深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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犬神(一)

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 誰かが笑っている。
 
 夜着の下で寝返りを打ちながら、お凛は夢うつつにそれを聞いた。
 何だか、変な声。茶碗の破片を手のひらいっぱいに握り締めているかのような、きしきし、きゅうきゅうと耳障りな笑い声。いや、笑い声なのに、すすり泣きにも似ているような。

 誰だろう?

 雨戸をがたがた揺らしながら、折からの雨粒混じりの風が通り過ぎた。庭木がどどっと騒ぎ、奇妙な笑い声をあっという間にかき消していく。昨夕から時ならぬ春の嵐が吹き荒れていた。せっかく満開になった墨堤ぼくていの桜もすっかり裸になってしまったことだろう、と頭の隅で考える。
 遠くなっていく風の音を聞きながら、再び眠りへ落ちかけた、その時。

「──大変だ! 一大事だ! おい、起きろ!」

 女中部屋に響き渡った声が、お凛の意識を現に引き戻した。

「旦那様……?」
「聞いたか今の。笑ったぞ!」

 瞼を開くと、手燭の揺れる灯りに照らされて、仙一郎の童顔がぼんやりと闇に浮かび上がっていた。

「何ですかこんな夜更けに……年頃の娘の部屋にいらっしゃるなんて、不謹慎じゃありませんか」

 隣の蒲団に眠っていたお江津と寝ぼけ眼で抗議すると、主は正気を疑うかのように目を剥いて、それから心配げに眉根を寄せた。

「何を寝惚けてるんだお前は。私は美女にしか興味はないといつも……あ、いた、痛い、安心させてやったんだろう!」
「ねぇお江津さん、すっごく不愉快な夢が見えます。私ったら寝惚けてるみたい。あらいやだ、よく喋る大きな蚊! 憎ったらしいったら」

 脛にばしばし枕をお見舞いされ、嘘つけ、と主が悲鳴を上げた。

「そんなことよりも、笑ったんだ。あれが!」
「あれ……?」

 あの笑い声は夢じゃあなかったのかしら、とお凛は先ほどの声を思い出していた。

「──例の箪笥だよ。とうとう笑った」

 蝋燭の赤い火を映した両目をつうっと細くし、仙一郎は痛む脛をさすりつつ嬉しげに囁いた。

「奴らが、近くにいるらしいぞ」

***

 話は昨年の初夏に遡る。
 薄い雲がたなびく青空を、無数の燕がつうっつうっと舞っていた。
 居間で相対したお客人の膝の前に、「それ」は置かれてあった。箱膳二つ分ほどの大きさに、黒光りする金具の取っ手がついた六つの小さな抽出しがある、何の変哲もない小作りの箪笥である。
 変わっていることといえば、抽出しがすべてにかわで塗り固めてあり、箪笥の役目は果たせそうにもないことだろうか。この箪笥のいったいどこが曰くつきなんだろう、とお凛は主の背後で首をひねった。

──いや、それよりもこの香り。お凛は顔をしかめて袂で鼻を被った。

 居間に満ちるめくるめくような香りが、呼吸する度に肺腑に染みて頭がくらくらする。高価なお香といったって、いくらなんでもきつすぎる。鼻が利かなくなりそうだ。そう考えるお凛の目の前では、仙一郎が胸をかきむしるようにして身悶えしていた。

「う、うう……ぐ、ぐるじい……」

 蚊遣りの煙に苦しむやぶ蚊のようだ。それもそのはず、この匂いはただのお香ではない。白檀に丁子、麝香じゃこうなどが調合された破邪退魔の聖なる塗香ずこうだ。それも、むせ返るほど大量の。
 古来、香りは魔除けと浄化の役割を果たしてきた。仏道においてはお香は邪を払い、場を清浄にし、心識しんしきの煩悩を浄めるのだという。その霊験あらたかな妙香の前には、邪なる者はことごとく御仏の前にひれ伏すのだ。そう、邪なる、堕落した者はことごとく……

「私のどこが堕落してるっていうんだ! 心外だ! 侮辱だ! 断固抗議、抗議し……私が悪うございましたぁ! あれもこれも私がやりましたぁ!」

 堕落した邪な主が早々と降参する。御仏か閻魔大王の幻影でも見ているのだろうか。
 この息もつまりそうなお香の香りは、香炉から漂って来るのではない。なんと、小さな箪笥の向こうに座した男から発散されてくるのである。

「あのう、お女中さん? このお人、本当に千里眼の仙一郎さんなんですか……? ひょっとして邪霊か何かなんじゃ……」

 仙一郎のもがき苦しむさまを唖然として見詰める男の顔に、不審そうな表情が浮かんだ。

「んなわけないでしょう! ぐふっ、その塗香いんちきですよ絶対!」
「まさか。これは懇意にしているさる高僧が手ずから調合してくださった、霊験あらたかな天罰覿面てきめんのお香で……」

 ますます疑いの眼差しを注ぐ男に、

「ほんとうに霊妙なお香でございますね。効果抜群」

 お凛は感に堪えぬ心地で言った。

「これを毎日塗りこめば、旦那様も清らかな真人間に生まれ変わるかも……そうだ、そうしましょうよ旦那様! そらもっと吸い込んで。苦しいのは一瞬ですよ、たぶん」
「恐ろしいことを言うな! あ、まずい、何だかいいことをしたくなってきたぞ……お凛や、いつも苦労をかけるねぇ。私の財産を奉公人で山分けしなさい。はは、いいんだよ礼なんて。どれ、金銀の隠し場所を紙に書いてやろう……って何を口走っているんだ私は、しっかりしろ!」

