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忍び寄る者(二)
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店の者が駕篭を呼ぶというのを断り、混乱した頭を冷やそうと、提灯を借りて歩いて戻ることにした。
日本橋ではなく江戸橋を渡るため、万町から江戸橋広小路へと向かう。
江戸橋広小路は、江戸橋の袂に設けられた、日本橋川と楓川に挟まれた三角形の広小路である。十間一尺の見上げるような高さの火の見櫓を中心に、稲荷社や牛置場、酒蔵、肴役所や床見世、水茶屋に矢場などがひしめき合っているところだ。
日中は河岸から揚げられる荷を蔵へと運ぶ人足や、青物市への人でごったがえしているが、今は朧な月明かりの下でしんと静まり返り、船宿や料理茶屋の立ち並ぶ日本橋袂に比べ人の姿もまばらだった。
湿気が肌にまとわりつくような、蒸し暑い夜だった。前方からふらふらと提灯が宙を漂うようにして近づいてくる。三人ばかりの酔客たちが千鳥足で歩いてくるらしかった。何やら愚痴を言い合う声が閑散とした広場に響いている。彼らとすれ違い、ほのかな月明かりに浮かび上がる、黒々とそびえる火の見櫓を右手に歩を運ぶ。
櫓の真下にある稲荷社のこんもりした木立が影となって見えた。小さな境内の下草に鈴虫がひそんでいるらしく、清涼な鳴き声が幾重にも重なりながら立ち昇る。りんりんと澄んだ声が、背後の日本橋のざわめきと、自分のかすかな足音以外に音のない広小路に滲んでいた。
大鳥包に贋金が混じっているなどあり得ない。包を見たい、と焦燥に似た気持ちが込み上げた。包の表書には調製した者の名と日付、金額などが書かれてあるのだ。記録を調べたらどの小判であるのかはすぐにわかる。播磨屋を当たるべきか。だが、正面切って問い質すのが得策とは言えないかもしれぬ。藤五郎に相談しなくては……
何の前触れもなしに、右手に広がる床見世の陰から人影が滑り出てきた。
我に返り、酔っ払いかと足を緩めて避けようとした。が、人影は音もなく身を寄せてきたかと思うと、紀堂が後ずさる間もなく提灯を掲げる右手を掴んだ。
「大鳥屋店主の紀堂とは、その方か」
揺れる提灯の明かりに浮かび上がったのは、羽織袴に二刀を帯びた侍だった。
冷たい手は鋼のような力で手首をとらえてびくともしない。紀堂は目を瞠って男を凝視した。
「……失礼ですが、お侍様……」
「大鳥屋かと訊いているのだ」
黄味がかった明かりを受けた男の顔は、細く鋭い双眸と高い鼻梁、それに薄い唇が目を引いた。三十をいくつか越したほどだろうか。有無をいわせぬ不気味な威圧感が全身から滲み出すようだ。
「──はい。手前でございますが」
困惑して答えた途端、男が提灯を持つ手を取り上げふっと吹いた。蝋燭の火が吹き消され、たちまち視界が闇に覆われる。かと思うとあっという間に床見世の裏手に引っ張り込まれた。
拐かしか何かか、と懐の短刀を左手で探ると、男の低い声が耳元に響いた。
「私は村上啓吾という者。故あってどちらの家中であるかは申せぬ。その方……高家千川家ご子息の、広彬というお方を存じておらぬか」
凍りつくような一瞬の思考の空白を、紀堂は咄嗟に考える素振りをして誤魔化した。
「……さぁ、お武家様にございますか」
火の消えた提灯の柄を握り締める。心ノ臓が踊るように暴れていた。毛穴という毛穴が開いて冷や汗が吹き出すような感覚に襲われる。
俺を探しているのか。なぜ。何者だ。
「存じておるのか?」
男が苛立ったように語調を強める。
「いえ……生憎、そのようなお方は存じ上げませんが……当店のお客様でいらっしゃいますか?」
「まことか? つまらぬ隠し立てはするな。私は危急を報せに参ったのだ。大鳥屋店主が居場所を知っておるらしいと聞いた。まことに知らぬのか」
「どなた様がそのようなことを……」
「待て」
男は背後を振り返り、鋭く耳を澄ましているようだった。男の緊張がこちらにまで伝わってくる。何を警戒しているのかと視線を辿ろうとしたが、男の凝視する闇の先には何も見当たらない。
