黙の月ー神の獣に愛されし紅

ちい

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第42話 番外編 バウンダリー

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 夜半まで降り続いた雨はどうやら止んだみたいだ。
 湿度がグッと上がったのに、一気に肌で感じる空気が冷たくなっている。
 隙間風が冷たいなんてのは久しぶりに感じる感覚だった。

「1人で居るのも久しぶりってことか」

 寒いと感じる隙すら与えられる間もないほどの常春に居続けると暑いや寒いという感性が遠のいてしまう。
 春先の朝晩の冷え込みにすらこうも敏感になってしまう。違うな、敏感というよりも身体が驚いてしまっているのだ。

「まだ戻らないか」

 意識を集中させて、半径500mにある気配を探るが探し物はみつからない。
 感じ取れた気配は早起きの伯父くらいのもので、それ以外の気配がない。
 今夜の仕事によほど手を焼いているのか誰一人戻っていない。
 これがひと昔前なら、片腕の伯父が孤軍奮闘したとしても、私はこの場で叩き殺されるのがオチだなと苦笑いだ。
 伯父に温かい飲み物でももらうかなと客間に丁寧に敷かれてあった布団から抜け出して、ひんやりとする畳の上を歩く。
 障子の外に出ると一段と冷気が飛び込んできて、吐く息が白くなると同時に思わず小さな声が出た。
 冷えきっている廊下の床の感触はまるで薄い氷のようだ。

「こんなだったかな」

 私の人生で多くの時間を過ごし、勝手知ったる場所なのに、どうにも落ち着かない。
  とにかく寒い。じっとしていられないほどに寒いのが悪いのかもしれない。
 京都邸はこうも寒かったのだろうかとほうと息を吐いて、客間から母屋へ向かう渡り廊下を身をこわばらせながら歩く。
 このところ時計を見るような暮らしをしてこなかった。今が夜でいつが朝かなど気にしたことがなかったから、正確には今が何時かはわからない。
「明け方はもうすぐそこか」
 窓の外はうすら赤みを増してきている空が見える。
 明けだというのなら、皆が仕事を終えて戻ってきてもよい頃合いだろう。
 今日という日に人生最大のイベントを控えているあの二人はもう戻ってきただろうか。
「あの2人、真面目か」
 代理を立てたって構わなかったはずなのに、生真面目な二人はいつも通りを選択して、さっさと仕事の支度をして出て行ったそうだ。
 周りももっと融通をきかせてやれば良いものをと愚痴った私に泰介は『婚姻は別段特別なことじゃない』とあっさり言ってのけた。
 つまり、仕事は仕事、プライベートはプライベートだろうと言いたかったのだろう。
「別段特別じゃないって響きは好きじゃないな」
 寒さが気になり眠れなかったこともあるが、黄泉使いの婚姻におけるバウンダリーについてちょっと思うところがあり悶々としていた。
 泰介の言葉は泰介が変わっているわけではなく、公介でも同じことをさらりと言ってのけるはずだ。
 若すぎるとか、学生結婚だからとか、授かりました婚だとかそういうのも問題にならない風潮があるのは幸いだ。
 ただ、ガッツリ籍を入れて婚姻関係を結んでいたとしてもパートナーとして認識してねというお知らせ程度で、津島の血を入れるのね、宗像の血と混ぜるのね的な反応でしかないのはいただけない。
 いつでも狙い、狙われ、いつ奪われてもおかしくない可能性が平然として目の前にあるというわけだ。

「あなただけの私、私だけのあなたが普通じゃないってのは好かん」

 黄泉使いに婚姻関係が重要視されないのはその性質ゆえだ。
 どこの家の誰の血を受けた子を授かるかが最重要であり、より強い次世代を得るためであれば婚姻関係は無視できたこれまでがある。

「悪習でしかない」

 伯父がいれる一級品の温かい茶でも飲もうと思っていたのだけれど、その気が失せた。
 この愚痴を伯父に話してみたとしても、同調してはもらえない上に、瑣末な事だと笑われそうだ。

