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第11話 ふりしきる雨の中で二人は

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 降りしきる晩秋の雨。
 雨のせいで気温は下がり切り、その上、海風は簡単に体温を奪っていく。
 訓練された俺ですら寒く感じているのだ、燈子ならさらに寒いことだろう。
 時計に目を落としてみて、はっと息をのんだ。小泉と手分けして、探索開始からもう30分以上もたっている。
「中尉!」
 振り返るとそこには肩で息をしている小泉がいた。
雨か、汗かの区別がつかないほどにとにかくびしょ濡れで互いに疲労困憊の顔というひどいあり様だ。
 二人で顔をつきあわせ、首をかしげる。
 これだけ探しても、尾上すら見つけられないのだ。
 これが横須賀ならもっとポイントを絞れたのだろうが、何せ土地勘のない横浜だ。

『嫌になったら北だ。 お気に入りの星があるからな。』
 
 俺と小泉が同時に思い出したのはこの尾上の言葉だ。
 尾上のお気に入りの星は春の夜に青白く輝くおとめ座で最も明るい恒星『スピカ(Spica)』なのだ。
太平洋戦争末期、我らが海軍航空隊から常用恒星の日本語の名前を付けるようにと命を受けた人間が『真珠星』の名をスピカに当てたが、尾上は不服だったらしい。
星が好きだなんてと尾上を茶化して笑った記憶が俺と小泉にはしっかり残っていた。
只今は春ではないのでスピカを探すことはできそうになかったが、『嫌になったら北』という尾上のとんでもなく単純明快な行動理念を信じてみることにした。
「もうちょっと北に上がってみるか! 少佐の行動パターンならありうる。」
「そうですね。」
 北側にある丘の方へ歩み始めて、わずか5分。
 ようやく尾上を見つけることができた。 
 やっぱり北にむかっていたと俺たちは一瞬口元が緩みそうになったが尾上の必死な背中を見てそんな余裕がないことを悟った。  
「少佐!」
 俺たちの声にふりかえると、尾上は取り乱したように叫んだ。
「早くみつけてやらんと、あいつ、昨日、熱があったんだ!」
 尾上の言葉に、俺と小泉は互いに顔を見合わせた。
「昨日?」
「うるさい! 今はそれどころじゃない!」
 一蹴され、俺達は押し黙るしかなかった。
 尾上はこれまで探した範囲を簡潔に俺たちに説明した。
「川村は俺と北に、小泉は車を持ってこい!」
 小泉は小さくうなずくと、丘を駆け下りていく。
尾上と俺はまだ探しきれていない丘へ続く坂道を駆け上がっていく。
「申し訳ありませんでした!」
「後から聞く。 今はあいつを見つけるのが先だ。」
 尾上は決して怒りはしなかったが、俺の方はもうぺしゃんこだ。
 言葉が出ない。
良かれとしたことが、ここまで裏目に出るとは思っていなかった。
いつもの調子で尾上に声をかけることすらできない。
「あぁ、もう! 辛気臭い! 昨日、今橋のオヤジの薬を受け取りに行ったら、あの妹君に出くわしたんだ。 あいつがぶっ倒れたんだときいた。 それだけだ。」
「ぶっ倒れた!?」
具合が悪いのに、それでも尾上に逢いたかったのだろう。
 それなのに、俺はあんな事態に巻き込んでしまった。
「具合悪い癖に、遠出するなんぞ、ろくなことにならん!」
「……それが燈子さんですよ。」
「どういう意味だ?」
「少佐のことが好きすぎて、自分のことなんてどうだっていいんです。」
「だから……阿呆だと言ってる!」
 面倒くさいとさらに尾上は舌打ちをした。
 肩を並べて駆ける。ふと俺の視界に何か入った。
尾上の軍服のポケットからひものようなものが出ている。
「それ、何ですか?」
「御守だとよ! 昨日、あの妹君が持っておけとあいつの手紙と一緒に押しつけてきた。」
 尾上はポケットから取り出して見せる。
