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たたり振袖(五)
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深川八幡というのは、そもそも永代寺を別当として永代寺の広大な敷地に創建されたものである。要するに寺の中に神宮があるわけで、よく考えると同居させられておわす神仏の居心地はいかに、と思わなくもないのだが、その辺りはまことに大らかというか、大雑把というか。神仏喧嘩せずというところなのか。ありがたいものはてんこ盛りにしてしまえという精神が、いかにも江戸らしいなどとお凛は思う。
その八幡様の境内は、これまた大らか極まりないことに水茶屋や茶屋がひしめき合い、およそ神域とも思われぬ歓楽地の様相を呈している。高級茶屋として名を馳せる『伊勢屋』と『松本屋』も、この境内にあった。
「伊勢屋へ行きたかった……」
その八幡様の境内の水茶屋で麦湯を啜りながら、仙一郎がぼやいた。
「お菊さんもあそこで遊べば元気が出るんじゃないかなぁ。ああ、三味線の音色が聞こえてくるようだ」
「元気が出るのは旦那様だけでしょう。芸者と遊びながら、どうやって呪いや祟りの話をしようっていうんですか?」
未練がましく二軒茶屋の方角を見つめる主にぴしりと言うと、お凛は床机に腰かけてじっと茶碗を見下ろしているお菊に顔を戻した。
振袖を燃やしてくれと必死の形相で訴えるお菊に面食らい、ひとまずどこか落ち着いた場所へ、とここへやってきたのだった。
「……お菊様、あの、大丈夫ですか」
おずおずと声をかけると、相変わらず思いつめた表情で唇を引き結んでいた娘が、我に返ったように顔を上げた。
「はい。みっともないところをお見せして、大変失礼をいたしました」
「……旦那さんのお話では、ずいぶんお元気になられたと伺ったんですが……やっぱりそうそう吹っ切れるものじゃありませんよねぇ。恐ろしい思いをなすった上に、ご縁談も流れてしまったとなれば」
旦那様、と眉を寄せるお凛の横で、仙一郎が深刻そうにお菊の顔を覗き込んで言った。
一瞬、どういう顔をしたものかと迷うように、お菊が目を泳がせた。
「ええ……そうですね。もうすっかり忘れたと思うと、急に思い出されたりしますもので」
そうでしょうねぇ、と深く頷いた仙一郎が、お菊にすうっと体を寄せた。
「しかし、あれはもう私がしっかりとお預かりしておりますから。何をお悩みになることもありません。もうすっかりお忘れになった方がいいと思いますよ。
──というわけで、ぱぁっと遊びに行きましょうか。舟遊びはお好きですか?」
などとあらぬ方へ話を持っていこうとする。
「い、いいえ。そういうわけにはいかないのです。あれは恐ろしいものです。私が燃やしてしまいますから、お返し願えませんでしょうか」
再びお菊が固い声で言い出したので、お凛と仙一郎は思わず顔を見合わせた。
「……元はと言えば、あの振袖はとある大店のお嬢さんが、見合いの席に用意したものなのだそうです。けれど、お嬢さんは急死なすって、振袖は人手に渡って転々とした挙句、当店へ辿り着いたのだと聞きました。ですから、あれにはお嬢さんの未練と怨念が篭もっているのではないかと思うのです」
お菊が唇をふるわせながら囁く。
「あの振袖を羽織ったのも、今となっては正気ではなかったのだとしか思えません。私……頭の中で声を聞いたんです」
「声、ですか」
仙一郎がすっと声を落とすと、ええ、と娘が怯えるように目を瞠った。
「恨めしい。幸せそうなお前が恨めしい。私を羽織れ。お前を……」
──燃やしてやる。
「……そう、声が響いて、気がついたらあれを身にまとっておりました」
