深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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化け猫こわい(一)

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 まだ霜月の半ばだというのに、気の早い雪がちらほらと舞っている朝のことだった。庭から砂粒のような粉雪が舞い込んでは、座敷の畳の上に降りると同時に消えていく。
 畳の上をほうきで掃いていたお凛は、一句読めそうな心地になって手を止めた。頭の中に漂うふわふわとした言葉を掴まえる。うん、何か降りて……きた、きたきた。

「ーーうまさうな 雪がちらちら ちらりかな」

 呟いてみてから身震いした。あらいやだ。天才かも。こういうのを霊感が降りてきたって言うんだろうか。己の才能が空恐ろしい。こんなところで、変人の主の奇天烈な趣味に振り回されている場合じゃなかったのかも。

「そりゃあ一茶だろう。うまさうな 雪がふうはり ふわりかなっていう」

 女中を辞めて女流俳人になるべきかと悩みはじめたところに、ふがふがと不明瞭な声が飛んできた。縁側を曲がったところにある茶の間で、主の仙一郎が半纏を着込んで炬燵に足を突っ込み、饅頭を頬張っているのだった。 
 なぁんだ、どこかで聞いたことがあると思ったら、小林一茶の句だったのか。霊感ではなかったらしい、と少々がっかりしていると、無神経な主が追い討ちをかけてくる。

「しかもそいつは、牡丹雪が砂糖菓子みたいに甘そうだって意味なんだぜ。この粉雪じゃあ塩を撒いてるみたいじゃないか。だめだめ、てんで駄目だね。俳句の手ほどきでもしてやろうか?」

 細かいことをねちねちと。この無駄に通人な主もついでに縁側から掃き出してやろうか、と箒を握り締めて抜き足差し足近づいていくと、

「あいてっ!」

 突然、仙一郎が甲高い悲鳴を上げた。
 見れば、青年の手が炬燵の上の皿にある饅頭を掴んでいる……かに見えたが、何だか饅頭がずいぶんと毛深いように見える。
 毛深い饅頭なんぞ買っただろうかと歩み寄って覗き込めば、皿の上にでんと肥えた猫が座っているではないか。

「おい、なんだこの鏡餅みたいな猫は!どこから入ってきた?」

 手を離した仙一郎がきっと眉を吊り上げた。猫は青年にたるんだ尻を向け、焦げ茶の斑のある顔を向けてぺろりと口のまわりを桃色の舌で舐め回している。

「あっ、この!最後の饅頭を食べたぞ、こいつ!おまけに引っ掻きおって!塩瀬の饅頭をよくも……人がせっかく珍しく早起きしたってのに……」

 尻を掴んだ主を、猫は文字通り足蹴にしたらしかった。わざわざこの寒い朝に、日本橋の『塩瀬』まで行って贖ってきたってのに、と仙一郎は身悶えして憤慨している。白いほっぺたのような皮に「志ほせ」の焼き印が押された饅頭は、水を使わず、山芋と米粉を練って、滑らかなこし餡を包んであり、少し固くなってきたところを七輪で炙ってやっても美味しいけれど、やっぱり作りたてがふんわりやわらかでいっとう美味である。普段はだらだら朝寝を貪る仙一郎は、時折この饅頭が無性に食べたくなるらしく、早起きして買い求めてくることがあった。

「あら、猫なんていつ入ってきたんでしょうね。けっこう可愛いじゃないですか」
「お前の目は節穴か!? こんな煮崩れた丸餅みたいな猫の、どこをどう見たら可愛いんだ?さっきの句といい、お前の審美眼には欠陥があるぞ」

 手の甲の傷にふうふう息を吹きかけながら主が目を剥く。
 旦那様よりは可愛いですよ、と内心で舌を出し呟くと、お凛は顎の下を撫でてやった。猫はごろごろと機嫌よさげに目を細める。