「で、妹君の言いつけ通りにちゃんと持っていらしたんですか?」
「あの妹君、おっかないだろうが!」
 尾上はわずかに片眉をあげて、ぼやいた。
「想いを踏みにじったら八咫烏の罰が当たるそうだ。 航空安全だと! この時代になんてもんを。」
「何で八咫烏が航空安全なのか知らないんですか?」
「なんじゃそりゃ。 お前、知ってるんか?」
「日本の神話ですよ。 神武天皇が神武東征を行った時、土地に不慣れなため道に迷ってしまいます。 そこで高御産巣日神が賀茂建角身命を呼び出し、助力するように命じます。 すると賀茂建角身命は、三本足の漆黒の烏となり神武天皇の元へと舞下り、神武天皇を安全に大和国まで先導したんです。 この時に賀茂建角身命が化けた三本足の漆黒の烏が八咫烏です。 神武天皇を無事に送り届けた事から、航空安全や交通安全の神として信仰されるようになったんですよ。」
「えらく詳しいな。」
「その神社の近くに祖父の家があったんですよ。 一応、神主の三男なので。」
「お前、神主の息子だったんか!? 信じられん。 で、これ、どこの神社のなんだ?」
「京都の上賀茂神社ってご存知ですか? その摂社の久我神社というところです。」
「京都だと!? あいつ、京都まで行ったんか?」
「そうみたいですね。 実家に戻られた時についでに寄られたのかも。」
「実家? 関西なんか?」
「俺も燈子さんも実は同郷なんですよ。 神戸出身ですから。」
 尾上はあんぐりと口を開けた。まじまじと見てくるあたり、ようやく俺がどれほど心を砕いていたのかわかったらしかった。
 そう、俺はあなたが知らない情報をとんでもない量もっているのだ。
 理由を知りたいだろうが、一生教えはしない。
「神戸から京都の移動も相当ご苦労したことでしょうが……兎に角、愛されてますね。」
「あぁもう! 嫌になる!」
 尾上はもうやけくそのように吐き捨てた。
「妹君のたたりも怖いことですし、降参してお嫁にしてみては?」
「するか! この情勢で結婚する阿呆はおらんだろうが!」
「……阿呆でよい気はしますが?」
 引き続き、坂を駆け上がろうとした瞬間、尾上の目が何かを見つけ、足を止めた。
 久しぶりに肩で息をするくらい走らされ、二人ともその暑さに上着を脱いでいた。
「あの野郎……みつけたぞ。 馬鹿たれが!」
 ほんの数10メートル先にある公園のレンガでできた薄汚れた壁にもたれるようにして座り込んでいる燈子をようやくみつけた。
 傘は開かれたまま、地面に放り捨てられている。
 燈子は無心にその傘に雨が当たる様子をじっとみつめている。降りしきる雨をよけようともせず、膝を抱えたまま、ひたすらに何かを考えている様子だ。
 燈子の名を叫ぼうとした俺を尾上が手で止めた。
「逃げられたらかなわん。」
 なるほど、尾上は冷静だ。ゆっくりと尾上は息を整えている。
 雨の音に完全に足音が消し去られていた。
 うつろな目で思案中の燈子は俺たちには気が付いていない。
 顔色が病み上がりの悪さを通り過ぎて、真っ白。唇の色は紫で、その体温が限りなく奪われているのが遠めからもよくわかった。
 燈子まであと数歩の距離で、近づく足音にようやく燈子が顔をあげた。
「来ないで良い!」
 尾上に気づいた燈子が震える声で叫び、予想通りに逃げようと腰を浮かした。
 だが、逃げた猫を捕まえる。そんな体で尾上は燈子を放そうとしなかった。

燈子はじたばたしてみるが、現役戦闘機パイロットの腕力に勝てるわけもなく、あっけなく腕の中に確保されてしまう。
 尾上は有無を言わさずに自分の上着でくるんでしまう。
 燈子は尾上の胸あたりを放せとこぶしでたたく。
「こんなことしないで良い!」
「……こんなところで雨に濡れる奴があるか! 帰るぞ。」
「ちょっと疲れただけだから、1人で帰れます!」
「ちょっと疲れましたって、こんなにびしょ濡れでする休憩なんてあるわけがないだろうが! ほら、行くぞ。」