夏の終わりの日差しの暑さと、鋭い蜩の鳴き声が、急に遠くなった気がした。
禍々しい女の声を頭の中に聞いた気がして、お凛は柄にもなくぞくりとする。
「きっと、悪いことが起こります。どうか、どうか、お願い申し上げます……」
まつ毛に白玉のような涙を溜めたお菊が、絞るように言った時、
「お嬢様!」
境内を一直線に走ってくる男が叫ぶのが耳に届いた。
「藤吉……」
慌てたようにお菊が立ち上がったところに、藤吉が息せき切って駆けつけた。
「ああよかった。急にお姿が見えなくなったというんで、皆大騒ぎしていたんですよ。仙一郎様とご一緒でしたか。……あのう、何かございましたので」
額に大粒の汗を浮かべながら、藤吉は仙一郎の顔をうかがうように見上げる。お菊は咄嗟に頬を固め、言葉に詰まった様子だった。
「──いや、実はですね、お菊さんを舟遊びにお誘いしていたところなんですよ。しかし、見事にふられてしまいました」
いきなり仙一郎が気恥ずかしげに言い出した。
「店の外でちらっとお姿をお見かけしたら、眩いばかりのお美しさで……いやもう、矢も盾もたまらず。ですが、まだ遊びに出かけるようなお心持ちには到底なれないと叱られてしまいました。
まったく無理もございませんね。私としたことが、見境のないことをしてしまいました。お菊さん、どうか堪えてやってください。藤吉さんも、この通りです」
立て板に水のごとくすらすら述べつつ、深々と頭を下げる青年を、お菊と藤吉がぽかんとして眺めている。恐るべき口八丁だ。だが、お菊の気まずそうな様子を察して、助け船を出してやったらしい。
「い、いえ、どうぞお手をお上げくださいまし」
「滅相もございません、どうか」
お菊と藤吉が泡を食って口々に言うのを聞くと、主は殊勝そうにもう一度頭を下げ、にこりとした。
「それにしても、藤吉さんは心底お嬢さんを心配しているんですねぇ。これほど忠義な手代がいるとは、すえ吉さんはご安泰だ。きっと奉公して長いんでしょうね?」
「い、いいえ。手前など、まったく未熟者でございまして」
何やら暑さのためではなさそうな汗を額に浮かべ、藤吉が恐縮する。
「手前は四年ほど前まで、須田町にある油屋の手代を務めておりました。しかし、事情があって店を離れまして、そこをすえ吉の旦那様に拾っていただいたのです」
「ほう、油屋の。そうでしたか」
仙一郎は意外そうに目を瞬かせた。
「ですので、すえ吉の旦那様とご一家の方々には、お返ししきれぬご恩がございます。店に置いていただけるだけでも、ありがたく存じております」
そう言いながらお菊を見た藤吉の鋭い目がふわりと緩む。さっきもこの表情を見た、とお凛は思い返していた。すえ吉の旦那様の清兵衛が、お菊さんの話をしていた時だった……
「藤吉は誰よりも身を粉にして働き、店に尽くしてくれます。藤吉なしでは店は立ち行かないと、父や番頭がいつも申しておりますほどで」
お菊が美しく唇を引いて微笑んだ。
「──なるほど……」
仙一郎は考え深そうに頷くと、お菊の言葉にすっかり畏れ入った様子の藤吉を眺めて、不思議な笑みを浮かべた。
***
「幸せ……」
台所続きの板敷で、口の中で越後屋若狭の練り切りを味わいながら、お凛は一人身ぶるいした。
本日の若狭の練り切りは、秋を先取りした桔梗と、薯蕷練切の萩である。技の極致と美意識の限りを尽くした細工は、黒文字を入れるのが罪に思われるほど完璧だ。もっちりと滑らかな生地と、極上の白こし餡が舌の上で溶け合うと、幸福のあまり気が遠くなる。
「……これを食べないなんて、もったいない」
はぁ、と嘆息しながらうっとりと呟いた。
仙一郎は、屋敷に戻るなり「用事を思い出した」とかなんとか言い出して、実家である『柳亭』へ出かけてしまったのだった。
