黙の月ー神の獣に愛されし紅

ちい

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第17話 私と似て遠からじの少年

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 女の勘というのは時にとんでもない威力を発揮するものなのだが、それを生かしきれなければ全ては水の泡。
 もはや自分にある女の本能とやらはなきも同じかとさえ思えて、うなだれる。
 屋上以外にも穴が出現することなど、数時間ほど前まではとってもよくわかっていたはずだった。
 屋上だけが全てではないことはお見通しだいっと自信満々だったが、気を抜いてしまった。一言で表現するのならば油断した。まことに、それだ。

「私は間抜けか!」

 穴に落ちたのはこれで二度目。
 一度目は着地したところが穴だった。二度目はびっくりもびっくり、保健室の扉を開いて一歩を踏み出したところが落とし穴というドッキリ大賞顔負けの落ちっぷりだった。
 自分自身を擁護するわけではないが昼日中に、こんな場所へブラックホールが現れるなんてきっと誰も予想できない。
 つまり、仕方のない落下という奴だ。
 公介の無茶ぶり稽古のかいもあって、天才的なほどに受け身だけは上達していたので、身体の重要箇所は死守できていた。それでもと見上げてみて大ため息しか出ない。
「結構な高さから落ちたな」
 両サイドには切り立った崖。
 幾度も繰り返し見上げるも、かなり上方にうっすらと光が見える程度で状況はかわりようがない。
「完全にクレバス」
 そこに山があるからと挑んだわけではないのに、見事なクレバスに落下。
 クレバスなんて言葉を知っていたのはつい最近そういう山登り系特番をみたところだったからだ。
 その番組で危険箇所と話していた場所に今私が立っている。
 ドローンで撮影されたようなその映像がリアルに眼前に広がっている。
 夢であって欲しいけどと左右に広がっている氷の壁に触れると指先の皮膚が張り付いてしまいかねない冷たさだ。
 完全に雪山に放り出された。
 本当に保健室になど行かねば良かったと、今更ながら、後悔してみるがもう遅かった。
「季節が逆転。 身体によくないよ、ほんとに!」
 さっきまで居た場所はまさに梅雨真っ只中。蒸し暑いくらいだった。
 それが夏服であることを恨むほどの真冬仕様の世界へ突き落とされた。
 しかも、昼夜逆転も良い所だ。
 寒風吹きすさぶ中、完全に冷え切った身体を必死にさすってみるが焼け石に水。
 まつ毛に夜の湿った空気がまとわりつき、すぐに薄い氷の膜を作っていくのがわかる。
 マイナーなテーマパークにあるマイナスの世界ようこそ的なアトラクションばりにとんでもなく寒い。
 気が付きたくなかったが、間違いなくここは黄泉だ。
 最下層でないことだけが唯一の救い。
 落ちた場所が悪かったこともあるが泥と砂埃にまみれ、ずっしりと重みを増した髪が皮膚にはりつき不快感をあおる。
 つたない知識で判断すると、冥界にある四階層のうち、ここの季節は冬なのだから、最下層の一歩手前。
 輪廻待ちというより、審判の門待ちといったステージだろう。
 そもそも生身の人間である段階で、上層にある春うららかなステージにあがれるわけがないのだが、この状況にあってはあたたかなステージを望んでしまう。
「いよいよ本気でまずいな」
 冷凍庫にいるようなものだから、じっくりと確実に体温が奪われていく。
 どうして保健室にこんな落とし穴があるというのだ。
 しかも、それが冥界につながっているとかありえない。冥界におちた人間がどうなるかなんて知るよしもないが、確実にやばいのだけはわかる。
「通常、死んでから来るからね、ココ」
 何かぼやかないと確実に終わりにされる気がした。
 本気で伯父からのメッセージは不幸の伝言でしかなかった。
