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百物語(八)
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磨いたような青空に仙一郎の弾んだ声が響き渡り、路地で群れていた雀が驚いて一斉に飛び立った。
「いやいやいや、よかったねぇ新吉さん! また生きてお会いできましたね。てっきりあれが今生の別れかと、実は結構真剣に思っていたんですよ私。いやいや、礼なんていいんですよ。この天眼通でお役に立つって約束したでしょう? 私は約束は守る男ですから」
「はぁ……」
新吉は満面の笑みを浮かべる仙一郎を恨めしげに見上げると、
「ちっともよかないですよ。留七親分の手下に二、三発はたかれて、あっしは死ぬかと思ったんだから。元はと言えば、旦那さんが床下を掘れなんて言うから……」
と口の中でぼやいていた。
百物語の怪談会の翌日である。
留七の報せを受けた定町廻り同心の須藤は、ただちに越後屋長介と銀次郎にことの真偽を問いただし、越後屋の奉公人たちから主人の隠された性癖について聞き出すと、新吉への嫌疑を解いたのだった。
大番屋で数日を過ごした新吉は、無精髭が伸びてすっかり憔悴しきっていたが、幸い牢問にも合うことなく生還できた。
長屋の開いた戸口からはうらうらと真昼の陽光が溢れる路地が見え、どぶ板を鳴らして遊ぶ童の歓声が聞こえてくる。新吉の部屋はひっくり返されていた床板と坊主畳も元通りにされ、何事も起こらなかったかのようだ。けれども、店子たちが時折土間を覗き込んでは「大変だったねぇ、新吉さん。これからこの長屋はどうなるんだろうね」などと言葉を交わしては歩き去っていく度に、新吉の表情は暗く翳るのだった。
「それで……差配さんはどんな様子で……?」
複雑そうな表情で訊ねる板前に、土間の上がり框に腰を下ろした仙一郎は腕組みして答えた。
「牢屋敷に入ってますが、まぁどうにか無事に過ごしているそうですよ。弥助親分に聞いた所ではね、越後屋さんがぺらぺら白状したと聞いた途端、素直に全部話したんですって。長介さんの方は急に人が変わったみたいになっちまって、亡者に取り憑かれている、助けてくれって夜も眠れず牢屋でぶるぶるふるえているらしいんですよ。何があったか知りませんが、越後屋も仕舞いですねぇ。……それを聞いて、差配さんは何だってあんな小心な男にいいようにされていたんだろうかと、目が覚めたんですってさ。自分に自信が持てないばっかりに、とんでもないことに手を貸してしまった。新吉さんには本当に申し訳なかったって言っているそうです」
そこまで言って、主は少し言葉を切った。
「あのお人は……まったく周到でしたねぇ。火事が起きた上に寮で以津真天が鳴いたもんで、この企みを思いついたんですよ。以津真天のことを匂わせれば、私が必ず死体を探そうとするはずだと見抜いてた。新吉さんの腰が引けちまったら困るから、あなたには死体のことを伏せておいた上でね。おまけに自分の戯作のこともぺらぺらと私に喋って、死体泥棒が誰なのかを教えたりしてねぇ。狡猾なんだか潔いんだか」
「……今になって思えば、お伊予の奴、他の長屋へ移りたいって何度もあっしに言ったんですよ。でもあっしは、ただの我侭だと思って取り合わなかった。越後屋が地主だと知って、さぞ肝を冷やしていたんでしょうね……」
俯いたまま、新吉がぽつりと呟いた。
「──差配さん、お伊予を助けるつもりなら、あっしに打ち明けてくれたらよかったんだ」
怒りとも悲しみともつかぬものが声に滲む。
