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第5話 海鷲の初恋開幕
しおりを挟む真夏のひと時の豪雨が通り過ぎた後にはこの8月15日を知ってか知らずしてか虹がかかっていた。
まるで尾上と燈子が話すことを許してくれたような美しい虹だった。
「少し長くなるがいいのか?」
互いに一息ついた泰子とエアコンの効いた部屋で向かい合って座りなおした。
ゆっくりとひ孫の顔をみやると、泰子はゆっくりと笑った。
「では、少し昔の話をするとしようか。」
俺の心の奥には秘めた大切で仕方のない愛すべき思い出がある。
それを一から全部、この8月15日に思い出してみよう。
時を遡って、閉じ込めていた思い出をもう一度。
今の時代からは想像もつかないと思うが、俺が若い頃の日本と言えば軍国教育が徹底されていたこともあり、軍隊に入るということに嫌悪する人間はそうそういなかった。
神主の三男だった俺は何の迷いもなく、海軍兵学校へすすんだ。
広島にある江田島での4年間の士官教育を受け、順調に卒業し、難なく少尉となった。
その後、戦闘機にのりたかった俺は飛行学生へもすんなりとすすみ、訓練期間を終え、実戦配備となった。
当時の日本には空軍という独立した組織はなく、海軍と陸軍がそれぞれに航空機を開発し、それぞれにパイロットを養成していた。
現代と比較すると驚くことばかりだろうが、当時は航空機による戦闘を重要視していない風潮が強くあって、パイロットの養成には殊の外、積極的ではなかった。
つまり、海軍軍人にあって主流ではない道に進んだ天邪鬼な一人というわけだ。
そんな中、俺は海軍航空隊の戦闘機部隊に着任し、あっという間に中尉となり、それなりに出世株だという自信もあり、女性にも困った記憶もなく、本当に今考えてみても愚か者そのものだった。
振り返ってみると、神様はよくみているなと素直に反省した記憶もばっちり残っている。
そう、俺が生まれて初めて真剣に好きになった人には、好きな男がいたのだ。
よくある話だけれど、思った以上にこたえている自分がいた。
恋に落ちた瞬間に失恋。まさにそれだ。
失恋というにはあまりに衝撃的すぎた瞬間、俺は呆然とするしかなかった。
恥ずかしいことに、俺はうまくいくとどうにも思いこんでいて、さらに恥ずかしいことに告白する前に終わるなんてことは微塵も思っていなかった。
その上、惚れた女性が惚れた相手というのが俺の最も尊敬する男であり、どう逆立ちしても男として超えていける予感が全くしないという事実だけが目の前に立ちふさがった。
そして、俺は自分でもよくわからないままに、惚れた女性の恋の悩みに、良い人面をして毎回毎回こうして付き合っているのだ。
「諦めきれないのでしょう?」
海を眺めながら、すぐ隣にいる俺の恋した女性の横顔を眺める。
傍から見れば、俺たちが恋人のようにみえるだろうが、現実は全く違う。
「諦め方がわからないんです。」
砂浜に半分埋まっている貝殻に手を伸ばしながら、小さくため息を漏らしている女性。
俺に言いよってくる着飾った綺麗な女性たちとはまるで違うその人は意志の強そうな目が印象的で、うまく表現できないけれど、抱きしめてしまいたくなる儚さのある人だ。
彼女の名前は高野燈子という。
可愛らしいとは少し違って、綺麗に整った美しさがあるというか、これまで出会った女とは違う何かがある。これは惚れた欲目だな。
鈴が鳴るような声というよりも、少し落ち着いた低めの声。
しっかり者のようにみえるが、実はとても繊細で、すぐに弱音をはいてしまう。
ずるいことに、弱音はもっぱら俺の前でしか吐かないのだけれど。
少し色の薄いゆるやかな波打つ黒髪を無造作にひとつにまとめて、化粧っ気のまったくない女性だが、どうしてか魅かれてしまう。
目を伏せた時の長いまつげが濡れているのを見ると、思わず抱きしめてしまいたくなるがそれをしてしまうと、きっと燈子は俺の傍からいなくなってしまう。
『やめてしまえよ、そんなに辛いなら!』
