深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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百物語(一)

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 卯月の頭、満開の桜がいっせいに花を散らしはじめたある午後のことだった。

「──いや、いやいやいや、やっぱりやめた。やめます!」

 お客が顔を上げるなり口走ったので、仙一郎はいい加減うんざりした様子で童顔をしかめた。

「またですかぁ? いいじゃないですかもう。そら、潔く手放しましょうよ、一、二の、三、ね?」
「いやいやいや、や、やっぱり嫌です。駄目です! やめます!」
「ちょっと、往生際が悪いなぁ」

 苛立たしげに言うなり、仙一郎は男と自分の間に置かれたものを両手で引き寄せようとした。はっとしてお客も反対側から手を伸ばし、ぐぐぐと引っ張り返す。途端、「それ」が鳴いたので男の肩がぎくりとする。

「これでもう三度目なんですよ。すっきりさっぱりさよならしましょうよ。そういう粘っこいのはもてませんよ? べたべたしつこいのが好かれるのは納豆か山芋かべったら漬けか鳥黐とりもちか、はたまたいい女の掻き口説きかってなくらいのもんなんだから。鳥黐とりもち野郎とか呼ばれてもいいんですか、え?」
「何をわけのわからんことを言ってんですか!放して下さいよ!」

 お客と仙一郎とが鼻息荒く睨み合ったその時、またしても玉を転がすような鳴き声が、険悪な空気に満ちた居間に響き渡った。ひっ、と男が手を引っ込めたのをいいことに、主はしめたとばかりにそれをがばと腕に抱く。

「あっ、このっ!」男が顔色を変えて猛然と飛びかかった。
「何をっ!ちょいと私の羽二重を引っ張るな!高いんだから!」手の塞がった仙一郎が、業を煮やして噛みつこうとする。
「やりやがったなこの青瓢箪!これでも喰らいやがれっ」男が長着の裾を割ってむさくるしい足を上げ、主の顎を蹴上げにかかる。
「汚い足を晒すな、目が汚れる!」仙一郎がすかさずかわして罵った。

 互いの着物を引っ掴み、醜い争いを繰り広げる男二人を、お凛は「こういう大人になってはいけないな」と思いつつ白い目で見守っていた。
 二人が引っ張り合っているのは鳥籠である。そして中には赤い鳥が一羽、呑気に歌を歌っているのであった。

「……ええいもう、何だってそう思い切りが悪いんですよ?」

 息の上がった仙一郎が一旦力を緩めて鳥籠を畳に置くと、男もぜいぜい肩で息をしながら座り直した。

新吉しんきちさん、ああ苦しい、あんた……こいつのせいで夜も眠れず死んじまいそうだって、そう言ったじゃありませんか」
「へ、へぇ。それは……そうなんです」青白い顔をいっそう青くして、男も汗だくで頷く。
「こいつが夜毎泣き喚くもんで、おちおち眠れやしなくて……」

──話は先月に遡る。

「こいつがうるさくてうるさくて、眠れねぇんです」

 と、その新吉というお客は隈の浮いた顔で息も絶え絶えに言った。堀留町に住む板前だそうで、苦み走った風采も鯔背な二十八だが、両目にどんよりと重い疲労が沈殿しているのが見て取れた。その陰鬱な視線の先には、自分と仙一郎の間に置かれ、手ぬぐいを被せられた四角い籠らしきものがあった。

「はぁ、うるさい……?」

 仙一郎とお凛は首を傾げた。先ほどから何やら麗しいさえずりが聞こえているが、これが騒々しくてたまらぬというのだろうか。すると、新吉は思い切ったように手ぬぐいを捲った。あら、とお凛は目を見張った。赤く輝くような鳥が一羽、四角い鳥籠の中に現れたではないか。メジロよりも大きく、ウズラよりは小さいくらいか。なんて綺麗な鳥なのだろう。黒々としたつぶらな瞳、愛嬌のある嘴、とまり木の上をぴょこりぴょこりと動き回っては、小首を傾げる仕草も愛らしい。