「時がない。よいか、広彬どのを存じ上げておるのであれば、身を隠すよう申し上げよ。知らぬのであれば今聞いたことは忘れろ。その方も方々を探っておるようだが、下手な詮索はするな。でないと死ぬことになるぞ」
男がしきりと背後を気にしていなかったら、紀堂の顔が蒼白になったことに気づいただろう。喉元に白刃を突きつけられたように喉が干上がり、舌が強張っていた。
「間違っても仇討ちなぞお望みになるなと、そうお伝えせよ。忠告したぞ」
「お、お待ちください。一体」
男が去ろうとする気配に、紀堂は慌てて追いすがった。
「常人の手に負える相手ではない。手を引け」
低く言い捨てるなり、村上と名乗った男が身を翻す。灰色の風が巻き上がったかのように感じたかと思うと、たちまち姿がかき消えた。不思議なほどに足音を立てぬ男だった。
紀堂は床見世の細い裏道を手探りで辿り、広小路に出ようとした。
途端、
「あっ!」
という短い、驚愕に満ちた悲鳴が響き、土嚢を落としたような鈍い音がそれに続く。
紀堂はその場でぴたりと足を止めた。
蒸し暑い夜だというのに、ぞくりとしたものが下腹を這い上る。物音を立ててはならないと本能が警告している。息を殺し、目玉だけを動かして闇を探った。
今の悲鳴、あの村上という男の声だった。
いや、聞き間違いか。酔客の声だったかもしれない。いや……
ずる、と何かを引きずるかすかな音が立つ。ざりざりと地面を削るような不快な音が近づいてくる。
紀堂は床見世の壁に背中を押し付けながら、破裂するような心ノ臓の鼓動に歯を食いしばった。冷たい予感が全身を掴んでいる。ねっとりとした汗が額に吹き出すのを感じながら、見世の裏から顔をほんの少しだけ覗かせた。
小屋と小屋との間に切り取られた縦長の空間に、暗い広小路がおぼろに見えている。と、その空間を横切って、異様な滑らかさで男二人が通り過ぎた。二人の間に、もう一人、いる。両腕を掴まれ、がくりと項垂れながら引きずられていく男の姿に、見覚えがあった。おぼろげな光の下でも、今言葉を交わしたばかりの男であるとわかった。
村上のだらりと引きずる足先が土を掻くざりざりという音が遠くなり、ふつりと消えた。後には鈴虫のりいりいという潤んだ声が響き渡り、それに時折、三味の音と笑い声が、日本橋の方角からあえかに聞こえてくるのみだった。
ようやく自分を取り戻すと、紀堂は詰めていた息を吐いてふるえながら呼吸した。うなじを冷たい汗が覆っている。あの侍、酔い潰れたとは見えなかった。命があるとは思えなかった。
……殺された。
咄嗟に提灯を腰に挟んで懐に手を差し入れる。短刀の柄を握り締め、五感を研ぎ澄ませて周囲の気配を探ろうと努めた。村上といい、他の二人といい、まるで気配を感じさせずに現れた。まだ近くにいるのかいないのか、紀堂には判断がつきかねる。くそ、出るに出られない、と焦燥が胃の腑のあたりをちりちり炙る。
その時、談笑する男女の声が近づいてくるのに気づいた。広小路をうかがえば、酔客の集団が江戸橋の方角から歩いてくるらしい。長着姿の男たちが数人と、髪に簪を光らせた芸者も混じっているようだ。彼らが丁度目の前に差し掛かったところで、紀堂は小屋の間から飛び出した。談笑しながら歩いて行く人々の後ろを、周囲を警戒しながら付かず離れず、膝のふるえを抑えて歩く。やがて日本橋の袂へ戻ったところで駕篭を拾うまで、懐の中で短刀を握り締めていた。
駕篭に乗り込むと、ようやく大きく息を吐いた。
短刀の柄を掴んでいた右の手のひらを見ると、じっとりと粘った汗に濡れている。
かたかたとその手がふるえだす。
恐怖のためではなく、興奮のためだ。
仇の姿が、はじめてわずかな輪郭を伴って眼前に現れた気がする。霧の中を闇雲に手探りしていた手に、刺が触れた。鋭く、毒を含んだ刺だ。だがそんなことは構わない。手応えがあった、そのことが強烈な喜悦を呼んだ。
……手を引けだと。面白い。
痙攣のような笑いが腹の底から湧き上がる。上等ではないか、止められるものなら止めてみろ。
死んだ侍の項垂れて揺れる頭と、土の上に残ったつま先の跡が目に浮かぶ。右の手首に鋼のような指の感触が蘇り、ぞくりと背中がふるえる。鳩尾が岩を詰め込まれたように強張って、呼吸が上ずった。
恐れてなど、いない。これは武者震いだ。
