黙の月ー神の獣に愛されし紅

ちい

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第47話 番外編 白の憂鬱 後編③

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 木漏れ日がわずかに届く程度の仄暗い坂道をひたすらに歩くこと数十分。
 足の下にあるのは白い玉砂利で、それを決まりある草履で歩くらしい宗像の連中の頭の中はどうかしている。と言うのも、決まりあるらしい草履はその性質上、滑り止めなどなく、兎にも角にも歩きにくい。よくこんな足元の悪い環境を平然とやり過ごしているものだとすぐ側にいた一心の方を見上げたら、小馬鹿にしたような微笑みが降ってきて、見るんじゃなかったと後悔した。
 神聖な区域へ入っているのだからある程度の仕方なさは理解しているが、本音ではもう良い加減に終わりにしてほしいとついた僕の溜息に、志貴が眠っているのだから仕方ないだろうと残りの面々は苦笑いしたが、だったら起こせよと怒鳴りたくなる己を押さえ込み、乾いた笑みを浮かべるだけだ。
 誰かが鍛錬の一種だとぼやいたけれど、僕はさらに深いため息をつくばかりだ。
 宗像の禁域においてここだけは別格であり、禁域自体が主人を受け入れると表明しない限りはある程度の手順を踏む必要があるそうだ。
 その決まりある手順を踏むことで、禁域が初めて結界内へ招き入れてくれるらしい。
 志貴を寝かせたままで出発することに何の疑いもないところを見ると、こういう流れはよくあることかと一心の顔を見上げると、志貴を背負ったままの彼は口角を引き上げるだけで予想に反することもなく何も答えない。

「今日は格別よく寝てるけど、何かしたわけ?」

 望の指摘はごもっともだ。
 この問いを何故誰も口にしなかったと僕も思った。

「親がいる前で何かって聞いてくれるな、戯け者」

 一心がそれはそれは嫌味なほどの笑顔で呟くと、一番先頭にいた泰介がくるりと振り返って、身の毛もよだつほどの殺気を放り投げてきた。
 こいつ、これから成そうとすることへの緊迫感を著しく削ぐ天才かもしれんと僕はガックリと肩を落とした。

「大丈夫ですよ、やだわ。 俺は品行方正だから、ちゃんと待てできてますって。 でも、お嬢様のご希望も多々ありますのでね、心地よい眠りに関しては皆様のご想像におまかせします」

 時生と公介は僕とは違った意味で肩を落とし、公介は怒り心頭の泰介の肩をだき、娘は大人になってゆくのだよと慰めている。

「むしろ、まだやったんかい」

 しまったと僕が口を押さえたら、一心がギロリとこちらを見て、もう一回言ってみろと凄まれてしまった。
 仕方がないだろうがと口を尖らせると、一心はふんと鼻を鳴らした。
 あれだけそばにいて、結婚話も出る間柄で、その上、宗像一心のくせにと思うじゃないかと睨み返したら、今度は一心の方が口先を尖らせた。
 
「大切なものは大切にしすぎたってバチは当たらん」

 そりゃそうだと僕が同意すると、一心は得意そうに笑った。
 ある意味で見事な場の転換だ。
 志貴が意味あって眠っていることを悟らせずに彼は笑い話で完全に煙に巻いた。
 
「やだわ、一心! 志貴を魔の手にかけないでよ?」

 望は盛大に顔を顰めて、さっと志貴の前髪に触れようと手を伸ばした。
 やばいと僕が動く寸手で一心が危ねっと口にしながら不意にしゃがんだ。
 
「ちょっと抱っこしてて、落とすなよ~」

 もう一度、ひょいと立ち上がったかと思うと、はいっと僕の方へ志貴を預けて、一心は軽く目配せをした。
 一心は草履がイマイチだとか難癖をつけてみて、足元をいじりながら、志貴を抱き抱えている僕と望の間に割って入って距離を取らせた。
 本当に嫌になるが、ある意味で天才なのかもしれんなと僕は息を吐いた。
 
「ほれ、ついたで」

 一心が草履を縛り直して、ゆっくりと立ち上がって、前方を指さした。
 数秒前までそんなものはどこにもなかった。
 宗像の聖域中の聖域の石室が目の前にある。
 ふっと視線を下げると、志貴が寝起きの眼をその手で擦っている。
 僕に預けてくるタイミングで彼は志貴の目を覚ましたのだ。

「おはよう、楼蘭。 あれ、一心は?」

 僕は志貴の体をおろしてやると、一心の方へとその背を押してやる。
 一心がおはようやでとにっこりと笑んで抱きしめて、その耳元で何かつぶやいた。志貴がそれに小さく頷いた。

「あのさ、皆、ちょっとだけ耳を塞げ」

 志貴がふうっと息を吐いたと同時に轟音がして、砂埃が立ち上る。
 耳が全く機能しないほどの音と前方か吹き出してくる猛烈な風。

「いや、このタイミングでやるか!?」

 僕は志貴が仕掛けたタイミングを逃すことはできないと構えようとしたところで、スッと僕の腕を掴む白い腕が足を止めた。
 ここでかと振り払おうとするが、その腕の主はびくともしない。

「なるほどね」

 敵も背に腹はかえられぬというわけね。
 この腕は蒼の王そのものか。
 何も成せない者ごときが僕の腕を掴んでいるわけか。
 あたりを見渡して、瞬時に状況を把握できた。

「時間を止めたか」

 志貴の攻撃は轟音に爆風が付随して起る炎の柱が特徴だが、炎の柱の衝撃が届いてこないのはこのせいか。
 時を操作する類の千年王でなければ、いくら千年王であってもこの時の静止から逃れることはできない。

「質問を一つ、どうして君は時間の制約を受けていないの?」

 白煙の中から現れたのは漆黒の髪に琥珀色の瞳の長身の男だ。
 だが、その瞳の奥には片方だけ深い蒼が隠されているのが判別できた。
 
「それにお答えする義理がないよ」

 僕は彼に掴まれている自分の腕ごとを切り落とした。
 多少の痛みは織り込み済みだが、それでも痛いものは痛いな。
 ぼたぼたとこぼれ落ちる血を見ていると、もったいないなと呟くしかない。
 目の前にいる男の表情がわずかだが凍りついた。
 これは予想外だったということか。
 舐められたものだな。

「これで動ける。 あんた程度の千年王には片腕で十分だよ」

 宗像の人間の時間そのものを止められるのは、彼らの血液が彼のものと寸分違わない遺伝子構図をしているからだ。その作用が及ばない僕には触れたところの時間を止めるのがめいいっぱいというわけだ。