「おや、緋鸚哥ひいんこですか」

 仙一郎も興奮気味にその美しい鳥を間近に眺めた。すると鳥は誇らしげに胸をそらし、高らかに美声を張り上げた。何とも高貴な響きの、耳を心地よくくすぐる声だ。

「いやぁ、乙ですねぇ。舶来物じゃありませんか。通人が喜びそうだ。こいつがうるさいってのはどういうことです? いい声じゃないですか」
「へぇ、この鳥……こいつはですね……」

 男がすっと表情を強張らせて声を落とす。何だろう、とお凛と仙一郎も固唾を飲んだ。 

「夜に、鳴くんですよ……」

 身を乗り出した二人はつんのめりそうになった。

「そりゃ鳴くでしょうよ、鳥なんだし。朝だろうと夜だろうと」
「ち、違うんです。そうじゃなくて!こういう風に、いつまでって……!」

 なんの話をしているのだ、と二人が真顔で男を見ると、新吉がもどかしげに月代を掻きむしった。

「ですからね、いつまでーとか、夜になると言うんですよ! こう、気味の悪い姿と声で!」

 鳥が喋る? お凛が目を丸くする一方で、へぇ、と仙一郎は目を光らせた。

「いつまで、いつまで、ねぇ……そいつは……以津真天いつまでん、ていう奴ですかねぇ」

 それを聞いた途端、新吉がぴくりと頬を引きつらせた。

「差配さんに相談しましたら、同じことをおっしゃったんですが……そうなんですかねぇ? どうもあっしにはぴんと来なくて」

「以津真天……て、何ですか、それ」

 お凛が怪訝な顔をすると、仙一郎は嬉々として語り出した。
 以津真天いつまでんとは鳥に似た姿をした妖で、埋葬もされず、無残に打ち捨てられた遺骸の側に現れるのだという。そうして夜な夜な「いつまで……いつまで……」と鳴いては、「いつまで我をここに打ち捨てておくのか」と死者の無念と怨念を骨も凍えるような声で掻き口説くのだ。

「えっ、し、死体!?」

 新吉が仰け反った。

「そうですよ。その差配さんから聞かなかったんですか?」

 とんでもない、と男はぶんぶん頭を振った。

「いつまなんとかって妖じゃねぇかとはおっしゃってましたがね。そんな気味の悪い鳥なんですか、こいつ?」

 うん、と得意気に主が首肯する。

「お宅の差配さん、以津真天の名は知ってるってのに肝心なところをご存知じゃないねぇ。ま、普通はそうでしょう。それにしても話のわかるいい差配さんをお持ちだ。お礼をしないといけないくらいだ」

 怪異を屋敷へ寄越してくれた、気の利く差配の肩でも揉みたいところなのであろう。

「はぁ、面倒見のいい人なんですがね。戯作本を書き散らしているちょっと変わった人でして……」
「ほほう、戯作者なんですか? どんな本を書くんで?」
「版元にはまるで相手にされないって嘆いてますよ。怪談話が得意だとかで……」

 話題が見当違いの方向へ進んでいるのに痺れを切らし、お凛は二人の会話に割って入った。

「それで、これが本当に妖なんですか? ただの綺麗な鳥に見えますけれど」
「そうなんですよ。二月くらい前までは、ただの鳥だったんです。今も、昼間は何の変わりもねぇんですがね……」

 途端に新吉の口が重くなった。 

「夜になるとどんな姿をしているんですか?」

 主が興味津々の様子で身を乗り出すと、男は鳥かごをそろそろと横目に見て、鳥に聞こえぬように囁いた。

「夜になると……に、人間の顔になるんですよ」

 骨と皮ばかりの男とも女とも知れぬ容貌に、くちばしは唇のように切れ上がり、そこにのこぎりのような歯が並び、ぎょろりと目玉を動かし新吉を睨むのだという。お凛は想像してみて、ひぇっ、と首を竦めた。

「そして、いつまで、いつまで、と喚きたてるんです」
「ほおぉ、そいつは不気味だ。うん、実にそそりますな」

 美人の茶屋娘の噂話でもしているかのような調子で、主が舌なめずりしながら相槌を打った。

「それで、先日差配さんに相談したら、深川木場に天眼通の旦那ってお人がいらっしゃって、いわく因縁つきのものを集めているらしいと伺ったんです」
「で、私にこいつを預かって欲しいと。いいですともいいですとも」
 
