深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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生き人形(四)

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 仙一郎の朝餉なんぞうっちゃっておき、命じられるまま駕篭を二挺掴まえ、本所の万年屋へと一目散に向かった。
 涼しい秋風が頬を撫で、爽やかな一日を予感させる気持ちのよい朝であるが、出し得る限りの早さでぶっとばす駕篭の中で揺すぶられ、汗だくになって掴まり紐にかじりついているお凛は、舌を噛まないようにするのが精一杯だった。

(なんてことだろう。まさか本当に歩くなんて……)

 駕篭の中であっちこっちに体をぶつけながらも、そればかりが頭を巡る。心ノ臓がうるさく打ち続け、目の前にはしきりと着物をひきずって歩く人形の姿がちらついている。万年屋に何か悪いことが起きている予感がしてならなかった。
 今朝、掃除をしようと小座敷の唐紙を開いて目を上げると、そこには古ぼけた小さな箪笥が、忘れられたように部屋の隅っこにあるのが見えるばかりだった。箪笥の上で、いつもなら頑是ない様子で足を投げだし座っている市松人形は、忽然とその姿を消していた。細かな埃が仄明るい空気の中に漂う小座敷で、お凛はしばし箒を握り締めて呆けたように立ち竦んだのだった。

「……あの加賀友禅を着せたかい?」と縁側で仙一郎が尋ねた。
「は、はい」箒を掴んだままお凛は頷いた。「旦那様がどうしてもとおっしゃるし、試しに着せ替えてみようかと思って」
「ーーははぁ、だからか……」

 主はきらりと瞳を光らせてそう呟くと、愉快そうな笑みを唇に浮かべたのだった。

 一ツ目橋を越えて駕篭を降り、万年屋の店構えが目に入ると、汗まみれでよろけながらも、走り出さずにはいられなかった。
 朝餉も食べていないというのにやたらと元気な仙一郎と先を争うようにして、行き交う人の間を縫って行く。

「いやまったく、とうとう歩いたとは……一日千秋で待ちわびたよ。感極まるねぇ」

 という嬉しそうな声が耳に届いた。赤子が初めて歩いた父親のようなことを、また零している。あまりの屈託のなさに、おかしいのは自分の方か、人形が歩くというのは実際目出度いことであっただろうか、とお凛は一瞬己の常識を疑った。……いやいやいや、どう考えても異常に決まっている。まともなのは己の方だ。気を確かに持て、私。

「ごめんください」静まり返った店の内で声を張り上げたが、人影がない。二人は店の脇を通り抜けて勝手口へと回ってみた。

「もし、木場の仙一郎ですが、ちょっと伺いたいことが……」

 少し開いた勝手口から声を掛けた途端、ひゃあっ、と中で悲鳴が上がった。それから勢いよく戸がすべり、出てきたのは昨日の手代と、男女の奉公人たちであった。

「……あ、ああ、これは仙一郎様!丁度いいところに」

 手代が今にも気を失いそうな形相で、すがりつかんばかりに寄ってきた。

「出ましたか」当たりくじでも引いたのかというように、仙一郎が嬉々としながら訊ねると、
「出ました、出ました!」と奉公人らが今にもぶっ倒れそうな白い顔をして口々に言う。
「気がついたら旦那様とお内儀様のお部屋の廊下に立っていて、すうっとこう……歩き過ぎて行ったんだそうです」

 ほほう、と主の目が嬉しそうに輝くので、お凛は軽く咳払いをした。

「追いかけましたか?」
「いやいや、そんな恐ろしいことできませんです。旦那様が泣き叫ぶのを皆で宥めるのに精一杯で……」
「ーー坊ちゃんは、どうしてましたか」

 仙一郎が不意に言った。

「坊ちゃんでございますか?坊ちゃんはお眠りになっておられました。一度お眠りになると滅多なことではお目覚めになりませんので……ああ、この騒ぎでまだお部屋に誰も伺っていなかったかも。今もお眠りかもしれません」

 奉公人の一人が答えると、主は、ふむ、と何だか怪訝そうな顔つきになり、頬をさすりながら考え込んだ。

「あのう、お屋敷にあった人形は……」女中が恐る恐る口を開く。
「それがですねぇ、夜の内に歩き出したらしくて、消えちまったんですよ」

 不謹慎な笑みを浮かべて仙一郎が応じると、ひぃっ、とも、きゃあ、ともつかない声が奉公人たちの間から上がった。

「やっぱり、万年屋は祟られているんだよ。旦那様がさんざん恨みを買っておいでだから……」
「うかゐの時なんか、本当に酷かったもんねぇ。鬼みたいな所業をなさる」
「だから申し上げたんだよ。店を再建して、ご店主たちを呼び戻さなきゃ酷いことになるってさ。今度こそそうなさるよ、きっと」

 奉公人が一斉に話し出すのを聞きながら、仙一郎がふと額を曇らせた気がした。あれぇ、と呟き奉公人たちを眺めて何事か思料すると、かすかに喉をひくつかせるのが見えた。やがてくつくつと忍び笑いが聞こえ出し、青年はとうとう盛大に吹き出した。
 気でも触れたのであろうか。笑い転げる仙一郎を、お凛がしんと静まり返った奉公人たちと共に凝視していると、

