僕しかいない。

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24 僕しか

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-24- 藍染

 ぼんやりとした頭で周りを見る。開かれたカーテンからはガラス越しの陽の光と冷気が入る。
 うちのベッドより広くゆったりとしたムラサキのベッドに本人はいない。
 腕を伸ばし欠伸を一つ。
 リビングのムラサキが振り向いた。
「はよ」
 まだ目を開けるのも億劫だし、なんだったらもう一度布団に戻ってしまいたい。
 この家で一時的に暮らすことになって一週間が経つ。いつもムラサキは俺より先に起きていた。
 クリスマスも過ぎ、篠原さんも休みに入る。だから本当にやることがないし、早く起きる必要もない。もしこれが俺の家だったら完全に昼夜逆転しているだろう。
 寝る前にはムラサキと触れ合って気持ちよくなって、ちょっとだけ疲れて暖かい体温に包まれて眠る。
 目が覚める時にはいつも探すまでもなく彼が何処かにいる。起きているのに布団の中にいたり、今日みたいにベッドからすぐ見れるところに座っていたり。
 予想以上に穏やかな日が続いていた。
 ある一点を除いては。

 一緒に暮らすのを躊躇っていた。それを一転してここにいるのは、俺がダメだったからだ。
 ずっとムラサキが、俺ではなく彼がセックスできない可能性を考えていた。直前になって萎えちゃうんじゃないかって。そうなったら入れられないから、その心配だけをしてた。
 だけど実際に体が受け付けなかったのは俺で、焦った。
 内蔵を触られるようなぞくぞくした嫌な感じ。そのまま内側から傷つけられ体が壊されるんじゃないかとも思える恐怖。
 今まで感じたことのない、刃物で切ってしまった時のようにはっきりした痛みとは違う、重く鈍い感覚がとにかく気持ちが悪くて早く終われば良いと思ってしまった。
 自然と涙が出た。
 俺は拒絶したくないのにどう考えても拒絶してるように見えるだろう。それに縮こまり閉じた体を、こんなに面倒くさいのなら要らないって言われてしまうんじゃないかって思った。
 だからそれが終わった後に提案された一時的な同居に飛びついた。
 ここにいる間は俺がムラサキの恋人だからだって言えるって。
 それがたとえ一週間や二週間の儚く短期的なものだとしても。


 年末のテレビは何もない。休みの人が多いからか、ゲームはイベントが行われ人口は増える。
 ログインしたままの画面をほっといてキッチンに二人並び立つ。
 初めての料理はシチューになった。
 ホワイトシチューのルウ、人参玉葱じゃがいもに鶏肉。
 カレーにしようかと思ってたけど、シチューの方が外で食べる機会も少ないしってスーパーの売り場でこっちになった。
 そして暇な時に挑戦するなら、焦ることもないし大丈夫だろうと今日になったのだ。
 鍋のサイズを確認しながら袖をまくる。
 ムラサキが包丁を持つ手は様になっていた。あくまでも見た目だけ。
「ピーラー買おう」
 転がり落ちそうなじゃがいもを持たせておけない。
 今まで見たことのない、玉ねぎに目を潤ませたムラサキに笑い、生肉のうにうにした不安定な感触をクリアする。
 具材が大きいと生煮えの失敗をしそうだからと小さめに切った人参じゃがいも。透けるまで炒めた玉ねぎ。赤いところのなくなった肉。
「料理っぽい。もう美味しそう」
「塩すらつけてねーよ」
 炒める時に塩コショウとかしたほうがいいのかなって思ったけど、ルウの箱にそんな説明はないからしなかった。
 書かれていないことはしないに限る。変なことをするから初心者は失敗するんだ。
 裏に書かれたアレンジレシピに目を留めるムラサキにも、よくよく言い聞かせた。
 そういうのは普通ができるようになってから!
「今年はいい年だったなぁ」
 規定量の水を注ぎ入れ、弱中火にかけて蓋をする。
 新しくお茶を入れたマグカップを手にして、ムラサキが呟いた。
 沸騰し煮込むまで時間がある。そのままカップをテーブルに持っていってもらいついていく。