 意図しないタイミングで向こうから出てくるぞという公介のメッセージ通りだ。
 ここに導いた奴がいるのなら、さっさと姿を現せとあたりを見回すが、一向に何の気配もない。
 クレバスを抜けて、眼前に現れたのはひたすらに砂丘とむき出しの岩山。
 随分と落下した場所からは歩いてきたと思うが、あまりに景色がかわらないので不安は増大中だ。
「出てこい!」
 言葉は力強くと思うのだが、自分でも驚くほどに声が震えてくる。
 寒さからなのか、はたまた不安、恐怖からかはわからない。
 だが、はっきりとわかることがあった。
 それは、私が命運をかける場に招かれているということだ。だからこそ、逃げも隠れもしないぞと両足に力をこめて意地を張るしか出来ない。
 何回か鎌鼬の風のようなものにやられ、せっかく伸ばした自慢の長い髪は肩に届くかどうかというところでばっさりとやられてしまった。時折、そんな攻撃的な風がすぐ横を通り過ぎ、不揃いな黒髪がふきあげられ、頬を叩く。その度に少しだけ唇を噛み、口腔内に広がる苦味のある液体を吐き捨てた。
 ある意味でこの世界にとって、私の存在は異物であり、システムエラーになっているのだろう。何とか排除しようと世界が私をつぶしにかかる。
「さっさと出てきやがれ」
 品のない言葉のまま、ぼやきながらゆっくりと一歩ずつ踏み出す。
 歩みを進める度に、足元で氷の飛礫が音を立てて砕かれていく。
 手にする武器は何もない。
 だが、不敵に微笑んでやるんだ。虚勢をはりでもしなければあっちゅうまに負けてしまいそうだ。
「こんな所に引きずり込んだ奴、出て来い!」
 声を大にして叫ぶが、何の返答もない。
 まったく相手にされていないかのような静けさに、小馬鹿にされた気がして拳を握りしめた。
 永遠に続く逢魔が時のような夕闇と静寂によって徹底的に視界を支配された空間に立ち、時間の観念も崩壊しかかっていた。
 現世では見たこともない類いの悪鬼を幾度となく見てきた。
 ここに居る限りその数が桁違いなのは納得できているが、その姿形は時に私を迷わせる。
 幼い子供、乳飲み子を抱えた母親、老人。彼らが何の罪を犯して、何故、悪鬼に転化してしまったのかはわからない。化け物の類いの姿であれば胸は痛まないのになんて自分本位な発想に帰着する。躊躇すれば己がやられるのだと、ここ数時間でようやく覚悟が決まったところだ。逃げ回ることはもうやめた。
 おかけで指先は見るも無惨なほどに傷だらけだ。
 武器は石ころ、何かの遺骨、それすらなければ制服のリボンやボタン、それが尽きたら自分自身の髪を使った。
 そして、私は喉の渇きを潤すために己の血すら飲んだ。
 野蛮の極みだ。
 現代の日本に生まれ落ちて、ミドルアッパーの家庭に育った私は水が飲めない、食事がとれない、眠る家がないなんてことが自分の身に起こるなんて想像できなかった。
 だが、たった今、人間は生きるためには何だってできるのだと学びつつあった。
 そして、自分に言い聞かせるように何度も何度も同じ言葉を繰り返すしかない。
「私は宗像志貴だ。 そうだろう?」
 気を抜くと、名前すら忘れてしまいかねないと、ついぞ気がついたところだ。
 人でいることを忘れ、獣になってしまう。
 黄泉とはそういう場なのだとようやく本能で理解した。
 しっかりと己が何者であるかわかっている者でなければ人間として存在することが許されない。
「私は宗像志貴だ」
 馬鹿の一つ覚えのように繰り返し繰り返しつぶやきながら、不眠不休が続く。
 出くわした悪鬼をなぎ払い、鳥取砂丘を5つ分程度歩いて、本格的に脱水寸前になった頃だった。
 
「誰?」

 お互いにボロボロではあるが、明らかにこの世界において異物同士。
 柔らかそうな白い肌に気の強そうな釣り目。中国の民族衣装を身にまとった真紅の巻き毛をした少女がいる。光沢の良い黒のシルクに深紅の糸で大きな龍の刺繍が入っている。
 