「……いや、大した結束力ですな。悪い主を持つと、奉公人はかえって力を合わせるようになるんでしょうかね」

 仙一郎は肩を揺らしながら、笑いの洪水に息が詰まったかのように目に涙を浮かべる。

「何の話ですか。何が面白いんですか?」お凛が混乱のあまり苛立ったように訊ねるのを、青年は発作に襲われたように時折背中を波打たせながら見下ろし、ゆっくりと奉公人を見回した。

「ーー店を歩き回る人形ってのは、本物の子供でしょう?……清太郎が化けていたんですよねぇ」

 はっと奉公人たちの間の空気が冷える。
 お凛は動きを止めた。それから、自分の顎がかくんと落ちるのを感じた。

「……坊ちゃんが、人形のふりをしていた……?」

 ほっそりと華奢で、父親とは違い繊細な品のいい顔つきをした少年だ。確かに、化けようと思えばできないことはないかもしれない。辻褄は合う。だけど、なぜ坊ちゃんがそんな真似をするのだ。
 狼狽に襲われながら仙一郎を見上げると、主は場違いに朗らかな笑顔を浮かべている。

「皆さんで大層な芝居を打ったもんですねぇ。旦那さんを改心させようとしたわけですか?生き人形の祟りを装って、まっとうな商いをしろと言い聞かせるつもりだったんでしょう」

 いやぁ、面白い筋書きだ、と一人笑いが止まらない様子の青年を、皆が凍りついたように凝視していた。

***

「おっしゃる通りでございます。言い出されたのは、坊ちゃんでごさいまして……」

 手代に懇願されて、庭にある蔵の陰へと導かれると、手代がぼそぼそと話しはじめた。

「あの市松人形を旦那様がお持ち帰りになられてしばらくの間、ひどく思い詰めておられるご様子だったんですが」
 
 あの父親を懲らしめたいから、協力しておくれ、と清太郎が奉公人たちに頼んだのだという。  

「三尺弱の人形と背丈もお変わりになりませんし、かつらをつけて人形の着物を纏えば、暗がりでは見分けがつくまいとおっしゃいました」

 後は、奉公人が歩く人形を見たとでっち上げて旦那の恐怖心を煽り、旦那自身の目にも触れさせる。これは勝右衛門に煮え湯を飲まされた者たちの怨念だーーと騒ぎ立ててやれば、さすがの勝右衛門も商売のやり方を変えざるを得まいと考えたのだ。

「ーーところが、番頭が余計なことを吹き込んで、仙一郎様に人形を預けてしまって……」

 番頭は勝右衛門の右腕だそうで、他の奉公人らとは心を同じくしていない。従って、この計画にも加えてはいなかったのだ。

「人形が手元からいなくなり、安堵した旦那様は、再び元の非道な商いをはじめようとなさいました」

 もう一度、今度は完膚なきまでに勝右衛門を恐怖させなくてはならぬ。と清太郎と奉公人一同は決心した。

「それで、うちに忍び込んで人形を盗み出したんですか?無茶をするなぁ」

 よくよく他人に侵入される屋敷だ、と仙一郎が笑った。

「ーーいえ、それは手前ではございません。昨夜は行動に移す計画ではございませんでしたので」

 戸惑ったように手代が首を傾げた。

「奉公人の誰かが先走ったのではと存じますが……」
「旦那様、一体いつ気付いたんですか?」お凛が腑に落ちぬ気分で尋ねると、青年は何だか侘しげに言った。
「まぁ、清太郎が人形人形と日参してくる辺りから妙だなと思ったんだよ。うかゐの店主夫婦がどこにいるのかも知れないのに、人形を取り戻してどうするっていうんだ。丁度旦那さんの気が大きくなってきたところで、人形がまたうろつき出すし。都合がよすぎるってもんだ。その上、歩く人形が旦那さんに恨みのある人らの祟りだと、奉公人がまことしやかに話しているんだからさ、出来すぎていやしないか。清太郎と奉公人がぐるになって、人形を使って怪異をでっち上げていそうだと何となく臭ったね。あーあ、やっぱり祟りじゃあなかったか。残念だねぇ。ま、これはこれで面白いからいいか」

 そう仙一郎がぼやいた時、ばたばたと店の奥から慌しい足音が近づいてきた。

「た、大変だ!えらいことになった!」

 屋号を染め抜いた羽織の男が庭にまろび出てきた。番頭だろうか。

「ーーぼ、坊ちゃんが。坊ちゃんが大変だ」蝋石のような顔色に、縮み上がった黒目ばかりがうろうろと泳ぐ異様な様子に、集まってきた奉公人らが一斉に注目する。

「坊ちゃんがどうなすったんで?」
「た、大変だ……」

 番頭さん、と皆が口々に呼びかけるのが聞こえぬように、男は青筋の浮いた額にじっとりと汗を浮かべ、うわ言のように繰り返した。

「どうなすったんですよ!?番頭さん、ねぇ!」

 不安に駆られて掴みかからんばかりに詰め寄る皆も、目に入らぬようだ。
 やがて、焦点の合わない目をした番頭が、ぞっとするような虚ろな声で呟いた言葉に、お凛は咄嗟に手で唇を覆った。

「坊ちゃんが、に、人形になってしまわれた……」

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