「やっぱりいい」

 母屋へ行くのをやめて、ひらりと縁側から庭へ降りる。
 グシャリと泥濘にはまり突き刺さるような冷たさが裸足にまとわりついた。
 かつての宗像の京都邸の中核部分は春の庭だったはずなのに、季節は外界と変わらない。
 きっとあの伯父の方針だろうが、こういう時は春の庭にしておけよと愚痴ってしまいたくなる。
 中庭にある大きな池には錦鯉が数匹いた気がして、そっと覗き込んだ。
 伯父の道楽の錦鯉で、三匹で家建つぞが口癖だ。財政難に陥ったなら、こっそり売却してみようとひと昔前に思っていたことを思い出した。
「お宝さんたち、お久しぶり」
 美しい模様とかよくわからない私からしたら札束でしかない。
 寒いのか彼らは動かない。池の淵に数匹ずつ身を寄せ合っている。何十匹おるんやとがっくりくるくらい増えていた。
「高額商品君たちの邪魔はしないよ」
 彼らの邪魔をしないように離れた場所へと移動する。
 冷たいかなと思いながら、そっと泥に塗れた足をつけて、色気のない悲鳴をあげた。慌てて両足を引き上げ、身震いをした。
「冷たいんは間違いない」
 電流が駆け上っていくほどに寒いぼが身体中に飛び出してくる。
 意を決してもう一度水につけるとささっと泥を流した。
 一心や時生に怒鳴られそうだなと思いながらも、王の一張羅というか、毎度毎度これしかないんかとつっこみたくなる長羽織の裾で躊躇なく水分を拭き取った。
 足は紫色を卒業して、真っ赤だ。指先はピリピリしている始末。
「こうなりますわな」
 よっこらしょと独りごちて立ち上がって、すぐそばにある灯籠の上へ跳躍してみる。この灯籠は実に頑強であることは経験済みだ。人一人が飛び乗ったぐらいではぐらつきもしない。
 別に黄泉使いとしての封印を解除したわけではないけれど、王号とは怖いもので、生身であったとしても身軽に動けてしまうし、多少の術なら息を吐くように使えてしまう。
 灯籠から灯篭へと次々と飛び移り、5メートル弱はある外壁の大きな飾り瓦の並んでいる上へと辿り着く。
 京都といえどここは少しどころか結構な高台、いや、外からは山にしか見えんだろうなと見下ろす。
 寒いわりに風がない。 
 春の雨が通過して、湿度が高くなったことと合わさり、放射冷却によって地表面が冷え、それによって空気が一気に冷やされている。風がないゆえに、冷えた空気はその場に留まり、さらに冷却され続けたのだろう。
「まるで雲海だな」
 空気中の水分が霧となって発生し、高所からはまるで雲の海のように見える。
 外壁に腰を下ろし、ふうと息を吐く。
 少し視線を下げると大きな松の木の枝が背もたれにちょうど良い具合に伸びていたから、もたれてみるとこれが思った以上に心地よい。

「夜明け前の色が私の色な気がするな」

 真っ赤ではないくすんだ赤。
 紫や黒、濃紺も潜んだ赤。
 そこへ差し込んでくる白はキラキラしている。陽光は月光とは違うけれど、夜明け前に限っては太陽も月も同じに感じることがある。
 仕事で皆が不在になった時、こうして夜明け前の色を見るのが癖になってしまった。
 最初は一心の帰りを隠れて待っているのが始まりだった気がする。
 夜の闇にも負けない白銀の髪はたまに陽の光のようで、月の眷属であるはずの黄泉使いなのに、力強すぎて真逆のものにも思えることがある。
「早く戻ればいいのに」
 待つのも一苦労だ。寒さはもう超越しており、眠気が勝っていたように思う。
 朝陽が霧の溜まりに暖色の光を次々と差していく様を眠気眼でじっと見ていた。
 
「あの人のバウンダリーはどうなっているんだろうな」

 いつか闇の中へ死にゆくことは全ての人間に平等に訪れる理だ。
 生まれるのも、死ぬのも一人なのだから、いちいち境界などを気にする必要などないのではないのかといつだったか言われたことがある。