 ほいほい嬉しげに言いかけると、新吉は額の汗を手のひらで拭いながらしばし口ごもった。

「……そうなんですけど。でも……いや、やっぱり今日は、やめときます」

 そう言って、ぽかんとする仙一郎とお凛を残し、さっと鳥籠を抱えるなり屋敷をそそくさと辞して行った。

「何しに来たんだ、あの男は?」

 世にも珍妙な妖鳥を貰いそこね、主は悔しげに身を揉んでたいそう残念がったのだった。

──だがしかし。夜な夜な不気味な声と姿で鳴くその鳥のせいで、新吉はその後もろくに眠れぬ日々に苦しめられていたらしかった。
 やがて、新吉は前よりも一層隈の濃くなった顔をして、鳥籠を抱えて現れた。そうしてまた同じような問答をした末に、「やっぱりやめた!」と言い出して、仙一郎の制止も振りきり出て行ってしまったのだった。

「またあの男は……! 人を馬鹿にしているのか!?」仙一郎は畳を掻いてじたばたと悶絶した。

 そういうわけで、

「こちとらお預け食らった犬の気分だ。 今度来たら絶対に置いていかせるからな!」

 と心に誓っていた主が、今日再び現れた板前を見て、ここで会ったが百年目とばかりに鳥の奪い合いをするのも無理からぬ話ではあった。
 新吉もさすがに疲労困憊であるらしい。今日は鳥籠を抱えて逃げ去るのではなく、何かもじもじと言いたそうにしていた。

「こいつは、そのう……実は、昔の女が置いていった鳥なんです。だから、その……」

 途端に、ほう、と仙一郎がころりと表情を変えた。

「お前さんも隅におけないねぇ。で……いい女でしたか」

 聞きたいのはそこか、とお凛は半眼になった。

「いや、まぁ……それは、そうですねぇ」

 新吉が目元を染めて曖昧に頷く。

「ですが金遣いの荒い女で……」
「骨までしゃぶられて捨てられたわけですか?」
「そんなこたどうだっていいじゃないですか、もう!」

 男の声が裏返った。図星だろうか。

「いやわかる。わかるよわかりますともその気持ち! ちょっと聞いてくださいよ、私の贔屓の辰巳芸者のつれないこと。神田川のあゆ並みにつれないんだこれが」

 突如、主が拳を握って嘆き出した。

「先月なんて新しい着物を作ってやって、酒井抱一大先生の扇子もあげて、鼈甲の櫛も買ってやって、深川八幡の松本屋で遊んだってのにね、少しこう手を撫でさすっただけで三弦の撥で殴るんですよぉ。まぁそれも意外といいもんなんですけどね。でもちょっとひどかありませんか?」
「そ、そりゃひでぇ……」我がことのように顔を引き攣らせた新吉が、「ーーいや、旦那さんの女難なんぞ知ったこっちゃねぇですよ」と憮然とする。
「そう言わずに聞いてくださいよ。染はそりゃうわばみの上に気はきついけど弦が絶品のいい女で、梅はやさしいけど貢がせる手練手管がまぁ、百戦錬磨の花魁も真っ青ってなくらいでね、でもいっとう踊りがいいんだなこれが。わかっちゃいるけど惚れた弱みっていうか」
「えっ……二人も侍らせてんのかいこの罰当たり!独り占めすんじゃねぇ!」

 目を剥いて羨ましそう身悶えしてから、新吉ははっと我に返って咳払いした。

「──ですからね、そういうわけで……この鳥にはちいっと思い入れがあるんですよ」

 この鳥は、半年ほど前、新吉がお伊予という恋女房と暮らしている長屋に迷い込んできたのだという。
 お伊予は二十二の、湯島天神近くにある味噌問屋の一人娘で、輝くような美貌なのだそうだ。ところがこのお伊予、蝶よ花よと育てられたせいか、十七、八になると立派なわがまま放題の放蕩娘となっていた。悪い仲間とつるんで遊び歩いているうちに、博徒崩れのような男に引っかかり、仲町の悪所に程近い小屋で遊び暮らしていたという。
 仙一郎は同類相憐れむ眼差しを新吉に向けた。