「そこがあの人の屈折しているところなんだな。あなたに嫉妬したのかもわからんし、打ち明ける勇気がなかったんだろうし。人を信じない性質だったんですよ」
仙一郎は茫漠とした眼差しをほの暗い部屋の中空に据えて、煙管を唇の端に咥えた。
「なんでもね、お妾だったおっかさんが死んで越後屋に引き取られたものの、小さい時分から皆に苛め抜かれて育ったそうで。長介さんがまた、ああいう人でしょう。今日こそ殺されるに違いないと思う毎日だったんですってさ」
長介は度外れて残忍な少年だった。突然思い立っては腹違いの弟を蔵に三日三晩閉じ込めて半死半生にするとか、堀に突き落として溺れる様を眺めるとか、着物に毒虫を仕込んで銀次郎が死にかける様を観察するとかしては喜んでいたそうだ。内向的で、絵を描いたり本を読むのが好きだった銀次郎は、生き地獄のような日々を越後屋で過ごし、長じる頃には無抵抗に兄に屈服する弟となっていた。そして唯一、細々と戯作を書くことだけが彼の生き甲斐になっていたのだという。
「まぁ、だからといって新吉さんに殺しの罪を着せようとしたことが許されるわけじゃありません。江戸所払いくらいにはなっちまうかもしれない。だけど、あのお人には戯作があるからね。意外と大丈夫なんじゃないかな」
口の中で転がしていた煙を、ぽっ、と吐き出した青年に、新吉は堪えきれぬように切り出した。
「それで、その……お伊予は。お伊予はどこにいるんですか? 旦那さん、ご存知なんでしょう?」
「そう、そのことですよ。もったいぶらずに教えてくださいよ」
お凛も固唾を飲んで主を凝視する。すると、うん、と気楽な返事が返ってきた。
「どこにいるか、知りたい? 知りたいよねぇ。まぁでもちょっと考えてみなさいよ。お伊予さんことお糸さんは、逃げだしはしたけれど越後屋さんのお妾だってのは契約があるから変えられない。そうだろう? じゃあどこへ逃げたらいいと思う?」
得意気に鼻をひくつかせるので、お凛はもどかしげに身を乗り出した。
「ええと、逃散した親御さんのところとか……?」
「借金棒引きの代わりに自分を越後屋に差し出す親だよ? 頼れると思う?」
「……遊所に身を隠す、とか……?」新吉が恐る恐る言った。
「あんたね、お伊予さんは箱入り娘だって自分で言ってたでしょう。そんな人に遊女が務まるとは思えないよ」
「じゃ、どこなんですか?」
悲痛な声で新吉が迫ると、
「亭主と別れたい女が逃げ込むところですよ」
意味ありげに仙一郎がゆっくりと言った。えええ、と新吉はしばし泣き出しそうな表情で身を揉んだ。
──が、不意にはっと息を飲むと、
「亭主……?」と呟いて両目を剥いた。
「……あ、ま、まさか……か、鎌倉? 鎌倉ですか?」
あっ、とお凛も絶句するのを見て、青年が歯を零して笑った。
「そうですよ。あそこには東慶寺があるからねぇ」
鎌倉の東慶寺といえば松岡御所とも称される権威ある尼寺で、上州満福寺と並び女たちが駆け込む縁切り寺として名高い。妻からの離縁がかなわぬ場合、寺社奉行直轄の権威を備えた東慶寺に駆け込んで、離縁を仲裁してもらうのだ。寺は事を荒立てぬように夫には内済を勧めるが、夫がそれに応じぬ場合、縁切寺法の定めるところにより妻は二十四ヶ月寺に奉公し、その後に晴れて離縁が認められる。
「縁切寺にはお妾も駆け込めるんですよ。知ってました?」と仙一郎が付け加えた。
妾にも色々あるが、多くの場合は妾奉公として旦那となる男と契約を交わしている。これは妾の生活を保証する代わりに、契約が有効である限り奉公から逃れられないことをも示すのである。契約を結んだからには、別れたいとなったら即自由、とはいかない。きっちり法に則って契約を解かねばならないのだ。縁切り寺ではその手助けをしてくれる。