「束縛するのもされるのも性に合わないんだろうってことは百も承知なんだけれどな」

 何もかもをわかった風にして、お利口さんにしていれば現状維持できることもわかっている。
 未だに表情を伺って、機微を見逃してはダメだとかかりっきりになっている自分がいることも知っている。
 言葉の端々、声のトーンひとつで怯えてしまう自分がいることも知っている。
 手を伸ばせば握り返してくれるし、唇に触れようともしてくれる。
 あの人が作る空気にそれらしく合わせていれば良いってこともわかってる。
 それでもと思ってしまうのは私がいつだって恋愛弱者だからだ。
 
「欲張りになりすぎだ。 どこかで手を打たなくちゃ」

 ひとつ手にいれたら、もっと欲しくなる。
 昔を思えば今はとてつもないほどのハッピーが転がっている。
 あの人は何があろうと私の側にいることをやめられない。
 それは魂と血が定めた約束事で、私にもあの人にもどうすることもできないからだ。
 それだけでも満足すべきだ。
 どうしてこんなに我儘になってしまったのだろう。

「言葉では何とでも言える」

 お前は俺のもので、俺はお前のものだ。
 一心の声が脳裏に蘇るたびに疑う自分がいる。

「何の証明もない。 これじゃ、楼蘭にだって説明できないじゃないか。 祭壇に置かれた神札のように大切にされてますって言うか?」

 愚かすぎる自分に情けなくて堪えきれずに涙が頬を伝い落ちていく。

「あぁ、悔しいなぁ。 咲貴みたいに可愛いかったら良かったんだ。 何で、泰介さん似でハンサム仕様に生まれた? それに、めっちゃ強いこの力のせいで可愛げもない」

 宗像志貴という名ひとつで誰もが最強だと言ってくれる。

「どこがだ! 本当の私はつまんないんだぞ」
  
 咲貴と冬馬の二人を見ていると羨ましくて仕方がないだけの小さな私のどこが最強というのか。
 悪習なんて何のそので幸せそうにしている咲貴の白無垢やドレス選びも、体調不良を言い訳にして逃げ出した。
 私には手に入らないもののように思えて、誰かの幸せに塗れたくなかった。

「ふわふわのドレスなど、無理だ。 似合わないしな」

 咲貴は典型的なふわふわ女子だから、何したって似合うし、花冠などつければお姫様でしかない。

「式なんて出てみろ、双子は比べられて終わりだ」

 津島と穂積の身内だけの小さなガーデンパーティだから、宗像からは父と伯父が出るくらいで、留守に残る時生と一緒に今日の結婚式も本当は出ないつもりだった。
 万が一連行されるようなことがあれば、寝込んでしまえばよいって思っていた。
 3日前くらいから不調演技を頑張っていたのに、一心が飄々として何してんだ、行くぞなんて言うからこんな風にいじけなくてはいけない。
 本気で嫌だと言ったのに、わけわからんぞと私を抱えて京都へ来てしまった。
 一心からは幼馴染が妹に取られるのがそんなに嫌かと意地悪をされたが、そう言うことではない。
 冬馬や楼蘭は大切だけれど、別に心は動かない。
 出雲から連行される時、毎度毎度ヒヤヒヤしたり、ハラハラしたり、ドキドキさせられたりするのはお前のせいだと声には出さず胸元に一つ拳骨をくらわした。
 仕事だとはわかっていても羽織に女性の匂いが移っているのにも気付かずに、あの人はその羽織で私を抱える。
「それが嫌だってんだ、阿保。 こんな風にしたのは一心のせいだ」
 誰かの幸せに怯えて、苦しくなるのは自分が幸せでないからだ。
 結婚に素直におめでとうと言えないのはそういうことだ。
 その場にいなかったのなら、何とでも祝いを言えたんだ。
 その場にいたら、さらに必死に仮面をつけて祝いを言わなくちゃならないんだぞ。
 心の声なのか、自分の声で口にしているのかあやふやになってきたな。
「羨ましいんだ、悪いか」
 咲貴は冬馬以外の男を寄せ付けはしないし、冬馬もわかりやすいほどに咲貴以外の女性を女性として扱うことはない。
 黄泉使いの世界にあってあの二人は異質に見えるほど結束力が強く、誰もが二人の間に割って入ることができないほどだ。
 
