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第8話 見合い話にうまい話などない
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退院してはや三ヶ月。あっという間に季節も夏に切り替わった。
俺の属している横須賀海軍航空隊は大日本帝国海軍の最も古い伝統ある航空隊であり、教育や錬成を主としていることに加え、海軍が保有する各機種の航空戦技の研究、新型機の実用実験をも担当する航空隊でもあった。
3年ぶりに古巣に戻されてからというもの、専らの任務はテスト飛行となっていた。
実戦配備されていない俺たちの怪我といえば新型の操縦テストによるものが多くを占める。中にはテスト飛行中に殉職する者もいる。その中に酒井もいるのだ。
酒井の殉職からようやっとひと月が経っていた。
酒井が乗った事故機は、ほんの数時間前に尾上が乗っていた機体だった。
尾上はラダーにほんのわずかだが違和感を覚え、離陸後すぐに着陸した。
そして、急ぎ整備調整を受けた機体のはずだった。
酒井が飛び立って急加速を試みた瞬間に急激にラダーがきかなくなり、操縦不能に陥り墜落した。
尾上は今も言うのだ。
酒井には細君も息子もいたのに、かわってやれれば良かったと。
この酒井の死は尾上の心にさらに頑強な錠をかけたように思った。
燈子をそばにおくということは、尾上自身に何かあった時に、酒井の細君のように震えて泣いて悲しむことになる。
燈子に手を差し出したいと思っていても、尾上は理性でそれを抑え込むのがうまい。
俺には到底できない技だ。
「修行僧だな。」
俺は空を見上げている尾上の横顔を見る。
お偉いさんたちの宴会へ呼ばれている時ですら尾上はするりと遊び女から身をかわす。
遊んでいないわけではないだろうが、尾上は絶対にあとくされのない方法をとる。
「あの型、動き悪いな。 下ろせ。」
尾上が双眼鏡で確認すると、静かに俺に言い放つ。
俺は甲高い音のする笛を吹き、合図する。そして、すかさず記録する。
俺も尾上も若手がいるので空へあがる機会はそうそうなかった。
互いに病み上がりなのも理由なのだが、空へあがれない鬱憤は互いに爆発寸前だ。
「飛びたそうですね。」
尾上は誰よりも空に上がりたい男だ。空に魅了された少年そのもの。
もう良い年なのだがわかりやすいにもほどがあるくいらい空が大好きと背が語る。
「お前は飛びたくないのか?」
双眼鏡を俺に押し付けてくる尾上は軽く首を傾げた。
「飛びたいですよ。 でも、この状況では表だって言えんでしょう?」
「まぁ、楽しいなんてこと口にして飛べる世の中ではないわな。」
「空が怖い時代なんてつまらんですね。」
尾上と顔を見合わせて、小さく息を漏らす。これが本音を胸の奥に閉じ込めるときの俺たちのお決まりのやり取りになっていた。
この時、日本は1943年昭和18年。
空が哀しく見えて仕方がない時代となっていた。
前年の6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻『赤城、加賀、蒼龍、飛龍』と重巡洋艦『三隅』を喪失。
艦船の被害だけではなく多くの艦載機および搭乗員を失っていた。
意気揚々と南進していた帝国海軍もここにきて、ようやく不穏な空気を肌で感じる程度に士気が下がり、その上、後に海軍甲事件と称される訃報に海軍の頭脳はてんやわんやだったのだ。
そう、軍神と称えられた山本五十六が零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP38ライトニング16機に襲撃され、非業の死を遂げたのだ。
そして、この事実は対外的にはまだ公表されておらず、海軍関係者のみが暗闇に突き落とされている頃だった。
『やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ。』
山本大将は海軍将校の信念そのものを示してきた人物だ。
誰もが口にしないが日本の敗北が近づいているのではないかという雰囲気が海軍内部で広がり始めるほどだ。
尾上を航空参謀にと望んでいる雲の上の人々もまた少なからず日本のこれからを悲観的にとらえはじめていた。
「少佐、やはりここも実戦配備されますか?」
「いずれはな。 もう流れは止められんだろう。」
尾上は面白くないことばかりだと渋い顔をする。
「せいぜい墜ちない強い機体を作り上げるのと技量を伸ばすことだけが今できることだ。」
どれだけ優秀な搭乗員を錬成しても、実戦配備され次々に散っていってしまっている事実は重たくのしかかってくる。
俺も尾上もどれだけの部下を、仲間を失ってきたことか。
頭上では試作と調整をくりかえしている紫電が滑空を続けている。
零戦の性能や戦術を読み解かれた海軍の起死回生の一手はこれの新型にある。
現在、海軍で運用されている戦闘機の特徴や操縦技術はほぼすべて網羅している俺たちをもってしても、この紫電は実に癖がありすぎる。性能は格段にあがってはいるものの、実戦配備するには不安定の極みの機体なのだ。
「じゃじゃ馬娘め。」
無敵を誇った艦上零式をしのがねばならない紫電が背負う期待はそのまま海軍航空隊への期待となり、俺たちへの重圧そのものだ。俺と尾上の専らの悩みはそれだ。
「入院中が一番平和でしたね。」
「平和ぼけしていたみたいなもんだからな。」
「戦時中を忘れはしませんが、ゆっくりと何も考えずに空を見上げたいですよ。」
「軍人にそんな暇はもうない。 因果な商売だからな。」
尾上は悲しく微笑んだ。そして、静かに空を見上げる。
基地へ戻ると、戦争そのものが生活のすべてに変わる。
すぐ隣の東京が初めて空襲を受ける事態なのだから色恋の話などでてくる隙がない。
だが、この横須賀海軍航空隊の頂点にいる通称『オヤジ』はなかなかに破天荒な人格の男で、こんな時代だからこそ恋をしろ、嫁を持てという通達を出してくる変わり者だ。
そして、そのオヤジは尾上の師匠の一角だ。