「こら、懐かせるな。追い出せ!図々しい奴め」

 饅頭の恨みは深いらしく、大人げなく仙一郎がしっしと手で追いやろうとする。途端に猫が応戦して、太い足に似合わぬ敏捷な動きで足蹴を繰り出す。じとっと仙一郎に据えた目は、実に太々ふとぶとしい……ではなくて、ふてぶてしい。

「あっこのやろ!富蔵、富蔵どこだ。こいつを叩き出せ!」

 庭に向かって仙一郎が叫ぶと、枝折戸しおりどの向こうから下男がぴょこぴょこと走ってきた。

「富蔵、この猫を表に放り出してこい。いや、表じゃあ戻ってくるな。八幡辺りがいい。餌も拾いやすいだろう」
「はぁ、それが、その……」

 猫を睨みつけながら命じる主に、富蔵がごま塩の鬢を掻きながらもごもご言った。

「旦那様。この猫は、お客様方がお持ちになったんだそうでして」
「お客?……が持ってきた?」

 仙一郎の見た目だけは役者のように整ったやや童顔な顔が、怪訝そうな表情を浮かべる。

「するとこいつは、いわく因縁つきってわけかい?猫又にしちゃあしまりがないねぇ。それに、生ものを預かるってのはちょいと厄介だなぁ。そんなこと引き受けたためしがない」

 青年は胡散臭そうに猫を睨みつつ、腕組みして唸った。
 すると、富蔵は柄にもなく上ずった声で答えた。

「それはそうなんでございやすが……と、とにかく、表へお出迎え下さいまし。失礼があっては一大事でございますんで」

 柔和な目を落ち着かなげにうろうろとさせる下男を見て、仙一郎とお凛は首を傾げたのだった。

***

 障子を閉てきった座敷に、昼でも薄く淡い冬の日が透け、時折ちらちらと細かな雪の影が過っている。けれども、かんかんに火をおこした長火鉢に、優美な染付けを施した手焙りも置いた座敷はほっこりと暖かい。先ほどの猫は手焙てあぶりの側にふやけた饅頭よろしく寝転がり、ごろごろと喉で満足そうな音を立てている。実にほのぼのとした景色である。それにもかかわらず、そこにいる人間の間には、ぴんと張り詰めた冬の朝のような空気が漂っているのだった。
 座敷に茶と茶菓子を運んできたお凛は、そっとお客人たちを窺った。
 一人は羽織に小袖袴の武士で、微動だにせず背筋を伸ばして端座し、腰には脇差を帯びている。屋敷には貴人の訪問がある時のために式台玄関が設けられているが、そこで打刀を預かったお凛は、袂に包んだ刀の重さに内心どきりとした。屋敷にお侍が訪れたことなどついぞなかったことで、落としたりぶつけたりしたらえらいことだと冷や汗をかく思いだった。
 お侍は一人ではなく、若い女人を連れていた。座敷で埃よけの揚帽子あげぼうしを取ったその人は、白百合が咲いたかと思うようなしっとりと臈たけた風情をしていた。椎茸髱しいたけたぼに絹の打掛を纏った装いからすると、どこぞの姫様ではなく奥女中だろうか。二十そこそこの、理知的な目をした、しかしどこか寂しげな美女を前に、仙一郎の目が見る間に爛々と輝き出すのをお凛はもちろん見逃さなかった。
 
(それにしても、お武家様がお客様だなんて、珍しいこともあるものね)

 おまけに、猫を持ち込むとはどういうことか、と茶を出しながら内心でしきりに頭をひねっていると、

「それがしは長岡慎之介と申す。話に聞くあやかし屋敷の主とは、その方か」

 きりりとした顔つきの、三十にはなるまいと思われるお侍が口を開いた。

「はい。手前が仙一郎にございます。……で、お武家様が私にいかなる御用でございましょうか?」

 のんびりとした口調で仙一郎が尋ねると、生真面目そうなお侍が小さく頷いた。

「実は、その方には頼みがあって参った。……この、おみょうどのと猫を、預かってはくれまいか」
「……は?」

 お凛が、えっ、と耳をそばだてると、仙一郎も寸の間唖然として、お侍と猫とおみょうというらしい娘を順繰りに見た。

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