「いいな」

 私が欲しいのはそう言うのだといっそ一心に説明してみたい。
 でも、それをして気分を害してしまったとしたら私はどうなるのだろう。
 強気でいけない臆病風が吹く。
 急に胃が締め付けられる気がして、胃液まで上がってきそうになる小心者。
 指輪が欲しいわけじゃないけれど、揺るぎないものが欲しい。
 ドレスや白無垢が着たいわけじゃないけれど、あなたが私のものだという証が欲しい。
 眠いな、もう全部が嫌だな。
 本当に嫌だ。
 考えたり、意識するたびに虚しくて情けなくて自分が嫌になる。
 他の誰かで用を足せるから、『私』はいつまで経ってもお飾りのままなのかとか、口にしたとして何を期待してるのかと問われたら終わりだ。
 私以外の女を寄せ付けないでくれたら良いのになんて言ったら、重いと切り捨てられるかもしれない。
 いや、違うな。
 困った顔をして、俺はおまえのものだとまた美しい言葉を並べられて、何もなかったように流されて終わりか。
「悪態つこうと、私は色の名前を持つ王だからこの不安なイメージは現実にはならない。 本心は別にあるとしても誰も私を排する事ができないからな。 このわやくちゃな気持ちにどう折り合いつけたら良いのやら」
 結婚式をちゃんと祝うために吐き出すべき毒は吐いた。
 私は私だ。
 私にしかなれない。
 一心を選んだのは私だ。
 もとより難攻不落だなんてわかっていたことだろう。そう思い至ると笑いがこみあげあてきた。

「他人の幸せに八つ当たりか、しょうもないな」

 まだ、敵対するものと命のやりとりをしている方が幾分マシな自分でいられる。

「穏やかってのは似合わないんだな、きっと」

 あまりに朝陽が綺麗で眩しくて目を閉じたら、そのまま開けられないほどに眠気に逆らえなくなった。
 私、久しぶりに本当の季節に触れたから思った以上に体力削ってしまったのかな。
 こんなところで寝たら怒られる。
 でも、何だかもう無理だ。
 私を抱きしめてくれるような暖かい風が吹くからめちゃくちゃ眠い。
 

 
「何てとこで眠りながら愛の告白しとんのや、こいつ」

 松の太い枝に器用に背中を預け、眠っている志貴の姿を見下ろしながら、ため息をつくしかない。
 仕事をちゃっちゃと片付けて戻ってきたら、布団はもぬけの殻。
 まだ温かさが残っていたこともあり、どこへ行ったと探してみたらこれだ。
 寒気を全力で浴びすぎていることに驚いてすぐに結界をはって、声をかけようとしたら、か細い声で何かぼやいているからそっと聞き耳を立ててみた。

「お前、ほんまの阿呆やな」

 馬鹿みたいに冷え切っている身体をそっと包み込んで抱き上げてやる。
 完全に眠りに落ちている志貴の額に口付けてやると、にこりと笑んだ。
 小さい時からの癖のようなもので、反射的にこうなってしまうのだ。
 そのあどけない表情を見ているとさらにいたたまれなくなる。

「いや、ほんまの阿呆は俺か」

 咲貴と冬馬の婚姻話が公になり、正式に結婚式をするという話が耳に入った頃からどことなくいつもと違うことはわかっていた。
 例に漏れず、俺も良くある黄泉使いの婚姻はそれほど大きな意味がないという悪習に染まりきっていたから気づいてやれなかったみたいだ。
 同業者の女達との接点があった仕事帰りにも、どえらく不安定な波長になっていた理由にも合点がいった。

「よっこらしょっと」

 その場であぐらをかいて、腕の中の志貴の顔を覗き込んだ。
 寝息を立てているが、やはりまだ寒そうだ。
 自分の羽織でさらに覆ってやるがそれでも十分ではなさそうだ。
 王として立ったばかりで、穢れにも弱いこの腕の中の愛しい温もり。

「そっか、ドレスやら白無垢やらを着てみたいわけね、俺様と」

 結婚とかそんなものは当たり前のことで責任を取れと言われるまでもないことすぎた。ゆえに、志貴が何につまづいているのかすらわからんかった。
 キーポイントは公にってことらしい。
 いやはや、これ以上、公にする方法がないと言うほどに、俺は志貴の周りに予防線を引き続けておったつもりだったから、ある意味ショックだ。