「あんたと僕の相性は最悪って自覚しておいた方が良いよ」
 
 切先を向け合って対峙してみるとよくわかる。
 蒼の王というのはある意味で度がすぎた聖人君子の顔をしている。

「片腕では荷が重いと思うけれど?」
「片腕の僕に敗れたとあっては立ち直れないとのご希望でしたら、したがないけど応じてあげても良いよ」

 時間は十分にいただいたしねと僕はニヤリと笑んだ。
 お前との無駄に思える会話の時間に僕は回復できるんだ。
 魔法を一つお見せしますよと小さく息を吐いてやる。

「あら不思議、僕は無傷だよ」

 己で落とした体の一部は落としていないも同じだ。
 傷の修復は最大2分弱、最短30秒で完了する。
 蒼の王の顔が見事なまでに渋いものに変わるのを見て、僕はほくそ笑んだ。

「僕はただの白の千年王じゃないんでね」

 僕の首はそう簡単には落とせない。
 その理由の片鱗をわずかだけ晒してやる。

「白の王の中には時として悪魔を凌駕すると揶揄される者がいるってのは検討ついてたんでしょ?」

 数千年を生きながらえ、最古の血を維持し、その歴史を操作してきた奴であれば僕同様にコレを有していた存在を知っていてもおかしくはない。
 泰山の歴史において、同じ能力を発現させることができた王は2人。
 直近で1000~1200年程度前だということは僕も把握している。
 だから、宗像に潜んでいた蒼の王であれば確実にこの事実を把握しているはずだ。

「詳細は不明でも、己にとって最悪の相性、相克にある王が黒だけではないという状況把握はできていて、僕とやり合う方が楽だと判断されたのが腹が立つけれどね」

 白の王の中でも希少価値のあるクラスは己を害そうとする者に対して全ての無効化が可能だ。
 攻撃とは書いて字の如く対象を害することを指す。
 故に、僕への攻撃の全ては僕が攻撃と認めた段階で無効化される。
 浄化と回復がもたらす至高の領域は『ゼロに還す』であり、全ての無効化と初期化というわけだ。
 これを踏まえても、奴は黒の方が僕より厄介と評した。
 全く、不愉快の極みだよと舌打ちする。

「心底、舐められて気分は最悪だな」

 人に限らず時間が僕の敵となったのならば、それを排除、もしくは無効化できてしまう。
 方法はどうであれ、腕を掴まれたことをなかったことにできるのだとは言ってやらなかった。
 奴の槍の構えは実に隙がなく、見事だ。だけれど、どれだけ優れた槍の使い手であれ、僕には意味をなさない。
 僕が泰介を完封できたのはこの性質を使用したからで、泰介からは卑怯よばわりされた。
 僕は戦闘において防御不要。
 彼の槍の切先は僕の体をすり抜けるが、僕の剣先は彼の皮膚を裂くことができる。

「紅が史上最強なのは、僕のコレが唯一通用しないからだ。 でもね、逆に言うと紅を除けば、僕のコレに勝てる千年王は存在しないってことは当然ご存知ですよね?」

 僕の目的はそもそも石室の破壊が最優先ではなく、それを目論めば蒼の王が出てくると踏んだからだ。
 蒼の王が現れれば、石室は問答無用で破壊すべきものとわかる。
 石室の破壊が既存の宗像にどんな影響を与えるかわからないが、石室を破壊すると志貴が覚悟を決めたのだから無駄なくすすめていかなくてはいけない。

「おしゃべりはすぎると仇になるよ」

 蒼の王がにこりと綺麗に笑むとどこか人形のように作られた表情で気色悪い。
 余裕なのか、壊れてしまっているのかはわからないが、今、僕の目の前にいる男はこの状況すら予測していそうで内心ヒヤリとする何かが背筋を流れ落ちていく。

「君はそもそも月の光の下にある高貴な人材だ。 だから、貴重な駒を失いたくはないんだよ。 今後、志貴には手を出さないし、志貴を丸ごとプレゼントしてやっても構わない。 その代わりに君がこの場で宗像一心を葬ってみせろ。 一心は相応しくないはぐれ駒だから何ら気に病む必要などない。 彼を月の光のもとから排除しろ。 それがこれから勃発する全面戦争の唯一の回避方法だよ」

 人材だの、駒だのと僕はおもちゃではない。
 こうやって人を揺さぶり、動かしていくのがこいつの常套手段というわけか。
 
「そのプレゼンテーションには全くそそられないよ。 志貴が大人しくプレゼントされるとでも? わざわざ憎まれて生きる千年を僕が望はずがない。 それにあんたの言う全面戦争とやらをふっかけられたとして、あんたと僕じゃ不毛な時間を繰り返すだけだって分かってないのか?」

 馬鹿にするなよと睨みつけるが、彼はにっこりと微笑むのみだ。
 圧倒的に不利なのは目の前にいる奴の方なのに、どうしてこちらが追い詰められて居るような感覚が残る。
 確実に僕の剣の切先は奴の皮膚や肉を裂いて、血飛沫が上がるというのに、どうしてこいつは苦痛の表情一つ浮かべないのか。
 何だ、この違和感。
 憑依師のやり口は一心から十分に聞いていた。
 道反の禁域では誰かの身体を代用することはできないはずだということもわかっていたが、その約定を奴は超えられるのかもしれない。
 時に抗う強さを唯一人で享受できているといのも嫌な予感がする。
 まるで同じ次元の者同士での対峙ではなく、別次元の神とやり合っているような感覚だ。
 
「傑たる者は多いに越したことはないのだけれど、聡すぎる者は時として邪魔になる。 世闇と静寂の世界を維持していくための血は宗像でつなぐ。 規定通り、約定通りに、丁寧に丁寧に護りぬく。 それを破ろうとする者は重要な駒であれ、排除するしかない。 では、今、君の賢さを問うよ。 引きなさい。 そして、目を瞑り、知らぬ顔をしてやり過ごせば良い。 これまでだってそうしてきたのでしょう?」

 何度傷ついても、護り抜けと両親に言いくるめられ、恥を忍んで耐えて耐えてきたことをこいつは今、目の前で、堂々と詰っている。

「それ、煽ってるよな?」

 冷静になれと息を吐いて、一度、目を閉じる。 
 肌に湿気を纏うひんやりとした空気と水の香りが届く。

「幻術が上手いってのはわかってたんだけど、ここまでくると怖いな」

 しっかりと目を見開くと、自分が崖っぷちギリギリに立って居ることに気がついた。
 前方には不安定なオベリスクのように立ち並ぶ尖った岩柱とかつて水が流れていたと思わしきむき出しの粘土層。
 背後には水が激しく岩肌を叩く音がする。
 頭上では聞いたこともないような猛禽類の声までする始末だ。 
 もはや、ここは僕の知っている道反ではない。
 僕の人生経験において導き出される感覚として最も近いのは冥界の最下層。

