僕しかいない。

紺色橙

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22 即物的な未来

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-22- 藍染

 ほうじ茶のいい匂い。
 外側はくすんだ水色、内側はミルク色のマグカップに温かいお茶を貰う。
 お昼のワイドショーの時間。出かける予定もないのに天気予報を見た。
 焼いたパンを食べ終え片付けたテーブルに、何の飾りもついていない鍵がカチっと置かれる。
「合鍵です」
 目の前にさぁどうぞと押し出される。
「俺用の?」
 ムラサキはこくこくと頷く。
「文字通り、いつでもどうぞ」
 いつでもどうぞと以前からムラサキは言っていたけど、それは本人が家にいる時の話だった。当たり前。
 でもこの鍵を受け取ったらそれはもう本当に、いつでもだ。
「勝手に入られて嫌じゃないの?」
 あるだろう。色々と。
 ムラサキは斜め向かいから手を伸ばし、置かれていた鍵を手に取ると俺の手のひらに握らせた。
「勝手じゃなくなってくれると嬉しいんですけど」
 言ってる意味がわからなくて、はてなマークが浮かぶ。
「一緒に暮らしませんか」
「え」
 え?
「一緒に暮らしてたら、鍵を開け入ることは勝手じゃないでしょう?」
「本気?」
「本気です」
 嘘だとは思えなかった。
 その声が、真剣な顔がという以上に、この家から物が減っていたから。
 友達に布教されるがままに溜まったという物が随分無くなっていたし、篠原さんの荷物部屋だといっていた部屋のドアは開かれ中には何もなくなっていた。
 俺はそれを、断捨離でも始めてんのかなとか引っ越すのかなとかどうでもよく一瞬だけ思っていたんだけど。
「えーと」
 一緒に暮らす、か。
 思ってもみないことだった。
 たしかにそうしたら毎日ムラサキに会うことができる。遅くなったり雨でも俺に会いに来てくれたムラサキを心配することもなくなるし。
 でも。
 でも、これから付き合っていくのかもわからないのに引っ越しなんか出来ない。
「考えとく……」
 一緒に暮らしたいと思ってくれた事自体はすごく嬉しいことで、その想いを保留したかった。
「すぐには無理ですよね。まず鍵だけ持っといてください。けど春には引っ越しの季節になってしまうから冬のうちがいいな」
 考えとくっていうのは時期の話ではない。
「いやいや待って、引っ越し自体を待って」
「一緒に暮らすの嫌ですか? 篠原さんの荷物撤去したのでそこを使って貰う予定です。ベッドとかも運んできてもらって構いませんが、同じ布団で一緒に寝たいです」
 ムラサキの中では何やらすでに確定している。
 声の浮かれ具合からしても本気でそれを望んでいて楽しみにしているということも伝わってくる。
 でも、だ。
 セックスが全てだとは言わないけど、それもまだしていない段階で恋人が続くとは思えなかった。
 だけどそれを口に出すのは恥ずかしい。やってから考えるとか言えるわけ無いだろ。
「とりあえず待て。ここの家賃俺が払えるとは思えないし、引っ越しはちょっと」
「家賃は僕と半分だし、今のひとり暮らしと変わらないと思いますよ?」
 ムラサキは立ち上がると寝室に行き、棚の引き出しを開けて通帳を持ってきた。
 毎月の引き落とし額を指し示しながら、どうですか? と問う。
 確かに二人で割るのなら今のところと大して変わらない。この家のほうが広いから光熱費は少し嵩むかも知れないけど、二人別々に生活してるよりは。毎週のようにこの家に来る、来てくれる電車賃も時間もあるしな。ここもそんなに新しい建物でもないけど、うちより広いから水回りも使いやすい。大学に行くのだってうちからと大して変わらない距離で特に問題はないし……。
 ダメそうな理由が特に見当たらない。
 ただの友達とのシェアっていうんなら、乗れる話なんだけど。
「何か悩んでることがあるなら、教えて下さい。僕にできることならどうにかします」 
 彼ならどうにかできる。彼にしかどうにも出来ない。
 金物の輪っかを指先で無理やり開き、自分ちの鍵の隣に貰った合鍵をグリグリと取り付ける。爪がないとなかなか大変。
 友達とルームシェアだと考えればいいんだろうか。けど友達って、友達だと、えろいことはしないわけで……。そもそも友達だったら一緒に暮らすなんて考えない。
 カチリと輪にはまった鍵は、外そうとしないかぎり外れることはない。