気を抜けば、一気に口から飛び出してしまいそうな言葉をぐっと喉の奥にしまいこむ。
耳に届く波の音が燈子の涙をあおっている気がした。
「どうしてあの人なんですか?」
意地悪な質問だとわかっている。言ってから男らしくないなと内心舌打ちした。
頬をかすめていく海風は春の穏やかさがあり、冷たさは感じない。
はじかれるように顔をあげた燈子は少し逡巡した。
「わからないんです。 でも、あの人じゃないとダメなんです」
消え入りそうな声で素直に返され、俺は意地悪な質問をした自分を責めた。
燈子は俺を信用しすぎている。それなのに、俺は何をしてるんだ。
「できることがあるのなら、また、お手伝いしますから。」
心にもない言葉だった。
大嘘だ。
俺は燈子を手に入れたいはずなのに、何を言っているんだろう。
「だから、もう泣かないでください。 あの人は女性にはそっけないのが当たり前なので。」
俺の本音とは裏腹な言葉に目を輝かせる可愛い人を恨めしく思う。
まったく疑わないまっすぐな瞳でみるのはやめてくれと今すぐに逃げ出したくなった。
「川村さんはどうしてそんなに優しいのですか?」
『わかっているのか? 俺はあんたが好きなんだぞ?』
握り締めたこぶしにさらに力が入っているのを必死に隠した。
一生懸命に人畜無害な笑顔を作る。
隙さえあれば、いつだって手に入れることができる距離にいることを選ぶ卑劣さ。
「他でもないあの人を一番知っているのは私ですしね。 それに、同郷のよしみです。」
何を言っているんだと声をあげて胸をかきむしりたくなる思いだ。
波の音だけが聴こえているその場所で、俺だけが違和感たっぷり。
嬉しそうに笑っているその表情を見ていると、裏切れないと肩を落とす。
「何であんな気難しい男が良いのか奇特にもほどがある。 私にしておけばよいのに。」
笑い話にしてごまかすのが精一杯だろう。
追い詰めてしまうのはよくない。
他の女性になら強引でもお構いなしだったろうが、燈子にそれはできそうにない。
「男を見る目を鍛錬された方がいいですよ。 苦労しますよ、あの人の傍にいるには。」
「おっしゃる通りかもしれません。 川村さんだったらきっとこんな想いをせずに、間違いなく幸せになれるんでしょうね。 でも、私はあの人じゃなくちゃダメなんです。」
満面の笑みで堂々と返す言葉かと突っ込みたくなるが、寸手のところで思いとどまった。
「川村中尉は女性におもてになるのに、こんなに優しかったら大変ですよ。 きっとあなたの取り合いでひと苦労ではすまないわ。」
「俺をとりあってどうするんですか……。 まったく!」
ついつい丁寧な言葉遣いを忘れてしまう。
本当に何を言い出すんだ、この可愛い女性はと、ほとほと惚れた弱みにがっくりくる。
そんなに明るい口調で言うのならば、いっそ、貴方が俺を選んでいれば、俺は他の女性を一切見ないというのに。
罪作りなほどに柔らかく笑っている燈子の前に敗北宣言だ。
「明日、お戻りになられるのですから、もう怪我はなさらないでくださいね。」
「気は付けますよ。 しかしながら我が隊はいつも怪我が付きものです。 なんせ、あの人が大将ですから。 またの機会があるでしょうし、その時はどうぞよろしくお願いします。」
「もう、またの機会だなんて! ……そういえば、あの方ももうすぐお戻りになってしまうんですよね。 何を言っても聞いてくださりそうにないから、一番心配です。」
しゅんとしてしまう燈子の表情には不安やら心配やらが浮かんでは消えていく。
こんな時でさえ、他の男を心配するのかと泣きたい気持ちになる。
「尾上さんは殺しても死ぬような方ではありませんよ。」
尾上馨は燈子の想い人で、俺の敬愛する上官で、この憎たらしい恋敵は俺が男惚れしている男だ。
「私はあの人に何かあれば生きていけそうにありません。 阿呆そのものですが……。」
突き放されっぱなしの癖に、それでも好きだと全身で訴える燈子の心には、俺の入り込めるような隙間はなさそうだ。
先に燈子が腰を下ろしていた流木から立ち上がった。