 最近彼は俺の隣、もしくは後ろに座る。距離が近くなったなぁって、それで感じるようになった。素肌に触るよりも、いつもの居場所が近くなったことで。
「ほうじ茶いい匂いする。冬って感じ」
 俺の好きな炭酸は相変わらずこの家にある。でも寒いからって温かい飲み物をくれるのだ。
 自分の家ではティーバッグだろうとお茶を入れるなんてしなかったから、こういうのもこの家に来てから。
 緑茶・ほうじ茶・玄米茶と三つ並んだ未開封。どれがいいですかと言われ、適当に選んだのがこれだった。飲んでみたら結構いいなって、それを貰うようになった。
 炭酸もお茶もお菓子も歯ブラシもスリッパも、俺用のものが増えていく。
 家族以外と暮らすなんて初めてだからどうなのかなって思ってた。修学旅行で他人と一緒に二泊するのだって緊張して嫌だったのに。
 ムラサキがすっごい気を使ってくれてるんだろうなぁとは思う。でもそれに気づかず申し訳ないとも思わないくらいに、彼は自然にそれをする。
「初詣とか行く?」
 なんとなくゲーム画面を通常のテレビに戻すと、ちょうどCMがやっていた。
 俺でも名前を知っているメジャーな厄除け大師の馴染みのあるCMだ。
「行くとしても、三日とかかな」
「混んでるもんなぁ」
 そこらの何かもよくわからない小さなとこに行くならまだしも、ここから行くならそこそこメジャーなところになる。近いし他を知らない。
「三日四日あたりなら出店もあるしいいかも」
「ならそこらへんでお天気のいい時に」

 今日の昼ごはんはシチュー。夜も同じ。年越しそばの予定はないけど、300gの餅なら買った。そのくらいなら食いきれるだろって割高になるけど選んだもの。
「なぁ、帰省しないの?」
「しないです。あー、優弥君が行きたいなら」
「なんでだよ」
「僕が優弥君のご両親にご挨拶に行くのでも」
「一緒に暮らす予定があるって?」
 ムラサキは笑って頷いた。
 これが男女の同棲なら、そういうのもありなのかもしれない。
 余計なことをまた考えそうになったけど、隣の人物が何かを察したように身を寄せてきた。
「やりたいことがあったら言ってくださいね」
 たまに、ムラサキはエスパーかなって冗談で思うときがある。今もきっと、なんとなくはわかってる。
「ちゃんと言うよ」
 だからそう返すんだ。
 "友達"だとしても一緒に暮らしてるっていうのはおかしくはないと思う。でもわざわざ会いに行ってまで挨拶というのは……。
「この家はもう、僕と優弥君二人の家ですからね。友達も親も来るとしたら言いますから」
 ほら、また。
 俺は会いに行くことをはやんわり否定したけど、来られることまでは何も言ってない。なのにこいつはそこまで頭の中を把握してるかのように言う。
 この家はずっとムラサキの家で、篠原さんもいたけど最近はずーっとムラサキ一人の家で、今の俺はあくまでも一時的な存在。だからこの家に誰が来ようと何が増えようと俺には何も言えない。だって部外者だから。そう思ってるのもきっと分かってて、わざわざ二人のって言うんだ。
 顔に出てるのか? そんなわかりやすく? 言われたことないけどなぁ。