「冬馬のやつめ」

 2人の婚姻が早まったのは咲貴が身籠ったからだ。あれだけ一緒に居て、好きあってる者同士だから自然の成り行きだろうが、志貴にとっては驚愕の事実だろうな。

「待てよ、知ってるか? 時生も泰介さんも話してないって言ってたよな。 公介さんも俺も話してへん。 え? じゃ、何でこんなグズグズになるのかしら?」

 一応、志貴のつぶやきを反芻してみることにする。
 
「まさか、手を出さない事にツボってるとか? いや、明後日の方向にずれとる気がするが、あながちな気もするな」

 パワーコントロールの修行中はそれに専念させるのが時生との約束事だった。
 志貴の身に何が負担となるかわからないから一度でもダメだと言われ、めいいっぱいの理性で押さえ込んできたつもりだ。
 
「ギリギリのバウンダリーだったんだぞ」

 キスが限界のバウンダリー。
 それを超えるとなると志貴を壊してしまうぞと脅されていたんだぞと怒鳴りつけたい気になる。
 俺が何より危惧していたのは、暴力的なほどのエネルギーを肉体に宿している志貴にとって、俺の持つ波長がどう影響するかわからないという点だけだ。
 というのも、一般的に男女の最も密接なソレは互いの波長を混ざり合わせる行いだからだ。
 黄泉使いにあってはさらにソレの影響は顕著となる。互いの波長を身に受けることで、良くも悪くも化ける事例がありすぎる。
 だから、黄泉使いの上位ランクは相手を選べと教えられる。誰でも良いというわけではないのだと無駄に脅しをかけられて育つ。

「ただの性欲処理なら相手がどうなろうと気にせんわい」

 訳あってこその涙ぐましい俺のプラトニックを全否定された気分だ。

「お飾りとまで言われるとは思わんかった」

 神札とか言うかと腹立ち紛れに声を上げようとして、志貴がすやすや眠っていることに気づき、出かかった声をグッと飲み込んだ。
 俺の胸の辺りを掴んで眠っている様子に頭を悩ませる。
 額に口付けたら反射的に笑うのも癖、俺の胸元を掴んで眠るのも癖。

「何これ、この可愛い生き物」

 首筋に顔を埋めてみると当たり前だけれど志貴の香りがする。
 どうしようもなく惹かれる甘い匂いだ。
 そっと首筋に甘噛みして、奥歯を噛んで堪える。

「惚れているからこそ、耐えられるんやぞ」

 クソっと独りごちて、たちあがった。
 抱くだけが全てじゃないなんてことはよくわかっていたが、志貴を不安にさせたのは俺の不徳の致すところなのでそこは修正してみよう。
 
「大体からして、お前の競争率の高さを自覚しろ。 楼蘭に、冬馬。 たぶん、時生も伏兵やったろうな。 それ全部蹴散らした俺の涙ぐましい努力わからせないとあかんな」

 目が覚めた時に、まずは俺のモンだとそこら中に見せびらかしましょうかね。
 それがいいに決まってる。
 さても、結界を張ったとはいえ、外に長居は無用だ。風邪ひかせたら、泰介にどんないちゃもんつけられるかわからない。
 ひょいと塀から飛び降り、足早に母屋へ向かう。

「頼もう」

 縁側から母屋の廊下に上がるところで、公介がコーヒーポットを片手に何やってんだと言うようにこちらを見た。
 母屋にはまだこたつが残っているのを昨夜確認していたから、俺は志貴を抱き上げたままでこたつへ向かう。
 特注の12人は入れる半掘り炬燵は志貴のお気に入りだ。
 昨夜も遅くまで刺さっていたのを引き摺り出して布団でくるんで仕事にでたところだ。