「やってくれるじゃないか」

 僕を単独で落としてきたところを見ると、ほんの少し笑ってしまいそうになったけれど、それにしても不快感は最上級だ。
 ここは岩肌が一気に崩れ落ちたり、足元の岩盤が溶け落ちたり、頭上から悪鬼同等の猛禽類が襲いかかってきたり、数分と持たずに悪鬼が群れてくるなんぞ朝飯前の場所だ。
 いかに千年王であっても手を焼くほどの数で勝負するというのがまた嫌なところだ。
 僕はもうかつてのように傷はつかないが、蛆虫のように湧いてくる悪鬼との交戦で確実に足止めは喰らうわけだ。

「どんな条件にしたわけ?」
「そう難しくはないよ。 重要な駒を失う手痛さを避けるだけの話だけだからね。 眼前のありとあらゆる悪鬼を死滅できたなら、戻り道がわかるはずだ」
 
 クソッタレと呟いたが、このやり口にハマったのは自分の落ち度だ。
 冥界におけるアンダーグラウンドには厄介な規定がある。
 道を開いた者が戻り道を決められる。
 つまり、誰かの開いた道に不意に落とされたのなら、いくら僕でもその条件を満たさねば戻れない。

「あんたも一つ忘れているよ」

 僕は雁楼蘭、白の千年王だ。
 
「泰山生まれってのはさ、生きるための選択に美しさを求めない」

 蒼の王の肩口を掴み、さっと剣をの先を貫通させる。
 わけがわからないだろうね。
 僕の動きがあんたに読めなかった理由。
 そして、実体かそうではないかに関わらず、まるで生身のように届く切先。
 溢れ出る血液は悪鬼にとって至高の美食である宗像のもの。

「千年王クラスを己の道で確実に引き込むには自分もまずが一緒に行かねばならないよね。 だから言ってあげたのに、紅を除いたら一番強いのは僕だって」

 今度はガッツリと襟首を捕まえることができた。
 指先にしっかりと布の感覚が届く。
 身長差は確実に20cmはあるのが気に食わないけれど、この身長差に嘆くのは宗像一心と向き合うのでなれたというか、諦めがついた。
 槍が僕に振り下ろされるのを寸手で避けながら、今度は腹部に蹴りを入れた。

「防御は無用ではないの?」

 流石に手強いなと僕はグッと唇を噛んだ。
 こいつはやはり白の王の能力を十分に把握している。
 己に当たるということは、僕にも当たる。
 僕がそれを望んで仕掛けてくることをわかっていて、ここへ誘い込んだのだろう。
 手のひらの上で良いように転がされて実に腹立たしい。

「白が憑依師に類似する能力を保持していることをわかった上でこうやって肉弾戦に持ち込むのがあんたの希望ってのが気に食わないな」
「そう? 肉弾戦であれば君に分があるのではなくて?」

 紅さえ除けば一番強いのだろうと奴はニヤリと笑んでいる。
 肉体から流れ出る血液に悪鬼が群がってこようと奴は平然としている。
 壊れているのか、いや、それを奴に問うのは今更だな。

「あんたと相対して見て、己の身の欠点を思いしれて万々歳だよ」

 白の欠点を今ここで洗いざらい僕自身が知っておくことは後の利となる。
 今目の前にいる輩は変幻自在な生命体でしかない。
 空疎な個体として挑んでくるのだから、本来は敵にすべきではないし、勝ち筋を読もうとしてはいけない相手だ。
 
「実態がないってことは出来損ないなんだろうな」

 出来損ないという言葉に僅かに眉が動いた気がするが、奴の能面のような表情は大きくは変わらない。
 蒼が群を抜いて強いというのならどうしてリアルに君臨しないのか。
 そこが勝負の分かれ目だ。
 そのままでは勝ちえないからこそ、鈍く生き続けられる方法を選択し、時間を活かし、知略を巡らせる。
 そう、鈍くだ。
 こいつは頂点には立てないが、確実にトップの位置を入れ替えるための策を打てる。
 槍の使い手としては泰介すら危ういレベル、術の発動のさせ方では時生を凌駕する。何よりも賢い。緻密で嫌らしい罠を幾重にも仕掛けられる。
 それだけの条件が揃っているのに、この男は頂点に立てない。
 決定的な何かが欠落しているからこそ、表立って頂点に君臨できず、影に身を潜めて、姿をくらましたままで糸を引き続けるしかできない。
 
【咎者なんだよ】

 こんな時に限っての登場かと僕が肩を落とした理由を蒼はわからないだろうな。
 
【神になり損ねた半端者だってば、ちょっと聞いてるの?】

 聞いてるよと怒鳴り声をあげそうになる自分に咳払いをして、息を深く吸った。
 まるでせっかく教えてやったのにというような若い男のため息が僕の脳裏に響く。

【楼蘭、叩きたいんでしょ?】

 叩きたいに決まっているが、それを願えば何を奪われるかわかったもんじゃないだろうがと舌打ちをする。
 すると、脳裏でまたケタケタと嘲笑する声が響く。
 自力でするから引っ込んでろと念じるが、どうにも引き下がる気がないらしい。

【私からしたら楼蘭を傷つけられるのがとっても手痛い事態なんだよね。 今の楼蘭では多分してやられる】

 黙ってろやと思わず声を上げてから、何事もなかったように笑って見せる。
 奴の槍を避けながらする会話かと念じて言い返すと、声はこれまた呆れたような声で返事をしてくる。

【蒼の王ってだけであればこうも難儀にはならんだろう。 楼蘭はまだ思う以上にひよこちゃんだから、あの子の思うままにされかねないから、私に身体をよこせ。 数分で数十年分の時間を得られる打撃を与えてあげるから。 ほら、意地を張らずに助けてくださいって言ってごらん】

 片方だけ頬のあたりがひくつくほどにムカついてくる。
 身体をよこせと言われて、はいどうぞとは行かないからなとペッと唾を吐き、鍔迫り合いを続ける。
 これまでの誰とやり合ったよりも、本能が危機感を覚えている。
 首筋から汗が流れ落ちる様は明らかであり、力押しが効いていないのも実感としてある。

