僕しかいない。

紺色橙

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9 パンケーキ

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-9- 藍染

 ムラサキに誘われバイト先の喫茶店に来た。
「ああ、やってるわ」
 定休日も開始時間も定まっていないじいさん次第の店。やっている保証はなかった。
 朝飯がてら、駅へ行くのにさほど遠回りになるわけでもないので寄ってみることにした。
 店内には二組の客がいた。まだ朝の8時だというのに早いものである。そして当然のように常連のその顔を俺は知っている。『知ってるやつが知らんやつと珍しい時間に来ている』とその視線たちが言う。うざったい。
 テーブルの端に立てかけられていたメニューをムラサキは上から順に目を通す。書かれてはいるが実際にやってくれるとは限らないメニューだ。
「サンドイッチとかなら、多分出てくる」
 そしてそれは事前に言ってある。ナポリタンとかたまごサンドとかなら出てくるだろう。ちょっと仕込みの必要なものになると出てこない可能性は高い。品切れです、なんて朝の8時に言ってのける。
「じゃあ、僕はコーヒーとBLTサンドで」
 すっとメニューの簡素な文字が指し示される。
 昨晩あれだけ飲んでいたが、気分は悪くないようだ。飯も食べられるらしい。
「はいはい。じーさーん。パンケーキとBLT!」
 立ち上がりカウンターで声をかける。そのままカウンター横から中に入り、コーヒーの準備をする。のっそり動くじいさんの手には野菜があり、注文は通るようだった。
 冷蔵庫を開ければオレンジジュースがあったので、自分用にはそれを注ぐ。ムラサキ用には薄茶色のコーヒーカップを。
「どーぞ」
「ありがとう」
 目を合わせ微笑まれた。

 ムラサキはまっすぐ人を見る人だなと思う。直視するという言葉の通り、本当にまっすぐ人の顔を見てくる。
 朝起きた際の挨拶も、謝罪も、感謝もそうだった。
 昨晩の飲みの席でも彼は俺をまっすぐ見て話をした。そして何でも優しく頷くのだ。自分が知っている話にも知らない話にも同じく興味を示していますよという態度を取る。メッセージで探られていた時も俺が反応しやすいように、きちんとやり取りできるようにと考えられていたのだろうと今では思う。
 人の話を聞くのが好きなのかは定かではないが、昨晩は篠原さんと俺ばかり話していた。
 優しく相槌を打ち笑みを浮かべていたと思うけど、もしかしたらムラサキは暇で、飲みすぎたのかも知れない。

「昨日はすみません。努さんにも怒られました」
「いいよもう」
 朝、即謝罪されたし。
「努さんは早速考えてるみたいですよ。藍染さんが着るやつ」
「あーまぁこっちは、声かかったらその時ってだけだから」
「すごく嬉しそうで、徹夜したみたいです」
 朝に連絡したら起きてたので、とムラサキは言う。
 仕事の人に会いに行ったまま起きていたということか。
「俺がなにかするわけでもないから、ほんとに」
「僕も嬉しいです。今度はお酒もセーブしますから」
 コーヒーカップに手をかけたまま、それは未だ飲まれずにいた。
 今度。次もあるのだと暗に言われる。
 一回モデルをやったら、その後にまた飲むこともあるかも知れないな。
「優弥、持ってけ」
 じいさんに呼ばれ皿を運ぶ。
「ほんと酒は、ほどほどにな」

「あれ、珍しい」
 パンケーキには花びらの砂糖漬けが乗っていた。
「可愛いですね」
 俺の視線がそこにあるのがわかったのだろう、紫色のはっきりと花の形を残したままの砂糖漬け。
「客用だから俺が頼むとついてこないんだけど」
きっとムラサキが注文した可能性を考えてつけてきたんだろう。
 いただきますと小さな声。
 フォークだけで適当にパンケーキを切っていく。いつもはつけない蜂蜜も付属品として置かれているのでかけてみる。とろりと流れ落ちるそれについ、皿を洗う時に大変だななんて思ってしまう。
「甘いもの好きなんですか」
 パクリと口に入れ目を向ければムラサキの視線とぶつかった。砂糖漬けに蜂蜜までかけていたらそう見えるだろう。
「いや別に、普通。砂糖漬けは客用だし、蜂蜜もいつもはかけないよ」
「パンケーキはよく頼む?」
「んー、パスタよりは頼むな。なんか素朴な味がして美味い」
 材料に特別なものは入っていない。砂糖も控えめ。だからだろうか、家では作れないのに家で作るみたいな何てことはない味がする。
 そんなに注文されているのも見たことがないけど、食べてみたら意外に美味しい。店の看板商品ですとは言わないけどさ。
「食べる?」
「よければ」
 薄い二枚重ねのパンケーキ。皿をムラサキの方に寄せる。
「フォークとってくる」
「それでもいいですよ」
 俺が口にしたフォーク。
 相変わらず彼は真っ直ぐ俺を見る。嫌なら拒否してくれて構わないと、距離を測っているようだった。
 立ち上がりかけたのを座り直し、フォークをそっとパンケーキの皿に置いた。
「どーぞ」
「ありがとう」とムラサキは言い、それを手にする。
 氷も入れていない濃縮されたオレンジジュースは少しぬるくなっていた。
「コーヒー飲まないの」
 サンドイッチの皿に場所を譲ったコーヒーカップ。
「あー……実はコーヒーは苦いからあんまり飲まないんです」
 酒もいつもはあんなに飲まないんですよと、思い出し反省するように彼は苦笑した。
 手を伸ばしすくい上げたカップにゆっくりと口をつける。先程までフォークに刺さっていたパンケーキには蜂蜜がたっぷりかかっていたし、苦さも中和されているだろうか。
「ちょっとカッコつけました」
「なんでだよ」
 笑ってしまう。
 コーヒーなんか飲めなくたって別に問題ないだろう。それにカッコつける相手もいない。
「僕もオレンジジュースにしたら良かった」
 一口だけ飲まれたコーヒー。そんなに苦いだろうか。
 テーブルの端に置かれたスティックシュガーを一本取って転がす。
「じゃあ今度は、そうしな」
 今度は。
 ムラサキは満足そうに目を細めた。