そのオヤジがとんでもない騒動の発端となる事件を巻き起こした。
横須賀鎮守府、通称『横鎮』の副司令官殿の孫娘と尾上の縁談をまとめると言い出したのだ。
尾上のことをやたらとかわいがるオヤジはひと回り以上も離れた年下の娘を添わせると、尾上を強引に見合いの席に引きずり出したのだ。
見合い相手は横須賀鎮守府の副司令官の孫。
尾上は必死に抵抗したが、結局、オヤジに顔を立てろといいように言いくるめられた。
「何で俺が行かねばならんのだ!?」
絶賛不機嫌大爆走中の尾上をなだめろと、オヤジに連行された俺はどうしたものかとひとしきり思案するが名案など浮かんでくるわけもなかった。
「仕事だと思って乗り切りましょう!」
尾上の背を押して、宴席会場へ進んだものの、俺自身もうんざりしていた。
釣書によると見合い相手の名前は登紀子といったか。
年は18、さすがは少将殿の孫娘といういで立ちだ。
戦時下にあってなかなかに良い身なり。このご時世にどこで手に入るんだというような仕立ての良い光沢のある紺色のワンピースに絹のブラウスが異様に目を引く。
勝気そうな切れ長の目に、美しい黒髪を丁寧に編み込んで束ねている。
脱力するには十分すぎる本気の見合いの様子に、俺は尾上の横顔に目をやった。
尾上は能面のようにぴくりとも表情を崩さない。
興味のない対象へみせる常套手段をとる気でいるらしかった。
「尾上さん、はじめまして。 祖父からはお噂はかねがねお伺いしています。 ようやくこうして席に出てきていただき感激ですわ。」
尾上に臆することなく自信たっぷりに微笑んでいる。
オヤジは肘で尾上に話せと促すが、尾上は空気を読まずにだんまりを決め込んでいる。
絶対にいうことをききませんという態度で目すら合わそうとはしない。
「尾上少佐、どうかな?」
オヤジこと、里見大佐が場を何とかもたせようと果敢にも尾上に挑んでいるのだが、その当の尾上はどこ吹く風で聞き流すどころか、真っ向勝負だ。
「申し訳なく思いますがお断りします。 俺は嫁を持たない主義なので。」
「まったく可愛げのない! こんなに可愛い娘さんだぞ?」
「だったら川村なんてどうですか?」
いけしゃあしゃあと尾上は付き添いを命じられている俺を巻き込んだ。
「川村中尉なら、若く、このように色男ですし。 女性にも優しいでしょうし。 申し分ないと思いますが?」
尾上はにやりとこちらを見て意地悪な笑顔を浮かべる。
破れかぶれもいいことに、こちらへ問題を放り投げようとしてくる始末だ。
「私は少佐と添い遂げる覚悟でここへ参りました! たかだか中尉だなんてごめんです。」
登紀子のなかなかの物言いに、俺も尾上も心の中ではあるが軽く舌打ちする。
俺は俺の関与しないところで、勝手にふられるという不本意な結果に、『たかだかの中尉で誠に申し訳ございませんね。』とでも言えばよかったろうか。
階級差別も甚だしいが、たかだかと言われようと一応、俺も海軍中尉だぞと思わず睨んでしまった。
だが、この一言で登紀子が完全に尾上の不興を買っているのはわかっていたので、心の中でざまあみろと舌を出した。
登紀子は中尉ではなく、少佐が良いと公言したのだ。つまり、結婚は階級ありきと明言したに等しい。
人間を見ない相手を尾上は最も嫌う。嫌う者を内側にいれはしないのが尾上だ。
これで、尾上はどれだけ上に歯向かうことになっても折れることはしない。
この場で折れるのならば、これまでだっていくらでも折れる機会はあったはずだ。
「では、私は少将の孫娘さんは御免こうむります。 高貴すぎてとんでもない。」
尾上は感情の読み取れない表情のまま大人げない切り返しをお見舞いする。
俺はおかしくなって、うつむいた。
気を抜くと大声をあげて笑ってしまいそうだ。
少将の孫娘殿の高い鼻はあっさりとへし折られる。
そばにいたオヤジも鎮守府副司令の寺脇少将もこれにはさずがに唖然としている。
「お前、かわらんなぁ。」
オヤジはいきなり腹を抱えて笑い出す。
このとんでもなく不穏な空気を一変させるとは百戦錬磨恐るべしだ。
「尾上はこんな奴ですから。 登紀子さんも腹をくくらんとね。」
オヤジはまだあきらめていないのか、尾上の肩を抱く。
「お前はお前らしくていいなぁ、尾上。」
こともあろうに登紀子の祖父の寺脇少将まで笑い出す。
「尾上、君の勝ちだ。 だがな、俺はあきらめたくなくなったぞ。」
二人の親父は大声で笑って、上機嫌で酒を酌み交わしあう。
尾上はその二人に挟まれて実に不本意な表情のままで、だんまりを続行している。
「登紀子、尾上少佐に詫びなさい。 お前が失礼だ。」
品の良い老紳士の寺脇は登紀子を軽くにらみつけた。
「すまんな、甘やかして育てた孫娘なものでね。」
寺脇は傑物だと里見が常々口にしていたが、尾上が最も苦手とするタイプの上官だと思った俺は少し視線を前に目をやる。やはりどことなく緊張しているのが伝わってくる。
「少将、私になど謝っていただかなくとも結構です。 もうお暇します。」
尾上は酒を受けるわけでも、膳に箸をつけるわけでもなく速やかに席を立った。
「尾上!」
里見がオヤジらしくない怒声で尾上の足を止める。
「意思がないのに、気を持たせるようなことをしたくはありません。」
尾上も一歩も引かない。
全身全霊での拒否だ。こんなにも拒絶をあからさまにした尾上を見たのは初めてだった。いくら何でももっとうまくすりぬけてきたのに。
「まぁ座れ! では見合いの話は一旦おこう。 鎮守府の頭脳と酒を酌み交わせる機会などそうそうはない。 お前の隊にも役に立つ情報もあろう!」
オヤジはもう必死だ。
一瞬、躊躇した尾上だったが、絶対に座りなおそうとはしない。
その上、気に食わない時のいつものだんまりは続行している頑なさ。
「里見、もう尾上を行かせてやれ。 仕事の話は鎮守府でも航空隊でもきこう。」
寺脇は小さくうなずいて尾上が席を外すことを許した。
「申し訳ありません。 失礼します。」
長居すればするほど気が付いたらあっさりとまるめこまれる予感がするのだろう、尾上はさっさと背を向けた。俺に声をかけると異様なほどに迅速に部屋をでる。
