明日の朝を待っている

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 大きすぎる音が会場には満ちていて、攻撃されているようにも感じられた。
 曲の変わりにarisaの名前を呼ぶ声。時間が進むにつれてそれが羨ましくなってきた。おれが見つめているリョウさんは思っていたよりも頻繁に登場してくれて、だから、おれもあの人の名前を呼びたくなった。

 夜の公園で見るときよりも、リョウさんはやっぱり素敵だった。
 全身全霊という言葉がこれほど当てはまるものもないだろう。曲を理解し、歌うのではなくその体で表現する。arisaの世界の一部を手助けし、完成させる。優しい歌には優しさを、寂しい歌には切なさを、狂おしい愛には湧き上がる熱情を。

 リョウさん、と叫びたかった。でもできなかった。これがarisaのライブステージだからではなく、ただ声が出なかった。
 時間が経つほどその名を呼びたくなるのに、喉の奥で詰まったように出てこない。頭の中で反響し、溢れ、それでも零れ落ちはしない。悲鳴のように乾いた音が開いた口から出ても、それは自分にしか聞こえない。

 今、arisaのファンはリョウさんを見ているだろうか。この世界を作る一部となる人を見ているだろうか。
 届かない叫びを胸の中で繰り返した。



 ライブが終わり、ざわついた会場内に明かりが灯る。ゆっくりと太陽が昇るように照らされ、影のようになっていた人々が個人に戻る。退場時の注意を告げる案内が無機質な声で流れ、感謝の言葉を告げていた。

「arisa!!」

 ひときわ大きな声が響く。それに導かれるように、声が重なる。自席で立ったまま待機していたファンは顔を見合わせるようにして笑顔になって、もう一度を叫んでいる。アンコールを求める人々の声。ばらばらが一つになって大きな渦になっていく。

 すっと、光が消えた。
 同時に地を這うようにして響きだした音に、身震いがした。アンコールを求めていた人々の熱狂がおれを置いていく。

 見たいと思っていた。確かめたいと。そこに出演しているのがリョウさんなのか、それとも違う誰かなのか。もし違ったとしても問題はなく、リョウさんをきっかけにおれは新しい世界を知れる。そう思っていたあの曲。
 一瞬消える音が緊張感をもたらす。飛び上がり音もなく着地するダンサーを一人一人目で追って、最初の一人に戻る。出てきたときからわかっていた。フードを被ってしまっている、彼。
 床をすべるように動く足先、何も凶器など隠し持っていないはずなのに何かしでかしてしまいそうな危うさ、世界を直線に裂くような指先。
 それは錯覚などではなく、実際に演出上鋭い光が走った。暗闇が痛めつけられたような鋭い光。arisaの声が針金のように天を貫く。

 フードを被ったその顔が少しだけ見えた。
 口元を歪ませるように笑って、そして、勢いよく顔を上げた彼と目が合った。

 ――そんなはずはない。おれは前列にいるわけでもなく、流れる動きの中でどうでもいい一人に目を向けることなんか絶対にない。
 でも、おれは目があったように錯覚をした。
 どくどくと頭が血を求めている。今を理解しようと、彼に持っていかれ熱を失った指先に熱を戻そうとしている。こわばる指を意識して動かした。



 アンコールが終わり会場が再び明るくなった時、倒れこむように席に着いた。はぁ、とため息のように呼吸をして疲労回復しようとする。少し疲れた。自分でも馬鹿かと思うほど、体に力が入っていたらしい。
 ゆっくりと目を閉じてもつい先ほどの彼が浮かんで、有難いような疲れが抜けず迷惑なような両方の思いが出てしまう。

 ふと隣の子が同じように座り込んでいることに気が付いた。周りが立ち去る中で俯く様は少し異様で、何をしているのか覗き込む。膝をぴたりとつけ鞄を抱えた彼女は、その上でファイルを土台に手紙を書いていた。少しもペンは止まらず、書き直しなどは必要としていないらしい。

「手紙……」

 おれの呟きに彼女は顔だけを上げてこちらを見た。

「あ、いや、ファンレターって方法もあるんだなって」

 手紙の中身を軽く手で覆い隠している彼女は、きらきらと輝くまつげで瞬きをして言った。

「紙いります? 何枚使います?」
「え」
「プレゼントボックスあるから、直接渡せるよ」
「そうなんだ」

 彼女はファイルを開きレターセットを取り出すと、同じく刺さっていたペンを渡してくれた。おれは何も言わなかったけれどどうやら書くことに決定したらしい。

「あの、申し訳ないんだけど……おれはarisaのファンじゃないんです」

 販売されていたグッズを身に着けarisaへ思いを伝える彼女とおれは決定的に違う。

「ここにいるのに?」
「彼女の曲は好きだけど、ここにきたのは出てたダンサーさんのためで」
「あー……プレゼントボックスの近くにスタッフさんいると思うから、その人に渡せばいいかも?」

 決定的に違うのに、気分を害した様子もなく彼女はそんなことを提案してくれた。
 渡されたよもぎのようにくすんだレターセットはこの子らしくない気がするけれど、小さく入った金刺繍は上品さがあった。
 再び自分の手紙へと視線を戻した彼女の隣で、ただ一枚の紙を見て何を書こうか考えた。曲タイトルまでは覚えていないが、服まで操るような姿が素敵だったと書こうか、何かが憑依しているような踊りに瞬きを忘れたと書こうか、それともあなたを知ることができて幸せを知れたと書こうか。
 一から十どころか千でも億でも那由多でも箇条書きできそうな気はするけれど、貰い物の綺麗なレターセットには書けそうにもない。

「シールこれでいい?」

 ぺたりと貼ってもらったシールにありがとうと感謝を返し、『赤曽根良様』と宛名を書いた。ひっくり返した裏側には、小さく自分の名前と住所。この手紙の差出人が誰かはわからなくてもいいと思ったけれど、危険物が入っていないか問題になりそうだったので書いた。

「レターセットありがとうございました」
「いいんですよー。ファンだからね、いつもSNSで騒いでてもやっぱり本人に直接愛を叫びたくなっちゃうの」
「いいね、それ。すごくいいとおもいます」
「おにーさんarisaのファンじゃないんでしょ? でも来てくれたの嬉しい。色んな人に知ってほしいし聞いてほしいから」
「自分だけが知っているんじゃなくて、色んな人に知ってほしいんですか?」
「ファンだもん。私が特別なんじゃなくて、arisaがみんなの特別になってほしいの」

 にこにこと笑う彼女の言葉に少し違和感を覚えた。何か小さな引っ掛かり。でもおれもリョウさんは広く知られるべきだと思ってる。arisaを見に来た人がリョウさんも見てくれたらいい。


 彼女と一緒に席を立ち、プレゼントボックスを訪ねた。予想通りスタッフがそこにはいて、そこに入れるものや人を確認しているようだった。
 arisaのためのライブだし断られても仕方ないと思ったけれど、スタッフの人は快く受け取ってくれた。違う人を呼び、その人に持っていくように伝えてくれる。緑の封筒の行く先を、扉の向こうに見送った。
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