肌が粟立ち冷たい汗が全身を流れるのは、暗い歓喜のせいなのだと、紀堂は己に言い聞かせていた。
***
すでに揚戸を下ろした店に戻った紀堂は、潜戸を入ると藤五郎を呼び出した。
村上伊織と名乗った男のことは告げずに大鳥包の件を話すと、藤五郎はすうっと両目を細くし、即座に人気のない帳場へと赴いた。
「播磨屋さんとの直近の取引は、皐月だったはずです」
と言いながら播磨屋との取引を記した分厚い帳簿を棚から取り出し、帳場の奥にある座敷に運ぶと、行灯の明かりの側で首っぴきで文字を追う。すぐに、顔を上げた。
「これですな。五百両を一度、その後二千両を貸し付けております。すべて大鳥包でございます」
「何のための貸付だ」
「お大名家への御用立ての一部でした。どちらのご家中かはお伺いしておりません。播磨屋さんとは信用がございますから……」
紀堂は頷いた。播磨屋とは長い取引がある上に、今まで返済に問題が生じたこともなかった。その上、同じ株仲間でもある。貸付金の用途を根掘り葉掘り聞き出すことなど、しないのが慣習だった。
「同じ月に、他にはどこへ貸し付けた?」
「大口では両替商の松国屋、油商の富士見屋、唐物問屋の伊勢屋、廻船問屋の海平でしょうか。全部で七千両ほどになります」
大番頭がきびきびと諳んじる声を聞きながら、紀堂は黙然とした。万が一にもこれらの店が不安を訴えてきたら、大変なことになる。一万両近くを鑑定に出さねばならず、他の貸付も鑑定を求められるかもしれない。こちらは嫌とは言えぬ立場だ。何より、大鳥屋の信用にかかわる。
「播磨屋に探りを入れられるか」
「それは可能ですが……」
藤五郎は少し考え、
「番頭さんとは顔見知りですので、私が直接うかがいましょう。同じ本両替商で長いお付き合いがございますから、下手な小細工は避けた方がよろしいでしょう」
と落ち着いた口調で答えた。それから紀堂の案じ顔を見てかすかに微笑む。
「この手のことは時折生じるものでございます。そうご心配なさらずとも大丈夫です」
「……わかった。お前さんに任せるよ」
嘆息して片手で顔を拭うと、大番頭が帳簿を閉じながら言った。
「旦那様、ずいぶんとお疲れのご様子ですね。どうぞお休みになって下さいまし」
疲れているのは、包金銀のせいだけではないのだ。そう思いながら、紀堂はゆっくりと頷いた。
日本橋ではなく江戸橋を渡るため、万町から江戸橋広小路へと向かう。
江戸橋広小路は、江戸橋の袂に設けられた、日本橋川と楓川に挟まれた三角形の広小路である。十間一尺の見上げるような高さの火の見櫓を中心に、稲荷社や牛置場、酒蔵、肴役所や床見世、水茶屋に矢場などがひしめき合っているところだ。
日中は河岸から揚げられる荷を蔵へと運ぶ人足や、青物市への人でごったがえしているが、今は朧な月明かりの下でしんと静まり返り、船宿や料理茶屋の立ち並ぶ日本橋袂に比べ人の姿もまばらだった。
湿気が肌にまとわりつくような、蒸し暑い夜だった。前方からふらふらと提灯が宙を漂うようにして近づいてくる。三人ばかりの酔客たちが千鳥足で歩いてくるらしかった。何やら愚痴を言い合う声が閑散とした広場に響いている。彼らとすれ違い、ほのかな月明かりに浮かび上がる、黒々とそびえる火の見櫓を右手に歩を運ぶ。
櫓の真下にある稲荷社のこんもりした木立が影となって見えた。小さな境内の下草に鈴虫がひそんでいるらしく、清涼な鳴き声が幾重にも重なりながら立ち昇る。りんりんと澄んだ声が、背後の日本橋のざわめきと、自分のかすかな足音以外に音のない広小路に滲んでいた。
大鳥包に贋金が混じっているなどあり得ない。包を見たい、と焦燥に似た気持ちが込み上げた。包の表書には調製した者の名と日付、金額などが書かれてあるのだ。記録を調べたらどの小判であるのかはすぐにわかる。播磨屋を当たるべきか。だが、正面切って問い質すのが得策とは言えないかもしれぬ。藤五郎に相談しなくては……
何の前触れもなしに、右手に広がる床見世の陰から人影が滑り出てきた。
我に返り、酔っ払いかと足を緩めて避けようとした。が、人影は音もなく身を寄せてきたかと思うと、紀堂が後ずさる間もなく提灯を掲げる右手を掴んだ。
「大鳥屋店主の紀堂とは、その方か」