「人間?」

 生きている人間だ。
 そして、恐ろしいほどに同業者の香りがする。
 互いに悪鬼ではない存在に出逢ったのがあまりに久しかったので、どう接してよいのかわからなかった。
 大きな岩の上に二人で座って、互いに会話してもよいのかどうかともう一度吟味した。そして、二人して孤独からの離脱をはかることにした。
「あんた、日本人?」
「あんたは中国人?」
 互いにうなずき、また沈黙。
「どうして、ここにいる?」
「あんたこそ」
 また、沈黙。
 敵ではない存在だけれど、互いにどう扱ってよいのやっぱりかわからない。
 年はかわらなそうだが、ここは現世でない以上視覚情報はあてにならない。
 現に、言葉の壁が完全にない。
 悪鬼の臭いと血の臭い、自分の汗の臭いしかしなかった世界に、自分ではない別の人間の匂いが混じると安心する。おかしなものだ。
「宗像志貴だよ」
「鴈楼蘭だ」
 少しの沈黙の後、楼蘭が誤解していそうだから訂正しておくと自分は男だと表明した。確実に少女でしかない彼を見返し、言葉を失った。そんな反応は見慣れているのか、彼は肩を落とした。
 楼蘭がほうと息をはいて、ここにいる理由をきいてきた。
 理由もなにも知ったことではない。
「私はここへ落されたんだ」
「落された? ここは冥界第3階層。 誰かが簡単に落としたりできる場所じゃない。 僕のように追われているわけじゃないのか。 落されるってなんだ?」
 そう言われましてもと、私はため息をつくしかできない。
 まてよ、追われているっていうのは何にだともう一度中国少女、いや、鴈楼蘭に目をやる。
「そもそもあなたこそ誰に追われてるの?」
「冥府の役人」
 開いた口が塞がらない。こいつ、何をやったんだ。
 冥府の役人と接点がもてる人間というのはやはり同業者。
「あんた、黄泉使い?」
「そういうあんたも同じだろう? 日本なら、最古の血族。 化石ほどもいない古の血族、どうやったらそんな風に維持ができたのか興味津々だ」
 ほんの少しだけ馬鹿にされたように感じ、私は眉根を寄せた。
「気を悪くするな。 日本は古のままの能力ホルダーが多く残っていてうらやましいっていうだけだ。 日本の外はもうあんたたちのような最古の血族が束になっているところなんか皆無だ」
 この子のいうように冥府は互いを補い合えと連合を組ませているのが世界基準だ。
 だが、日本だけはどうしてか単独自立を容認している。
「冥府に逆らっていいことなんかあるわけないじゃんか」
「おいおい、冥府の下につくという構造自体がそもそもおかしいんだぞ? だけど、真っ向勝負で、冥府の言いなりになるか、阿呆と言ったら目の敵にされた」
 なかなかにパンチのある内容だが、冥府と私たちに上下がないということなのだろうか。私は無学すぎてよくわからない。
「冥府の役人が関与できるのは生きている人間だけだ。 死後の御霊を護り、悪鬼を退けるのは我らの役割で、冥府は関与できない。 では、冥府の役人が間違いを犯せば誰が裁く?」
 私は疲労困憊していた頭をフル稼働する。
 私たち黄泉使いは悪鬼に関与できるが生きた人間には関与することができない。
 冥府は生きた人間に関与できるが、悪鬼には関与できない。
 でも、黄泉使いが生きた人間である以上、冥府は黄泉使いに関与できる。
「冥府の一人勝ちに見えるだろう? でも、真実は違っていて、冥府の役人をとっちめることができる役割の者が実在している」
 楼蘭はお前だというように私を指さしてきた。
 本当に何を言い出すのかと思えばと笑いが込み上げてきた。
「冗談じゃないぞ。 あんたが生まれたのなら、日本だって起死回生を果たせるターンに入ってるんだ」
 今、日本だってと楼蘭は言わなかったか。まさかと息をのんだ。
 楼蘭はそういうことだと笑った。
 しかしながら、単独でここへ落されている状況では勇ましくもなんともない。
「冥府に喧嘩を売ったはいいけれど、結局、足元すくわれて、ここにいるってことなんじゃ?」
 楼蘭は無言だ。
 そのボロボロ具合からも見て取れるが、図星だろう。
 今の日本の黄泉使い、つまりは私たちには冥府に喧嘩を売っている暇などない。
 目の前の敵で精いっぱいだ。
「休憩終わりみたいだわ」
 歩みを止めている時間に悪鬼が私と楼蘭の匂いを探知したのだろう。
 私は岩の上にゆらりと立ち上がり、背筋を伸ばした。
 見るからに、楼蘭の傷の具合や疲労は私のそれを超えている。
 一人で何とかしてやるのが筋なのかもしれないなと覚悟を決めた。
 足元に転がっていた石ころを手に取り、塞がりかけていた指先の傷に押し当てた。 
   じわりじわりと血が滲みだしていく。
 悪鬼の数は目視で約二百はくだらない。数分休んだご褒美がこれだ。
 楼蘭が片膝をついてこちらを見ている。
 あまり見せたくはないのだけれど、そうもいっていられない。
 軽く振り返り、楼蘭に絶対にそこから動くなと指示をだした。 
 引き付けるだけ引き付ける。
 今の自分では広範囲に及ぶ炎を繰り出すのはかなり難しい。
 視界に入る程度なら難しくはないだろう。
 指先から滴り落ちる血液が足元に小さな水玉模様を作り出す。
 それが幾重にも重なり小さなたまりになった時、身をかがめ、すっと指をひたして言霊を口にすれば全てがあっという間に終わる。