「それどういう感じなわけ?」

 眠る志貴を抱きしめたまま、こたつに座る俺の前に公介がコーヒーカップを置いてくれた。
 ため息を吐いて、コーヒーを一口喉に流し込んだ。

「聞いてくれる? 泣きながら愛の告白されたから、わかりやすく俺のっていう意思を表明することにした」

 公介はくわえていたタバコをポロリと落としそうになり、慌ててそれをキャッチしてポカンとしている。

「まさか、まだ伝わっていなかったってことか?」

 いやいやいやと公介が手を振りながらあり得んだろというように俺と志貴の顔を見比べた。

「そう、そのまさかよ。 だから、俺、今この瞬間から志貴以外の女という女全部あからさまに拒否るから。 そんで、俺のだからってもう色んな意味でがっつり首にリボン巻くからね」

 公介が落ち着こうとコーヒーを喉に流し込みながら、苦労しとるなと心の底からの苦笑いをした。
「で、具体的にどんなリボンなんだ?」
「まー、苗字はかえてやれないけどね」
「それはお前達も一般的な結婚するってことか? もはや結婚しとるようなものなのに?」
「おう! 起きた瞬間にこの子にプロポーズするからね。 それしかわかってもらえないんならやりまっせ。 一般的な結婚という表現が必要なんだと大反省したわ」
「娘大好き泰介に今度はどんな嫌がらせされることやら」
 公介が憐れむような目で俺を見てから片方だけ口の端を持ち上げた。
 これは絶対面白がっているなと、公介を軽く睨みつけた。
「面白がらんでくれ。 もう日々が嫌がらせなんだから。 何されたって、志貴がこんな不安定な状況よりは百倍マシだろ? それに、ほんまに反省してんだ。 千年あるから色々と急ぐことないって勝手に思い込んでたところあるし、婚姻なんて当たり前のもんで形を重要視してなかったからさ。 それにちゃんと女として見てるってことわからせる」
「可愛い可愛いファンについに手出すの?」
「その聞き方やだね。 でも、そうだな、手はだす! もちろん、志貴にどんな影響が出るかわからんから、時生とは相談するし、我慢してでもタイミングをはかってる理由も志貴にちゃんと話す」
「お前、そこそこに色気のない発言をしかねないから、ムードある美しい言葉で飾りなさいよ?」
「それ、どういう意味? 俺はいつでもスマートよ」
「顔と頭は一流のくせに、言葉と行動は二流以下だろうが。 どうして志貴はこうも欠陥だらけの一心にどっぷりなのかね。 昔からとはいえ、お年頃になるとさらにだね。 おじさん、心配よ」
 公介が眠っている志貴の頬を指先でちょいちょいと突いた。
 
「俺がとことん凹むほどに昔から何したって、結局、最終的には何でも一心ばっかだよ。 そんなの今更だろ?」

 廊下から不機嫌そうに腕を組んで現れた冬馬が片方だけ眉を持ち上げている。
 おかえりと公介が冬馬を迎え入れ、コーヒーを差し出す。
 冬馬は向かい側に座ると、そっと志貴の寝顔に目をやった。

「視線の先はいつだってあんたなんだ。 稽古していても、一心ならもっとこう動くのにって無意識に口走るしさ。 誕生日やクリスマス、バレンタインが近づくとそわそわして、俺に欲しいものリサーチしろと言うし。 彼女はできたかとかさ、こっそり誰かに聞いてるし。 一心ママに会うとさ、結婚させないでってガチで懇願してたし。 最大級の変態具合はさ、合同稽古で一心が使ったタオルをこっそり隠し持ってたんだぞ? 俺が洗濯したら、匂いが消えたと1ヶ月口きいてもらえんかったし」

 タオルだとと俺が声をあげそうになると、少し遅れて入ってきた咲貴がケラケラと笑いながら、タオルだけじゃないよと付け加えた。
 
「一心が仮眠用に使ってたタオルケット、今も使ってるからね。 ライナスの毛布状態だよ」

 タオルケットと言われ、はたと志貴のベッドにある古びたお気に入りのものがあることを思い出した。
 新しいものにしろと取り上げようとしたら、烈火の如く怒られたと時生が言っていた事も同時に思い出し、俺は大ため息だ。

「好きが大渋滞して、このままでは自分が壊れると自覚して、志貴なりに何とかしようとして『これはファン活動だ』って言い聞かせてたしな。 憧れで片付けようとして蓋してたんだ。 一心もあんだけ好き好き騒がれてたら良い加減、早めに何とかしてやったらよかったのに」