「もっとうまくやれたと思いますが?」
俺は不思議に思い、尾上にきいてみることにした。
「寺脇少将は何か企んでいる。 言質をとられたら一気に攻め込まれる。 下手な会話はせん方がいい。 それだけだ。」
「会話ひとつでやられるんですか?」
「悪い気はしないといえば『良い』。 嫌ではないも『良い』。 席に戻ることは交渉についたことになる。 結局、最後は縦の力にやられる。 悪態をついても裏を突かれない方がマシだ。」
尾上は軍帽をかぶりなおし、俺からサーベルを受け取った。
「裏に何かある。 俺を抑えて何をさせるつもりだ。 お前も身辺に気をつけろ。」
珍しく尾上に余裕がないように見えた。
尾上は迂闊に言葉をつかうことを避けるのに必死で、通常の子供じみただんまりとは違っていたわけだ。
「里見のオヤジめ、面倒なことに迂闊に巻き込まれやがって!」
「でも、結局のところ、尾上さんがさっさと燈子さんを嫁にしていたら、これは不要な戦争な気がしますけどね。」
尾上は体中の息を吐きだしたのではというような大きくため息を漏らす。
「嫁がおるのなら、こうもからまれんですむでしょう? いい加減に腹をくくられては?いっそ、もう、ここで腹をくくりましょう! 案ずるより産むがやすし!」
尾上はあきれたように俺の顔を見上げると、無言で、もうそれ以上言うなと片手をあげた。
「嫁は取らない主義なのは大嘘ですか?」
俺と尾上は背後からの声にほぼ同時に振り返った。
二人ともついぞ全く気が付かなかった。
胸の前で腕を組んだ登紀子がじっと立っていたのだ。
一瞬呆気に取られてしまった俺たちだったが、すぐに踵を返し、履物へ足を滑り込ませる。
こうなっては何が何でも長居は無用だ。
「そんなにあからさまに嫌がらなくても良いのでは?」
登紀子は尾上の腕をつかみ、立ち止まらせる。
「俺はあんたと関わりたくない。」
尾上は相手がうら若い女子だとしても関係ないかのようにつかまれた腕を振り払った。
相手が燈子であったならば、そっとつかんで離させていたところだろうが、登紀子には微塵の配慮もない。
「尾上馨少佐、私はあなたを気に入っていますし、欲しいものは手に入れる主義です。」
18歳のくせに度胸たっぷりの登紀子はまっすぐに尾上を見あげて微笑んだ。
「俺はあんたに興味はない。」
尾上もこれには全く動じない。これでもかというくらい温度のない言葉が繰り出される。
これが燈子だったなら、たじたじで俺に救援要請がありそうなものだが。
「寺脇の孫にも意地があります。 どうしても欲しいものは手に入れる血筋ですし。」
登紀子があまりに冷たく笑ったので、生まれて初めて女性の微笑みが怖いと思った。
だが、これには尾上が黙っていなかった。
「俺以外に手を出したら、あんたでも容赦しないぞ。」
あからさまに尾上が敵意をむき出しにしたことで、俺はようやくはっと気が付いた。
軍属の情報網をさらえば、燈子が誰なのかなんてあっさりと手に入ってしまう。
尾上はそれに対して威嚇したのだ。
「交渉にはそれなりの品格が必要だと覚えておけ。」
尾上が年端もいかぬ女子に心底切れた顔をしていたせいか、俺はふっとおかしくなった。
燈子にはそんな顔しないのだから、尾上にそろそろ自覚してほしいものだ。
しかしながら、このお嬢様は本当になにやらしでかしそうだ。
尾上にここまで言われても顔色一つ変えない登紀子の心臓がわからない。
登紀子とのにらみ合いが済んだ尾上の後をついて、旅館の玄関先から雨の中へ。
そこで、俺は俺自身の目を疑った。
「燈子さん?」
傘をさした燈子がびっくりしたような顔をして立っている。
先に出ていた尾上も負けず劣らず同じように驚いた顔をしていた。
「何をしている?」
「尾上さんこそ。」
雨脚が急に強くなる。
尾上の軍服が一気に水を吸い重苦しい色になっていく。
「あ、ぬれちゃいます。」
燈子はとっさに尾上が濡れないように背伸びをして傘をかざす。
自分の方がびしょ濡れになるというのに全く気にしていない。
「こんな時に!」
尾上は登紀子から見えないように、とっさに燈子を覆い隠すように手を広げた。
燈子は尾上が突然動いたことに驚いてしまい思わず傘を落としてしまう。
俺は尾上の横をすり抜けて、すばやく傘をひろいあげた。
「はい、濡れちゃうから気を付けないとね。」
さっと燈子の肩を抱いて玄関から見えないように背を向けさせる。
物がわかっていない燈子は何かを言おうとしたが、俺がそれを制した。
「さて、燈子さん、何か御用でここへ?」
小さな声で俺は燈子に問いかける。
「お薬をお届けに来ただけです。 この旅館の女将に頼まれて。 どなたか将校のお加減が悪いから、介抱するようにとも言われています。」
燈子は肩から掛けた布袋の中身を見せる。
まったく着飾ることのない燈子は戦時中のよくある婦女子の格好をしているのだが、色眼鏡ではあるがやはり登紀子より好ましく思える。
こんな時ですら俺はそんなことを考えてしまっていた。
「はて、将校の具合が悪いと? そうですか……なるほど。 では、とりあえず、そのお薬をお預かりしてもよろしいか?」
燈子はすぐにただならぬ状況を察知したのか何も聞かずに素直に薬を俺に手渡した。
「ありがとうございます。 説明がいささか難儀でして。 介抱せよとの命令に関してはどうにかしますので、ちょっとだけ、いや全速力で病院へ戻ってもらえるとたすかります。」
俺は燈子の背を押して、もと来た道を戻るよう促した。
燈子はほんの少しだけ首をかしげてはいたが、俺の指示通り駆け足で去っていく。
3か月ぶりの愛しい人の温度だったのに、悲しいほどに一瞬だ。
少し後ろを振り返ると尾上が苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「どうしますか? 介抱されるような将校はおりません。」
「面倒だな。 もう情報は照会済みということか……。」
俺と尾上は互いに顔を見合わせて唇をかんだ。
蛇のような登紀子の前では、燈子は簡単に食われてしまいかねない。