仙一郎によると、妾が旦那と離縁する場合、本妻とは異なり寺への奉公は半季で済むのだという。なるほど、あの越後屋店主から逃れるためには、そのくらいしないといけないのかもしれない、とお凛は驚きながらも納得した。
縁切り寺のことに思い至った仙一郎は、お伊予は鎌倉へ逃げたのではないかと見当をつけた。そして、東慶寺近くで駆け込み女の世話をする御用宿に事情を記した手紙を書き、お伊予宛ての手紙も添えて富蔵に託したのだった。
「親には捨てられ、頼れる人もいない。あの執念深そうなご店主から逃げられそうな場所といったら、縁切り寺しかないんじゃないかと思ってね。それで、見事お伊予さんのいる宿を探し当てて、お伊予さんから返事をもらったんですよ。越後屋さんの悪癖や、長屋を逃げ出した経緯も教えてくれました。……ああ、それからね、お伊予さんは寺に入るのを見合わせたんですって」
「ど、どうしてですか?」新吉が血走った目でにじりよる。
「寺から越後屋へ知らせが行けば、例え表面上は離縁に応じたとしても、あの旦那はいつまでも自分をつけ回すと思ったらしいですよ。それともう一つ、のっぴきならぬ理由が出来た」
「何ですか!?」とお凛も鼻息荒く主に迫る。
「体調が悪かったんです」
「えっ? 病ですか? 重いんですか?」
新吉がさっと青ざめた。
「ま、病とは違うが、大事には違いない」
「ちょいと旦那さん、謎かけなんぞしてる場合じゃ……」気色ばんだ新吉の顔に、すうっと空白が過った。
言葉を失ったように仙一郎を見下ろすと、仙一郎の黒い濡れ濡れとした瞳が涼しげに見詰め返す。
「──や、やや子……ですか?」
そう呟いた途端、新吉の顔に驚愕が広がり、次の瞬間には頬がさあっと赤く染まった。
「……そうなんですね? やや子が腹にいるんでしょう?」
「そういうこと」
煙管をくゆらせる仙一郎をよそに、男は肩を揺らして呆然と喘ぎ、「やや子、ややこ」と口走った。そして「てぇへんだ……てぇへんだ……」と急に立ったり座ったりしはじめたかと思うと、土間をせかせか歩き回り、かと思うと路地に飛び出してまた駆け戻ってくる。むやみに鍋を上げ下げしてみたり、桶にけつまづいたり、障子に手を突っ込んだりと、危なっかしいことこの上ない。
「まぁ落ち着きなさいよ、新吉さん。お伊予さんも、身籠もっていることにはそれまで気付かなかったそうなんです。それでね、鎌倉に着いた頃にはやや子が流れちまわないかってくらい具合が悪くて、寺に入るどころじゃなかった。おまけに、新吉さんとの子が出来たと知れたら、旦那がどれだけ怒り狂うかわかったもんじゃない。子にまで危害が及ばないとも限りませんからね。だから御用宿に匿ってもらいながら、身二つになるのを待つことにしたんだそうですよ。……ああ、今はずいぶん落ち着いて、腹の子も元気ですって。あと三月ってところでしょう。新吉さんのことをえらく案じてましてね。心配いらないよと返事を送っておきましたけど、あなたが自分で会いに行った方が話は早いでしょうね」
ほら、と仙一郎は懐から文を一通取り出した。「お伊予さんからですよ」と言って手渡すと、新吉はぶるぶる両手をふるわせながら黙って文に目を走らせた。
次第に呼吸が浅くなり、両目に透明な涙が盛り上がってくる。と、新吉は土間にがくりと蹲って、無精髭だらけの顔を文に埋めると、唸るように泣き出した。
男の尖った肩が激しく揺れるのを見ていると、お凛までもらい泣きしそうになって、つんとしてくる鼻を上に向けて目を瞬かせた。
嬉し泣きの嗚咽が路地で遊ぶ子供らの歓声と混じり合い、不格好で不揃いの、けれどもやさしい音曲のように耳に浸みる。
