明日の朝を待っている

紺色橙

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2 もう一回

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 夜七時。夏にはまだ早く春というには遅い夕闇は、だんだんと世界を覆っていった。
 昨晩はもっと暗かったかと、彼が踊っていた小さなステージに腰かけ待つ。早いかとは思ったが夕方には虫よけを買ってきて、頭から足先まで振りまいておいた。

 それなりに広い公園のこの小さなステージは、まったく道路には面していない。おれだっていつも通る場所ではない。近道にもならない。なんとなく、本当に何気なく迂回しただけ。運動不足を感じてもいたし、気分転換という思いもあったかもしれない。でもそんなしっかりした理由があったわけじゃなくて、本当になんとなく昨晩はここの道を通った。

 右を見て、左を見る。どちらの道から来るのかわかるわけもなく、そもそも会えるのかもわからない。もしかしたらおれを見て逃げてしまうことだってあるだろう。……もしかしなくてもそれが一番有り得る。
 昨日の変な奴が今日もいて、追い回されることに恐怖するだろう。ストーカーではないのだと弁明しようか。もし会えたなら名前だけはどうにか教えてもらって、彼がいなくなるまで座っていよう。付きまとったりはしないとアピールしなければ。



 街灯に群がる虫を見つつ、ただぼんやりと座って待つ。
 そうしてしばらく経ち夕方の気配がすっかりなくなったころ、彼は来た。

「あの!」

 予想は当たりどうやら彼はこの公園内をジョギングのルートにしているようだった。
 声を上げたおれに気付いた彼はそれなりに嫌そうな顔を露わにし、それでも立ち止まってくれた。ポケットから取り出されたのは昨日と同じだろう小さな水筒で、それを一口飲むとため息をつくように「何」と聞かれた。

「一目惚れしました」
「……」

 言葉に彼はただじろりとこちらを見た。

「……あ、それで、お名前を教えてほしいんです。出演作品とか、映像化されてるものを買いたいと思って。調べるにもお名前がわからないとどうしようもなくて」
赤曽根あかぞねりょう
「あかぞね、さん。珍しいお名前ですね」
「調べても出てこねーと思うよ。出てきたとしても、やってんのはバックダンサーだし映ってない」
「ご自身が参加したの見たりはしてないんですか」
「貰うけどあんまり」

 名前をしっかりとメモり、だるそうにしながらも対応してくれる彼を見る。そのまま本名を仕事で使っているのだろう。教えてもらえないかとも思っていたが一安心した。

「お前、今日も"観賞"してくの?」

 願ってもない誘いだった。"観賞"とわざとらしく言ったのは、昨晩のように金をとるから消えろということだと暗に言われている気もしたが、気付かないふりをする。

「します」

 だから、「良いですか」とは聞かない。

 断られないうちに財布から金を出して差し出した。赤曽根さんは言い出したから後に引けないのかそれを見やると、受け取ってポケットにそのまま突っ込んだ。
 昨日と同じところに水筒が置かれ、離れるように手で追い払われる。
 本当に小さなステージとも言えないような段の上で、スポットライトではない街灯が彼を照らしている。当然椅子は無く、おれはただ離れて彼を見る。

「あー、これ」

 ぴょんと軽く段を降りた彼は右耳のイヤホンをおれに投げた。落とさないように慌ててそれを両手と腹で受け止める。

「届くかな。まぁずれたらずれたでしゃーない」

 音の距離のことを言ってるんだろう。どっちでもいいよ、と軽く言われそれを右耳につけた。まだ何も音のしないそれは自分の体に馴染みないもので、少しの違和感についどうにかならないかといじってしまう。
 いじっているうちに音が流れ、顔を上げた。
 ステージ上の彼はおれの様子に笑って、それから曲の中へと入っていった。

 流れてきたのは女性の声。聞いたことがない若い声。「もっと一緒にいたい」と歌うその歌詞は、何とも可愛らしい恋愛の曲だった。
 本を開くしぐさ。店先の大きな窓に映る前髪を気にするような女の子が、その体に幸せを詰め込んで走っている。君といると日常に色がつくんだと、毎日の穏やかな日々が一生続けばいいとお願いするその歌を、赤曽根さんは笑って踊る。

 4分程度の曲はすぐに終わってしまった。バックダンサーなんかではない。今、彼は主人公の女の子だった。

 違和感を持っていたイヤホンのことなど忘れていた。曲が終わったことは彼が踊りをやめたことで気が付いた。
 物語の終わり。太陽に照らされているような、むしろ太陽そのもののような暖かな曲。歌詞の一つも覚えていないのに、そのイメージだけが強く残る。

 言葉が出なかった。幸せを全身に浴びてしまったおれはただ、もう一度とそれだけを欲した。

「賞賛と拍手はねーのかよ」
「あの……もう一回」

 可愛らしい曲を踊っていたとは思えない口調で言われ、意識して瞬きをする。
 ころりと耳から簡単に外れたイヤホンを服の裾で拭いて返した。

「一回じゃ足りないな。もっと、やっぱり何度も赤曽根さんを見ていたいです。一晩中でも足りないかも」

 今から夜明けを迎えるまで彼を見ていても、きっと足りない。家に帰ったらすぐに彼の名前で調べよう。

「一晩百万な」
「ひゃくまん」

 子供のように言って返せば鼻で笑われた。彼はやはりおれのことを疎ましく思っているんだろう。
 でもお金なら用意できる。もし本当にお金で解決させてくれるのなら、「何度も」と繰り返し見たくなる思いは満たされるだろうか。
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