 尾上が燈子を立ち上がらそうとした瞬間、燈子は力一杯それを嫌がった。
 初めて見る燈子の拒絶だった。
 次の瞬間、拒絶された尾上の背に怒りがにじみでていた。
「いちいちごちゃごちゃと! お前が何を気にしとるかは知らんが、お前に心配されるようなやわな俺じゃない! わかったか!」
 尾上に怒鳴られ、燈子は身をこわばらせた。
 真剣に怒っている尾上の声など聞いたことがあるはずもない燈子にとっては強烈な打撃だ。尾上を怒らせると男でも寒気がする時があるのだから、免疫のない燈子はそれ以上の恐怖だろう。
 おびえきった燈子にようやく気づいたのか、尾上は舌打ちした。
「怒鳴って悪かった。」
 しゃくりあげるように泣き声になり、燈子はずっと尾上の胸をたたき続ける。
「わかってよ、わからずや。」
「わかってよ、わからずやって、なんだそりゃ……。」
 困ったような表情で、尾上は燈子の頭に優しく手を乗せる。
「お前が案じることは何一つ起こらん。 俺の後ろに居るおっさんの方が何倍も悪徳な中将だから手出しはできん。 今日のことは忘れて良い。 わかったか?」
 燈子はほっとしたように息を吐き、良かったと力なく笑った。
 この状況にあって燈子がもっとも心配していたのは、今後、海軍において尾上の置かれる状況の方で、自分のことではなかったというわけだ。
 燈子は襲ってくる寒さにわずかに身を震わせながら、小さく何度も何度も、良かったとうなずいた。わかってくれたと尾上も俺もそう思っていた。
「とにかく横須賀へ帰ろう。 妹君に俺が殺されかねん。」
 尾上が自分の帽子を脱いで、雨よけに燈子にかぶせてやろうとわずかに笑み浮かべた瞬間だった。 
「もうやめますから。」
 燈子のこの一言に、意表を突かれた尾上は完全にかたまってしまう。
 声がわずかに震えている。色のなくなった唇から、小さく『諦めます。』と言葉が漏れた。それはまるで自分に言って聞かせるようにゆっくりと何度も何度も繰り返された。
 燈子は時々咳き込みながら、決意を口にする。
「私の大好きはいつか尾上さんの邪魔になる。 今は大丈夫でも、次はそうとは限らない。 ちゃんと忘れますから、私は大丈夫。」
 燈子は尾上の胸のあたりをしっかりとつかんでゆっくりと見上げた。
「これまで散々ご迷惑をおかけしました。 もう静かになりますから。」
 確実に雨ではない流れが燈子の頬を滑り落ちた。
そして、初めて、燈子の方から尾上を突き放すようにして手を放した。
 これまで何度も何度も尾上に差し伸べたはずの手で、大嘘だらけの最後の拒絶をみせる。
 小さく咳き込んだままもう尾上の顔を見ようともしない。
一体、これほどまで追い詰めるとはどんな圧迫をかけたというのだと俺も尾上も舌打ちをした。燈子は賢い。賢いからこそ、尾上の立場を理解できてしまう。
 寺脇少将は確実に燈子に爆弾をしかけたのだ。きっと、尾上がもっとも嫌がる方法で爆発するような仕掛けをして。
 これにはさすがの尾上もたまらないというように、唇をかんだ。
 燈子に帽子をかぶせると、尾上は体中の空気が抜けるんじゃないかというほどのため息をもらした。
「何がちゃんと忘れるだ?」
 ポンと帽子のツバを指ではじくと、尾上は何を思ったのかふっと笑った。
「お前、意外と根性ないんだな。」
 この言葉に、燈子ははじかれるように顔をあげると、その大きな目で見つめ返した。
 だが、少しして、よくわからないというように首を傾げた。
「そんなもんかよ、お前の本気とやらは。 散々わんわんきゃんきゃん言ってたくせに、簡単に投げ出す程度だったってことだな。」
「どういう意味?」
「今更静かになられてもつまらん。 そう言ってんだ。」
「本当に?」 
 燈子は震える指先で、尾上の頬に手を伸ばした。その指先を拒むこともなく、あの尾上が大人しく頬を撫でられている。
「どうするんだ? わんわんきゃんきゃんをやめるか? 前言撤回するなら今だぞ?」
