黙の月ー神の獣に愛されし紅

ちい

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第21話 白昼夢

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 真夜中の静寂を切り裂く、金属がぶつかりあうような硬質な音を耳にし、慌てて瞼を持ち上げた。
 ここはどこだと周囲を見回すが、自分がどこにいて、何をしているのかわからない。
 記憶がすっぽぬけており、状況がまったく把握できない。
 自分の背に広がるこの痛みは何なのだろう。鼻につく、この独特の臭いは何なのだろう。わからない事だらけだが、とんでもない場所にいるのだということだけはわかった。
 行かなければと、 駆け出し、数秒後、ふと足をとめた。
 自分の口からこぼれおちた言葉に戸惑った。
 どこへ行けばいいのかわからない。
 足をとめた途端、ひどく汗をかいているだけでなく、息も上がっていることに気がついた。じっとりと汗をかいた頬に髪がはりついて、気持ちが悪い。
 一つ気になりだすと、次々と感覚が生々しくなっていく。
 掌に痛みを感じ、視線を落とすと見たこともないような細身の刀をつかんでいることに気がついた。柄のない刃を握っている。
 握りしめている指の合間から、じわりと血がにじみ出している。
 力一杯握りしめている指の力を抜けば楽になるとわかっているのに、何故か、そうしてはならないという強迫観念にかられていた。
 突風が通り過ぎると同時に強烈な頭痛に苛まれた。
 倒れこみそうになったが、何とか近くにあった大きな柱によりかかった。
 しばらくすると、頭痛はおさまったが、自分の中に別の何かが入り込んだような違和感が残った。
「私にだけ退路がないというわけか?」
 自分の言葉なのに、違和感があるのは確かだ。
 だが、どこか胸の奥の方では不思議としっくりくる感覚が眠っている。
 冷静に周囲をもう一度見回すと、見たことがある景色だとすぐに気付いた。
 どうして見たことがあるのかはわからない。
 でも、この感情は望郷の念だ。
 この楼閣も、この水面に浮かぶ長い回廊も。逢いたい人もいた。
 その人の顔をようやく思い出し、不安に押しつぶされていた心に暖かな風が吹きこんだ。
「やはり、コレの全てが私の檻というわけか」
 言葉遣いがほんの少しだけ変わった。誰かの口真似だが、今度はまったく違和感がない。
 髪を結っていた組紐に手を伸ばし、それをほどいた。
 そして、今度は刃物を絶対にはなさぬように、きつく紐で結んだ。
 前を向いて、足を踏み出したところで、身体からふいに力が抜け落ち、片膝をついた。
 欄干に手をかけ、ゆっくりと立ち上がる。伝い歩きをしながら、風景を確かめた。湖、否、凪いだ内海。足元に目を移すと、床の合間から水面がのぞいている。
「そうだった、ここは海の上だったな」
 自分自身がいる回廊と海を隔ててもう一つ回廊があり、鮮やかな朱色の欄干が目に飛び込んだ。
 中央に神殿、東西に対屋があり、それらがすべて回廊でつながっている構造であることを思い出した。
 鳳凰が大きな翼をひろげたように海上にせり出す回廊。自分自身が、そのせり出した回廊の先端でいつも海を眺めるのが好きだったことも。
 対面にある回廊に数人の人影がみえるが顔はわからない。
 だが、守らねばならない人達だと知っている。
 彼らに向かって陸側ではなく海側へ進めと必死に合図を送る。
 繰り返し、繰り返し、合図を送る。
 合図に気付いた人影が駆け出すのを確認し、たった1人で陸側へ進む。
 時間稼ぎができる可能性があるのはもう私だけになったことも知っていた。
 駄目だと、戻れと私に制止を呼び掛ける声にはっとして振り返った。
 靄が広がり始め、声の主の顔がわからない。
 どうしても確認したくて、もう一度だけ歩みを海側へ戻した。
 視界をさらに深い靄が塞いでいくが、もう少しでその顔が見える。 
 肩が急激に重みを増し、何かに支配されたように身動きできなくなった。
 異常過ぎる状況であるにもかかわらず、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「これほどまでに周到に準備されていたというわけか」
 悔しさを奥の歯で受け止めながら独りつぶやき、足をとめた。
 わずかな奇跡を信じながら、どこかでこうなることもわかっていた気がした。
 それでも、ほんのわずかな奇跡を起こせる気がしていたのにと苦笑いだ。
 天を仰ぎ見た後、ゆっくりと深い霧で視界を奪われてしまった前方に視線を移す。
「どうしてだ?」
 すると、やけに耳につく、神経を逆撫でするような笑い声が前方から聞こえた。
『私に獣を返してくれたらそれでいい。 簡単なことだろう?』
「獣は私の意志では動かぬよ。 それを何よりもご存じだろう?」
 全身に痺れが走り、呼吸が一気に苦しくなった。
『さて、命乞いなどしてみる?』
 その声は笑う。ただ笑っているのではない。正真正銘の嘲笑だ。
「私がすると思っているのか?」 
 身体中の力を振り絞って声を大にする。
『礎になることもなく、時の自由、理の自由、その全てを制御できるなんて少しずるいのではないかい?』
 無性に悔しさと寂しさがこみあげてきて、頬を温かいものが滑り落ちていった。
 手にしている刀身がゆっくりと紅の光を灯し始める。握りしめている指の力が失われていくが、紅の刃はしっかりと手の中にある。
『命に従え』
「断る。 貴女は私と共に封じられて終わりだ」
『君の檻など無意味だよ』
「やってみてから言え。 私には獣がいる」
 渾身の力を込めて、その刀を躊躇することなく、左胸に深く突き刺した。
 あふれ出す血潮が光となり、方々に飛び散った。
 倒れ込んだ体から脈々と流れ出る血潮は蛇のように地をはい、周囲に方陣を描いていく。
『愚かな!』
 黒い霧が一気に私の身体を取り囲む。
 その中から、蒼白い手が伸び、私の両腕を確実に捉えた。
 もう逃げられなかった。否、私が逃げることも奴を逃がすことも諦めた。
 心の底から笑ってやる。どこにも負けたという想いはない。
 この重荷をたった今は私が封じていく。そして、己に連なる者を信じる。
「行け、絶対に振り返るな!」
 私は想いをのせ、声を張り上げた。こちら側に残っていた仲間の背を押す。
 複数の足音がすぐ横を通り過ぎていく。
 最も聞きたかった声が遠く後方から聞こえる。
 だが、その声の主の顔を確認することはかなわない。ついに頸を捉えられてしまったのだ。
「そいつだけは引きずってでも連れていけ!」
 腹の底から声を張り上げた。
 姿は見えないが、きっと仲間に引きずられるようにしてこの場から引き離されたであろう苦渋の声が聞こえる。
『君とて堕ちるのだよ。 無限に続く時間は毒だからな』
 骨のきしむ音と真っ白になっていく視界。痛みや苦しみが感じられなくなっていく。最後に聞こえたのは大きな扉が開く音と閉じる音のみ。
 勝ったと笑ってやりたかったが、自分がうまく笑えているかわからない。
 だが、次の瞬間、かすかに扉が開く音が耳に届いた。
 あってはならない音だ。声まで聞こえる。
 遠のきかかった意識でさえ誰だかわかる声が聞こえる。
 来てはならない、お前が私に辿り着く時にはもうこの命は尽きている。
 もう刺し違えるほかに道はないのだから。
 お前が来てしまったらこれが不完全に終わり、幾度となく同じことが繰り返される。だから、私で終わり。それで構わないんだ。
 強烈な痛みが首筋に走り、こらえることの出来なくなった声は断末魔のそれだ。
 誰でもいい、あれの足を止めてくれ、頼むから胸の内で静かに願った。
 ひたり、ひたりと魂が砕け散る足音が近付く。
 終止符が打たれる瞬間が迫っていた。本当にこれが破れたら、これが成されなかったとしたら後世の黄泉使い達の大いなる憂いとなる。だからこそ、自分を目指して、まっすぐに駆けてくる足音を何とか遠ざけたい。
 涙に血が混じりそうなほどの呻きに似た気持ちを振り絞って叫んだ。
「頼む、吾に代わって護ってくれ!」
 近づく者の足がぴたりと止まった。遠くから名を呼ぶ苦渋の声が聞こえる。
 最後にもう一つ叫んだ。
「お前にしかできんことだ!」
 自分の痛みや苦しみなどもうどうでもよかった。
 どうか生きてくれという願いだけで気力を振り絞った。
 扉が閉じられる音が耳に届くと同時に背から刃物で貫かれ、膝を折った。
 涙がぽろりとこぼれおちる。持ち上げたまぶたから液体が流れ込み、景色が赤く見える。
 私のアレに逢いたいという想いはこの世への執着となり、悪しき者に利用される。ならば、この魂まるごと焼き尽くしてかまわない。頼む、私の中の炎よ、意地でもこの漆黒の髪一本残らぬほどに焼き尽くしてくれ。