そんなことを言って、仲町へ梅奴だか染吉だかに会いに行っているのではあるまいか。とも思うのだが、菓子を食べていいという許しも得たので不満はない。下男の富蔵と、台所女中の江津にもお裾分けをしてたいそう喜ばれた。主の面妖な趣味に付き合わされるのは厄介だが、こういう役得は大歓迎だ。などと思っていると、夕焼けを背負った当の主が、勝手口にひょっこり顔を覗かせた。
「あら、旦那様、そんなところから。お帰りなさいませ……」
「ああっ、そんなに平らげちまって!」
いきなり悲鳴のような声を発し、仙一郎が駆け寄ってくるなり折詰を覗き込んだ。
「六つもあったのに、一つしか残っていないじゃないか」
「だって、富蔵さんたちにも分けましたから……それに、食べていいとおっしゃったじゃありませんか?」
「お前ねぇ、だからって本当に全部食べる奴があるか? 遠慮というものを知らんのかまったくもう」
「いいじゃありませんか。私が体を張ったご褒美なんでしょう?」
何よ、けちけちと、とお凛が黒文字を最後の一つに伸ばしかけると、仙一郎が慌てふためいて折詰を抱え、きっと睨んだ。
「お前、怒っているんだな。私が仲町で遊んできたと思っているんだろう」
「違うんですか?」
「いや、違っていないことはない」
どっちだ。
「しかし、ちょっと顔を見てきただけだ。いや、梅がどうしてもというんで、差しつ差されつして少々遊んだけどさ。何しろ浅草まで行ってきたんだから、長居する暇もなかったんだよ」
「あら、本当に浅草へお出でになっていたんですか」
「──お前は少し主を信用しなさい」
何という女中だ、と仙一郎が嘆かわしげに天を仰ぐ。
「もう行かないとと言ったら、梅に座布団を投げつけられたしさ。もてる男は辛いよね」
「あのう、私は別に、旦那様が辰巳芸者に入れあげても一向に構いません」
お凛が真顔で言う。
「またまた、そんなことを言って」
途端にへらへらと笑う主を見ていると、座布団などではなく、梅奴に足蹴にされたらよかったのにとしみじみ思う。
「……ですが、早くお帰りにならなくともよかったんじゃありませんか。ご用はもう終わったんですよね?」
夕餉の支度にかかろうと腰を上げると、淡い青の濃淡が美しい桔梗の練りきりを指でつまみ、ぱくりと食べて仙一郎が首を傾げた。
「うん、まあね。でも、本命は違うんだな」
「本命って、何ですか」
たすき掛けをしながら尋ねるお凛に、青年は、うーん、と口をもぐもぐさせながら唸った。
「その内にわかる、かな。たぶん」
よくわからない返答にお凛は怪訝な顔をしたが、仙一郎はそれ以上語るつもりはないらしく、うまいなぁ、とうっとりしている。
「……そういえば、先ほどはお菊様を庇っていらっしゃいましたよね。どうしてですか?」
「庇っていた? そうだったっけ。……いや、うまいねぇこれ。あーあ、全部食べちまって……」
うちの奉公人は血も涙もない、と嘆く仙一郎を、お凛は煙に巻かれた心地で眺めていた。
***
──件の振袖が燃えたのは、その夜のことだった。
「火事だぁ!」
富蔵の割れ鐘を突くような大声にお凛は飛び起きた。咄嗟に頭に浮かんだのは、あの振袖だった。
廊下を全速力で走って茶の間へ向かうと、中庭に火の気があった。
だだっと黒い影が庭を走ってきたかと思うと、ざばっという音と共に水が月光に輝き、燃え上がった振袖にざんぶとかかる。目を凝らせば、それは寝間着姿の仙一郎だった。追って富蔵も桶を抱えて突っ走ってきてざばっと着物に水を浴びせる。幸い、それで大方の火は消えたらしく、焦げ臭い煙を立ち昇らせる振袖には、もう炎は見えなかった。
「……やれやれ、もう大丈夫かな」