【幼い時から言っているでしょ? 君は私の大切な子だから依怙贔屓してあげてるって。 楼蘭、泰山を蹂躙されてはならないのだよ】
「僕がいつ泰山を蹂躙された?」

 思わず声が出てしまい、チッと舌打ちすると、誰と話しているんだとつぶやいた蒼の表情が分かりやすいほどに固まった。

【悟られたら逃げられるよ、楼蘭。 あの子は聡いし、逃げることに恥も何も感じない性質だ。 おそらく、あの子は私が今、君についていることをうっすらと感じ取ったかもしれないね。 さて、どうしようか】
「わかったわい! 好きにしろ!」
【可愛く言って】
「もう、面倒だな! お願いしますよ! これで良い?」
【ちゃんと名前で呼んでくれないと駄目】
「泰山府君、我の全てを委譲する」
【雁楼蘭、よかろう】

 くっそう、これをすると後に数ヶ月は頭痛から逃げられない。
 己の魂の色が一気に塗り替えられる感覚がして、麻酔より強力な睡魔が一気に襲ってくる。
 数秒後には覚醒できるのだけれど、ここからはもう傍観者だ。
 意思も行動も全てを操作される。
 僕は僕の目で他者が動く様を見ているだけだ。
 緋色の髪の色は毛先の緋色を残して一気に闇を閉じ込めた黒色代わり、瞳の色は僕の紫よりさらに深い夜の紫となる。
 
「迷い子、君は私の領域に手を出した。 これはいただけない」

 目にも止まらぬ速さで僕が僕で制御の効かない腕で蒼の王の髪を掴み、もう片方の腕で喉を締め上げている。
 流石の蒼の王もコレの登場は予想外だったろうなと僕は静かに舌を出すだけだ。
 通常の人間の体であれば五体不満足に潰されかねない速度で岩盤に身体をめり込ませる手腕は相変わらずエグい。
 岩盤が弾け飛び、液体が飛び散るが流石に変幻自在の生命体だけはある。
 とんでもない攻撃を仕掛ける腕から身を捩り、距離を取った。

『逃げられてるじゃないか』
「お黙り、これは準備体操だよ」

 泰山府君といえば泣く子も黙る冥界の主の一人だったはずだけれどとぼやいてみると、彼はチッと舌打ちした。
 
『黄泉津大神に泣きついてみたら?』
「だから、お黙りってば。 すぐにオチがつくから」

 さっさとしてくれよと独りごちた。
 神に身体を明け渡すのはそれなりのダメージがあるんだ。
 それにしても、泰山府君が静観せずに飛び出してきた理由がよくわかる。
 蒼の王は泰山府君を前にしても秒殺されない。
 逃げの算段はしているだろうが、確かに、僕では太刀打ちできなかったかもしれない。
 敵の防御一辺倒のように見えるが、これはこれで攻めあぐねているのと同意だ。

『抹殺ではなく、数十年分と言った理由はこのしぶとさってことね』
「この子は色んな意味で手に余るのだよ。 それに、本来は黄泉津大神の領分にいる子だからね」
『だったら、ほら、黄泉津大神に泣きついてみたら?』
「お黙りったら。 片をつけるから、こ黙ってみていなさい」

 蒼の王の足元に縦横無尽に白光が走る。
 耳を塞いでも痛みが走るほどの高音が響きわたる。
 左手に現れた錫杖を一度地に着くと、顔のない仮面が宙に浮かんで現れる。

「これは二度目、いや、三度目だったかな?」

 咄嗟に蒼の王は身を捩ったが、遅い。
 その仮面が彼に襲いかかる。
 悲鳴をあげてその真実の顔を晒そうとするが、その寸前で思いもよらない行動に出た。
 蒼の王が己の首に槍の刃をあて、自らの首を落としたのだ。
 ごとりと首がおち、転がる。

「逃げたか」

 泰山府君はわずかに唇を噛んだが、それでもそれすら読んでいたかのように慌てることもなく、その仮面を首ごと拾い上げた。

「何体準備できているのか、本当に手にかかる子だ。 でも、この首は奪われたくなかったろうね。 私の知る限り、最も古いものだから」
『どういう意味?』
「黄泉津大神が大いにお怒りになりそうだってことだよ。 そして、核となる肉体を彼は苦し紛れに放棄した。 この数十年は思うように動けまい」
『はいはい、核心は教えてはくれないわけね』
「欲しがりすぎは損をするというものだ。 人間は学ぶために人間でいる。答えがわかっている時間など無意味でしかないし、それで動く世界はないからね。 私が君に与える道において、彼は招かざる客だったから、指先で弾いた。 それだけのことだよ」
『黄泉津大神に嫌われたくないからでしょ?』
「鋭いね。 だって、彼女、美しいからね。 得点は稼いでおくに越したことはないから」
『早く変わってくれます? 僕、後の悲劇が怖いから』
「今回は特別待遇にしてあげる、楼蘭。 目が覚めたなら、すぐに道反ですべきことをしなさい。 これを私から黄泉津大神への借りを返す機会とするよ」
 何の借りがあるんだよと聞き返そうとしたが、グルンと上下がひっくり返るような感覚がして、吐き気に襲われる。
 
「どこが、特別待遇だ!」

 頭が割れるように痛すぎて、その場でうずくまる。
 ついで訪れる吐き気に逆らわずに、綺麗に込み上げてくるものを吐き出す。
 わかってはいたが、黒々とした血液だ。
 酷い目眩のままに、四つん這いで堪える。
 嘔気が再び襲いかかり、唾液が過剰すぎるほどに口腔内に溢れて吐き出し続けるが、胃内からはもう何も出ない。空吐きだ。
 こんなところに置き去りにしやがって、悪鬼が襲いかかってきたらどうすんだと周囲を見渡すが蟻一匹いない。
 
「特別待遇ってコレかよ」

 出口は準備されているが、如何せん、この不自由さ。
 口元に拳を押し付け、頬を膨らませて堪える。
 血流が極限まで増加し、脈が速くなるのがわかる。
 手足や筋肉が重だるく、気が滅入ってくる。