 尾上は言葉こそ色気はないが、確実に燈子に愛の告白したようなものだ。
 燈子は小さく笑った。
でも、嗚咽交じりに号泣しながらだ。
「泣くか、笑うか、どっちかにしろ。 気持ちの悪い。 帰るぞ。 ほら、立てるか?」
 尾上は燈子にそっと手を差し伸べた。
 燈子は一瞬躊躇したが、にっこりと笑って、ゆっくりとその手をとろうとした。
 だが、わずかなところで指先は宙をつかみ、届かなかった。
「おい!」
 尾上はとっさに気を失った燈子の体を抱きとめる。
 帽子が路面に転がり、燈子の頬をまた雨が打ち始めた。
尾上は自分の手袋を急いで外そうとしたが雨でぬれた手袋は素直ではなかったようで小さく苛立ちの声をあげた。そして、思いあまったのか自分の額を寄せた。
「すごい熱だ! 小泉を呼んでこい!」
 尾上の声に俺は駆け出した。
 背後では尾上が燈子を抱きかかえて、声をかけ続けている。
「俺が悪かった! 何とかしてやるから、頼むからがんばれ。」
 尾上らしくない不安だらけの声がきこえる。
 燈子の様子が気になるが、俺は一刻も早く小泉をみつけなければならない。
 今の俺にできることはひたすらに走ることだけだった。
 この両腕にあの人を抱きとめることができるのは俺じゃないから。




 高熱のまま意識を失った燈子を抱えた尾上は迷いもなく、横浜にある尾上の祖母の所へ駆け込むこととなった。
「何という幸運。 そして、何という坊ちゃん。」
 俺の小言に尾上は小さくため息をもらすだけだ。
 あまりに立派な建物にひたすらに目を見張るしかなかった。
 この物の乏しい時代にあって、まだしっかりと高級旅館の体裁を保てているのがすごい。
 尾上は実はとっても育ちが良いのだとわかってはいたものの、さすがにここまでとは思っていなかった。
「馨さん、今は休ませてやるしかないみたいですよ?」
 尾上の祖母の龍野喜代が奥座敷からそっと廊下へでてくる。
 白髪交じりの髪を品よく結い上げ、臙脂の落ち着いた着物を身に着けている老婦人は、若い頃、相当な美人だったことをうかがい知るには十分だった。
 すぐ隣にいる尾上の祖母だというのが不思議なくらいだ。
「そうですか。 ありがとうございました。」
 やけに尾上の言葉遣いが丁寧で、俺は色んな意味で驚いて息をのんだ。
 尾上が品の良い高級将校にみえ、心地悪いことこの上ない。
「本当に、突然来るかと思えば、何ですか! この騒ぎは! はしたない!」
「申し訳なく思います……。」
「馨さん、先ほどのあの言葉遣い! 何度注意すればよいのかしら? 海軍将校におなりになってもまだ私が怒らねばなりませんか?」
 喜代が言っているのは数刻前の尾上の旅館到着時のことのようだった。

『馨だ! ばあ様、とにかく着替えと医者! 俺の名前使っていいから、軍医でも何でもひきずりだしてきてくれ! とにかく、早くだ! ちんたらするな! すぐだ!』

 旅館に駆け込むや否や、尾上は玄関口で叫んだ。それも大声で。
 尾上のあまりの慌てぶりに、喜代はひとまず旅館の従業員を呼びつけ、手際よく孫の願い通りに事を整えてくれた。
 しかしながら、一旦、ことが落ち着けば納得がいかないことについては、喜代は尾上を徹底的に詰問するようだった。
「玄関先で大きな声で。 何ですか、この様は! もっと品格を持ちなさい!」
 いちいちごもっともすぎる喜代に、さすがの尾上も頭が上がらない。
「申し訳ありません。」
 喜代はすぐそばに立つと、その襟首をきゅっとつかみ、すごむように見た。
「唯一溜飲をさげることができるといえば、結婚する気になったということかしらね?」
 喜代はにやりと笑んだ。
さすが尾上の祖母。恐ろしいほどの威圧感だ。
「結婚!? 何ですか、それ!」
 尾上の声が上ずっている。
 完全に腰が引けている尾上が目の前にいるのがおかしい。
