した。膳を前にして、全員がこちらを見つめて身じろぎもしない。十三の小僧までもが心配そうに若店主をうかがっているのを見て、ずきりと胸が痛んだ。
 父と弟が討たれたと知った時、半狂乱となった紀堂の姿を皆覚えているのに違いない。

「……皆、心配をかけて申し訳なかった。店のことを放り出し、篭もりきりになっていた」
「とんでもございません」杉衛門が眉を下げた。
「千川様のご不幸には、私共も言葉をなくすばかりでございました。平素からお屋敷に出入りしておられた旦那様がお嘆きになるのも、道理というものでございます」

 声を曇らせ、垂れ気味の人のよさそうな細い目を盛んに瞬かせる様子に、他の番頭や手代たちがつられたように悄然とする。

「ほんとうに……お上のなさることとはいえ、酷いことですなぁ」
「せめて、ご遺臣の皆様にお力添えをして参りましょう。何でもお申し付けくださいまし、旦那様」
「さようです。どうぞお気を落とされずに……」

 皆が口々に言うのを聞きながら、紀堂は唇に笑みを滲ませた。

「……ありがとう」 

 すぐ脇手に座している大番頭は、いつも通りの静かな表情を細面の顔に浮かべ、黙って皆の声を聞いている。紀堂はすうと息を吸い込み、声を励まして言った。

「今日も励みましょう。皆、よろしく頼みます」

 はい、という張りのある一同の声が返ってきた。
 椀や箸を手に取る皆の顔が明るく綻んでいるのを、そっと見詰める。
 店主は店の顔。奉公人の拠り所。
 大鳥屋店主の力を用いて復讐を成そうとしている己は、果たして店主にふさわしいのかと、自分を責める声が心のうちで止まなかった。

*** 

「この度は思慮に欠ける振る舞いを致しまして、お詫びの申し上げようもございません。わきまえぬ若輩者と、皆様方がご不快になられますのも当然のことでございます。まことに、赤面の至りに存じます」

 両手を畳についた紀堂は、深く頭を下げて旦那衆に詫びた。
 両替商仲間との月に一度の寄合の席である。
 葉月の十五日、日本橋袂に近い万町の高級料理茶屋『柏木』の二階の座敷には、十五人ばかりの旦那衆が顔を揃えていた。開け放った窓からは、日が暮れてからもさめやらぬ日本橋の賑わいが、遠い波音のように聞こえてくる。
 今日の寄合では、旦那衆の関心がもっぱら大鳥屋に集まったのは当然の成り行きだった。水野家への大名貸しの件は旦那衆にとうに知れ渡っていて、両替商仲間の間には不穏な空気が漂っていた。ことに、同じ日本橋で大名貸しを手広く行っている駿河屋の店主などは、二階の座敷で顔を合わせた途端、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、落ち着かなげに扇子で顔を扇いでいた。
 紀堂は酒肴が運ばれる前に時を貰い、一同の前に両手をつくと、今回の軽率な行いを率直に詫びた。大名貸しに手を広げるつもりはない、今回は事情があり水野家に貸付を行ったが、この一度きりであると請け合った。そして、皆様にいらぬご心配をおかけし、大変申し訳ないと繰り返して深々と頭を下げたのだった。
 紀堂の態度に旦那衆が愁眉を開き、安堵した様子で互いに小さく頷き合うのが見えた。

「若い衆は、とかく考えるより先に体が動くもんですからな。あたしもね、若い頃は功をあせって、突っ走っては親父と番頭にさんざん雷を落とされたもんだった」

 室町の中辻屋の旦那が、恰幅のいい体から鐘のような声を響かせると、そうそう、と浅草御蔵前の松国屋がゆったり相槌を打った。

「五代目は店を継いで間もないんだ。あれこれ手を出したくもなるでしょうよ。そのくらいの気概があった方が安心ですよ。うちの浮き草みたいな息子よりも、よほど先が楽しみだ」
「ま、そういうこと」と、もっとも渋い表情を作っていた駿河屋の松扇しょうせんも苦笑いした。
「何だろうね、あんたがしゅんとしていると、こっちの方が気が咎めるじゃないか。あんたのことは四代目からもよくよく頼まれてるんだ。何もよってたかってとっちめたいわけじゃない」
「そうですよ」とその隣の霜髪の旦那、丸子屋が柔和に頷いた。
「あたしらはあんたを育てるのが楽しいんだよ。年寄りの道楽さ。ねぇ、駿河屋さん」
「ふん、男前は得だよね。うちのかみさんと娘なんて、あんたが店の前を通るとわざわざのぞきに出てきてさ、ぽーっとしてやがんの。あんたを苛めたとか耳に入ってみな、あたしが女たちにとっちめられらぁ」