 勢いよく自分の頬をひっぱたく。

「はっ、何だろうか、ときめくようなこの気持ち。こんなの初めてだ……ああ、禁欲したい。出家したくてたまらない。昨日までの愚かな私よ、滅びるがいい! や、違う違う、私は私が大好きなんだ。染に梅、助けてくれぇ」

 塩をかぶったなめくじのように畳をのたのた這って、どうにかこうにか障子を開く。そして、ぷはっ、と廊下に顔を突き出して息を吸う。

「──あ、危なかった……なんつう危険なお香だ。三途の川が見えたじゃないか! 死んだばあちゃんが手招きしてたぜ……」

 涙目でぜいぜい喘ぎ、恐怖に打ち震えている。

「そうか、思い出したぞ」

 仙一郎はむくりと身を起こすと、天敵を見るように視線を鋭くした。

「仏の遊左衛門ゆざえもんさん、そうでしょう? お宅のお噂はかねがね」
「噂……?」

 お凛が身を乗り出すと、手拭いで鼻を被いつつ、青年はふんとしかめっ面を作った。

「生き仏のごとく慈悲深く清らかだって評判でね。仏の遊左衛門、そう呼ばれているんですよね」

 本所相生町の大店、傘屋『あさひ屋』の店主遊左衛門といえば、周囲が口を揃えて聖人と評する人格者なのだそうだ。奉公人たちをそれはそれは大事にするのみならず、商いで稼いだ金子を寺社に寄進したり、困窮する者を積極的に雇い入れたり、小石川の養生所に多額の寄付をしたり、あるいは橋や道を整備してみたりする一方で、自身は贅沢を慎み清貧に暮らしていることで有名だという。

「亡くなった内儀さん一筋で女遊びもしないってんで、梅や染がいい男はつれないとかうっとりして言うんだよ」

 私の方が気前もいいし、いい男じゃないか、と仙一郎が憤慨して袖を噛み締める一方で、遊左衛門は恥じ入るように俯いて顔を赤くした。三十を幾つか過ぎたくらいであろうか。大店の店主でありながら羽織も着物も清潔だが倹しいもので、若々しさの残る端正な顔がかえって爽やかに感じられる。

「いいえ、私のすることなぞ瑣末なことで……どなたかのお役に立つのなら、これほど幸いなことはございません。真面目に商売に励み、得た富で人が喜んでくださる。これ以上の喜びがあるでしょうか。金にあかせて放蕩を尽くす人生なんて、何の実りがあるのでしょう」

 見えない矢で射られたように、「うっ」と仙一郎が胸を押さえる。

「己の欲など、所詮矮小で虚しいもの。人の幸福こそが回り回って己の真の幸福となる。これこそが人として生きる至上の目的なのではないかと、そう思えてならないのです。いや、私のような未熟者が烏滸おこがましいことですが……」

 うぐっ、ぐはっ、と主が二の矢、三の矢に射たれて倒れこむ。清流のごとく澄んだ瞳ではにかみながら語る男に、

「まぁ……」

 とお凛はうっとり嘆息した。なんと爽やかで清々しいのだろうか。不覚にも胸がときめいてしまいそう。

「その清らかな笑顔、やめてくれませんかね……。何だかぐさぐさ良心に刺さる……いいや私は間違ってない、間違っていないぞ。しっかりするんだ……」

 満身創痍で虫の息の青年が、ぶつぶつと何か自分に言い聞かせている。

「いけない、お香が飛んでいってしまう。いや、もう弱くなっているような」

 失礼、と言うなり店主は懐から木製の丸い容れ物を取り出した。蓋を開くと粉末状の黄色っぽい粉が収められている。塗香ずこう入れらしい。「げっ」と戦く仙一郎をよそに、香を指先で掬っては、せっせと頭といわず肩といわず塗りこんでいく。
 塗香というのは、香木に漢方を混ぜ合わせ極限まで細かく粉末状にしたもので、僧侶が邪気を払い、身を清めるために肌に擦り込むものだ。濃厚な香木と、きりっとした漢方のようなものが入り混じった香りが一層濃さを増す。

「あのねぇ、遊左衛門ゆざえもんさん。いくらなんでもそんなに塗りたくったら体に毒ってもんでしょう。匂いどころか、食い物の味だってわからなくなっちまいそうだ」

 うんざりした口調で主が言うと、遊左衛門がさっと青ざめた。怒るのかと思ったが、みるみる苦しげに顔を歪める。

「……おっしゃる通りです。私も、できることならこんなことはしたくはない。けれど命を守るためには、こうしなくてはならんのです」

 命、と仙一郎の両目がつうっと細くなった。

「そいつは物騒な話だ。で……この香りで、何から命を守ろうって言うんです?」
「──犬神です」

 男がごくりと唾を飲み込み、囁くように答える。

「この箪笥に棲まっていた妖から、私と娘の身を守らねばならんのです。六匹の、恐ろしい犬神たちから……」
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