尾上と俺は降りしきる雨の中、玄関口に恐る恐る目をうつす。
そこには登紀子の姿はもうなかった。
降りしきる雨をよけることもせず、尾上は険しい表情のままだ。
「少佐、何からなさいますか?」
「あのお嬢ちゃんの……いいや、すぐに今橋中将に連絡を取れ。 その上で調べる。」
「そうおっしゃられると思っていました。 敵は少将関連でしょうがよろしいので?」
「構わん。」
「承知しました。」
尾上の部下としてこうみえても幾度となくとんでもない状況を乗り越えてきたのだから、それなりの人脈も情報網も持っている。
実のところ、職務中の尾上は実に巧妙に事を運ぶことがうまい。それを一番近くで見てきたのだ、師匠譲りのずるがしこさは適度に身についている。
料亭の庭を二人して急いで通り過ぎ、尾上は待たせていた車に歩み寄った。
運転席の扉が開き、背丈は俺より頭一つ小さく、昔は少女に間違われたらしいという童顔の小泉少尉が姿を現し、尾上のために後部座席の扉を開いた。
「絶望的にご機嫌がお悪いですね。 さて、少佐、僕はどうしましょうか?」
彼もまた尾上が拾ってきた変わり者だ。
尾上軍団の一角にいる小泉のこと、状況把握は迅速そのものだ。
「小泉、少々難儀なことになった。 料亭のいずれかの部屋に介抱を必要とするはずの将校がいるらしい。 諸事を確認して戻れ。」
「ここの女将をつつけばわかる。」
俺は小泉に目配せをしてすぐに薬を託す。
「ちらりと宴の席に聞き耳を立てつつ、諸事確認してきましょうとも。」
小泉は言葉の裏にある物をすべて飲み込んだ。そしてすぐにかけていく。
「ところで、少佐。 今晩の一件、燈子さんにはご自分で申し開きをしてくださいね。」
俺は小泉の後ろ姿をぼんやりと眺めている尾上の背に言葉を投げつけた。
「できるわけがないだろうが!」
尾上の声が裏返り、鉄壁の無表情が一気に崩れる。
やっぱり燈子が絡むとこれだ。冷静沈着な尾上はどこにもいない。
「燈子さんにはご自分で申し開きをどうぞ。」
とにかく意地悪したくなる気分だ。
俺は可愛らしくも心底焦っている尾上を置いて、先に車へ乗り込む。
「川村! 上官に対する態度か!」
尾上はぶつぶつと文句を言いながら、横にのりこんでくると腕を組んだ。
「ご自分だって大概なくせに!」
「親の顔が見たいわ!」
「お忘れですか? あ、鏡をお貸ししましょうか? 少佐が親鳥みたいなものなので。」
尾上は盛大にため息をつき、そっぽを向いてしまう。
「冗談はさておき。 少佐、笑いごとで済まん気がします。」
「言わんでもわかってる。 小泉の報告を待つ。」
無音の時間が過ぎ、車体を叩く雨の音がほんの少し静まった頃、小泉が戻ってきた。
「宴はお開きのようでした。 美少女は不機嫌そうに祖父殿に面倒くさそうな頼みごとをされておられましたよ。 それから、病気の将校はおりませんでした。 でも、芸子が面白い試みをするから楽しめと言われて待っていた横鎮の少尉がおりました。」
小泉の報告をきき、尾上は『畜生めが!』と怒り大爆発の声をあげた。
「楽しめだと!?」
俺は全身総毛だった。
何も知らない燈子の顔が脳裏をよぎる。
こんなに誰かを今すぐにでも殺したくなったのは初めてだった。
「何も聞かされていない様子でしたので、その少尉に、薬を持ってくる予定だった者は本物の看護婦であった旨を告げると顔色を変えておりました。 寺脇少将の車番だったそうです。 故に、一言申し上げておきました。 横須賀航空隊に喧嘩を売るのならば、それなりの報復を考えております、と。」
小泉はにっこりと笑ってから、ハンドルを握りなおした。
「小者は腰が抜けておりましたので、少佐のお名前を出し、丁寧にお薬を差し上げておきましたよ? 頬に一発だけおまけをしてきましたけどね。」
声のトーンは変わらないが小泉の怒りもまた相当のようだった。
「上出来だ、小泉。」
尾上は軍帽をさらに深くかぶる。真剣に物を考えるときの仕草だ。
苛立った気持ちを鎮めようと必死なのか、尾上は珍しく、煙管に手を伸ばした。
めったに口にすることなどないのに紫煙をくゆらせ、眉間に深くしわを刻んだ。
「本気ならばこんなところに高野燈子を呼びだしたりはしなかったろう。 こちらがぎりぎりのところで防げる程度にしかけてくるあたりが気に食わん。 あいさつ代わりのつもりだろうが、これはもう帝国海軍の軍人のやることじゃない。 宣戦布告と受け止める。」
怒髪天を衝く。尾上の怒りも俺の怒りもそのさらに上だ。
「小泉、里見の親父は?」
「会話の外という奴です。」
「……なるほどな。 里見の親父は鴨か……。」
「さしずめ尾上少佐がネギですかね? あはははは、美味しくなさそうなネギだこと。」
小泉は俺よりさらに若く、少年をようやく抜け出した頃ではあるが、頭はなかなかに切れる。そして、性格は俺よりも格段に悪い。
「だいたい、その表現は使い方が正しいとは言えんからな、馬鹿たれ。 そろいもそろって、お前たちはどこで敬意を落としてきやがった?」
尾上は俺の顔を見ると、盛大にため息をもらした。
俺は一応、小泉とひとくくりにされたことに対して不服の意を表現すべく、肩をすくめてみせることにした。
そのしぐさに尾上は腹が立ったのか、鳩尾に久しぶりの拳骨とやらを繰り出してきた。
「暴力に訴えるとは! 八つ当たりも甚だし!」
「あん!? 優しくなでただけだろうが!」
尾上は素知らぬ顔をするが、どこが優しくだと俺はさらに不服の意を重ねることにした。
そんなやり取りを小泉が一刀両断した。
「あぁそうでした! 少佐、重要な案件が! 申し開きのため、今からすぐに横須賀海軍病院へ向かえばよろしいので?」
この小泉の一撃に見事なまでに尾上は撃沈。
俺は胸がすくほどの大爆笑だ。
「黙って、航空隊へ戻りやがれ!」
小泉は頬を膨らませて、つまらんというように車を走らせた。
この小泉と俺は尾上組といわれ、戦後も同様の道をたどることになるのだが、それはまた別の話だ。
Love, the itch, and a cough cannot be hid.