「……御用宿や医者の費用を、差配さんは借財を重ねて払っていたんだそうですよ。新吉さんにも頃合いを見て知らせるから辛抱しろと、嘘を言って。差配さん、お伊予さんに惚れてたのかな。それとも罪滅ぼしだったんでしょうかね」
水のように滑らかな声で仙一郎が言う。
「まったくひどい話だ。ねぇ? 新吉さんも地獄の道連れだとか、考えていたんですよきっと。腸が煮えくり返りますよねぇ」
手のひらで顔を拭い、すすり泣きながら新吉は顔を上げた。
「まったくだよ。とんでもねぇ野郎だ」割れた声で囁くと、ごしごしと拳で目を擦る。
「……だがまぁ、お伊予と腹の子を守ってくれたんだ。二人のために死ぬならあっしだって本望でさぁ」
おや、男前だねぇ、と仙一郎が笑った。
「じゃ、こいつはお返ししましょう。本当は惜しいけど、お伊予さんが戻って鳥が消えちまってたら悲しむでしょ? 私からのお祝いってことで。もう泣き喚くこともないだろうから、安心してここに置いたらいいですよ」
そう言いながら、脇に置いていた鳥籠をひょいと新吉へ差し出した。餌を漁っていた真っ赤な鸚哥が、胸を反らして麗々しく鳴いた。
「えっ、でも……いいんですか? 旦那さんにはご迷惑をかけっ放しで……」
「いえいえちっとも。面白かったですからねぇ。今度波膳でご馳走でもしてくださいよ」
恐縮しながら鳥籠を受け取った新吉は、しばし玉を転がすような鳴き声に聞き入ると、
「……旦那さん。あの人……鬼だったんですかね。それとも、仏だったんでしょうかね……?」
と呟くように言った。
子供らが路地を走り抜け、笑い声が幻のように後を追っていく。昼九つの時鐘に合わせて、機嫌よく緋鸚哥が鳴く。
「……人ですよ、ただの」
薄暗い土間から表を目を細めて見やりながら、仙一郎が遠い声で答える。
お凛はつられたように青年の視線を追った。
長屋の外では、抜けるような青空から初夏の日差しが降り注いでいる。
お凛たちが見詰める前で、その光は刻一刻と、輝きを増して見えた。
おしまい
「いやいやいや、よかったねぇ新吉さん! また生きてお会いできましたね。てっきりあれが今生の別れかと、実は結構真剣に思っていたんですよ私。いやいや、礼なんていいんですよ。この天眼通でお役に立つって約束したでしょう? 私は約束は守る男ですから」
「はぁ……」
新吉は満面の笑みを浮かべる仙一郎を恨めしげに見上げると、
「ちっともよかないですよ。留七親分の手下に二、三発はたかれて、あっしは死ぬかと思ったんだから。元はと言えば、旦那さんが床下を掘れなんて言うから……」
と口の中でぼやいていた。
百物語の怪談会の翌日である。
留七の報せを受けた定町廻り同心の須藤は、ただちに越後屋長介と銀次郎にことの真偽を問いただし、越後屋の奉公人たちから主人の隠された性癖について聞き出すと、新吉への嫌疑を解いたのだった。
大番屋で数日を過ごした新吉は、無精髭が伸びてすっかり憔悴しきっていたが、幸い牢問にも合うことなく生還できた。
長屋の開いた戸口からはうらうらと真昼の陽光が溢れる路地が見え、どぶ板を鳴らして遊ぶ童の歓声が聞こえてくる。新吉の部屋はひっくり返されていた床板と坊主畳も元通りにされ、何事も起こらなかったかのようだ。けれども、店子たちが時折土間を覗き込んでは「大変だったねぇ、新吉さん。これからこの長屋はどうなるんだろうね」などと言葉を交わしては歩き去っていく度に、新吉の表情は暗く翳るのだった。
「それで……差配さんはどんな様子で……?」
複雑そうな表情で訊ねる板前に、土間の上がり框に腰を下ろした仙一郎は腕組みして答えた。