振袖の側にしゃがみこみ、仙一郎が平静な声で言った。
「振袖が……」
呆然と呟いて、お凛は己の膝がふるえているのに気がついた。話に聞くのと、実際に目にするのとでは大違いだ。
──燃やしてやる。
呻くような女の声が聞こえた気がしてぎくりとする。
空耳だ、と思いながら、足のふるえを抑えることができなかった。
その八幡様の境内は、これまた大らか極まりないことに水茶屋や茶屋がひしめき合い、およそ神域とも思われぬ歓楽地の様相を呈している。高級茶屋として名を馳せる『伊勢屋』と『松本屋』も、この境内にあった。
「伊勢屋へ行きたかった……」
その八幡様の境内の水茶屋で麦湯を啜りながら、仙一郎がぼやいた。
「お菊さんもあそこで遊べば元気が出るんじゃないかなぁ。ああ、三味線の音色が聞こえてくるようだ」
「元気が出るのは旦那様だけでしょう。芸者と遊びながら、どうやって呪いや祟りの話をしようっていうんですか?」
未練がましく二軒茶屋の方角を見つめる主にぴしりと言うと、お凛は床机に腰かけてじっと茶碗を見下ろしているお菊に顔を戻した。
振袖を燃やしてくれと必死の形相で訴えるお菊に面食らい、ひとまずどこか落ち着いた場所へ、とここへやってきたのだった。
「……お菊様、あの、大丈夫ですか」
おずおずと声をかけると、相変わらず思いつめた表情で唇を引き結んでいた娘が、我に返ったように顔を上げた。
「はい。みっともないところをお見せして、大変失礼をいたしました」
「……旦那さんのお話では、ずいぶんお元気になられたと伺ったんですが……やっぱりそうそう吹っ切れるものじゃありませんよねぇ。恐ろしい思いをなすった上に、ご縁談も流れてしまったとなれば」
旦那様、と眉を寄せるお凛の横で、仙一郎が深刻そうにお菊の顔を覗き込んで言った。
一瞬、どういう顔をしたものかと迷うように、お菊が目を泳がせた。
「ええ……そうですね。もうすっかり忘れたと思うと、急に思い出されたりしますもので」
そうでしょうねぇ、と深く頷いた仙一郎が、お菊にすうっと体を寄せた。
「しかし、あれはもう私がしっかりとお預かりしておりますから。何をお悩みになることもありません。もうすっかりお忘れになった方がいいと思いますよ。
──というわけで、ぱぁっと遊びに行きましょうか。舟遊びはお好きですか?」
などとあらぬ方へ話を持っていこうとする。
「い、いいえ。そういうわけにはいかないのです。あれは恐ろしいものです。私が燃やしてしまいますから、お返し願えませんでしょうか」
再びお菊が固い声で言い出したので、お凛と仙一郎は思わず顔を見合わせた。
「……元はと言えば、あの振袖はとある大店のお嬢さんが、見合いの席に用意したものなのだそうです。けれど、お嬢さんは急死なすって、振袖は人手に渡って転々とした挙句、当店へ辿り着いたのだと聞きました。ですから、あれにはお嬢さんの未練と怨念が篭もっているのではないかと思うのです」
お菊が唇をふるわせながら囁く。
「あの振袖を羽織ったのも、今となっては正気ではなかったのだとしか思えません。私……頭の中で声を聞いたんです」
「声、ですか」
仙一郎がすっと声を落とすと、ええ、と娘が怯えるように目を瞠った。
「恨めしい。幸せそうなお前が恨めしい。私を羽織れ。お前を……」
──燃やしてやる。
「……そう、声が響いて、気がついたらあれを身にまとっておりました」
夏の終わりの日差しの暑さと、鋭い蜩の鳴き声が、急に遠くなった気がした。
禍々しい女の声を頭の中に聞いた気がして、お凛は柄にもなくぞくりとする。
「きっと、悪いことが起こります。どうか、どうか、お願い申し上げます……」
まつ毛に白玉のような涙を溜めたお菊が、絞るように言った時、
「お嬢様!」