Thomas Fuller (トーマス・フラー)
【愛とかゆみと咳だけは、どんなことをしたって、隠し通すことのできないものである。】
俺の属している横須賀海軍航空隊は大日本帝国海軍の最も古い伝統ある航空隊であり、教育や錬成を主としていることに加え、海軍が保有する各機種の航空戦技の研究、新型機の実用実験をも担当する航空隊でもあった。
3年ぶりに古巣に戻されてからというもの、専らの任務はテスト飛行となっていた。
実戦配備されていない俺たちの怪我といえば新型の操縦テストによるものが多くを占める。中にはテスト飛行中に殉職する者もいる。その中に酒井もいるのだ。
酒井の殉職からようやっとひと月が経っていた。
酒井が乗った事故機は、ほんの数時間前に尾上が乗っていた機体だった。
尾上はラダーにほんのわずかだが違和感を覚え、離陸後すぐに着陸した。
そして、急ぎ整備調整を受けた機体のはずだった。
酒井が飛び立って急加速を試みた瞬間に急激にラダーがきかなくなり、操縦不能に陥り墜落した。
尾上は今も言うのだ。
酒井には細君も息子もいたのに、かわってやれれば良かったと。
この酒井の死は尾上の心にさらに頑強な錠をかけたように思った。
燈子をそばにおくということは、尾上自身に何かあった時に、酒井の細君のように震えて泣いて悲しむことになる。
燈子に手を差し出したいと思っていても、尾上は理性でそれを抑え込むのがうまい。
俺には到底できない技だ。
「修行僧だな。」
俺は空を見上げている尾上の横顔を見る。
お偉いさんたちの宴会へ呼ばれている時ですら尾上はするりと遊び女から身をかわす。
遊んでいないわけではないだろうが、尾上は絶対にあとくされのない方法をとる。
「あの型、動き悪いな。 下ろせ。」
尾上が双眼鏡で確認すると、静かに俺に言い放つ。
俺は甲高い音のする笛を吹き、合図する。そして、すかさず記録する。
俺も尾上も若手がいるので空へあがる機会はそうそうなかった。
互いに病み上がりなのも理由なのだが、空へあがれない鬱憤は互いに爆発寸前だ。
「飛びたそうですね。」
尾上は誰よりも空に上がりたい男だ。空に魅了された少年そのもの。
もう良い年なのだがわかりやすいにもほどがあるくいらい空が大好きと背が語る。
「お前は飛びたくないのか?」
双眼鏡を俺に押し付けてくる尾上は軽く首を傾げた。
「飛びたいですよ。 でも、この状況では表だって言えんでしょう?」
「まぁ、楽しいなんてこと口にして飛べる世の中ではないわな。」
「空が怖い時代なんてつまらんですね。」
尾上と顔を見合わせて、小さく息を漏らす。これが本音を胸の奥に閉じ込めるときの俺たちのお決まりのやり取りになっていた。
この時、日本は1943年昭和18年。
空が哀しく見えて仕方がない時代となっていた。
前年の6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母4隻『赤城、加賀、蒼龍、飛龍』と重巡洋艦『三隅』を喪失。
艦船の被害だけではなく多くの艦載機および搭乗員を失っていた。
意気揚々と南進していた帝国海軍もここにきて、ようやく不穏な空気を肌で感じる程度に士気が下がり、その上、後に海軍甲事件と称される訃報に海軍の頭脳はてんやわんやだったのだ。
そう、軍神と称えられた山本五十六が零式艦上戦闘機6機に護衛されブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP38ライトニング16機に襲撃され、非業の死を遂げたのだ。
そして、この事実は対外的にはまだ公表されておらず、海軍関係者のみが暗闇に突き落とされている頃だった。
『やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ。』
山本大将は海軍将校の信念そのものを示してきた人物だ。
誰もが口にしないが日本の敗北が近づいているのではないかという雰囲気が海軍内部で広がり始めるほどだ。
尾上を航空参謀にと望んでいる雲の上の人々もまた少なからず日本のこれからを悲観的にとらえはじめていた。
「少佐、やはりここも実戦配備されますか?」
「いずれはな。 もう流れは止められんだろう。」
尾上は面白くないことばかりだと渋い顔をする。
「せいぜい墜ちない強い機体を作り上げるのと技量を伸ばすことだけが今できることだ。」
どれだけ優秀な搭乗員を錬成しても、実戦配備され次々に散っていってしまっている事実は重たくのしかかってくる。
俺も尾上もどれだけの部下を、仲間を失ってきたことか。
頭上では試作と調整をくりかえしている紫電が滑空を続けている。
零戦の性能や戦術を読み解かれた海軍の起死回生の一手はこれの新型にある。
現在、海軍で運用されている戦闘機の特徴や操縦技術はほぼすべて網羅している俺たちをもってしても、この紫電は実に癖がありすぎる。性能は格段にあがってはいるものの、実戦配備するには不安定の極みの機体なのだ。
「じゃじゃ馬娘め。」
無敵を誇った艦上零式をしのがねばならない紫電が背負う期待はそのまま海軍航空隊への期待となり、俺たちへの重圧そのものだ。俺と尾上の専らの悩みはそれだ。
「入院中が一番平和でしたね。」
「平和ぼけしていたみたいなもんだからな。」
「戦時中を忘れはしませんが、ゆっくりと何も考えずに空を見上げたいですよ。」
「軍人にそんな暇はもうない。 因果な商売だからな。」
尾上は悲しく微笑んだ。そして、静かに空を見上げる。
基地へ戻ると、戦争そのものが生活のすべてに変わる。
すぐ隣の東京が初めて空襲を受ける事態なのだから色恋の話などでてくる隙がない。
だが、この横須賀海軍航空隊の頂点にいる通称『オヤジ』はなかなかに破天荒な人格の男で、こんな時代だからこそ恋をしろ、嫁を持てという通達を出してくる変わり者だ。
そして、そのオヤジは尾上の師匠の一角だ。
そのオヤジがとんでもない騒動の発端となる事件を巻き起こした。
横須賀鎮守府、通称『横鎮』の副司令官殿の孫娘と尾上の縁談をまとめると言い出したのだ。