「成すべきことをしろって言ったってさ、もう、多分、あいつらがやってるよ」

 よいしょと声に出しながら、ゆっくりと身体を起こす。
 鏡がないからわからないけれど、相当顔色が悪いはずだ。
 血の気などないことだろう。
 
「タイミングがいつもわからないから困りものだよ」

 いつだってそうだ。
 身体を貸せと言われ、問題解決され、ほれと返されるこの無力感。
 苛立ち紛れに雑に襟元を緩めて、ゆっくりと呼吸を整えて吐き出した。
 鼻筋をギュッと掴んでみて、目を強く閉じる。
 不本意の限りだが、きっとこれが今の自分ができたであろう最善策の特上という奴だ。
 何をどうしたのかは志貴であっても説明することはできないが、兎に角、時間的な猶予を宗像の連中に授けることには成功しただろう。
 僕にかかりっきりになった瞬間があるだけで、あちらの二人の演技は大成功というわけだ。
 時間を操作できる対象は宗像の血統全てに及ぶだろうが、志貴と一心はある意味で別枠に位置している。
 彼らはあえて制御がかかったフリをしているはずだ。
 だけれど、万が一ということもあるなと思い直し、致し方なしと駆け足をする。

「待って」

 女性の声がして、ギョッとして身構えるが、何故か自分自身が臨戦体制に入れない。
 パーソナルスペースに易々と入られても尚、僕はどうしてか警戒できない。
 この気味の悪いちぐはぐ感に思わず身を引いた。
 白川巳貴がそこにいる。
 その指先を避けられず、頬に触れられてしまった。

「何で」

 僕は言葉を紡ぎ出せない。
 何でこんなことになっているのかわからず、声が詰まった。

「そのままでは悟られてしまうから、ちょっと待って」

 誰に何を悟られるのかという言葉は彼女の唇に押さえ込まれてしまう。
 何をしてるんだ、こいつはと身体を突き放そうにも筋肉が硬直して動かない。
 ガクンと膝の力が抜け、その場に膝を折ってしまった自分に愕然として、ノロノロと彼女を見上げた。

「あんな顔色で、神の気配を残したままで彼方へ出向いてしまったのなら、何をしたのか彼女は悟ってしまうわ。 でも、これで大丈夫。 あなたの秘密は誰にも悟られない」

 綺麗に微笑む彼女の瞳がどうしてか涙に濡れている。
 どうして泣いているのと不意にこぼれ落ちた言葉に自分自身が驚いてしまう。
 思考が混乱して、どうして良いかわからずに繰り返し髪をかき上げてみるが、わからない。

「泣いて欲しくはないって気持ちがここにはあるんだけれど、それの動機がわからないんだ。 君は僕の時間に関与したんだろうけれど、僕は君に何をした?」

 僕の言葉に彼女が柔らかく微笑んだ。

「この場にふさわしい返事が思いつかないけれど、あなたが私を助けてくれたから、私があなたを助けることができたというだけ。 どちらが先だったかはわからないけれど、幾度目かにようやく成功したの、それだけよ」

 幾度目かにと言って彼女が僕の頭を抱え込むように力強く抱きしめた。
 しきりに良かったと繰り返して咽び泣いている。

「宗像志貴、宗像一心、雁楼蘭の内、誰が欠けても事は成せない。 私の役割は全てを投げ打ってでもあなたを死守すること」
「僕は君をよく知らないんだ」

 それでも構わないんだと彼女は声を詰まらせながら呟いた。  
 忘れられたって構わないと、すっと抱きしめられていた腕の力が緩んだ。

「あなたが会うことになる私だってあなたを知らない。 おあいこよ」

 理解が追いつかないはずなのに、理解している自分がいて気持ちが悪い。
 交わりそうで、交わりそうにない感覚。
 寄り添うべき心がそこにあるのに、何かがずれている。
 
「僕は宗像志貴が好きなんだから、おかしいだろう?」

 この場で何を言っているんだと自分でも肩を落とす。
 そんな僕の様子にくすくすと笑っている彼女は実に楽しそうだ。

「そう、あなたはいつもそう。 でも、あなたが私を選んだからこんなことになってるの」

 誠に不可解なことになっているが、彼女の言葉を聞いてしまうと妙に納得している自分がいる。

「この度はあなたが私を選ばなくても私は大丈夫よ。 だって、あなたがこれから会うことになる私はあなたの良さなんてこれっぽっちも分かってないから、悔しくも何ともないの」
「物の言い方ってもんがあるでしょ?」

 待て、僕はどうしてこんなに腹が立っているんだ。
 
「選ばなかったら泣くんだろ?」

 いや、何でこんな言葉が出てくるんだ。
 
「だから、あなたがこれから会うことになる私はあなたを知らないから、何とも思わないわよ。 血反吐を吐いてでも取り返すともがいて、抗ってきたあなたの強さなんて知らないし、あなたがいかに繊細で、柔らかい心を持っているのかも知らない。 あなたが悲鳴をあげ続けて生きてきた孤独も何も知らないの。 心を重ねて過ごしてきたことも何も知らないのだから、痛くも痒くもないわよ」

 酷い物言いすぎて、棘のある笑い声をあげてしまった。
 でも、この怒りの感情の根本にあるものを僕は分かっていない。

「好きにしたら良いさ。 僕は僕にしかなりえないから、君の期待には添えないだろうからね」

 後悔するが良いと言うような気持ちで人差し指を彼女に突き出してみて、僕はめまいを覚える。
 何で、こんなに悔しいのかわからないが、とにかく腹が立っているのは認めないといけない。

「僕の秘密もこれから会うことになる君は知らんのだろう? だったら好都合だな! 僕の弱点は誰にも知られたくはないからちょうど良かったよ!」

 せいせいするわと胸の前で腕を組んで、ふんと背を向ける。
 
「それで良いのよ、楼蘭。 あちらへ戻ったら、あなたが出会うことになる私が何を言おうとも右肩を貫いてよ。 これだけはちゃんとしてね」

 何だってと振り返ったら、そこにはもう彼女の姿はない。
 あたり一面を慌ててぐるりと見渡すが人影どころか気配すらない。
 額に手をやり、無心に汗を拭う。

【痴話喧嘩か?】
「どこがだ!」
【あれは実に優れた嫁だから逃すんじゃないよ、楼蘭】
「誰の嫁だって!?」
【君の嫁だよ。 寝ぼけているのか?】
「いやいやいや、僕は彼女を知らないんだよ?」
【本当にそうかな? 幾度道を仕切り直しても、君の番としてその不安定などうしようもない部分を何とかしてくれているのは彼女だよ?】
「不安定でどうしようもないって言うな! 自分でできるようになるさ!」
【そう言って何年たったと? 結局のところ、できていないでしょ? そんなだから、君は紅に勝てないんだよ。 私としては忸怩たる思いだよ】
「弱点を他人に晒すくらいなら、間抜けに死んだ方がマシだよ!」 
【間抜けに死なれたら私の顔に泥を塗りたくられるようなものだから勘弁して欲しいものだよ。 眠ることができない理由を晒さないことは立派だが、眠れずの愚か者はいずれ蓄積した歪みに飲まれてポッキリおられる物だよ】
「僕は元気だよ!」
【紙一重でお馬鹿なだけでしょ?】  
 ギリギリと歯軋りするほどに噛み締めながら、冥界の最下層を抜け出したところで、声が途絶えたが、最後の最後の台詞に目眩を覚えた。