境内を一直線に走ってくる男が叫ぶのが耳に届いた。
「藤吉……」
慌てたようにお菊が立ち上がったところに、藤吉が息せき切って駆けつけた。
「ああよかった。急にお姿が見えなくなったというんで、皆大騒ぎしていたんですよ。仙一郎様とご一緒でしたか。……あのう、何かございましたので」
額に大粒の汗を浮かべながら、藤吉は仙一郎の顔をうかがうように見上げる。お菊は咄嗟に頬を固め、言葉に詰まった様子だった。
「──いや、実はですね、お菊さんを舟遊びにお誘いしていたところなんですよ。しかし、見事にふられてしまいました」
いきなり仙一郎が気恥ずかしげに言い出した。
「店の外でちらっとお姿をお見かけしたら、眩いばかりのお美しさで……いやもう、矢も盾もたまらず。ですが、まだ遊びに出かけるようなお心持ちには到底なれないと叱られてしまいました。
まったく無理もございませんね。私としたことが、見境のないことをしてしまいました。お菊さん、どうか堪えてやってください。藤吉さんも、この通りです」
立て板に水のごとくすらすら述べつつ、深々と頭を下げる青年を、お菊と藤吉がぽかんとして眺めている。恐るべき口八丁だ。だが、お菊の気まずそうな様子を察して、助け船を出してやったらしい。
「い、いえ、どうぞお手をお上げくださいまし」
「滅相もございません、どうか」
お菊と藤吉が泡を食って口々に言うのを聞くと、主は殊勝そうにもう一度頭を下げ、にこりとした。
「それにしても、藤吉さんは心底お嬢さんを心配しているんですねぇ。これほど忠義な手代がいるとは、すえ吉さんはご安泰だ。きっと奉公して長いんでしょうね?」
「い、いいえ。手前など、まったく未熟者でございまして」
何やら暑さのためではなさそうな汗を額に浮かべ、藤吉が恐縮する。
「手前は四年ほど前まで、須田町にある油屋の手代を務めておりました。しかし、事情があって店を離れまして、そこをすえ吉の旦那様に拾っていただいたのです」
「ほう、油屋の。そうでしたか」
仙一郎は意外そうに目を瞬かせた。
「ですので、すえ吉の旦那様とご一家の方々には、お返ししきれぬご恩がございます。店に置いていただけるだけでも、ありがたく存じております」
そう言いながらお菊を見た藤吉の鋭い目がふわりと緩む。さっきもこの表情を見た、とお凛は思い返していた。すえ吉の旦那様の清兵衛が、お菊さんの話をしていた時だった……
「藤吉は誰よりも身を粉にして働き、店に尽くしてくれます。藤吉なしでは店は立ち行かないと、父や番頭がいつも申しておりますほどで」
お菊が美しく唇を引いて微笑んだ。
「──なるほど……」
仙一郎は考え深そうに頷くと、お菊の言葉にすっかり畏れ入った様子の藤吉を眺めて、不思議な笑みを浮かべた。
***
「幸せ……」
台所続きの板敷で、口の中で越後屋若狭の練り切りを味わいながら、お凛は一人身ぶるいした。
本日の若狭の練り切りは、秋を先取りした桔梗と、薯蕷練切の萩である。技の極致と美意識の限りを尽くした細工は、黒文字を入れるのが罪に思われるほど完璧だ。もっちりと滑らかな生地と、極上の白こし餡が舌の上で溶け合うと、幸福のあまり気が遠くなる。
「……これを食べないなんて、もったいない」
はぁ、と嘆息しながらうっとりと呟いた。
仙一郎は、屋敷に戻るなり「用事を思い出した」とかなんとか言い出して、実家である『柳亭』へ出かけてしまったのだった。
そんなことを言って、仲町へ梅奴だか染吉だかに会いに行っているのではあるまいか。とも思うのだが、菓子を食べていいという許しも得たので不満はない。下男の富蔵と、台所女中の江津にもお裾分けをしてたいそう喜ばれた。主の面妖な趣味に付き合わされるのは厄介だが、こういう役得は大歓迎だ。などと思っていると、夕焼けを背負った当の主が、勝手口にひょっこり顔を覗かせた。