「牢屋敷に入ってますが、まぁどうにか無事に過ごしているそうですよ。弥助親分に聞いた所ではね、越後屋さんがぺらぺら白状したと聞いた途端、素直に全部話したんですって。長介さんの方は急に人が変わったみたいになっちまって、亡者に取り憑かれている、助けてくれって夜も眠れず牢屋でぶるぶるふるえているらしいんですよ。何があったか知りませんが、越後屋も仕舞いですねぇ。……それを聞いて、差配さんは何だってあんな小心な男にいいようにされていたんだろうかと、目が覚めたんですってさ。自分に自信が持てないばっかりに、とんでもないことに手を貸してしまった。新吉さんには本当に申し訳なかったって言っているそうです」
そこまで言って、主は少し言葉を切った。
「あのお人は……まったく周到でしたねぇ。火事が起きた上に寮で以津真天が鳴いたもんで、この企みを思いついたんですよ。以津真天のことを匂わせれば、私が必ず死体を探そうとするはずだと見抜いてた。新吉さんの腰が引けちまったら困るから、あなたには死体のことを伏せておいた上でね。おまけに自分の戯作のこともぺらぺらと私に喋って、死体泥棒が誰なのかを教えたりしてねぇ。狡猾なんだか潔いんだか」
「……今になって思えば、お伊予の奴、他の長屋へ移りたいって何度もあっしに言ったんですよ。でもあっしは、ただの我侭だと思って取り合わなかった。越後屋が地主だと知って、さぞ肝を冷やしていたんでしょうね……」
俯いたまま、新吉がぽつりと呟いた。
「──差配さん、お伊予を助けるつもりなら、あっしに打ち明けてくれたらよかったんだ」
怒りとも悲しみともつかぬものが声に滲む。
「そこがあの人の屈折しているところなんだな。あなたに嫉妬したのかもわからんし、打ち明ける勇気がなかったんだろうし。人を信じない性質だったんですよ」
仙一郎は茫漠とした眼差しをほの暗い部屋の中空に据えて、煙管を唇の端に咥えた。
「なんでもね、お妾だったおっかさんが死んで越後屋に引き取られたものの、小さい時分から皆に苛め抜かれて育ったそうで。長介さんがまた、ああいう人でしょう。今日こそ殺されるに違いないと思う毎日だったんですってさ」
長介は度外れて残忍な少年だった。突然思い立っては腹違いの弟を蔵に三日三晩閉じ込めて半死半生にするとか、堀に突き落として溺れる様を眺めるとか、着物に毒虫を仕込んで銀次郎が死にかける様を観察するとかしては喜んでいたそうだ。内向的で、絵を描いたり本を読むのが好きだった銀次郎は、生き地獄のような日々を越後屋で過ごし、長じる頃には無抵抗に兄に屈服する弟となっていた。そして唯一、細々と戯作を書くことだけが彼の生き甲斐になっていたのだという。
「まぁ、だからといって新吉さんに殺しの罪を着せようとしたことが許されるわけじゃありません。江戸所払いくらいにはなっちまうかもしれない。だけど、あのお人には戯作があるからね。意外と大丈夫なんじゃないかな」
口の中で転がしていた煙を、ぽっ、と吐き出した青年に、新吉は堪えきれぬように切り出した。
「それで、その……お伊予は。お伊予はどこにいるんですか? 旦那さん、ご存知なんでしょう?」
「そう、そのことですよ。もったいぶらずに教えてくださいよ」
お凛も固唾を飲んで主を凝視する。すると、うん、と気楽な返事が返ってきた。
「どこにいるか、知りたい? 知りたいよねぇ。まぁでもちょっと考えてみなさいよ。お伊予さんことお糸さんは、逃げだしはしたけれど越後屋さんのお妾だってのは契約があるから変えられない。そうだろう? じゃあどこへ逃げたらいいと思う?」
得意気に鼻をひくつかせるので、お凛はもどかしげに身を乗り出した。
「ええと、逃散した親御さんのところとか……?」
「借金棒引きの代わりに自分を越後屋に差し出す親だよ? 頼れると思う?」