【白川巳貴を手にしなさい、これは命令ね】 

 幼い頃からの経験上、こうした命令に逆らおうものなら、何をされるか分かったものじゃない。だから、これは強制だ。
 僕の意思など無視して成せというのは今に始まった事ではない。

「僕の恋愛事情に関わってくるとはとんでもねーぞ!」

 僕が声を荒げると、前方から驚いたような志貴の声がした。
 はっとして視線を持ち上げると、焦げた香りと黒々とした煙があたりに充満していることがわかった。
 楼蘭と僕の名を呼んだ志貴の顔が煙の向こう側から覗き、僕はその背後の景色に苦笑いだ。

「ぶっ放したにも程があるってもんでしょ」

 仮にも宗像の禁域中の禁域のど真ん中が爆心地と化している。
 志貴の横にはガックリと肩を落とした一心の背中があった。
 
「ひさしぶりでさ、加減できなかったんだ」

 仕方がないだろと口先を尖らせている志貴の横で、一心が急に膝を折っておいおいと泣き始める。
 志貴がその背を叩きながら、苦笑いしている。

「志貴、お前がやってしもた意味、ほんまに分かってるんか? こうもやっつける前にちょっと頭使って、あの笛だけは救出してくれや。 あれがないとコントロールできへんねんで? コントロールできへんっままってことはな、俺はまた生殺しの日々やで?」

 男泣きの理由に僕と志貴は顔を見合わせて、何とも言えない気分になる。
 己らの人生を賭けた岐路に立って、宗像一心という男が嘆いたのはそれかと僕たちはガックリと肩を落とす。

「志貴、出してやれば?」
「出したら、出したで、そこそこに面倒だと思うけど?」

 志貴は仕方がないかと爆心地の中心に足を進めて、指先を鳴らす。
 それに反応するように光出した灰の部分を彼女がそっとかき集める。

「楼蘭、頼んで良い?」
「良いよ、この間のお礼も兼ねてプレゼントするよ」

 一心さんと声をかけると、彼が何だよとコチラを睨みつける。
 こんな奴に僕は愛しい志貴を奪われているのかと身体中の息を吐き出した。

「はい、結婚祝い」

 志貴の両手の中にある灰に僕が触れ、龍笛を2本復元させる。
 志貴がすごいと呑気な声をあげているのと対照的に一心といえば顎が外れるんじゃないかと言うほどに驚いたままだ。
 志貴がニコニコして、一心の方にそれを見せると、彼はすくっと立ち上がって、僕の前に立ち、ハグしてくる始末だ。
 やめろやと僕が彼の体を押し返すと、一心はニコニコしており、上機嫌で僕の肩を叩いてくる。

「こんなにのんびりしていて大丈夫なの? ちゃんと焼き切った?」

 僕の問いに一心が爆心地を指さして苦笑いしている。

「これでもまだ次があるかもしれないよ」

 きらりと志貴の背後に何かが光った気がして、僕と一心が咄嗟に動いた。
 一心は志貴を抱き込んで、僕がその攻撃を受ける形になった。
 氷の礫のように思える鏃が炎を孕んでいる。
 剣で叩き落としてその現物を直視するがなかなかに殺傷能力があるものだ。
 ゆらりと人影が浮かび、そこに立っていたのは白川巳貴だった。

「宗像の王に捩れがあってはいけない。 だから、修正いたしましょう」

 誰か別の人間の言葉をそのまま口にしているようで、まるで機械音だ。
 ここで、右肩を貫けってことになるのかと僕は小さく息を吐いた。
 一心にアイコンタクトして、彼が志貴を自分の体の背後に隠すのを見届けて、僕は素早く彼女の体に馬乗りになった。

「貫けって言ったのは君だから、悪く思わないでよ」

 間髪入れずに右肩に剣を突き立てると、陶器が割れるような音がして、それと同時に獣の咆哮にも似た声が上がった。

【楼蘭、私の命令を忘れたわけではないよね?】

 このタイミングで釘を刺してくるのかと舌打ちするのと僕の体の自由が効かなくなるのも同時だった。

【楼蘭は意気地がないので私が代わりに契約する】

 よせと大声で叫ぶが、僕の意思は完全に無視された。
 僕の声で、さらりと契約文言がこぼれ落ちる。
 突き立てたままの剣の刃を手のひらで握りしめ、溢れていく血液が彼女の傷口に入り込んでいく。

「白川巳貴、君は白の王である雁楼蘭の物となり、この先、どの千年王の縛りを受けることもない。 これは縛りの中でも不可逆の縛りとなり、血の制約を越える。 是非を問うことは許さず、粛々とその魂をよこせ」

 僕の声で何をしてくれるんだと暴れ散らしたいが、どうにもならない。
 
【楼蘭、彼女をちゃんと見なさい】

 急に体が動くようになり、馬乗りになったままの彼女の顔に目を落とすと、彼女は泣き笑いの表情を浮かべていた。
 なんで、そんなに嬉しそうなんだよと僕が言葉をこぼすと、彼女はへへへと笑っている。

「約束は果たしてくれてありがとう」

 彼女の言葉に、訳がわからないのに僕の方が息を呑んでしまう。
 どうしてこんなに鼻の奥がつんとして痛むのかわからないし、目頭が熱くなってくるのかもわからない。

「何も知らないって言ってたのは誰だよ」

 彼女はへへへと今度はバツが悪いのか視線を逸らして笑った。

「こうして、あなたが私を蒼の呪縛から逃してくれないと最大の脅威を取り除けないから仕方がなかった。 あの方にいざという時のお願いをしたのは私なの。 あの方は何も悪くない」
「これはあくまで使役の契約でしかない。 これでどうするつもりだった?」
「どうするって? あなたが好きにすれば良いだけのことで私はそれで不服はないわ。 宗像の宝であるお二人の害にもならないし、それで満足だわ。 それに蒼の直接支配を逃れつつ、宗像のいざという時の控えという役割も繋いでいける。 何をとっても最高の結果でしかない」
「自分が今、何を言っているのか分かってるの?」
「分かっているつもりよ。 志貴ちゃんの幸せを壊さずに済んだし、蒼の脅威から離脱できたのだから、私はそれで良い」
「僕に好き勝手にされてもおかしくない契約をされて、僕の気分次第で魂を弄ばれても構わないって言ってるんだよ? これのどこに君にとっての利があるというの?」
 何で、この僕がこんなに切なくなって、悔しくて涙をこぼす必要があるのかわからない。
 驚いたように彼女は目を見開いてから、困ったように眉根を寄せた。
「何で、あなたが泣くのよ、楼蘭」
「知るか!」
 僕の頬に手を伸ばしてきた彼女の手を邪険に払って見せて、そっぽを向いた。
 剣をサッと抜きさってから、彼女の傷口にそっと手を置いてやる。
 そして、僕は彼女の横に立った。