「あのお嬢さんが大切だからここへ連れてきたのでしょう? まさかどうでもよい婦女子のためにこの伝統ある龍野旅館の人員と金を良いように使ったわけではありますまいね?」
 喜代のすごみは海軍の上層部の方々のそれを軽く凌駕し、尾上から言い訳を奪う。
「馨さん、お返事は?」
「……申し訳ありません。 そのことについては改めて。」
「改める? 冗談も休み休み言いなさいね。」
「ですから! そのことについては!」
「この期に及んで女々しいこと! 海軍少佐の位を今すぐ返上してらっしゃい!」
 梅木の結婚を一気におしすすめたかつての尾上の詰将棋が今度は役者違いで再現されている。そして、あの尾上がもう何も成す術がなく、それ以上言い返せなかった。
 尾上が徹底的にしてやられる実に恐ろしい空気感に、俺はどうにも所在のなさを感じる他なかった。
「川村中尉、馨さんがいつもお世話になってありがとうございますね~。」
 喜代は俺のもとへ近づくと、にっこりと笑った。
完全に営業用の笑顔だとわかるのがひたすらに怖い。
「いえ、あははははは。」
 俺は何故か自然と背筋を正してしまっていた。
「あははじゃないだろうが! 俺の方が世話してやってるんだからな!」
 尾上が納得いかないと口を挟む。
「馨さん、お口!」
 喜代にきつく睨まれて、あの尾上が手で口を隠した。
 俺は横須賀に一旦向かわせた小泉とかわるべきだったと肩を落とした。
「とにかく、貴方たちも少し小奇麗になっていただきたいわ。」
「小奇麗って! ただ濡れただけでしょうが?」
「頭に布をかけたまま、良い年の男が二人も廊下をこうもうろつかれては旅館の面汚しです。」
「……わかりましたよ。 行くぞ、川村。」
 尾上は降参したように両手をあげると、俺について来いと目配せをした。
「はい、きれいになってらっしゃい。」
 喜代はにっこりと笑い、わざとらしく手を振っている。
 そういえば、昔、尾上が家族の話しをしていたことを思い出した。
尾上は福岡生まれだが、母が早世したこともあり育ったのはこの横浜だと話していたことがあった。つまり、喜代が母がわりというわけだ。
尾上の性格が曲がったのはこの祖母のせいかもしれないなと苦笑いだ。
 暢気な声を上げて湯船に沈み込んでいく尾上が両手を持ち上げ背伸びをする。
「……本気でお坊ちゃんだったんですね。」
「まぁな。 海軍兵学校に行くと報告した時なんか一族会議だ。」
「一族会議? ダメだってことですか?」
「いいや、むしろ逆だ。 将校に無事になれるのか? なんてさ。 のんびり育った俺が出世争いなんてできるのだろうかとか諸々が議題にされた。」
「は? 誰の話ですか、それ。 変わり果てましたね。 馨坊ちゃん。」
「うるさい。 そんな嫌味なんぞ何とも思わんわ。」
「つまらんなぁ。……あぁ、そうでした。 あの、一応聞いてよいのかわからんのですが、尾上環って誰ですか?」
 寺脇少将とのやり取りの中で、尾上環という名を利用するとかなんとかと尾上が口にしていたのが気になっていたことを思い出した。
「俺の親父だ。 ま、俺が海軍兵学校へ行く直前に死んでしまったがな。 親父は出世筆頭の艦艇乗りだったらしい。 まぁとにかく出来が良い。 あれよあれよと、三十路ちょっとで海軍中佐。 当然、若い頃から縁談話は山のよう。 ここで、見合いさせられたことも数十回。 お袋はここの娘だったろう? 親父の一目ぼれだったらしい。 親父はばあ様に嫁にくれと嘆願。 お袋も親父に惚れていたから大団円。」
「見合いやら縁談をけり続けるのは血筋ですか? で、尾上さんの親父様はそれから?」
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「それ、どなたから聞いたんです?」
「親父の同期で盟友の今橋中将だよ。」
「盟友!? なるほど……。」
「故に、今橋中将はある意味でとっても面倒くさい人間の一人ってわけだ。 親父が生きていればできていたであろうことを俺にするんだとさ。 自分に子どもがいないからって面倒くさいだろう?」