「おい、しっかりしろ!」 

 強く体を揺さぶられ、はっとして目を開ける。
 そこには真っ蒼な顔をした冬馬と一心が居た。
 稽古の休憩中に、白昼夢を見ていたらしかった。
 それにしてもやけに生々しい夢だった。
 慌てて頸筋をおさえるが痛みはない。さらに、はっとして、胸のあたりを見るが、見慣れた胴着でしかない。全身ぐっしょり汗で濡れており、急激に体温が奪われていくような気がして身震いをした。
 うなされていたらしく、タオルを冬馬から受け取ると、一心不乱に顔をごしごしとぬぐった。
 必死に身だしなみを整えながら、ふと夢の事を思い出し、手を止めた。
 到底穏やかな内容ではない悪夢の類の記憶は恐ろしいほど鮮明なまま消えない。
 恐怖が蘇ってきて身体が硬直する。
 私の名前を呼ぶ一心の声にようやく我に返った。
 あまりにインパクトのある夢のせいでどうやら呼吸することを忘れ固まっていたようだ。
「頼むで、息ぐらい自分でしてくれや。 お前の呼吸まで世話できん」
 むうっと膨れてみせるが、一心はさっさと支度しろと睨みつけてきた。
 道場の壁にもたれて、眠いなぁと思っていたところまでは記憶していたが、そこから白昼夢を見ていたようだ。
「次はお前の番や。 立て!」
 へいへいと勢いよく立ちあがったが、すぐにその場にうずくまった。
 私のすぐ横で寝転がっていた冬馬は当然すぎる仕儀に力の限りの大溜息をもらす。
 完全に身体中傷だらけなことを失念していた。痛みの元凶に目をやると左肩には包帯が巻かれていた。軽く動かしてみると、かなり痛む。
 こちらは夢ではないようだなと苦笑した。
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