揺れる提灯の明かりに浮かび上がったのは、羽織袴に二刀を帯びた侍だった。
冷たい手は鋼のような力で手首をとらえてびくともしない。紀堂は目を瞠って男を凝視した。
「……失礼ですが、お侍様……」
「大鳥屋かと訊いているのだ」
黄味がかった明かりを受けた男の顔は、細く鋭い双眸と高い鼻梁、それに薄い唇が目を引いた。三十をいくつか越したほどだろうか。有無をいわせぬ不気味な威圧感が全身から滲み出すようだ。
「──はい。手前でございますが」
困惑して答えた途端、男が提灯を持つ手を取り上げふっと吹いた。蝋燭の火が吹き消され、たちまち視界が闇に覆われる。かと思うとあっという間に床見世の裏手に引っ張り込まれた。
拐かしか何かか、と懐の短刀を左手で探ると、男の低い声が耳元に響いた。
「私は村上啓吾という者。故あってどちらの家中であるかは申せぬ。その方……高家千川家ご子息の、広彬というお方を存じておらぬか」
凍りつくような一瞬の思考の空白を、紀堂は咄嗟に考える素振りをして誤魔化した。
「……さぁ、お武家様にございますか」
火の消えた提灯の柄を握り締める。心ノ臓が踊るように暴れていた。毛穴という毛穴が開いて冷や汗が吹き出すような感覚に襲われる。
俺を探しているのか。なぜ。何者だ。
「存じておるのか?」
男が苛立ったように語調を強める。
「いえ……生憎、そのようなお方は存じ上げませんが……当店のお客様でいらっしゃいますか?」
「まことか? つまらぬ隠し立てはするな。私は危急を報せに参ったのだ。大鳥屋店主が居場所を知っておるらしいと聞いた。まことに知らぬのか」
「どなた様がそのようなことを……」
「待て」
男は背後を振り返り、鋭く耳を澄ましているようだった。男の緊張がこちらにまで伝わってくる。何を警戒しているのかと視線を辿ろうとしたが、男の凝視する闇の先には何も見当たらない。
「時がない。よいか、広彬どのを存じ上げておるのであれば、身を隠すよう申し上げよ。知らぬのであれば今聞いたことは忘れろ。その方も方々を探っておるようだが、下手な詮索はするな。でないと死ぬことになるぞ」
男がしきりと背後を気にしていなかったら、紀堂の顔が蒼白になったことに気づいただろう。喉元に白刃を突きつけられたように喉が干上がり、舌が強張っていた。
「間違っても仇討ちなぞお望みになるなと、そうお伝えせよ。忠告したぞ」
「お、お待ちください。一体」
男が去ろうとする気配に、紀堂は慌てて追いすがった。
「常人の手に負える相手ではない。手を引け」
低く言い捨てるなり、村上と名乗った男が身を翻す。灰色の風が巻き上がったかのように感じたかと思うと、たちまち姿がかき消えた。不思議なほどに足音を立てぬ男だった。
紀堂は床見世の細い裏道を手探りで辿り、広小路に出ようとした。
途端、
「あっ!」
という短い、驚愕に満ちた悲鳴が響き、土嚢を落としたような鈍い音がそれに続く。
紀堂はその場でぴたりと足を止めた。
蒸し暑い夜だというのに、ぞくりとしたものが下腹を這い上る。物音を立ててはならないと本能が警告している。息を殺し、目玉だけを動かして闇を探った。
今の悲鳴、あの村上という男の声だった。
いや、聞き間違いか。酔客の声だったかもしれない。いや……
ずる、と何かを引きずるかすかな音が立つ。ざりざりと地面を削るような不快な音が近づいてくる。
紀堂は床見世の壁に背中を押し付けながら、破裂するような心ノ臓の鼓動に歯を食いしばった。冷たい予感が全身を掴んでいる。ねっとりとした汗が額に吹き出すのを感じながら、見世の裏から顔をほんの少しだけ覗かせた。
小屋と小屋との間に切り取られた縦長の空間に、暗い広小路がおぼろに見えている。と、その空間を横切って、異様な滑らかさで男二人が通り過ぎた。二人の間に、もう一人、いる。両腕を掴まれ、がくりと項垂れながら引きずられていく男の姿に、見覚えがあった。おぼろげな光の下でも、今言葉を交わしたばかりの男であるとわかった。
村上のだらりと引きずる足先が土を掻くざりざりという音が遠くなり、ふつりと消えた。後には鈴虫のりいりいという潤んだ声が響き渡り、それに時折、三味の音と笑い声が、日本橋の方角からあえかに聞こえてくるのみだった。