「言っておくことがある。 僕は志貴が苦しむ事態を避けるための選択をしただけだ。 一応、君の魂は蒼から白へと飼い主が変わったけれど僕は君をどうこうするつもりはないから、好きにやってくれて構わない。 君には君の自由があって、君のことは君が決断すべきで、その全てを僕に委ねられるのは御免だと言っていることを十分に理解してくれると助かる。 以上」

 どうにも落ち着かず、目のやり場に困利、跳ね上がった土埃と返り血がついたままの僕のマントの裾に目をやる。
 蒼の王との鍔迫り合い中に手に感じたあの重みが不意に蘇り、グッと手を握った。

「一心さんにも言っておくことがある。 僕にトリッキーな備えがなかったとしたら、負けていたかもしれない」

 一心が小さく息を呑んだのがよく分かった。
 ゆっくりと目を彼に向けると、一心がグッと眉を顰めてコチラを見ていた。
 
「それはただの蒼と評価してはいけないってことでええんか?」

 一心の問いに僕はおそらくねと頷いた。
 やり合った相手の顔は見たが、その顔はもう使われることはない。
 だから、ターゲットが誰なのかがわからないままだ。

「ここを志貴がぶっ壊してくれたのと同時に僕が蒼にとっての中核の器を壊しているから、すぐには動こうにも動けないはずだ。 だけど、終わってない」

 爆心地の灰だらけの真ん中へ足を進めて、ふうっと息を吐いた。
 あの相手であればこの灰や塵一つからでも再生させかねないと思うところがある。だから、僕にしかできない封手を取る。

「ここにある全てを消し去っても良い?」

 ここには宗像の大切な者の形見もたくさんあるだろうに、志貴はゆっくりと頷いた。
 復元しようと思えばできるのだけれど、危険がわずかでも残るのであれば逆の方法が必要だ。
 無に帰す。
 僕が灰に手を差し込むと、青白い手が拒むように現れたが、志貴がその腕を炎へ焼き切ってしまう。

「汝ら永訣の鳥となれ」

 僕と志貴の声が混ざり、あたりに地響きと突風が吹き荒れる。
 そして、数秒の後、そこには塵ひとつない空間が現れる。

「宗像に敬意を表するよ」

 僕は指先をパチンと鳴らして、石室を再構築する。
 中身は空っぽではあるので申し訳ないけれどと付け足したら、志貴が十分だよとにっこりと笑った。

「これまでの歴史をそもそも葬るつもりだったのだから、これで良いんだ」

 志貴が石室の入り口の前でつぶやいた。その背中がどこか寂しそうだったのを見逃さない一心がサッと彼女の背中ごと抱きしめた。

「これからもあの手この手でくるだろうよ。どこに潜んでいるのかもわからないし、何食わぬ顔でそばにいるのかもしれないし。 それでも、今回のこの一手は結構な打撃になったはずだよ。 そうなんでしょ?」

 立てよと僕が差し出した手に巳貴がわずかに躊躇したが、そっと握り返して立ち上がった。

「私に知恵をくれた子は確実に未来の子供達の誰かだから、間違いないと思うわ」

 巳貴の言葉に僕は天を仰いだ。
 一心が未来の子供ねと呟き、志貴が唸った。

「子供の代にまで引っ張るとは不甲斐ないもんやな」

 一心がそう言うと、志貴が盛大に顔を顰めた。
 それだけ敵がでかいと捉えるべきか、何か別の枠組みの中での戦争になり変わるのかがわからないのだろうなと僕が言うと、志貴がそれでもと何かを口にしようとしてやめた。
 志貴に言ってみろと一心が顔を覗き込んでいたが、彼女は押し黙って何かを仕切りに思案している。
 志貴に何を考えているんだと一心が急かすと、彼女がようやく思いを言葉に乗せた。

「この世界の法則は欲すれば奪われる。 手放せば、得られるようにプラスマイナス・ゼロが根底にあるはずだ。 宗像の歴史は蓄積された知識というだけでなく、貴重な財産であり、宝と同じようなものだろう? 例えば、それの一切合切を潔く手放すことで何を得られると思う?」

 ちょっと待てと一心ががっしりと志貴の肩を掴んで、それはいけないと首を横に振った。
 一心の反応は至極最もだ。全てを蓄積した知の凝縮を手放すにはリスクが大きすぎる。
 泰山でそれをやらかすとなれば、僕は人生2、3回分では済まないくらいの毎日極刑地獄だろう。
 それでもと僕が志貴の横顔に目をやると、彼女の目は真剣そのものだ。
 これだよなと僕は面白すぎて吹き出してしまった。