 本人がどうにかすると言ってるのだから本人に言えれば良いんだけど、それが言えたら悩んでいないし。
 未だしていない行為。
 俺が襲えば解決する? 何も言わずとも。それで拒否られたら立ち直れなくない?
 うーん。
 考えても多分どうにもならないし、こういうのはさっさとはっきりさせたほうがいいとはわかっているんだけど、じゃあどうするってなるとな。
 どこまで、考えてんのかな。
 入れたいって言われたけど、体が女の子と違うってこと何処まで分かってんのかな。
 触り合って二人でするだけでも気持ちいいし、それでおしまいって考えたら一緒に住むことだってすぐに受け入れられる。
 それでいいかな。
 よくないよな。
 『準備』までした俺が、それだけでいいって思うわけがない。今そう自分を納得させたところで絶対後から綻ぶ。
 両手のひらで顔を覆い、溜息を吐いた。
「僕はあなたが好きだから、なるべく不安は排除してあげたい。もし、もしもまた僕に何か原因があるのならすぐに言って欲しい」
 また、とムラサキは言った。
 俺が勝手に友達の女の人を勘違いした。そしてまた俺は勝手に一人で思い悩んでいる。
 原因はたしかにこいつだけど、こいつが悪いわけじゃない。
 恐れていたら行くべき時に行けなくなる。それは今じゃないだろうか。でも、ゲームのように復活はない。死んだらもう終わり。
 特攻して拒絶されたら、それで終わり。
 でも。
 でも、
 でも。
 好きな人に触られたいと思っているだけなのに、現状では好きな人を不安にさせて困らせている。

 目標は何だ? 目的は何だ?
 俺が怖がっているものは何だ?
 手を顔から離し、マグカップを代わりに包む。まだ熱いほどに温かい。ほうじ茶のいい匂いを鼻から深く吸って、湯気も一緒に取り込んで、体の中を潤す。
 言えない理由は恥ずかしいからだ。
 恐れているのは、女の子と違う体で、汚い部分を使う行為に彼がやっぱりダメだとなることだ。でもそれは仕方ないよなって思ってる。そりゃそうだよなぁって思ってる。もし俺が少しも仕方ないと思っていないのならば、俺はわざわざ少し離れたドラッグストアに尻の穴を綺麗にする物なんか買いに行かない。検索をかけて準備を調べることはしない。調べなくたって男同士ならそこを使うことがある、という曖昧なことくらいは知っていた。それをわざわざ検索したのは、曖昧なままでは進む気がなかったから。曖昧なままでは「無理だ」と俺が思っていたから。無理な理由は? 汚いと思っているから。汚いは忌避されることだ。だから仕方ないって理解する。
 俺の目標は、触り合いだけではないセックスをすること。彼が俺に入れたいと思ってくれたことを喜んで、そうなればいいって思った。
 できることは、彼のその思いを生かすこと。汚いというマイナスをせめて排除すること。そういう場所を使うのだと認識したとしても「それでもなお」と思ってもらうこと。
 ……いやー最後は難しいわ。
 要するに俺が性的魅力を持てってことだからなそれ。難しすぎる。

 ムラサキは、俺に対して告白を控えた理由を「男同士ということで引かれる可能性も高い」と言った。
 そしてセックスできるのかという問いに即実践しようかと返してきた。
 それなら、彼だって俺と同じ程度には男同士のセックスのことを知っているんだろう。
 問題は曖昧に知っていたとしても、実際に目にして萎えないかってこと。
 萎える理由が汚さにあるのならそれはまず俺が『準備』することでどうにかする。あとは、事前によくよく想像させておくこと、くらいしか。
 どんなに想定していたって、どんなに準備をしていたってダメなことは世の中にある。
 こんな狭い世界の二人のことじゃなくたって、全く同じようにある。
 自分の思いと乖離するように生理的嫌悪で立ち止まるのならそれはもう「仕方ない」だ。
 誰にもどうにも出来ない。俺にもムラサキにも、他の誰にもどうしようもない。
 そしてその時は、縁がなかったということなんだろう。