そして、すぐに何かに気がついて振り返った。
その視線の先には、松葉杖が意味をなしていないあの男が立っている。
病室でじっとしていることができない尾上だ。
駆け出していく彼女をもう止めることなんてできない。
砂浜に足を取られ、走りにくかろうに全力でかけていく姿にさらなる敗北感だけが残る。
「わざとか? もうこのタイミングは嫌がらせだな。」
俺との時間を取り上げに来たのではないかというような登場に、深い深いため息がこぼれる。
俺の惚れた女が、上官殿に見せる笑顔は別格のソレだ。
決して、俺にはみせることのない本当の笑顔。
「うるさい!」
何やら燈子に注意された尾上がそっぽをむいて大声でぼやいている。
「君には関係のないことだ!」
「関係ないですって?」
燈子は尾上の袖口をつかんで、意を決したように大声で言い返した。
これまで一度も聞いたことのない強い口調だ。
燈子は本気で怒っているのだろう。
頬が上気しているのが横顔をみるだけでわかる。
「関係ないだろうが! 君に迷惑をかけた覚えはないが?」
まったく、何て言い方をするんだと俺は肩を落とす。
それも、大声で言い返すことか、良い年をした男が。
見てみろよ、燈子は今にも泣きだしそうだ。
「どうしてそんなことを言うのですか?」
「そりゃ、こっちの台詞だ! 理由がないだろう? と、言っているんだ。」
少し離れたところで見ていようと決めていたが、これはまずい。
そろそろ行ってやらないと、あの上官殿のことだ、心にもないことを口走ってしまう。
怪我をした腕よりも心がきりりと痛んだが、できる限りの駆け足で近づいていく。
「あなたのことが世界で一番大切だからです!」
燈子の小柄な体のどこにあんな勇気が隠れているのだろうか。
まっすぐな彼女の強烈な攻撃に、さすがの上官殿も唖然として口を開いている。
「大切に想う人を心配して何が悪いんですか?」
燈子はひたすらにまっすぐすぎる。
そのまっすぐすぎる愛の告白を理解できない尾上の表情がみるみる凍り付いていく。
「馬鹿なことを言わん方が良い。」
尾上は捕まえられている袖口を優しさの残る程度にゆっくりと振りほどいていた。
優秀で大胆なはずの軍人の声が幾分弱まっている。
それだけで真剣に困っているのがよくわかる。
「馬鹿なことなんて言ってません!」
燈子の声色は逆に熱を帯びてくる。声にいくらか震えるような響きがある。
「あなたを心配して一体何が悪いの?」
うるんだ目で見上げられた尾上は小さくため息をもらした。
「軍人のことを心配するなんて君はもう少し自分の人生を考え直した方が良い。」
燈子は逃げようとした尾上の袖口をもう一度つかんだ。
色が変わるほどに唇をかみしめている燈子の腕をつかむと、尾上はそっと自分の袖口をつかんでいる手をはずさせた。
「尾上さん!」
燈子が再度伸ばした手を、尾上がそっとつかみまた下ろさせる。
春の海風が急に勢いを増してふきつけ、ゆるく結ってあった燈子の髪をほどいてしまう。
吹き上げられた柔らかい髪がそっと尾上の頬をかすめ、思わず、尾上はその様子に目を細めてしまった。だが、すぐにその事態を撤回するために目をそらした。
「君はここで油を売っていい人じゃないだろう? 患者が待ってるんだ、さっさと仕事に戻りなさい。」
尾上はその飛ばされてしまった紐を拾って、すっと差し出した。
震える指先でその紐を受け取っている燈子は顔を上げずに足元をみつめたままだ。
「看護婦の仕事を放棄すべきじゃない。 君の患者は俺だけじゃないはずだ。」
まったくもって色気のない、味気のない言葉だが、それが尾上の最大限の優しさだと知っているのは俺だけという悲しい事態だ。
当然、それがわからない燈子の表情は強張ったままというよりも、絶望的なものとなる。
出会ってからもう1年だというのに、この二人の関係は一向にワンサイドゲームだ。
燈子の想いを尾上は退ける。
ストイックなまでにひたすらに退けるのだ。
「女性に心配されるなんてありがたいことですよ。 尾上さんも感謝申し上げないと!」