尾上のことをやたらとかわいがるオヤジはひと回り以上も離れた年下の娘を添わせると、尾上を強引に見合いの席に引きずり出したのだ。
見合い相手は横須賀鎮守府の副司令官の孫。
尾上は必死に抵抗したが、結局、オヤジに顔を立てろといいように言いくるめられた。
「何で俺が行かねばならんのだ!?」
絶賛不機嫌大爆走中の尾上をなだめろと、オヤジに連行された俺はどうしたものかとひとしきり思案するが名案など浮かんでくるわけもなかった。
「仕事だと思って乗り切りましょう!」
尾上の背を押して、宴席会場へ進んだものの、俺自身もうんざりしていた。
釣書によると見合い相手の名前は登紀子といったか。
年は18、さすがは少将殿の孫娘といういで立ちだ。
戦時下にあってなかなかに良い身なり。このご時世にどこで手に入るんだというような仕立ての良い光沢のある紺色のワンピースに絹のブラウスが異様に目を引く。
勝気そうな切れ長の目に、美しい黒髪を丁寧に編み込んで束ねている。
脱力するには十分すぎる本気の見合いの様子に、俺は尾上の横顔に目をやった。
尾上は能面のようにぴくりとも表情を崩さない。
興味のない対象へみせる常套手段をとる気でいるらしかった。
「尾上さん、はじめまして。 祖父からはお噂はかねがねお伺いしています。 ようやくこうして席に出てきていただき感激ですわ。」
尾上に臆することなく自信たっぷりに微笑んでいる。
オヤジは肘で尾上に話せと促すが、尾上は空気を読まずにだんまりを決め込んでいる。
絶対にいうことをききませんという態度で目すら合わそうとはしない。
「尾上少佐、どうかな?」
オヤジこと、里見大佐が場を何とかもたせようと果敢にも尾上に挑んでいるのだが、その当の尾上はどこ吹く風で聞き流すどころか、真っ向勝負だ。
「申し訳なく思いますがお断りします。 俺は嫁を持たない主義なので。」
「まったく可愛げのない! こんなに可愛い娘さんだぞ?」
「だったら川村なんてどうですか?」
いけしゃあしゃあと尾上は付き添いを命じられている俺を巻き込んだ。
「川村中尉なら、若く、このように色男ですし。 女性にも優しいでしょうし。 申し分ないと思いますが?」
尾上はにやりとこちらを見て意地悪な笑顔を浮かべる。
破れかぶれもいいことに、こちらへ問題を放り投げようとしてくる始末だ。
「私は少佐と添い遂げる覚悟でここへ参りました! たかだか中尉だなんてごめんです。」
登紀子のなかなかの物言いに、俺も尾上も心の中ではあるが軽く舌打ちする。
俺は俺の関与しないところで、勝手にふられるという不本意な結果に、『たかだかの中尉で誠に申し訳ございませんね。』とでも言えばよかったろうか。
階級差別も甚だしいが、たかだかと言われようと一応、俺も海軍中尉だぞと思わず睨んでしまった。
だが、この一言で登紀子が完全に尾上の不興を買っているのはわかっていたので、心の中でざまあみろと舌を出した。
登紀子は中尉ではなく、少佐が良いと公言したのだ。つまり、結婚は階級ありきと明言したに等しい。
人間を見ない相手を尾上は最も嫌う。嫌う者を内側にいれはしないのが尾上だ。
これで、尾上はどれだけ上に歯向かうことになっても折れることはしない。
この場で折れるのならば、これまでだっていくらでも折れる機会はあったはずだ。
「では、私は少将の孫娘さんは御免こうむります。 高貴すぎてとんでもない。」
尾上は感情の読み取れない表情のまま大人げない切り返しをお見舞いする。
俺はおかしくなって、うつむいた。
気を抜くと大声をあげて笑ってしまいそうだ。
少将の孫娘殿の高い鼻はあっさりとへし折られる。
そばにいたオヤジも鎮守府副司令の寺脇少将もこれにはさずがに唖然としている。
「お前、かわらんなぁ。」
オヤジはいきなり腹を抱えて笑い出す。
このとんでもなく不穏な空気を一変させるとは百戦錬磨恐るべしだ。
「尾上はこんな奴ですから。 登紀子さんも腹をくくらんとね。」
オヤジはまだあきらめていないのか、尾上の肩を抱く。
「お前はお前らしくていいなぁ、尾上。」
こともあろうに登紀子の祖父の寺脇少将まで笑い出す。
「尾上、君の勝ちだ。 だがな、俺はあきらめたくなくなったぞ。」
二人の親父は大声で笑って、上機嫌で酒を酌み交わしあう。
尾上はその二人に挟まれて実に不本意な表情のままで、だんまりを続行している。
「登紀子、尾上少佐に詫びなさい。 お前が失礼だ。」
品の良い老紳士の寺脇は登紀子を軽くにらみつけた。
「すまんな、甘やかして育てた孫娘なものでね。」
寺脇は傑物だと里見が常々口にしていたが、尾上が最も苦手とするタイプの上官だと思った俺は少し視線を前に目をやる。やはりどことなく緊張しているのが伝わってくる。
「少将、私になど謝っていただかなくとも結構です。 もうお暇します。」
尾上は酒を受けるわけでも、膳に箸をつけるわけでもなく速やかに席を立った。
「尾上!」
里見がオヤジらしくない怒声で尾上の足を止める。
「意思がないのに、気を持たせるようなことをしたくはありません。」
尾上も一歩も引かない。
全身全霊での拒否だ。こんなにも拒絶をあからさまにした尾上を見たのは初めてだった。いくら何でももっとうまくすりぬけてきたのに。
「まぁ座れ! では見合いの話は一旦おこう。 鎮守府の頭脳と酒を酌み交わせる機会などそうそうはない。 お前の隊にも役に立つ情報もあろう!」
オヤジはもう必死だ。
一瞬、躊躇した尾上だったが、絶対に座りなおそうとはしない。
その上、気に食わない時のいつものだんまりは続行している頑なさ。
「里見、もう尾上を行かせてやれ。 仕事の話は鎮守府でも航空隊でもきこう。」
寺脇は小さくうなずいて尾上が席を外すことを許した。
「申し訳ありません。 失礼します。」
長居すればするほど気が付いたらあっさりとまるめこまれる予感がするのだろう、尾上はさっさと背を向けた。俺に声をかけると異様なほどに迅速に部屋をでる。
「もっとうまくやれたと思いますが?」
俺は不思議に思い、尾上にきいてみることにした。
「寺脇少将は何か企んでいる。 言質をとられたら一気に攻め込まれる。 下手な会話はせん方がいい。 それだけだ。」