「暗き闇を照らす尊き月よ、汝の光を吾の血潮に呼び覚ますことを許したまえ」

 自分の声なのに、どこか違う響きが重なる。
 荘厳な絃の響きにも似て、だがしかし柔らかな歌声のようで違和感しかない。
 これだけは何度やっても馴れることはない。
「吾は望む、時を静やかに」
 性別のないこの特別な声は時を止めることができる。敵味方なく、その足すべてを止める。そう、制止ボタンを押されたように悪鬼の動きがぴたりとやむのだ。
「汝、何であるかを悟れ。 悟れぬ者は」
 そして、終わりの合図。指をパチンと鳴らすだけ。
「汝ら永訣の鳥となれ!」
 爆音と共に紅蓮の火柱が方々で上がる。
 この炎にもれた悪鬼のみを自力でたたくだけだ。
 煙の向こうから飛び出してくるであろう悪鬼に対し身構えていたが、その鉤づめが私に届くことはなかった。
 私の体の前には楼蘭がいた。
 小柄で非力に見えたことを詫びなくてはならないなと反省するほどに彼は俊敏だった。三日月のような刃物を片手にあれよあれよと悪鬼の首を切り落としていく。
 数分後、私たちは背をあわせて、すわりながら、荒い息を整えようと必死だ。
 そして、互いに心底笑った。
 一人では恐ろしいほどに時間がかかったのに、二人だったなら数分で片が付いてしまったからだ。
「流石に宗像は強烈だな。 あんな闘い方は初めて見た」
 楼蘭の言葉に私は苦笑いだ。
 私には彼のような身のこなしも技量もない。
 使える物はこの血だけで、どちからというと仕方なくの選択だ。
 それを褒められると歯がゆさが倍増しそうだ。
「ひとところにいるのは馬鹿のすることだったみたいだな」
 ここへ落されてから、私は学習していた。
 休むとそれだけ匂いを残し、敵を集めてしまう。
 だから、歩く。きしむ体をひきずってでも歩く。
 楼蘭がもう少し休まないかと提案してきたが、それに首を振った。
「ここから一刻も早く抜け出す必要があるから、私はすすむ」
 冥府のことや冥界のことに詳しい楼蘭ですら、ここから抜け出す方法を知らない。
 抜け出す方法がないというより、ここへ落とした奴が何らかの目的を達成しない以上、還してはもらえないようだと唐突に理解した。
 楼蘭と一緒に幾度か悪鬼と戦闘をおこなっている内に、楼蘭の特性に気が付いた。
 彼は恐ろしく回復が早い。傷の治りをみても私の3倍以上早いのだ。
 だから、彼は自分の体に傷をつけても構わないという感じで、日本の黄泉使いでは考えられないほどに相手の懐に入り込むような接近戦を得意としていたが、彼の弱点は呪術・封術にあるようだった。
 宗像は呪術・封術を得意とする者が多い。
 それは古からの血族が絶えることなく何が何でも護られているからだと楼蘭は言った。
 世界ではそんな一つの血族だけのために一致団結することなどなく、弱い者は自然淘汰され、強くあろうと努力した者だけが残っていると言った。
 宗像の内情についていくつも質問をされたがどれも答えることのできない宗像約定にひっかかるものばかりで、私は何一つ教えることができなかった。
 それなのに、楼蘭はわずかな食事であるはずの干し肉や飴を平気で私に与えようとする。
「楼蘭、あんたは本当に良い奴だね」
 次第に申し訳なさだけが蓄積し、ぽつりぽつりと宗像の内情を婉曲的な表現で教えてやるようになってしまった。