張りつめた雰囲気はこうやっていつも軽口で崩してきた。
この上官殿も燈子に負けず劣らずのまっすぐな男で、度々上層部とやりあってきた問題児だ。そして、いつだって俺は緩衝材。
『うるせー! 黙れ!』
と、いつもなら、俺に八つ当たりするようにして場を収めるのが常套手段だった。
それなのに、今回は違っていた。
尾上はわずかに目をふせて、俺と燈子に背を向けてその場を静かに後にしたのだ。
無言のまま来た道を戻っていく。それも、何かを考えながら。
「少佐?」
いつもの尾上ではない。違和感たっぷりだ。
不安で泣き崩れそうな燈子にそっと大丈夫だよと微笑みかけて、俺は後を追う。
足を怪我している尾上を捕まえるのは容易だった。が、やはり何か不自然だ。
「尾上さん? どうかされたのですか?」
横に並んでみて、尾上の顔をのぞきみると、ぐっと唇をかみしめて、考えあぐねているそんな表情をしていた。これまでに見たこともない切ない表情。
基本的に女性に冷徹の極みの尾上が考えているとしたらそれはもうそういうことだ。
自分の中に生まれた恋心に蓋をしようと必死なのだ。
「本当に不器用すぎですよ!」
「だまれ……。」
よく見ると顔が赤らんでいる。純情少年のような上官がほんの少し憎たらしい。
「酒でも食らったような顔をされていますが?」
「うるさい。」
どうにも切れ味の悪い刃物のような物言いしかできない尾上がおかしくて仕方がない。
このどうにも恋愛に臆病な男が、一度、空に上がると上からも下からも愛されてやまない優秀なパイロットなのだから、本当にどうしようもない。
軍人気質であり、頑固一徹。荒くれ者にみえるが、実は冷静で知的。
ずば抜けた男前ではないが、精悍な顔立ちをして、凛とした雰囲気のただよう三十路男だ。
上層部の方々から引きも切らない見合い話、縁談の数々をものの見事に撃破し続け、奇跡の独身男と噂されるその人だ。
女に全く執着しない尾上が、俺の人生で一番欲しいと思った女性の心をかっさらっていったことが、俺のささやかなプライドをずたずたにする。
「俺はあなたがうらやましいですよ。」
ぴたりと足を止めた尾上が俺をぎろりと見返した。
尾上が異様なまでに静かな表情をする時は威嚇か威圧の意志がある時だと知っている。
『お前も高野燈子に惚れているのか?』
そう聞きたいのだろうか。
全身全霊で敵意をむけなくても結構ですよ、俺は最初から負けているんですからと自虐的な感情を覆い隠すようにへらへらと笑いを浮かべてみる。
「ねぇ、尾上さん。 あんなに愛情深い女性を俺は知りませんよ?」
「……そもそも、そこが問題なんだろうが!」
尾上は舌打ちをして、松葉杖をいらだち代わりに俺に押し付けて、病室へ戻っていく。
女性の感情に至っては確実に無頓着だと思っていたがそうでもない様子だと初めて認識した。
「わかっていらっしゃるか。 なるほどね。」
去っていく背中をみると、本当にどうしようもない男だなと思うけれど、どうにも何とかしてあげたくなるのが俺の哀しい性だ。
「なるほど、これが運命って奴か?」
運命という響きは俺の胸を押しつぶす。
俺が世界で一番尊敬する男が、俺が一番欲した女を手にする。
俺の惚れた女は絶対に俺の物にはならない。
燈子の想い人は、きっと燈子を選ぶ。
そして、その時、俺は潔く身を引くことができるのだろうか?
まったく、燈子は男を見る目がない。年も近く、若い俺よりも年上の問題ありの尾上を望むとか。
女性に苦労したことがない俺には良い薬なのかもしれないけれど、納得できそうにない。
The first symptom of true love in man is timidity, in a girl it is boldness.
Victor Hugo (ヴィクトル・ユーゴー)
【真の恋の兆候は、男においては臆病さに、女は大胆さにある。】
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