「会話ひとつでやられるんですか?」
「悪い気はしないといえば『良い』。 嫌ではないも『良い』。 席に戻ることは交渉についたことになる。 結局、最後は縦の力にやられる。 悪態をついても裏を突かれない方がマシだ。」
尾上は軍帽をかぶりなおし、俺からサーベルを受け取った。
「裏に何かある。 俺を抑えて何をさせるつもりだ。 お前も身辺に気をつけろ。」
珍しく尾上に余裕がないように見えた。
尾上は迂闊に言葉をつかうことを避けるのに必死で、通常の子供じみただんまりとは違っていたわけだ。
「里見のオヤジめ、面倒なことに迂闊に巻き込まれやがって!」
「でも、結局のところ、尾上さんがさっさと燈子さんを嫁にしていたら、これは不要な戦争な気がしますけどね。」
尾上は体中の息を吐きだしたのではというような大きくため息を漏らす。
「嫁がおるのなら、こうもからまれんですむでしょう? いい加減に腹をくくられては?いっそ、もう、ここで腹をくくりましょう! 案ずるより産むがやすし!」
尾上はあきれたように俺の顔を見上げると、無言で、もうそれ以上言うなと片手をあげた。
「嫁は取らない主義なのは大嘘ですか?」
俺と尾上は背後からの声にほぼ同時に振り返った。
二人ともついぞ全く気が付かなかった。
胸の前で腕を組んだ登紀子がじっと立っていたのだ。
一瞬呆気に取られてしまった俺たちだったが、すぐに踵を返し、履物へ足を滑り込ませる。
こうなっては何が何でも長居は無用だ。
「そんなにあからさまに嫌がらなくても良いのでは?」
登紀子は尾上の腕をつかみ、立ち止まらせる。
「俺はあんたと関わりたくない。」
尾上は相手がうら若い女子だとしても関係ないかのようにつかまれた腕を振り払った。
相手が燈子であったならば、そっとつかんで離させていたところだろうが、登紀子には微塵の配慮もない。
「尾上馨少佐、私はあなたを気に入っていますし、欲しいものは手に入れる主義です。」
18歳のくせに度胸たっぷりの登紀子はまっすぐに尾上を見あげて微笑んだ。
「俺はあんたに興味はない。」
尾上もこれには全く動じない。これでもかというくらい温度のない言葉が繰り出される。
これが燈子だったなら、たじたじで俺に救援要請がありそうなものだが。
「寺脇の孫にも意地があります。 どうしても欲しいものは手に入れる血筋ですし。」
登紀子があまりに冷たく笑ったので、生まれて初めて女性の微笑みが怖いと思った。
だが、これには尾上が黙っていなかった。
「俺以外に手を出したら、あんたでも容赦しないぞ。」
あからさまに尾上が敵意をむき出しにしたことで、俺はようやくはっと気が付いた。
軍属の情報網をさらえば、燈子が誰なのかなんてあっさりと手に入ってしまう。
尾上はそれに対して威嚇したのだ。
「交渉にはそれなりの品格が必要だと覚えておけ。」
尾上が年端もいかぬ女子に心底切れた顔をしていたせいか、俺はふっとおかしくなった。
燈子にはそんな顔しないのだから、尾上にそろそろ自覚してほしいものだ。
しかしながら、このお嬢様は本当になにやらしでかしそうだ。
尾上にここまで言われても顔色一つ変えない登紀子の心臓がわからない。
登紀子とのにらみ合いが済んだ尾上の後をついて、旅館の玄関先から雨の中へ。
そこで、俺は俺自身の目を疑った。
「燈子さん?」
傘をさした燈子がびっくりしたような顔をして立っている。
先に出ていた尾上も負けず劣らず同じように驚いた顔をしていた。
「何をしている?」
「尾上さんこそ。」
雨脚が急に強くなる。
尾上の軍服が一気に水を吸い重苦しい色になっていく。
「あ、ぬれちゃいます。」
燈子はとっさに尾上が濡れないように背伸びをして傘をかざす。
自分の方がびしょ濡れになるというのに全く気にしていない。
「こんな時に!」
尾上は登紀子から見えないように、とっさに燈子を覆い隠すように手を広げた。
燈子は尾上が突然動いたことに驚いてしまい思わず傘を落としてしまう。
俺は尾上の横をすり抜けて、すばやく傘をひろいあげた。
「はい、濡れちゃうから気を付けないとね。」
さっと燈子の肩を抱いて玄関から見えないように背を向けさせる。
物がわかっていない燈子は何かを言おうとしたが、俺がそれを制した。
「さて、燈子さん、何か御用でここへ?」
小さな声で俺は燈子に問いかける。
「お薬をお届けに来ただけです。 この旅館の女将に頼まれて。 どなたか将校のお加減が悪いから、介抱するようにとも言われています。」
燈子は肩から掛けた布袋の中身を見せる。
まったく着飾ることのない燈子は戦時中のよくある婦女子の格好をしているのだが、色眼鏡ではあるがやはり登紀子より好ましく思える。
こんな時ですら俺はそんなことを考えてしまっていた。
「はて、将校の具合が悪いと? そうですか……なるほど。 では、とりあえず、そのお薬をお預かりしてもよろしいか?」
燈子はすぐにただならぬ状況を察知したのか何も聞かずに素直に薬を俺に手渡した。
「ありがとうございます。 説明がいささか難儀でして。 介抱せよとの命令に関してはどうにかしますので、ちょっとだけ、いや全速力で病院へ戻ってもらえるとたすかります。」
俺は燈子の背を押して、もと来た道を戻るよう促した。
燈子はほんの少しだけ首をかしげてはいたが、俺の指示通り駆け足で去っていく。
3か月ぶりの愛しい人の温度だったのに、悲しいほどに一瞬だ。
少し後ろを振り返ると尾上が苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「どうしますか? 介抱されるような将校はおりません。」
「面倒だな。 もう情報は照会済みということか……。」
俺と尾上は互いに顔を見合わせて唇をかんだ。
蛇のような登紀子の前では、燈子は簡単に食われてしまいかねない。
尾上と俺は降りしきる雨の中、玄関口に恐る恐る目をうつす。
そこには登紀子の姿はもうなかった。
降りしきる雨をよけることもせず、尾上は険しい表情のままだ。
「少佐、何からなさいますか?」