 冬馬がコーヒーを喉に流し込みながら、咲貴とアイコンタクトして二人して俺をグッと睨みつけてきた。 

「10歳下に早々に手を出してたら俺逮捕されるからな。 それに、俺はガチの従兄やし、そもそもかなり血近いからな! 外の世界じゃ詮議やろ? だから、そんなものすっ飛ばしても欲しいってご要望があるまでは我慢して待つしかないやろが」

 ほうとため息を吐いて、ふと下を見るとばっちりと志貴と目があった。
 一瞬、パニックになりそうになったが、秒で冷静さを取り戻した俺はにっこりと志貴に微笑んでみた。
 志貴も目をパチクリさせてこちらを見て、かなり取り乱している様子だったので、俺の膝の合間に体を入れて座らせてみた。
 その上、志貴の肩に顎を乗せて、もう一度、おはようと言うと、志貴が素っ頓狂にも程があるような声をあげた。
 冬馬と咲貴がその様子を面白そうにみていた。
「相変わらず初だね、志貴」
 咲貴の言葉にうるさいと小さくつぶやいて、志貴は何故かうつむいてしまった。
「起きた気配したから作って待ってたんだぞ。 どこ寄り道してた?」
「ちょっと外見てただけだ」
「一人でか? 外壁まで行ったんじゃないだろうな」
 志貴は言葉につまり、問いに答えることなく、差し出された公介特製のほうじ茶ラテなるものを一心不乱に飲もうとしている。
 公介がおいと叱るような声をあげるから、志貴がほんの少しだけ萎縮したのがわかった。
 外壁より先には護符や結界がない。今の志貴であれば、確かに危険だから、1人で行くべきではないのだ。故に、公介からのお叱りの意味は志貴もわかっている。
 公介にそれ以上の追及はしてくるなとそっと目配せをした。
「志貴、お願いがあるんやけど聞いてくれる?」
 びくりとして背に緊張が走る志貴に俺は続けて言ってみた。
「志貴を俺の嫁さんにしてええか? 外にも告知してええ? 一等最初に楼蘭くんに報告してええか? そんで、今から言うことが一番大事なことね。 お前は一生、俺以外の男知らんでええ。 意味わかるか? 完全に例のアレを制御できたら、待ったなしで毎日一緒のお布団で朝まで特訓や」
 志貴がほうじ茶ラテを吹き出した直後、激しくむせこんだ。
 俺はその背を撫でながらどうするかともう一度聞いてみたら、志貴が顔を真っ赤にして、ど阿呆と叫んだ。
「どうするのん? あかんのん?」
「あかんことないけど、場所ってもんがあるやろ!」
「そう? こうなったらな、もはや既成事実作成やんか。 はい、聞いてた人?」
 俺の問いかけに、呆れ顔の冬馬と咲貴、公介がはいと手を挙げてくれた。
「よっしゃ、プロポーズ、ばっちりやな。 この時をもちまして、志貴は俺だけのものですんで、手を出したら誰彼とわず全力で屠るからね」 
 怖い、怖いと冬馬と咲貴が立ち上がり、部屋を後にしていった。
 公介は俺に軽くウィンクして、朝ごはんでも支度してくるわと部屋を後にした。

「志貴、お前の全部を俺にくれ。 良いよって言うんなら、こっち向いて?」

 志貴がプルプルしながらなかなか振り向かないから、俺はその顎を掴んで強引に振り向かせて、口付けた。
 何回教えても下手くそは変わらない。
 息をしろって言うのに、酸欠になるまでしない、と言うのかできないと言うのか。
 唇をそっと離してやると、志貴の頬は真っピンクで目には涙がいっぱい溜まっている。