「晴れるといいですね」
「ん?」
「初詣。適当に起きたらでいいですよね。昼過ぎになるかー、夕方になるか」
「うん。そんな楽しみならすぐ行く?」
「楽しみなのはデートだからですよ」
 デート。
 スーパーに買い物には行くけど、目的を持ったお出掛けというのは確かに、なかったか。
 隣の緩んだ顔。
「この家に来るのだってデートじゃないの。いわゆる『おうちデート』っていう」
「一緒に暮らすのはデートじゃないですよ」
 暮らす前はデートだっただろうか。恋人してないからそうじゃないか。
「まぁ、なんでもいいんだけど」
 呼び方だとかなんだとか、あんまり興味がない。でも嬉しそうなのは他人事のようによかったなぁって思ったりした。
「家帰ろうかな」
「なんで」
 つい今しがたまでたいそう機嫌よく温かかった声が、突き刺すように冷えている。
「だって、デートだっていうから」
 温度差にびっくりして、俺なんか悪いことした? って、喉につっかえるように答えを返す。
「服、着替えたほうがいいかなって」
 別に一張羅すらも持ち合わせてはいないけど、持ってきた服じゃないのを着て行ってもいいかなって思っただけ。
 腰に回った手に力がこもっている。
「服持ってきたいなら行きましょうか、お家」
 当然のようについてくる気の言い方。
「いやー」
 そんなに沢山の服を追加で持ってくるというわけではない。冬休み中しかいないんだし。
「めんどくさいからいいか」
 デート用で特別な服ってのがあるわけでもないんだから、わざわざついてきてもらってまでやることでもない。

 腰に回る手に力が入り寄せられ、抵抗なく倒れるようにムラサキに凭れる。
「荷物は早いうちに運んでおいてもいいんですけど」
 一時的ではない、一緒に暮らそうっていう話。
「行くときは僕も行くので」
 髪の中で声がする。
「帰るんじゃなくて、行こうって言ってください」
 でもまだここは俺の家じゃない。そう思ったけど言わなかった。
 こうして一週間暮らして、嫌なことなんてなかった。楽観的に行けば引っ越してきても大丈夫だろうとは思う。もし喧嘩したとして、逃げ帰るところが無くなるっていうのは不安があるけど。
「お前がデートを喜んでるから、違う服にしようかなって思っただけだよ」
 ただそれだけで一瞬帰ろうかなって思っただけ。
 ちゅっと耳にキスされる。
「それは特別で嬉しいけど、僕が見る優弥君はいつもかっこいいし、今はまだ居なくならないか不安なので居てください」
 え、とその言葉に顔を見る。
 捨て犬みたいに悲しげな顔をした彼がいた。
 いなくなるなんて、俺が?
 振られるとしてもそれは俺の方だと思うけど。
「あなたが好きです。好きで、できればずっと閉じ込めておきたいと本気で思っています。あなたの目に僕しか映らなければいい」
 冗談だろって思うほどの独占欲。
「俺はそんなに」
「優弥君が自分を卑下しても、僕にとっては特別なんです」
 そうしてムラサキは、自分の『好き』のことを話してくれた。
 以前いた彼女のこと、うまくいかなかったこと。
 友人に思う好きのこと、恋愛との違いが判らなかったこと。
 他人とうまくやれそうな彼は、うまくやるために他人を観察する人間だった。

「もし優弥君が自分に価値が無いと思うのなら、全部僕に下さい」
 ラグの上に押し倒される。
 これはあの時と逆だなって冷静に思う自分がいた。
「大事にするのも、傷つけるのも、僕だけに許してほしい。あなたの世界に僕しかいなければいいのに」
 指を絡め握った手が床に縫い付けられる。
 耳元で泣くように零された告白に息が詰まる。
 こんなに想われることが世の中にあるもんだろうか。
「ほんと、ストーカーみたいだなぁ」
 笑ってしまった。
「実際優弥君が逃げたとしても、追いかけて捕まえると思います」
 前も言われた。好きだと告白されたときに。
 いずれ消えてなくなるかもしれない想いでも、今は本当にそうなんだろう。
「好きです」
 服の中に入り込んでくる温かい手のひら。それに制止をかける。
「待て」
「ダメですか」
「だって鍋に火かけてるもん」
 こんなことしてて火事になったら困るし、火事にならなくても焦げたら困るし。
 ムラサキは飛び上がる様に立ち上がり、キッチンに向かった。
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