「で……お前さんもその娘の欲望の餌食となって、油かすか出がらしの茶葉みたいに金を搾り取られた挙句、捨てられたわけですか。そいつぁ辛い。ひどい話だ。男だってね、ほんとに辛い時ぁ泣いていいんですよ。ねぇ、泣いて……うっ……ぐすっ、うぐうっ……!」
「あんたが泣いてどうするんですよ! 大体ね、旦那さんと一緒にしないで下さいよ。 あたしたちは惚れあってたんですからね」

 男が憤慨しながら力説する。
 お伊予は新吉にぞっこんで、何もかも捨てると言って新吉の長屋に転がり込んできたらしい。
 丁度一年ほど前の初夏のことだった。お伊予は破落戸まがいの男に嫌気がさして、さりとて実家へ戻る気にもならず、ふらふらと永代橋を対岸に渡ったのだという。永代橋西詰広小路を冷やかし、豊海橋も渡ってあてどもなく賑やかな港町をさまよっているうちに、日が暮れてきた。茜色に染まる新堀の流れを見下ろしながらぼうっと佇んでいる娘に、偶然通りかかった新吉が目を留めた。

「おい、そこのあんた。大丈夫かい?」

 今にも水に飛び込みそうな風情で、抜け殻のように突っ立っている姿を見ると、思わず声を掛けていた。
 無防備な表情でこちらを見た女と目があった途端、うなじの毛が逆立つような身震いを覚えた。

「なんていうんでしょうねぇ、赤縄せきじょうで結ばれた相手ってのはあるんだなぁ、なんて思いましたっけね」

 と気恥ずかしげに鬢を掻く新吉の様子とは対照的に、仙一郎は耳の穴を小指でこじりつつ、けっ、とばかりに障子の間に見える庭の方を向いている。まったく大人気の欠片もない主だ。

「あっしは新堀近くの『波膳なみぜん』て小さな料理屋で働いておりましてね。お伊予が金もないし家にも戻れねぇっていうんで、とりあえず店の台所に連れてって飯を食わせてやったんでさ」

 真面目一徹の新吉は波膳で十七の年から修行を積み、今や板前の頭である本板を務めるほどの腕前だった。賄い料理の余りの鰹の浅煮を小鉢に盛り、出汁をきかせたとろとろの自然薯を丼の飯にかけ、糠漬けの胡瓜と削りたての鰹節を載せて出してやると、お伊予はあまりの美味さに涙ぐむほど感激したのだという。

「舌が蕩けるんじゃないかしら。平清にだって負けやしない。」と魂を奪われたように言うので、

「こんなもんで大げさだな」と新吉は照れた。

「ほんとうよ。新吉さん、そのうちお江戸で一番の板前になると思う」

 きらきらと澄んだ双眸を輝かせるお伊予の顔を、吸い込まれたように見詰め返した。

「……あんたが言うなら、そうなる気がするよ」

 そう囁いた時には、「互いにもう、ぞっこん惚れ込んじまっていた」のだそうな。
「へーえ、そいつぁよかったですねぇー」仙一郎が平べったい声で相の手を入れ、火のついていない煙管を親の仇のごとく噛みはじめる。

──その日から、お伊予は堀留町の新吉の棟割長屋で暮らしはじめた。
 お伊予の実家の味噌問屋には、知らせなかった。

「今更合わせる顔なんてないし……もういいのよ」とお伊予は言葉少なに、しかし頑として言い張ったのだった。

 二人の暮らしは、楽しかった。可憐な新妻は掃き溜めに鶴が舞い降りたかのようで、明るく人好きのする性格は長屋の住民にも好かれた。下手くそな料理も、つたない繕い物や掃除も、かえっていじらしく思われた。忙しい合間を縫って新吉が料理の腕をふるうと、お伊予はことのほか喜んだ。「あんたの料理はお江戸一」と蕩けるように微笑みながら、最初に新堀で新吉と出会った時のことを嬉しげに、繰り返し語る妻ほど愛らしいものはなかった。
 赤い鸚哥が部屋に舞い込んだのは、その年の夏の終わりのことだった。

