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第24話 道反という鳥籠
しおりを挟む道反の結界内は季節感がなく常時春の風が満ちている。
縁側に足を下ろし、ぼんやりと夜空を見上げてもどこか不思議な夜空でここが境界なんだと痛感せざるを得ない。
咲貴が届けてくれた黒飴と甘い梅干しはもうなくなった。
なかなか手をつけられなかったけれど、意を決して口にしてみたらもう止まらなかった。
そうか、私はこれが好きだったんだなと思い出すことが出来た。
彼女は小さい頃に行った熊野で私が気に入っていた物を覚えていてくれたのだ。
私はだめな姉で、冬馬の言う通り何もわかっていなかった馬鹿たれだ。
体中は打ち身だらけ、やっと治りかけていた唇の端がまたもや切れてぷっくりと腫れあがり舌先でなめてみるとピリッとした痛みが走る。
両腕はまるでボクサーかというように包帯でぐるぐるだ。
普通の女子の腕がこうなるまでする稽古って何なんだろう。
あの時以来、どうにも冬馬とうまく話せないで居る。
生まれて初めてのギクシャク具合に苦笑いだ。
一心が黄泉の鬼となり人の生を捨てたとわかった時は慟哭したのに、咲貴の苦しみには鈍感だったという人間失格具合。この不具合の極みである自分自身が何故選ばれたのか、本当に聡里の言うとおりだとさえ思ってしまう。
『泰介が間違っていたのではないのか?』
前を向こうと立ち上がる度にすぐに駄目だと膝を折り、また、立ち上がろうとするのにまたネガティブ地獄に陥る。
情緒不安定かと一人突っ込みをいれてみて、どうにもならない空虚感に苦笑い。
それでも不思議とまだ気力だけはあるようだ。
考えてみると、公介が姿を消してからと言うもの、ここまでちゃんと稽古をしたことがなかった。身体を動かすとおバカでネガティブな発想は飛んでいく。
時生がついさっき焼いてくれたパウンドケーキに手を伸ばし、黙々と食べる。
どう見ても売り物だ。才能ってすごい。
だが、にんじんの味がする。確実にわざとだなと思いながらも負けじと口にする。
時生はこうした嫌がらせをしてくるのがうまい。
私の人参嫌いを知っているのに、ほら食わず嫌いだろというように食べさせる。
家族団らんなんぞ程遠い黄泉使いの世界。そのはずなのに、どこよりも暖かさを感じるこの日々に涙腺崩壊しそうになる弱い自分を認識せざるを得ない。
どんな世界に生きていても多少ならず因縁のある関係はあるだろうが、人間は命を天秤にかけられた因縁を前にすると感覚だけが麻痺する。
戦争で命を落とすかもしれない恐怖。
事故に巻き込まれて命を落とすかもしれない恐怖。
病に苦しみ命を落とすかもしれない恐怖。
自分ではない誰かに命を奪われるかもしれない恐怖。
命を奪われることに対する恐怖は様々あるだろう。
それがある日突然、お前の運命だという顔をしてやってくると理不尽さに嘆いても、喚いても、受け入れざるを得なくなる。
よく死ぬなんてことはない。
良く生きることはできても、死に方が美しいなんてことはない。
死んで褒められることなんてない。
死んで悲しまれるのも、喜ばれるのも嫌だ。
死が突然やってきても、そこに生きた証をもっていられるかが勝負になる。
きっと自分が何者かなんて意識して探すものじゃない。
たまたま死に出くわした時に、あぁそうか、となる程度のことなのだろう。
その『あぁ、そうか』を手にできるかどうかはきっと与えられた時間をどう使うかにかかっている。
時間を消費する様を楽しまずしてどうするってんだ。
死をイメージして生きるのはもう死んでるのと同じだ。
例え死に瀕していても生を諦めない人間は確実に生きている。
綺麗ごとであったとしても、目を背けてはいけない。
人間にはそれぞれに生きる背景と背負っている荷物がある。
誰とも分かち合えない苦しみもあるだろう。
「それでも、汝は何者であるかと問われるのは同じ」
ほうじ茶をぐいっと飲み干して、じっと庭の隅にある橘の木を見据える。
非時香菓と梅。永遠と理。
選ばれたには何かを成せと重大な意味はあるのだろうが、頭がパンクしてしまいそうだ。
ふわりと温かな風がなだれ込み、そっと前髪を吹き上げた。
屋根より高い樫の木に確かに人の気配がある。
それはよく知っている人間の気配だった。
「哲学しとんのか?」
近頃ではこの声にむかつくくらい安堵するようになってしまった。
「お前はほんまに心を垂れ流すのが得意やな?」
心を読まれたと焦りすぎて思わずせっかくのパウンドケーキを落としてしまう。
長身の黒づくめの男は庭先に降り立つと、般若の仮面をそっと外した。
人を喰ったような顔をした一心だ。