 迷惑かけたのでと奢られた。俺の分は賄いみたいなもんだし別にと断ったが、次来にくくなると言ってしっかり支払われた。
「名前ゆうやっていうんですね」
 じいさんに呼ばれていた名前。音を確認するように言われる。
「ん? そう」
「優弥さん……優弥くんって呼んでもいいですか」
「いーよ。なんでも」

 ちょっとスーパーに行きたいと言われ、喫茶店近くの店に向かう。
 スーパーの中でムラサキは何かを探しているようだった。
 天井に吊るされたカテゴリを見て、棚を覗き込んでいく。
「何探してんの」
「優弥くんの好きな炭酸」
 思いもしない探しものに、え、と一瞬止まる。
「ムラサキさんあれ駄目っしょ」
炭酸を飲んだときの顔が浮かび、飲めないものをなんでだよ、と笑いが漏れた。
 小中学校が近くにあり住宅街に位置するスーパーはそこそこ広い。こっち、と案内をする。
 冷蔵飲料の棚の裏、冷やされていないペットボトルが並ぶ。
「いつもどのくらい飲むんですか、これ」
日に一本とか? 二本? とムラサキが一本二本と1リットルのペットボトルを手に取る。
「いつもそんな飲んでるわけじゃないけど」
「じゃあ二本で足りますかね。重いしあんまり」
「うん?」
 よくわからないが「とりあえず二本」とムラサキはレジに向かう。
 俺のように炭酸が好きな友人でもいるんだろうか。だとしたら一度くらいは試して欲しい。あんまり売っていないけど。
「あげるの? それ」
 自分が買うものは特に無いのでただついていく。
「優弥くんが家に来た時用です」
 何かが決定されている。
「なにそれ」
「今日はお邪魔してしまったので、今度は僕の家に」
 飲み会でゲームをしようという話はした。したけど、時間が合えばって流したはずだ。
 飲みすぎて行くという決定に変換されたか?
「いや、でも」
 それにうちにだって招いたわけではなく、あくまでも酔っ払って動けないから連れて帰っただけ。
「足りなかったら今度努さんに車で箱買いしてもらうので。あ、ネットでいいかな」
銘柄もはっきりしたし、とムラサキ。
 いやいやそうじゃなくて。
「駄目ですか?」
 レジの少し前で足が止まる。
 まっすぐ目を合わせられる。ここで完全にダメだと行かないと言えば、きっと彼は引く。
 相手にどうしてもダメですかと言われると、それもまたダメではない。こっちもそんなに強い拒絶は持ってない。
 なんと言えば良いのやら。他人の家に行くことなんてめったに無いのだ。自分の家に人を入れることは更に無いが。
 遠くの人間ともネットを介せばだらしない格好でも一緒にゲームができるし、飲みだって店なら片付けを店員さんがしてくれるけど他人の家なら気を使う。家で過ごすとそろそろ終わりにするという時間区切りも難しくなる。時間は気にせずなんて優しくいわれてしまえばそれこそ、俺には適切がもうわからない。
 端的に言えば、他人とリアルに慣れない空間で一緒にいるのって面倒くさい。
 ムラサキがパソコンを持ってて一緒にゲームしようっていうなら、いくらでも、本当にいくらでも俺はやるけど。
「んー」
 めんどくさいと率直に切り捨ててしまうのは気が引けた。
「これ、腐るものじゃないのでうちに置いておきます。優弥くんがいつ来てもいいように」
 二本の炭酸はピッとレジを通された。

 朝起きてから家を出るまで、そして出てからも今までずっとムラサキは俺の家について何かを言うことはなかった。
 あの片付けられていない部屋について何も言わず、視線が部屋内をさまようこともなかった。
 きっと彼はそれをわざとしている。
 もともと人の顔を直視して話すけれど、見慣れぬ部屋で視線をあちこちに移さないのはおそらく意識的だ。
 だから、一回こっちに来たから一回おいでと相殺する。そういうことだろう。
 貴方の部屋を見たから、その空間に入り込んだから、同じようにどうぞっていう気まずさの相殺。

「まぁ……俺が飲まないと、もったいないからなそれ」
 たった1リットル100円のもの二本に対し納得できそうな理由をつけた。


 重いレジ袋を抱え改札の向こうに消える猫背を見送る。
 いつあるとも知れぬ決定された予定を面倒くさいと思い、それでもわざわざ好きなものを用意して待っていると示されて、気分は悪くなかった。
 踵を返して歩き出せばポケットの中で小さな音がして、スマホを見る。
 住所と地図が送られてきた。それを開き見てムラサキの最寄り駅を探す。駅から徒歩10分程度の距離にムラサキの家はあるらしい。ここ岡見駅から向谷駅までも10分程度だし、そう遠くない。覚えていられるわけもないのでそれらを保存する。
 風が吹けばだいぶ涼しくなったというのに、体の中に熱を感じて袖をまくった。
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