「庭を向いた障子を開けておいたら、入り込んで来たんですよ」

 狭い長屋の内を飛び回る鳥を、お伊予は飼いたいと言った。

「放したらかわいそうよ。冬になったらきっと死んじまうわ」

 そう懇願するので、新吉は器用な手先を生かして鳥籠を作ってやった。
 明るい歌声で囀る華やかな赤い鳥は、若い夫婦の暮らしにますます幸福な彩りを添えるようだった。
 二人して鳥を眺めながら、新吉はささやかな幸せを噛み締めていた。

「憂いは何もありゃしないと、思っておりやした」

 ただ、一点を除いて。

「……お金、ですか」

 お凛がこそりと尋ねると、男は疲れた表情で首肯した。仙一郎が忌々しげに煙管を噛むのを止めて、つうっと新吉に視線を向ける。
 新妻は、金の使い方が荒かった。いや、下手だった。何度教えても、ものの質と値を比べ、慎重に選ぶということが出来なかった。高価な魚や米、砂糖、味醂にはじまり、菓子だの酒だのに新吉の稼ぎを注ぎ込んでしまう。本板である新吉の稼ぎは悪くはないが、いずれ暖簾分けしてもらい自分の店を持つ夢があるから、切り詰められるだけ切り詰めて生きてきたのだ。無駄にできる金は一文だってなかった。元は九尺二間の狭い棟割長屋に住んでいたのを、所帯を持ったのだからと六畳一間に四畳の中二階、さらに裏庭がある割長屋へ移った。これで家賃四〇〇文が八〇〇文と倍になったのだ。これ以上の贅沢などとんでもない。
 それなのに、

「とっても美味しそうだったから……」と、妻は勧められるまま、見境なしに高いものをほいほい買ってしまうのだ。
 着物が少し傷めば古着屋へ行かずに新品を誂えようとし、下駄や草履がちょっと古びたら人にやってしまおうとする。いい鴨がいるらしいと聞きつけて、押し売り紛いの連中が長屋を訪ねてきては、あの手この手で品物を売りつけようとすることが増えた。これでは暖簾分けしてもらっても店など到底立ち行かない。そう言い聞かせるのだが、やはりお伊予には我慢がきかなかった。

「これ、どうかしら。お前さんに使ってもらおうと思って」

 ある日、袱紗に包んだ出刃包丁を手渡され、新吉は驚愕した。
 見るからに高級品とわかる、青白く輝くような出刃だった。いったいいくらで押し売られたのだと気が遠くなった。
 三つ子の魂百までというわけか。父親は左官で、母親は洗い張りをする倹しい家に育った新吉とは、まるで見ている世界が違っていた。深川で一緒に暮らしていた破落戸とやらは、それほどまでに金回りのいい男だったのか、と嫉妬とも憎悪ともつかない気持ちまで腹に湧き上がってくる。
 思わず張り倒し、いい加減にしやぁがれ、この金食い女、あばずれ、などと罵ってしまった。
 鳥籠の中で赤い鳥が激しく囀っていた。ばさばさと羽ばたいて、血しぶきのように赤い羽が飛び散った。
 お伊予が唖然とし、それからみるみる青ざめてよろめいた姿を今もはっきり覚えている。
 張られた頬を手で押さえ、お伊予は涙を飲み込みながらじっと新吉を凝視すると、つるべ落としの晩秋の夕暮れの中長屋を飛び出して……
 そのまま、帰っては来なかった。

「誰にも、何も言わずに消えちまったんです。ご番所も探してくだすったんですが……後の祭りでさぁ」

 項垂れた新吉が、重く嘆息した。
 お伊予の足取りは霞の如く、綺麗さっぱり消えてしまったのだった。
 後に残ったのは、お伊予の持ち込んだ手回りの品や着物、それに、赤い鸚哥だけだった。
 ひとりきりになった長屋で、異国の響きを思わせる華麗な囀りを聞きながら、新吉は魂が抜けたようにただ呆然としたのだった。 
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