 はぁ、と頭を下げたまま赤面する紀堂を見てどっと笑い声が上がり、一気に場の空気が和む。商いの話が済んだと見て、芸者たちが上がってきた。藤五郎の指図で柳橋一と呼ばれる名妓も呼んである。三味線の音色と唄の流れる座敷で風雅な舞いを眺めつつ、和気藹々と夜は更けた。
 座が開けると、旦那衆の間で最年少の店主で、しかもしくじりを犯した紀堂は、皆の去るまで店の前にとどまり、ひとりひとりに挨拶をして見送った。

「……大鳥屋さん」

 最後に残って駕篭を待っていた大伝馬町の播磨はりま屋店主・柿右衛門かきえもんが、ふと紀堂を振り返る。四十になるかどうかという年で、大店の旦那にしては影が薄い男だった。口数も多い方ではない。けれども今日はいつになく浮かぬ顔をして、ろくに声を発することもなかった。暑気あたりか何かであろうか、それとも大鳥屋の件で何か屈託があるのかと密かに気にかかっていた紀堂は、思わず背筋を伸ばした。

「はい、何でしょう」
「実は、近頃気になることを聞いたんですがね」

 あたりを気にしながら小声で言う。大名貸しのことだけでなく、他にも何かあるのかと、紀堂はいよいよ額を曇らせる。

「……いや、根も葉もないことだとわかっているんだが……。大鳥包によからぬ疑いがかかっていると、耳に入ったんですよ」
「えっ……?」

 紀堂は我が耳を疑い、それから大きく息を飲んだ。

「まさか、当店の包金銀つつみきんぎんが正価でないと、そうおっしゃるので」
「大鳥屋がそんな馬鹿な真似をするはずはありません。わかっておりますとも。だが……用心した方がいい」

 どことなく頼りない印象を人に与えるものの、柿右衛門は与太話を信じ込むような軽率な男ではない。紀堂は胸が冷えるのを覚えて立ち竦んだ。
 包金銀は裸金はだかがねよりも価値が高い。裸金は贋金の混入をはじめ、摩耗や破損による割引をされる不安があるが、包金銀はそれ自体が信用力を持っていて、年数が経とうと価値を減ずることがない。脇両替商による町包とは異なり、本両替商が発行する包金銀は額面がはるかに大きく、ほとんどが五十両と高額だ。これは包金あるいは包銀が、もっぱら数百両から数千両を動かす大口取引において用いられるからで、まとまった額の通貨が必要とされるからだ。
 その中に贋金が混じっているとなれば、影響は甚大だ。すべての金銀の鑑定を行う手数は途方もない上に、店への信用そのものが揺らぐ。大鳥包の信用力は極めて高く、それが商いを底から支えているのだ。贋金が混じっているなどという噂は、冗談でも看過できるものではなかった。

「播磨屋さん、そんな噂を、一体どこでお耳になさったんですか」
「その……うちのお取引先からなんですが……」

 目を逸らして柿右衛門が口ごもる。

「お得意様……どちらの」
「それはその、ご勘弁下さい」

 弱りきった様子で歯切れ悪く言うと、やってきた駕篭を見て罰の悪そうな、しかしどこかほっとした顔で腰を折った。

「播磨屋さん」
「では、また」

 そそくさと駕篭に乗り込み、播磨屋が去っていく。 
 駕篭屋が低く声を合わせながら遠ざかるのを、紀堂は呆然として見送った。
 墨のように黒々としたものが胸に広がっていた。 
 眼前にひろがる万町は夜もたけなわ。店の軒先に提灯や行灯の明かりが煌々と光り、その前を行き来する芸者衆や町人の姿は途切れることがない。数年前の大飢饉の最中には、さすがの日本橋の通りも火が消えたように閑散としていたが、活気が戻るのは早かった。関八州から流れ込む潰れ百姓や、役にあぶれて食い詰める浪人の姿は増える一方で、商魂逞しい商人はあの手この手でこの大不況を乗りきろうと知恵を絞っている。文政の頃の殷賑いんしんぶりには程遠いとはいえ、日本橋の夏の夜は華やかだった。
 しかし、表通りの賑わいは、紀堂の目も耳も素通りしていく。
 柿右衛門の言葉が、不吉な谺となって頭の中に響いていた。
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