「……遊所に身を隠す、とか……?」新吉が恐る恐る言った。
「あんたね、お伊予さんは箱入り娘だって自分で言ってたでしょう。そんな人に遊女が務まるとは思えないよ」
「じゃ、どこなんですか?」
悲痛な声で新吉が迫ると、
「亭主と別れたい女が逃げ込むところですよ」
意味ありげに仙一郎がゆっくりと言った。えええ、と新吉はしばし泣き出しそうな表情で身を揉んだ。
──が、不意にはっと息を飲むと、
「亭主……?」と呟いて両目を剥いた。
「……あ、ま、まさか……か、鎌倉? 鎌倉ですか?」
あっ、とお凛も絶句するのを見て、青年が歯を零して笑った。
「そうですよ。あそこには東慶寺があるからねぇ」
鎌倉の東慶寺といえば松岡御所とも称される権威ある尼寺で、上州満福寺と並び女たちが駆け込む縁切り寺として名高い。妻からの離縁がかなわぬ場合、寺社奉行直轄の権威を備えた東慶寺に駆け込んで、離縁を仲裁してもらうのだ。寺は事を荒立てぬように夫には内済を勧めるが、夫がそれに応じぬ場合、縁切寺法の定めるところにより妻は二十四ヶ月寺に奉公し、その後に晴れて離縁が認められる。
「縁切寺にはお妾も駆け込めるんですよ。知ってました?」と仙一郎が付け加えた。
妾にも色々あるが、多くの場合は妾奉公として旦那となる男と契約を交わしている。これは妾の生活を保証する代わりに、契約が有効である限り奉公から逃れられないことをも示すのである。契約を結んだからには、別れたいとなったら即自由、とはいかない。きっちり法に則って契約を解かねばならないのだ。縁切り寺ではその手助けをしてくれる。
仙一郎によると、妾が旦那と離縁する場合、本妻とは異なり寺への奉公は半季で済むのだという。なるほど、あの越後屋店主から逃れるためには、そのくらいしないといけないのかもしれない、とお凛は驚きながらも納得した。
縁切り寺のことに思い至った仙一郎は、お伊予は鎌倉へ逃げたのではないかと見当をつけた。そして、東慶寺近くで駆け込み女の世話をする御用宿に事情を記した手紙を書き、お伊予宛ての手紙も添えて富蔵に託したのだった。
「親には捨てられ、頼れる人もいない。あの執念深そうなご店主から逃げられそうな場所といったら、縁切り寺しかないんじゃないかと思ってね。それで、見事お伊予さんのいる宿を探し当てて、お伊予さんから返事をもらったんですよ。越後屋さんの悪癖や、長屋を逃げ出した経緯も教えてくれました。……ああ、それからね、お伊予さんは寺に入るのを見合わせたんですって」
「ど、どうしてですか?」新吉が血走った目でにじりよる。
「寺から越後屋へ知らせが行けば、例え表面上は離縁に応じたとしても、あの旦那はいつまでも自分をつけ回すと思ったらしいですよ。それともう一つ、のっぴきならぬ理由が出来た」
「何ですか!?」とお凛も鼻息荒く主に迫る。
「体調が悪かったんです」
「えっ? 病ですか? 重いんですか?」
新吉がさっと青ざめた。
「ま、病とは違うが、大事には違いない」
「ちょいと旦那さん、謎かけなんぞしてる場合じゃ……」気色ばんだ新吉の顔に、すうっと空白が過った。
言葉を失ったように仙一郎を見下ろすと、仙一郎の黒い濡れ濡れとした瞳が涼しげに見詰め返す。
「──や、やや子……ですか?」
そう呟いた途端、新吉の顔に驚愕が広がり、次の瞬間には頬がさあっと赤く染まった。
「……そうなんですね? やや子が腹にいるんでしょう?」
「そういうこと」
煙管をくゆらせる仙一郎をよそに、男は肩を揺らして呆然と喘ぎ、「やや子、ややこ」と口走った。そして「てぇへんだ……てぇへんだ……」と急に立ったり座ったりしはじめたかと思うと、土間をせかせか歩き回り、かと思うと路地に飛び出してまた駆け戻ってくる。むやみに鍋を上げ下げしてみたり、桶にけつまづいたり、障子に手を突っ込んだりと、危なっかしいことこの上ない。