変なところにケーキの端がはいって急にむせ混んだ私の背をなでながら、一心は大声で笑った。
「ちゃんとごっくんせな!」
ものすごく久しぶりな気がしすぎて、嬉しいの半分、腹が立つこと半分。
自分でもびっくりするくらい張りつめていた糸が切れたような音が聞こえた。
泣くつもりなんてないのに、どうしてか涙がこぼれた。
「どないした? たったの二日、俺の顔みられんくて寂しかったんか? あん時のまま成長してへんのか? 大きくなったら一心のお嫁さんが良いやったっけ?」
黒歴史をさらすなと一心の胸のあたりを小突いた。
一心はぽんぽんと頭をなでてくれ、にやりと笑んだ。
「御触り1回1万円な」
「高!」
こうやって冗談を言ってくれているが、使い物にならない私にかわり黄泉にアレが出たと聞いてはその度に一心がでばってくれているのだ。
一心のマントは傷だらけ、頬には切り傷まで深々とある。
「男前が傷だらけになってるやんか」
「男前は何したって男前なんやから問題あらへん。 で、触ったら1万な」
大切な人達を危険にさらすのは私が弱いからだ。
悔しくてぽとりぽとりと涙が膝の上にこぼれ落ちる。
私はもっと強くならんといかんのに、このていたらく。
「お前はお前でいいんや」
一心に背を叩かれ、また涙がこぼれ落ちた。
「触ってもらうんはいくら払わんといかんの?」
「そうやな、料金3倍で手うったるわ。 せいぜい、バイト代ためとけ」
「年末に叔母さんの旅館手伝ってくるわ」
「うちのオカンの旅館はブラックやけど、金払いは良いからせいぜいがんばれ」
くはっと声が漏れて笑いがこぼれてきた。
まだ涙は流れ落ちるのに、良い意味で体の力がうまく抜ける。
縁側に同じように座っている一心の横にいると、自分の未熟さがわかりやすく露呈してしまう気がした。ほんの少し前までは宗像を、皆を護るのだと無理矢理にでも背伸びをする他なかった私は初めて誰かに頼るということを覚えたようで、心が簡単に脆くなる。
「宗像に生まれたのは悪くないよね?」
一心は当たり前だと言うように意地悪な笑顔のまま、力いっぱい髪がぐしゃぐしゃになるまでなでてくれる。こう甘やかされると咲貴のことが嫌でも脳裏をよぎる。咲貴に私はどう気持ちを伝えたらよいんだろう。
「志貴、お前が知りたいことを話したろか?」
はじかれるように顔をあげると、一心は私の心を読んでいるらしく小さく息を漏らした。
「咲貴はお前が思うほど苦労をして生きてきたわけやない。 姉妹やのになんで本人にきかへんのや?」
「今更、どういう態度できいたらいいかわからないんだ」
「考えすぎや。 咲貴はお前みたいにボロボロになるまで稽古はせんし、やりたいことをして、言いたいことを口にする。 いろんな事を頭いっぱいに考えて、自己否定にまでに走るお前と真逆や。 アイツは自分で選んで、自分で今をしっかりと楽しんでる。 普通にきいたらええねん」
一心がゆっくりと立ち上がると、私に向かい合うように立った。
その指先で空に何かを描く。すると、水の塊が集まり、次第に鏡の様相にかわる。
「お前は本来の自分の姿を見た方がええわ」
一心が耳元で指を鳴らすと、額の中央がやたら熱く感じて思わず目を閉じた。
「ちゃんと見ろ、志貴」
一心の声で今度はゆっくりと目を開く。
水面に映るのは、意志の強そうな切れ長の琥珀色の瞳、白磁の肌に毒々しいほどに紅色した唇。闇色をした硬質の針金のような長い髪の私が居る。
「お前の髪は烏の濡れ羽色、つまり真っ黒。 瞳の色は琥珀色や。 誇り高く生きた宗像の長だけが持っていた唯一無二の色。 これでお前が嘘物やったら世界がひっくりがえるわ」
一心の指先がそっと伸びてくる。
少しもてあそぶように髪を触り、ゆっくりと口角をあげた。
「泰介さんはお前の瞳の色と髪の色を見て、誰からも狙われないように、誰にも気づかれないようにお前に命がけの術をかけたんやで? 黄泉使いは与えられた仮面を通して、悪鬼を狩る能力を得る。 だけどな、この世で唯一、仮面を必要としない人間がいる」
一心が少しは自分でも考えてみろとでも言いたげな表情でこちらを伺うように見てくる。
昔から、確かに仮面をつけるのは苦手だった。
どうしても息苦しくて、邪魔でしかなかった。
稽古の方がもっと動けるのにと思うほどに嫌なものだった。
それに、黄泉に投げ落とされた時も、私は仮面をせずに悪鬼をなぎ払っていた。
「お前は時々意図せずに泰介さんがかけたはずの封印を本能でぶち破ってしまう。 だからこそ瞳の色を隠すには仮面はもってこいのアイテムやったんやとさ」
「どうしてそこまで隠そうとしたの?」