 楼蘭はくったくなく笑う。この笑顔をみると、さらに申し訳なくなる。
 楼蘭がポンポンと私の肩をたたいた。
「古いってのはそれだけ重いんだろう。 変えたくても、変えてはならないこともあるんだと思う。 僕の一族は本来は宗像に負けない一族だったが、古いしきたりを壊すことで救われた半面、重要な能力を失った」
 楼蘭の表情に少しだけ影が落ちた。
 彼は空を見上げて、壊すべきじゃなかったのにとぼやいた。
「どうして他人に優しくできるの?」
 わけもなく、彼にきいてみたくなった。
 人間は窮地に追いやられ、疲弊した時、まず自分のことばかりに目が向くのに、楼蘭は自分がしんどくても手を伸ばして救いあげようとする。
「志貴だって、しているじゃないか。 最初に悪鬼と出くわした時、僕が自分より疲弊していることを悟って、一人で何とかしなくてはと闘ってくれたろ? 頭で行動せず、心で行動する。 同じだよ」
「私は自分が嫌いだから、そうは思えないよ」
「志貴は生きるのに不器用なだけだ。 それに、自分が好きで好きで仕方ないような奴と僕は友達になれないと思う。 これからトップを与えられる人間が苦労を知らない、葛藤をしらないなんてありえない。 悩むことは悪いことじゃないと思うけど」
「楼蘭は強いな。 その強さが欲しいよ」
「強くはない。 だけど、強くあろうとは思う。 裏切られてばかりで背中が傷だらけでも、自分が誰かの背中を傷つけたわけじゃないから良いんだとわりきってる」
 楼蘭は静かにうなずいた。
 宗像がいかに一枚岩かわかるだろうと、身内が護ってくれることがいかにありがたいものかと楼蘭は言った。
「僕は宗像に生まれたかったよ。 どうせ同じように、重いものを背負うなら、宗像が良い」
 私は思わず息をとめていた。
 宗像に生まれたことを、この私は一度も喜んだことがなかったからだ。
 情けないやら、何やらで、じわり、じわりと涙がこぼれた。
 楼蘭があわてて、涙を破れた袖口でふいてくれたが砂塵が目に入ってさらに涙がこぼれた。
 神様がいるとして、私をここに突き落とした理由があるのなら、楼蘭とであわせることかもしれないと思った。
「志貴、たぶん、もうすぐ分離させられる気がする。 だから、言っておくよ。 この先、何かあれば僕は宗像を助けると約束する」
「楼蘭、私が当主である限りとしか約束できないけれど、楼蘭の家族に何かあれば私も必ず助けるよ」
 指切りをして、互いに笑った。
 楼蘭の読み通り、数分後、突風が吹き荒れて、あっけなく楼蘭と私のいる世界は分断され、目の前から楼蘭の姿が消えた。
 世界の思惑が私たちのステージを分けたのだろう。
 冥界のステージがそれぞれに与えたい課題が違うというわけだ。
 また一人旅がはじまった。
 無言の世界にカムバックし、さびしさだけが加速する。
 何時間歩いているのかもう記憶にはないがわざとらしいまでに見事なオアシスを発見した。実にわかりやすいトラップだ。
「ついに来たな。これ飲んだら、私は死を受け入れると表明したことになるんだろ?」
 これはまさに黄泉戸喫。ヨモツヘグイといって、あの世の物を口にすると二度と現世へは戻れなくなる。

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