「お顔は嬉しそうですが?」
「そうか? あの人はすごい戦闘機乗りのくせに、政治家だ。 俺には真似はできん。」
 尾上はふっと笑うと湯船を出ていく。
 他人事ではないが、尾上の左の肩と右の肘、左わき腹には大きな傷があった。俺の傷よりひどいそれは尾上の無茶がしのばれるには十分だった。
 中将が尾上を横須賀航空隊から出さない理由はその傷のこともあると話していた。
 尾上ほど優秀な搭乗員はいないけれど、実戦配備となると古傷がある分、長期間にわたって戦闘任務に就くには実はもう適正に欠いているというのだ。
 だから、適材適所。尾上は海軍航空隊の主軸テストパイロットなのだ。
 俺も尾上に続いて湯船を出た。
「尾上さん、人生には出逢うべくして出逢う女っているんだと思います。」
「なんだ、突然。」
「真珠星みたいな女、なかなかいませんよ。」
「スピカだろうが……。 なんだそりゃ、スピカみたいな女って。」
「理由などないくらいお気に入りってことです。」
「……わかるような、わからんような。」
「燈子さんは尾上さんのそれだと俺は思います。」
「あいつならもっと他に良い男がでてくるだろうよ。」
 平然と言い捨てながら、尾上は浴衣を慣れた手つきで身にまとう。
 俺は我慢ならなかった。
 雨の中、燈子に諦めるのかと未練を見せたのは誰だ、他の男に奪われても本気でよいのかと、怒りが爆発した。
「寺脇少将に燈子さんが狙われたことを忘れたわけじゃありませんよね? それに、南方で捕縛された従軍看護婦がたどった運命を忘れているわけではありませんよね? それでも、同じことが言えますか?」
 俺は思わず、尾上の胸倉をつかんでいた。
 尾上はめずらしく俺にされるがままになっている。
「いちいちつっかかるな!」
 尾上は唇をかんで、目をそらした。
「つい先刻、諦めるなとか、前言撤回するのかとか言ってたくせに! まだ腹をくくらんのですか! 燈子さんをどうするつもりであんなことを?」
「ついうっかり!」
「はぁ!? そんなバカな話しがありますか!」
「わかってる! だが、軍属の細君なんぞ、ろくなことはない! 特に俺たちのような戦闘機乗りの嫁なんてな。」
「それは何の含みがあるんです?」
「川村、この戦況じゃ、今橋の親父がどれだけ盾になろうとも、いずれは俺もお前も死ぬために飛ぶ日が来る。 多くの者が命を弾にかえて飛ぶのに、士官だけが飛ばなくて良い理由がない。 帝国海軍も末期症状だ。 そんな男がどうやって嫁をとる?」
 どんな時も最善を考えるのが尾上なのに、その尾上がこうもあからさまに下を向く。
 俺はつかんでいた手を放した。絶対におかしい。
 鼓動が尾上にも聞こえているんじゃないかと思うほど速くなる。
「何をご存じなんですか?」
 俺はいてもたってもいられなくなった。
 尾上がゆっくりと俺を見て、静かに口を開いた。
「これからは本土防衛、本土の防空に主力を配備する方針転換をはかることになる。 つまり、外へ向けての航空戦力はでたとこ勝負で底をつくということだ。 人員も機体も底をつく。 予想より早く、何でもかんでも搭乗員にして、『何とか飛べるという体裁だけの機体』に乗せるしかなくなる。 しかも、まともな『当たり前に戦える機体』は主力のごくわずかにしか与えられなくなるだろう。」
「改良型の紫電を量産するのではないのですか?」
「もう間に合わん。 資材も時間もない。 新設の部隊も間に合うか疑問符だらけだ。 死に恐ろしいほどの速さで近づいている俺達軍人の妻にして何が残る?」
 そうじゃないだろうと俺は尾上の腕を思い切りつかんでいた。
「だったら尚更です! そんな時代だから、ちゃんと愛さなくちゃ! あそこで燈子さんを突き放せなかったのが尾上さんの本音じゃないですか!」
 尾上に簡単に掴んだ手をふりはらわれてしまうが、俺はあきらめたくなかった。