 ずっと俺を静かに見守るムラサキに目を移す。
「なぁ。俺に入れたいつったじゃん。セックスできるって」
「できますよ」
「俺は女の子じゃないから、お前がそのチンコを入れるのは俺の尻の穴になるわけ」
「そうですね」
「突っ込むための場所じゃないし、排泄器官で汚いんだけど、どー思うの」
 口にしてみれば、とんとん会話は進む。
 ムラサキは相槌を打ちそこまで聞くと、立ち上がって寝室に向かい俺を手招きした。
 リビングの電気と外の明るさだけが部屋を照らす。
 薄曇りだから電気をつけているけど、よく晴れた日なら電気が必要のない陽の入る窓。
 閉じられたクローゼットの中、開封済みのダンボールを手に取った。30cmくらいの通販の箱。
 彼はそれを抱えると、俺に見せるように開いた。
 中に入っていたのは――
「何これ」
 コンドーム、ローション、俺がドラッグストアで買ったのと同じ青い箱、そして開いている小さな箱。
 その小さな箱を手に取る。
「指サック。指用のコンドームです」
 パッケージと声の主を交互に見る。
「優弥くんは汚いのを嫌がると思ったんです。この家で触らせてもらった時にも汚すのを気にしていたし。これを使っていたら洗いに行かなくても外して捨てれば汚れはないし、優弥くんにすぐ触れると思って」
「待ってよくわからない」
 これは想定になかった。
「これを付けて貴方のお尻に触って汚れても、それを捨てればすぐに貴方を素手で触ることができる」
 あっけにとられる。
「僕は素手で優弥くんの中まで触りたいと思うけど、最初からそれは絶対に嫌がられるだろうなって思って」
 そう言い彼は引き出しからバスタオルを引っ張り出した。
「布団も汚すのを気にするだろうからバスタオル敷きますね。貴方が慣れるまで僕は素手で行為には及ばないし、一回やそこらで受け入れてもらえるとも思っていないのでゆっくりやれたら」
 何を思えば良いのか、何を考えればいいのか。
 パチパチと瞬きが増える。
 ええと、俺が悩んでいたのを同じように把握していたってことだよな。
「こっちには何も言わないんですね」
 その手が青い箱を振る。
「それは、した」
「優弥くんがこれを買ったんですか? それで既に自分でした?」
 目を見開いた彼から視線をそらす。
「そう。だって、綺麗にしたほうがいいし、どんなんかわかんなかったから」
 言葉が消えそうに小さくなった。
 自分でわかるほど絶対これは顔が赤くなってる。熱を持ってる。
 それでも今全て言ってしまえばいい。
「俺はお前としたくて、でも汚いからさ。さぁやるぞってなった時にダメになるのが怖かった。仕方ないって思うけど、でも、セックスできなかったら結局"恋人"にはなれないんだろうなって思って」
 ああ、そうか。
 俺は行為そのものがダメになることだけじゃなくて、その結果恋人解消になるのが何より怖かったのか。
 セックスしない夫婦だってカップルだっていくらでも、星の数ほど世の中にはいるだろう。俺たちもそうなれたらいいのかも知れない。
 けど今はまだ俺には未来を見れていないから、男女と違いまだ同性婚が珍しいこの時代に未来を見れていないから。だから、即物的な繋がりが全てだと思ってるんだ。
 セックスが出来なければ好きは続かないだろうと、そう思って必死なんだ。
 この体にさほどの価値があるとも思わないが、欲されるならそれがいい。
 俺はムラサキのようにかっこよくないし、何をどうしてこいつが俺を好いたのか分かっていない。そんな中で彼が「したい」とはっきり求めてくれたことをせめて。
「優弥くん」
 優しい声に甘やかされる。
 ベッドにダンボールを置いて、空いた両手で頬を挟まれキスされた。
「今からしましょう」
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