ようやく自分を取り戻すと、紀堂は詰めていた息を吐いてふるえながら呼吸した。うなじを冷たい汗が覆っている。あの侍、酔い潰れたとは見えなかった。命があるとは思えなかった。
……殺された。
咄嗟に提灯を腰に挟んで懐に手を差し入れる。短刀の柄を握り締め、五感を研ぎ澄ませて周囲の気配を探ろうと努めた。村上といい、他の二人といい、まるで気配を感じさせずに現れた。まだ近くにいるのかいないのか、紀堂には判断がつきかねる。くそ、出るに出られない、と焦燥が胃の腑のあたりをちりちり炙る。
その時、談笑する男女の声が近づいてくるのに気づいた。広小路をうかがえば、酔客の集団が江戸橋の方角から歩いてくるらしい。長着姿の男たちが数人と、髪に簪を光らせた芸者も混じっているようだ。彼らが丁度目の前に差し掛かったところで、紀堂は小屋の間から飛び出した。談笑しながら歩いて行く人々の後ろを、周囲を警戒しながら付かず離れず、膝のふるえを抑えて歩く。やがて日本橋の袂へ戻ったところで駕篭を拾うまで、懐の中で短刀を握り締めていた。
駕篭に乗り込むと、ようやく大きく息を吐いた。
短刀の柄を掴んでいた右の手のひらを見ると、じっとりと粘った汗に濡れている。
かたかたとその手がふるえだす。
恐怖のためではなく、興奮のためだ。
仇の姿が、はじめてわずかな輪郭を伴って眼前に現れた気がする。霧の中を闇雲に手探りしていた手に、刺が触れた。鋭く、毒を含んだ刺だ。だがそんなことは構わない。手応えがあった、そのことが強烈な喜悦を呼んだ。
……手を引けだと。面白い。
痙攣のような笑いが腹の底から湧き上がる。上等ではないか、止められるものなら止めてみろ。
死んだ侍の項垂れて揺れる頭と、土の上に残ったつま先の跡が目に浮かぶ。右の手首に鋼のような指の感触が蘇り、ぞくりと背中がふるえる。鳩尾が岩を詰め込まれたように強張って、呼吸が上ずった。
恐れてなど、いない。これは武者震いだ。
肌が粟立ち冷たい汗が全身を流れるのは、暗い歓喜のせいなのだと、紀堂は己に言い聞かせていた。
***
すでに揚戸を下ろした店に戻った紀堂は、潜戸を入ると藤五郎を呼び出した。
村上伊織と名乗った男のことは告げずに大鳥包の件を話すと、藤五郎はすうっと両目を細くし、即座に人気のない帳場へと赴いた。
「播磨屋さんとの直近の取引は、皐月だったはずです」
と言いながら播磨屋との取引を記した分厚い帳簿を棚から取り出し、帳場の奥にある座敷に運ぶと、行灯の明かりの側で首っぴきで文字を追う。すぐに、顔を上げた。
「これですな。五百両を一度、その後二千両を貸し付けております。すべて大鳥包でございます」
「何のための貸付だ」
「お大名家への御用立ての一部でした。どちらのご家中かはお伺いしておりません。播磨屋さんとは信用がございますから……」
紀堂は頷いた。播磨屋とは長い取引がある上に、今まで返済に問題が生じたこともなかった。その上、同じ株仲間でもある。貸付金の用途を根掘り葉掘り聞き出すことなど、しないのが慣習だった。
「同じ月に、他にはどこへ貸し付けた?」
「大口では両替商の松国屋、油商の富士見屋、唐物問屋の伊勢屋、廻船問屋の海平でしょうか。全部で七千両ほどになります」
大番頭がきびきびと諳んじる声を聞きながら、紀堂は黙然とした。万が一にもこれらの店が不安を訴えてきたら、大変なことになる。一万両近くを鑑定に出さねばならず、他の貸付も鑑定を求められるかもしれない。こちらは嫌とは言えぬ立場だ。何より、大鳥屋の信用にかかわる。
「播磨屋に探りを入れられるか」
「それは可能ですが……」
藤五郎は少し考え、
「番頭さんとは顔見知りですので、私が直接うかがいましょう。同じ本両替商で長いお付き合いがございますから、下手な小細工は避けた方がよろしいでしょう」
と落ち着いた口調で答えた。それから紀堂の案じ顔を見てかすかに微笑む。
「この手のことは時折生じるものでございます。そうご心配なさらずとも大丈夫です」
「……わかった。お前さんに任せるよ」
嘆息して片手で顔を拭うと、大番頭が帳簿を閉じながら言った。
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