「あのお嬢ちゃんの……いいや、すぐに今橋中将に連絡を取れ。 その上で調べる。」
「そうおっしゃられると思っていました。 敵は少将関連でしょうがよろしいので?」
「構わん。」
「承知しました。」
尾上の部下としてこうみえても幾度となくとんでもない状況を乗り越えてきたのだから、それなりの人脈も情報網も持っている。
実のところ、職務中の尾上は実に巧妙に事を運ぶことがうまい。それを一番近くで見てきたのだ、師匠譲りのずるがしこさは適度に身についている。
料亭の庭を二人して急いで通り過ぎ、尾上は待たせていた車に歩み寄った。
運転席の扉が開き、背丈は俺より頭一つ小さく、昔は少女に間違われたらしいという童顔の小泉少尉が姿を現し、尾上のために後部座席の扉を開いた。
「絶望的にご機嫌がお悪いですね。 さて、少佐、僕はどうしましょうか?」
彼もまた尾上が拾ってきた変わり者だ。
尾上軍団の一角にいる小泉のこと、状況把握は迅速そのものだ。
「小泉、少々難儀なことになった。 料亭のいずれかの部屋に介抱を必要とするはずの将校がいるらしい。 諸事を確認して戻れ。」
「ここの女将をつつけばわかる。」
俺は小泉に目配せをしてすぐに薬を託す。
「ちらりと宴の席に聞き耳を立てつつ、諸事確認してきましょうとも。」
小泉は言葉の裏にある物をすべて飲み込んだ。そしてすぐにかけていく。
「ところで、少佐。 今晩の一件、燈子さんにはご自分で申し開きをしてくださいね。」
俺は小泉の後ろ姿をぼんやりと眺めている尾上の背に言葉を投げつけた。
「できるわけがないだろうが!」
尾上の声が裏返り、鉄壁の無表情が一気に崩れる。
やっぱり燈子が絡むとこれだ。冷静沈着な尾上はどこにもいない。
「燈子さんにはご自分で申し開きをどうぞ。」
とにかく意地悪したくなる気分だ。
俺は可愛らしくも心底焦っている尾上を置いて、先に車へ乗り込む。
「川村! 上官に対する態度か!」
尾上はぶつぶつと文句を言いながら、横にのりこんでくると腕を組んだ。
「ご自分だって大概なくせに!」
「親の顔が見たいわ!」
「お忘れですか? あ、鏡をお貸ししましょうか? 少佐が親鳥みたいなものなので。」
尾上は盛大にため息をつき、そっぽを向いてしまう。
「冗談はさておき。 少佐、笑いごとで済まん気がします。」
「言わんでもわかってる。 小泉の報告を待つ。」
無音の時間が過ぎ、車体を叩く雨の音がほんの少し静まった頃、小泉が戻ってきた。
「宴はお開きのようでした。 美少女は不機嫌そうに祖父殿に面倒くさそうな頼みごとをされておられましたよ。 それから、病気の将校はおりませんでした。 でも、芸子が面白い試みをするから楽しめと言われて待っていた横鎮の少尉がおりました。」
小泉の報告をきき、尾上は『畜生めが!』と怒り大爆発の声をあげた。
「楽しめだと!?」
俺は全身総毛だった。
何も知らない燈子の顔が脳裏をよぎる。
こんなに誰かを今すぐにでも殺したくなったのは初めてだった。
「何も聞かされていない様子でしたので、その少尉に、薬を持ってくる予定だった者は本物の看護婦であった旨を告げると顔色を変えておりました。 寺脇少将の車番だったそうです。 故に、一言申し上げておきました。 横須賀航空隊に喧嘩を売るのならば、それなりの報復を考えております、と。」
小泉はにっこりと笑ってから、ハンドルを握りなおした。
「小者は腰が抜けておりましたので、少佐のお名前を出し、丁寧にお薬を差し上げておきましたよ? 頬に一発だけおまけをしてきましたけどね。」
声のトーンは変わらないが小泉の怒りもまた相当のようだった。
「上出来だ、小泉。」
尾上は軍帽をさらに深くかぶる。真剣に物を考えるときの仕草だ。
苛立った気持ちを鎮めようと必死なのか、尾上は珍しく、煙管に手を伸ばした。
めったに口にすることなどないのに紫煙をくゆらせ、眉間に深くしわを刻んだ。
「本気ならばこんなところに高野燈子を呼びだしたりはしなかったろう。 こちらがぎりぎりのところで防げる程度にしかけてくるあたりが気に食わん。 あいさつ代わりのつもりだろうが、これはもう帝国海軍の軍人のやることじゃない。 宣戦布告と受け止める。」
怒髪天を衝く。尾上の怒りも俺の怒りもそのさらに上だ。
「小泉、里見の親父は?」
「会話の外という奴です。」
「……なるほどな。 里見の親父は鴨か……。」
「さしずめ尾上少佐がネギですかね? あはははは、美味しくなさそうなネギだこと。」
小泉は俺よりさらに若く、少年をようやく抜け出した頃ではあるが、頭はなかなかに切れる。そして、性格は俺よりも格段に悪い。
「だいたい、その表現は使い方が正しいとは言えんからな、馬鹿たれ。 そろいもそろって、お前たちはどこで敬意を落としてきやがった?」
尾上は俺の顔を見ると、盛大にため息をもらした。
俺は一応、小泉とひとくくりにされたことに対して不服の意を表現すべく、肩をすくめてみせることにした。
そのしぐさに尾上は腹が立ったのか、鳩尾に久しぶりの拳骨とやらを繰り出してきた。
「暴力に訴えるとは! 八つ当たりも甚だし!」
「あん!? 優しくなでただけだろうが!」
尾上は素知らぬ顔をするが、どこが優しくだと俺はさらに不服の意を重ねることにした。
そんなやり取りを小泉が一刀両断した。
「あぁそうでした! 少佐、重要な案件が! 申し開きのため、今からすぐに横須賀海軍病院へ向かえばよろしいので?」
この小泉の一撃に見事なまでに尾上は撃沈。
俺は胸がすくほどの大爆笑だ。
「黙って、航空隊へ戻りやがれ!」
小泉は頬を膨らませて、つまらんというように車を走らせた。
この小泉と俺は尾上組といわれ、戦後も同様の道をたどることになるのだが、それはまた別の話だ。
Love, the itch, and a cough cannot be hid.
Thomas Fuller (トーマス・フラー)
【愛とかゆみと咳だけは、どんなことをしたって、隠し通すことのできないものである。】
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