「確かに、あの若さで後家にするのは俺も申し訳ないとは思います。 だったら嫁にせんでもいいじゃないですか! 俺ならわずかな時間でも愛する人を手にしますよ。 時の長さだけがすべてじゃないでしょうが! 臆病すぎる!」
「お前はあいつをわかってないな。 あいつは一度でも俺が手にしてしまったら、もう他の誰との未来も考えんようになる。 馬鹿みたいにまっすぐだからな。」
「それは尾上さんの思い上がりではないのですか? 俺たちが死んだ後のことなんて、誰にもわからない。 問題は今をどうするかではないのですか? 横須賀をだされてしまったら、もう二度と逢えなくなるかもしれないんですよ?」
「そうだとしても、やっぱりできん。 それにな、俺の方が壊れる。」
 それだけ言うと、尾上は寂しそうに笑ってから脱衣所を後にした。
『俺の方が壊れる。』
 どういう意味だ。
 少なくとも、尾上は燈子の幸せを願っていることは間違いない。
 だが、尾上は何を恐れているのだろう。
燈子は頑張りすぎる。
だから、そばにいることができる男に守ってほしいと尾上は思ってしまうのだろうか。
尾上は海軍少佐である自分をかえることはできないから、燈子を一人にするのがわかるから、喉から手が出るほどに触れたい相手であっても強靭な信念と鉄壁の理性で抑え込んでいる。
「あんたは阿呆だ。」
 男はもっと単純で良いはずだと俺は思う。
 尾上のよう悩んで、悩んで、悩みぬくだろうかと考えると、俺の答えは『いいえ』だ。
 尾上が選ばれ、俺が選ばれなかった理由はここにある気がした。
俺のは恋で、尾上のは愛だ。
「負けるわなぁ……。」
 男として完膚なきまでの敗北感に俺はしゃがみこんで笑うしかない。
 俺が思いつくような心配など尾上はとうに気づいており百歩近く先へ思いを巡らせている。
「俺は尾上さんと燈子さんの幸せをどうしたって願うんだな……。」
 俺は長い廊下をゆっくりと歩いていく。
 手入れの行き届いた中庭に目をやると、尾上がぼんやりとたっている。
 風呂上がりで、外へ出てしまう阿保な師匠。
「燈子さんが目をさましたのに、どこへいったのかしら?」
 喜代がほんの少し駆け足だ。孫の愛しい人のことだ、早く知らせたいのだろう。
「あそこですよ」
 俺は中庭を指さす。
 切ない表情をしたまま燈子を思っているに違いない大ばか者は、小雨の中でじっと立ち尽くしている。
「また、悩んでいるのね……あれは癖みたいなもの。 あそこで二時間も三時間も平気でいるのだから大ばか者よ。」
 喜代は中庭へ降りていくと、尾上の腕をつかみ、こちらへと連れて帰ってくる。
「わかった、わかった! 行きますから!」
 尾上は盛大に迷惑そうな声をあげて、喜代につかまれた腕を振り払おうとするが、頑として喜代は放そうとしない。ここまでくると、ほほえましいというか、何というか。
「ごゆっくり!」
 ひらひらと手を振ると、尾上はしかめっ面をしていたが、喜代には逆らえない様子で、燈子のいる部屋へ飲み込まれていった。
 俺は尾上ではなく、こっそりと燈子の幸運をねがって、まだ雨を落としてくる空に手を合わせた。


Love is like the measles; we all have to go through it. Also like the measles we take it only once.
               Jerome K.Jerome (ジェローム・K・ジェローム)

【恋ははしかのようなもの、誰でも一度は罹らなければならない。 さらに、はしかと同様、本当の恋を経験するのは、たったの一度だけである。】
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

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