「まぁ落ち着きなさいよ、新吉さん。お伊予さんも、身籠もっていることにはそれまで気付かなかったそうなんです。それでね、鎌倉に着いた頃にはやや子が流れちまわないかってくらい具合が悪くて、寺に入るどころじゃなかった。おまけに、新吉さんとの子が出来たと知れたら、旦那がどれだけ怒り狂うかわかったもんじゃない。子にまで危害が及ばないとも限りませんからね。だから御用宿に匿ってもらいながら、身二つになるのを待つことにしたんだそうですよ。……ああ、今はずいぶん落ち着いて、腹の子も元気ですって。あと三月ってところでしょう。新吉さんのことをえらく案じてましてね。心配いらないよと返事を送っておきましたけど、あなたが自分で会いに行った方が話は早いでしょうね」
ほら、と仙一郎は懐から文を一通取り出した。「お伊予さんからですよ」と言って手渡すと、新吉はぶるぶる両手をふるわせながら黙って文に目を走らせた。
次第に呼吸が浅くなり、両目に透明な涙が盛り上がってくる。と、新吉は土間にがくりと蹲って、無精髭だらけの顔を文に埋めると、唸るように泣き出した。
男の尖った肩が激しく揺れるのを見ていると、お凛までもらい泣きしそうになって、つんとしてくる鼻を上に向けて目を瞬かせた。
嬉し泣きの嗚咽が路地で遊ぶ子供らの歓声と混じり合い、不格好で不揃いの、けれどもやさしい音曲のように耳に浸みる。
「……御用宿や医者の費用を、差配さんは借財を重ねて払っていたんだそうですよ。新吉さんにも頃合いを見て知らせるから辛抱しろと、嘘を言って。差配さん、お伊予さんに惚れてたのかな。それとも罪滅ぼしだったんでしょうかね」
水のように滑らかな声で仙一郎が言う。
「まったくひどい話だ。ねぇ? 新吉さんも地獄の道連れだとか、考えていたんですよきっと。腸が煮えくり返りますよねぇ」
手のひらで顔を拭い、すすり泣きながら新吉は顔を上げた。
「まったくだよ。とんでもねぇ野郎だ」割れた声で囁くと、ごしごしと拳で目を擦る。
「……だがまぁ、お伊予と腹の子を守ってくれたんだ。二人のために死ぬならあっしだって本望でさぁ」
おや、男前だねぇ、と仙一郎が笑った。
「じゃ、こいつはお返ししましょう。本当は惜しいけど、お伊予さんが戻って鳥が消えちまってたら悲しむでしょ? 私からのお祝いってことで。もう泣き喚くこともないだろうから、安心してここに置いたらいいですよ」
そう言いながら、脇に置いていた鳥籠をひょいと新吉へ差し出した。餌を漁っていた真っ赤な鸚哥が、胸を反らして麗々しく鳴いた。
「えっ、でも……いいんですか? 旦那さんにはご迷惑をかけっ放しで……」
「いえいえちっとも。面白かったですからねぇ。今度波膳でご馳走でもしてくださいよ」
恐縮しながら鳥籠を受け取った新吉は、しばし玉を転がすような鳴き声に聞き入ると、
「……旦那さん。あの人……鬼だったんですかね。それとも、仏だったんでしょうかね……?」
と呟くように言った。
子供らが路地を走り抜け、笑い声が幻のように後を追っていく。昼九つの時鐘に合わせて、機嫌よく緋鸚哥が鳴く。
「……人ですよ、ただの」
薄暗い土間から表を目を細めて見やりながら、仙一郎が遠い声で答える。
お凛はつられたように青年の視線を追った。
長屋の外では、抜けるような青空から初夏の日差しが降り注いでいる。
お凛たちが見詰める前で、その光は刻一刻と、輝きを増して見えた。
おしまい
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