「琥珀色の瞳は神の獣を導く者のみに約束された色や。 それは黄泉を統べるための理を持っているということ、つまりはお前が静梅の玉の依り代やという証。 それが漏洩することがどれだけ恐ろしいことかわかるか? ただの宗像の当主と静梅とは天と地ほどの差があるんや」
私の右頬にそっと触れた一心の指先がわずかに震えている。
「平和な時には邪険にされ、災厄が起きると担がれ、結果、命を落す。 何が起きていようともお前だけは何が何でも死守する」
一心の言葉にほんの一瞬疑念が浮かんだ。
「今、何て言った?」
ここは道反。隔絶された世界に他ならない。
心がざわざわとする。これはもう直感だ。一心は何かを隠している。
「何が何でも死守するって何? 外で何が起こってるの?」
私は一心の厚い胸板を押し返した。一心の表情を読もうとするが、すっと視線を外された。
琴線に触れるとはこのことだ。
この道反での時間にまんまとのせられていたのは私自身なのだけど、腹が立ちすぎて言葉も出ない。ふつふつとわいてくる怒りをどこへ解き放てば良いのかわからない。
外の世界で何かが起きていることを一心は確実に知っている。
朔にしても、望にしても、きっとこのことを知っているに違いない。
あのお伽噺をきいていて考えたことがある。
宗像の始祖はいくら強烈な能力ホルダーであったにせよ、真に黄泉を統べる能力を保持していたにせよ、後世に至るまでこんな阿呆くさい争いを残した。
「私を何だと思ってるんだ」
言葉に出してみて、虚しくなった。
周囲の大人は何も言わない。
道反の春のような風が泣くなと頬をなでてくれるが何の慰めにもならない。
「こんなことばかり繰返すのなら黄泉使いなんてなくなってしまえばいい!」
言霊には力がある。駄目だと知っていたが、今回のこれは本気だ。
私が理の梅であり、理を操ることが許されるのなら、いっそ何もかもを無に帰したい。
「瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品々物比礼」
自然に口をついていた。
「一二三四五六七八九十、布留部、由良由良止布留部」
布瑠の言を躊躇なく口にし、指先を歯で傷つけた。
指先に走る痛みがこうも気にならないとはと笑いがこぼれた。
にじむ血液を唇に無造作に塗り付ける。
まだ血がにじんだままの指先に息を吹きかけ、ポンとまだ左胸を軽くはじく。
左胸を中心に紅色の光を発する文字が自分の体を這うように広がっていく。
「暗き闇を照らす尊き月よ、汝の光を吾の血潮に呼び覚ますことを許したまえ!」
仮面などもう使ってやるものか。
「吾は望む。 この手に力を!」
いっそすべてを終わらせることのできる力が欲しい。
荒れ狂う大蛇を対峙した素戔嗚のごとく。そうか、天叢雲を呼びだせばいい。
「ちょい待て!」
一心の声がすぐ背後で聞こえた瞬間、すぐに羽交い絞めにされた。
振り切ると同時に無意識に布津御魂を呼び出してしまっていた。
槍の先を喉元へ向けても、驚いた様子もない。
槍の先を指先で押し返して、一心が静かににらみをきかせてきた。
「今のお前にできることはせいぜい事態収拾の半分程度や。 志貴、俺は黙って護られろと、箪笥の奥底に隠してしまうようなやり方は気に食わん。 じっとしてろは、お前にとってはゆるくしめ殺されていくことと同じなんやろう? 公介さんには公介さんの考え、冬馬には冬馬の考え、宗像には宗像の考え、黄泉の鬼には黄泉の鬼の考えがあるやろうけどな、俺はお前の考えにしか従わへん」
「それはどういう意味?」
「お前のやりたいようにやらせるために、俺がお前についてるんや!」
「意味がわからん!」
「そう癇癪起こすな。 俺を信じろ。 俺は必ずお前の矛にも盾にもなってやるから。 今はひたすらに気づかんふりしとけ。 すっきりせんでも、怒鳴りたくてもひたすらに飲み込んで、今はまだ知らんふりしとけ。 咲貴には咲貴の戦場がある。 それはお前にお前の戦場があるのと同じや」
もう踵を返すしかできなかった。
私はやけになり宙に槍を放り投げる。すると一瞬で紅蓮の炎につつまれ、布津御魂は闇に姿を消していった。
私はやりきれない気持ちのままできびすを返し、長い廊下に足を進める。
何か背後で一心が言っていた気がしたけれど、もうどうでも良かった。
廊下の最奥まで進んだところで待っていたのは冬馬だった。
冬馬は何も言わない。
表情を崩すことはないが、その腕が伸びてきていきなり抱きしめられた。
冬馬はそのままで何も言わずにしばらく離してはくれなかった。
後を追ってきた一心が軽く咳払いをして、冬馬の腕が緩まったところで私は逃げ出した。
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