「あなたは本当に志貴ちゃんが好きなのね」

 巳貴に耳打ちされ、僕は片眉だけ持ち上げる。
 二度と言うなよと軽く睨みつけると彼女は面白そうに僕を見ている。

「あなたが好きにしても構わないと言うから、私も好きにします」

 どういう意味だと振り返った瞬間に、彼女に両手でほおを挟まれて唇を重ねられてしまった。
 
「ちょっと、好きにして良いってのはそういうんじゃないから!」

 僕は彼女を押し返して、数歩後退した。
 手を伸ばして、近づくなと安全距離を保たせる。

「楼蘭、いつの間にそういう感じに?」

 えっと振り返ると志貴が興味津々に僕を見ていた。
 違うからと声を上げると、一心が志貴に何か耳打ちして、志貴が頬を赤くしてコチラを見る。

「嫁になるの? すごい! スピード婚でラブラブなの!?」

 ああもう嫌だと僕がその場に四つん這いになると、一心がヘラヘラと笑いながら駆けつけてきて、僕にしか聞こえない声で、こう言った。

『俺、大人気なく、恋敵を潰すタイミング心得てるのよ、済まんね』

 最悪だ。本当に最悪だ。
 くそう、宗像一心と涙目で睨みつけると、彼は勝ち誇ったようにニヤリと笑んでいる。

「覚えていやがれ」

 本当は随分と前からわかっていたことがある。
 最初から僕と志貴には男女の縁は存在しない。
 正確に言うと、僕と志貴では己に連なる者を生み出すことができない。
 千年王同士の間に子は生まれないのだ。
 僕達が万が一どれだけ求め合った未来があったとしても状況は変わらない。
 子を望まないのならば王同士で並びたって生きていくことができるが、互いが互いを番とするのは不可能なのだ。
 唯一の方法があるとしたら、どちらかが王号を返上するしかない。
 千年王と千年王の号を持たない者が番うのにはこのような厄介な縛りはなく、千年王と共に眠るのが通常の在り方であるのに対し、千年王を辞して番となる場合は肉体の寿命を止めることができず、王号の返上と同時に完全に生身の人間に戻り、共に長い時間を歩むことは許されない。
 千年王としての役割を放棄することは大罪というわけだ。
 千年王同士の恋愛など地獄を見る他ない。 
 泰山の主人となった折に何で知ったのかはよく覚えていないが、大昔に千年王同士で番うことになった結果、苦しんだ組み合わせがあったそうだ。
 その例を持ってして、千年王同士に未来がないことを皆が初めて知ったのだ。
 愛する人の遺骸を抱きしめて泣きくらすしかない残された方に与えられた時間は長かったろうと思う。
 その残された男は愛する女の木偶を作ろうと躍起になり、魔に堕ち、資格を失ったとか、何とか。
 
「僕は不毛な恋愛はしない主義なんだ。 それに自分が大切な人が嬉しそうに笑っているのを見るのが一番の幸せだと思っている」

 一心が僕の言葉にくすくすと笑いながら負け惜しみかと言ってくるので、ガチで殴ってやろうかと拳を握りしめた。
 僕のすぐ隣で、私も負け惜しみに聞こえると巳貴まで僕に言ってくるので、頭痛がしてくる。

「ごちゃごちゃ言ってる暇あったら、そこいらに寝転がってる連中を叩き起こせ!」

 僕の怒声に一番に反応してくれたのは志貴だった。
 志貴は怒っちゃダメだと僕に言いながら、わざと眠りに落とし込んでいた宗像の連中を眠りから醒ましていく。

「全くさ! 彼らのお茶に自分の血を混ぜる手法なんてもんがすんなり通ってよかったね!」

 僕はふんと腕を組んでその場にあぐらをかいた。
 志貴は苦笑いしながらぽりぽりと頬をかいている。

「普通、飲ました相手の中に敵がいるかもしれないって思わんもんかね」
 
 志貴が頬を膨らませて、いるわけないじゃんと睨みつけてきた。
 その甘さが怖いよと僕が呟くと、彼女はほんの少し何かを考えてからこう言った。

「この中の誰かが敵となって私の前に立ち塞がることになったのなら、私の血で私がぶっ殺す」

 それをその笑顔で言うことかよと僕が肩を落とすと、一心が志貴の横で僕同様に凹んでいた。
 宗像一心にあんたの嫁は結構とんでもないって自覚あるかと僕が目で問うと彼は困ったように笑って見せることで返してきた。

「とにかく、お疲れ様だ!」

 僕はその場に大の字になって寝転がった。
 本当に疲れた。
 敵が緻密で賢ければ賢いほどに絶対に策に溺れると言うのはわかっていた。
 だからこそ、こちらに小難しい策略なんてものはなくて、いたってシンプルにすることが最大の勝利への道標だと悟っての行動だったから、本当にこれで大丈夫なのかと考えすぎるなと自分に言い聞かせて貫いたから余計に疲れた。

「これから覚醒する連中には蒼の詳細は伏せてよ! 僕らで留めておくべき内容だからね! 知られすぎないことこそが防御の一環だからね!」

 はいはいと生返事の一心に舌打ちしながら、僕は志貴の背中を見た。
 彼女はきっと宗像をひっくり返すほどのとんでも大惨事を引き起こし、さらに蒼の手管を消し去るだろうと思うのだ。
 だからこそ、泰山の歴史書が物を言う日が来るだろうから何が何でも守り抜いておく必要があるなと僕は重めの息を吐いた。

「憂鬱だ、本当に憂鬱になってきたぞ。 だめだ、踏ん張れ。 頑張れ、僕!」

 紅を友とした段階でわかっていただろうと僕は僕を叱咤激励した。
 初恋は苦いというが誠にその通りでしかない。
 
【泰山府君と黄泉津大神の友情なんてもんはそんな物だよ、楼蘭】

 嫌味な声がするが、僕は聞こえないふりをした。
 聞いてるとか何とか繰り返しているが、絶対に聞いてやるもんかと心を鬼にして瞼を閉じた。
 僕は疲れたんだ。
 そっと僕の目の上に置かれた手の温かさに思わず笑いがこぼれた。

「どうして知ってるのかとかはもう聞かないよ。 とっくに弱点を掴まれてしまっている以上、僕には選択権がないから」

 眠りに落ちるのも悪くない。
 弱点を誰かに晒して、それを護ってくれるのだと本能が知っているから逆らうことをやめた。

「安心して眠って、雁楼蘭」

 うるせえよとぼやいてみるが、睡魔に逆らえない。
 いつか、ちゃんと素直にありがとうと言えるまで時間がかかるけど、ごめんなさい。
 僕は頑固だから、志貴を大好きな自分を卒業するには時間がかかる。
 でも、それをわかっていながら馬鹿みたいに笑ってくれる君が一番になる日は必ず来るはずだから。

「待っていて」

 それが僕に言える最善。
 何年振りだ、眠ろうとするなんて。
 ふかふかの寝台の上でもないのに、眠るとか哀れだな。
 ふわっと柔らかな物の上に頭が持ち上げられた気がしたがもう覚えていられそうにない。

【番としての契約にしておいてやる】

 知るかとぼやきたいが心地よいから聞き流すことにしておくよ。
 出会いと縁は奇妙、奇天烈というが、本当にその通りだと思うよ。
 もっともっと強くなれたら、心の奥にある孤独な僕自身を晒して、寄り添い合うことを恐れずに生きることができるのかもしれない。
 心は本当に紙一重だから、良い方へ転がっていけるまで待っていてくれる人に僕の声が届きますように。
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