「あら、旦那様、そんなところから。お帰りなさいませ……」
「ああっ、そんなに平らげちまって!」
いきなり悲鳴のような声を発し、仙一郎が駆け寄ってくるなり折詰を覗き込んだ。
「六つもあったのに、一つしか残っていないじゃないか」
「だって、富蔵さんたちにも分けましたから……それに、食べていいとおっしゃったじゃありませんか?」
「お前ねぇ、だからって本当に全部食べる奴があるか? 遠慮というものを知らんのかまったくもう」
「いいじゃありませんか。私が体を張ったご褒美なんでしょう?」
何よ、けちけちと、とお凛が黒文字を最後の一つに伸ばしかけると、仙一郎が慌てふためいて折詰を抱え、きっと睨んだ。
「お前、怒っているんだな。私が仲町で遊んできたと思っているんだろう」
「違うんですか?」
「いや、違っていないことはない」
どっちだ。
「しかし、ちょっと顔を見てきただけだ。いや、梅がどうしてもというんで、差しつ差されつして少々遊んだけどさ。何しろ浅草まで行ってきたんだから、長居する暇もなかったんだよ」
「あら、本当に浅草へお出でになっていたんですか」
「──お前は少し主を信用しなさい」
何という女中だ、と仙一郎が嘆かわしげに天を仰ぐ。
「もう行かないとと言ったら、梅に座布団を投げつけられたしさ。もてる男は辛いよね」
「あのう、私は別に、旦那様が辰巳芸者に入れあげても一向に構いません」
お凛が真顔で言う。
「またまた、そんなことを言って」
途端にへらへらと笑う主を見ていると、座布団などではなく、梅奴に足蹴にされたらよかったのにとしみじみ思う。
「……ですが、早くお帰りにならなくともよかったんじゃありませんか。ご用はもう終わったんですよね?」
夕餉の支度にかかろうと腰を上げると、淡い青の濃淡が美しい桔梗の練りきりを指でつまみ、ぱくりと食べて仙一郎が首を傾げた。
「うん、まあね。でも、本命は違うんだな」
「本命って、何ですか」
たすき掛けをしながら尋ねるお凛に、青年は、うーん、と口をもぐもぐさせながら唸った。
「その内にわかる、かな。たぶん」
よくわからない返答にお凛は怪訝な顔をしたが、仙一郎はそれ以上語るつもりはないらしく、うまいなぁ、とうっとりしている。
「……そういえば、先ほどはお菊様を庇っていらっしゃいましたよね。どうしてですか?」
「庇っていた? そうだったっけ。……いや、うまいねぇこれ。あーあ、全部食べちまって……」
うちの奉公人は血も涙もない、と嘆く仙一郎を、お凛は煙に巻かれた心地で眺めていた。
***
──件の振袖が燃えたのは、その夜のことだった。
「火事だぁ!」
富蔵の割れ鐘を突くような大声にお凛は飛び起きた。咄嗟に頭に浮かんだのは、あの振袖だった。
廊下を全速力で走って茶の間へ向かうと、中庭に火の気があった。
だだっと黒い影が庭を走ってきたかと思うと、ざばっという音と共に水が月光に輝き、燃え上がった振袖にざんぶとかかる。目を凝らせば、それは寝間着姿の仙一郎だった。追って富蔵も桶を抱えて突っ走ってきてざばっと着物に水を浴びせる。幸い、それで大方の火は消えたらしく、焦げ臭い煙を立ち昇らせる振袖には、もう炎は見えなかった。
「……やれやれ、もう大丈夫かな」
振袖の側にしゃがみこみ、仙一郎が平静な声で言った。
「振袖が……」
呆然と呟いて、お凛は己の膝がふるえているのに気がついた。話に聞くのと、実際に目にするのとでは大違いだ。
──燃やしてやる。
呻くような女の声が聞こえた気がしてぎくりとする。
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