「はい、ベーしてみ」

 ベーと促すと思わずつられて舌を出すからそれをパクリとしてやったら、また、大慌てしている志貴が可愛くて仕方がない。
 どれだけ志貴が暴れようと俺の力には敵わないから、逃げ場がないように身体を抱きしめたまま唇を重ねる。
「無理! 冗談やめて!」
「冗談やない。 お前に害がないと判断したら、この先のこと、必ずするからな!」
「一心! 自信満々にそんなこと言うな!」
「しゃーないやろ? お前が他の女触るな言うんやから!」
「それは、そうやけども! ん? そんなこと言うてないやん!」
「ま、何でもええけども、俺もお前もお互いを独占するってことはそういう覚悟の上にあるってことや。 はい、ベーして」
「一心!」
「ほら、口開けてみ」
「一心ってば!」
 腕で胸を力一杯押してくる志貴の耳元に口を寄せた。
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「やから、ごめんやで」
 抵抗が一瞬止まった隙に俺は志貴をぎゅっと抱きしめて、再度、膝の上に乗せた。
 
「俺のバウンダリーは明確や。 お前とそれ以外。 お前以外は皆同じか、俺にとってそんなに差はない。 さて、お前は俺のバウンダリーを知りたかったんやろ? 聞いてどないや?」

「まさかずっと居たの? どっから聞いてた?」

 志貴の目が潤んできて、さらに頬が真っ赤になる。

「わりとのっけから?」

 何だってと大絶叫した志貴の頭の上に手をのせてニヤリと笑んでやる。

「暖かかったやろう?」

 志貴が困ったように口をへの字にしてこちらをみている。
「と言うことで! とりあえず、挿れはせんけど、ギリまでする」
「阿呆か!? こんなとこではやだ!」
「ここじゃなかったらええんやな!」
「あげ足とるな!」
 唇を戦慄かせている割に、俺の肩をしっかりと掴んでいるあたりが可愛い。
 
「あいつらの結婚式は夜やから、それまで一緒のお布団でぬくぬくしよか」

 よっしゃと志貴を抱き上げたまま、母屋から退室することにした。
 ジタバタしていた志貴だったが、やはり本調子ではない様子で途中から本人の意思とは反対にうとうとし始めた。
 現世で長い時間を過ごさせるとすぐこれだ。
 穏やかな公介が一瞬でも声を荒げた理由の根底にあるのもこの性質だ。
 だから、志貴が滞在する間の京都邸は春の封印を解いて、あからさまに出歩けない場所を示していたのだ。
 出雲と違い京都は別の意味で念がこもる場所だからこそ、志貴を遠ざけるための対処をしているのだ。

「式が終わったならすぐに出雲に帰ろう」

 それが一番良い。
 公介が志貴用に敷いてくれたふかふかの羽毛布団にそっと二人でくるまる。

「何もしちゃダメだからね」

 ちょっと呂律が回らなくなってきている口調で志貴が言った。

「どの口がそれを言うか。 割と大胆よ、あなた」

 トントンと志貴の背を叩いてみるが、俺の首に腕を回して、抱きついたまま眠ってしまっている。志貴の寝息が首筋に当たって、俺は奥歯を噛み締めるしかない。
  
「マジで早く修行を完了させろと時生に圧掛けな、俺、頓死するわ」

 黄泉使いの悪習はきっとなくなる。
 こうやって、血や能力に左右されることなく、愛おしい者同士が繋がっていくのが当たり前になっていくのだから。
 泰介が仕事から戻ってくる前にプロポーズ成功してよかったと安堵の息が漏れた。
 
「志貴、お前は皆がピンチになったら割と簡単に自分を捨てるやろ。 それをされると俺が苦しむってこと、自覚してくれよ。 お前を代償に救った世界なんぞ、俺が破壊してまうわ」

 お前がいつか言っていたことをそっくりそのままお返しするわ。
 お前の髪の色、瞳の色、肌の色、声、体温、匂い、全てが美しい。
 美しいというか、愛おしいというか、うまく表現できないな。
 
「一心、どこにも行かんでね」

 寝言かよと突っ込みたくなるが、はいはいと愛おしい温もりの背を撫ででやった。
 
「とりあえず眠ってしまえ、俺!」

 他の女を見ても性欲が起動しなくなっている現状をどう説明しようかしらと天を仰いだ。
 特別枠すぎるやろと俺は彼女の黒髪にゆっくりと顔を埋める。
 もう数時間で良いから泰介、帰ってくるなと念じながら目を閉じた。
 

 
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